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まにまに

前田慶次様の街歩きツアー (2023/09/17 訪問)

数年ぶりの犬山城へ行ってきました(⁠≧⁠▽⁠≦⁠)
今回は城攻めというよりも、街歩きがメイン。名古屋おもてなし武将隊の前田慶次様が解説してくださるツアーでした。

犬山城の解説も縄張、石垣、天守と情報量多くてメモ取るので必死。
さらっと歩いてたら鉄門横の石垣の積み方の違いは気が付かなかったかもしれないけど、これもきちんとご説明いただいて納得。

城下町に移動してからも、しゃべるしゃべる。
いただいたツアーのしおりの余白に書き込みまくり。どの話も面白いし、へぇ~と頷きながらあっという間の2時間でした。

ツアー後には改めて天守に登った。
規模は小さいながらもが構造がしっかりとした屋内はさすが。
天守内に城主の間があったのが印象的。それも一階に。普通、偉い人は上の方に部屋を用意しそうな気がするけど、ここでは一階なんだよね。

最上階の廻縁から見た景色は最高!!
遠くに見える小牧山城と名古屋駅のビル群もいいし、反対側の木曽川の水面もいいね。

今回はツアーで回ったのでゆっくりとは見れなかったから、またいつかゆっくり見て回りたいな。

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しんしんちゃん

松平信康の悲劇で有名だが、遺構が良く残る見ごたえのある城。 (2023/09/24 訪問)

二俣城はかつては西を天竜川が流れ、東側から南にかけて二俣川が流れていたようです。
水の流れが現在とは異なるようで、元々は今川方の城でしたが、徳川の城になった後、
武田勝頼に水の手を壊され開城し武田方に奪われました。武田方の守将依田信守、信繁親子は
この城を良く守りましたが結局徳川の手に戻り大久保忠世が入りました。
徳川家康の長男、松平信康が自害したことで良く知られる非常に縁起の悪い城で、大久保氏も
ふだんは鳥羽山に住んでいたのかもしれません。本丸には野面積みの天守台が備わり、南側の
虎口が折れ曲がり喰い違い虎口のようになっています。登城道の途中に大きな竪堀が
あり麓近くまで続いているようです。大手門は二の丸に付属し土塁、石垣が残ります。
二の丸の南西に蔵屋敷、南曲輪が配され間を堀切で寸断しています。蔵屋敷は南側に石垣と
土塁が残り、南曲輪にも土塁が残っているようなのですが、すでにヤブ化が進んでいて、
堀切の周辺までで散策を中断しています。

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ゆき

鑁阿寺 (2023/09/24 訪問)

足利氏館に行ってきました。
貴重な国宝や重要文化財があり大変趣き深いです。
通常非公開になりますが室町幕府最後の将軍足利義昭像が奉納されてるみたいです。
足利学校も近いので時代が止まってる感じしました。

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ゆき

関東七名城 (2023/09/24 訪問)

自宅から近い場所にまさか関東七名城があるとは‥
軍神上杉謙信が攻めあぐねた城として知られる場所であり圧巻の石垣と三の丸手前の虎口は見応えありました。
近くには真田昌幸、信幸、信繁親子が関ヶ原前に家族会議を開いたとされる「犬伏の別れ」を行った建物もあります。
いつか沼田の方にも行きたいですね。

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ぴーかる

小黒丸城 (2023/08/19 訪問)

【小黒丸城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑横に停車しました。
<交通手段>車

<感想>越前ちょこ城巡りの旅3城目。小黒丸城の築城は南北朝時代の1337年、北朝方の越前国の守護斯波高経が南朝方の新田義貞との戦いに敗れ越前国府から落ち延び、新たな拠点としたのが黒丸城(北西約6㎞先に大黒丸城があり合わせて黒丸城とされるが文献では大小の区別はない)とされます。藤島の戦いで新田義貞が戦死したのちも義貞の弟の脇屋義助が黒丸城の攻略を続けて1339年に斯波高経を加賀国に一時撤退させます。しかしその後奪還され1341年頃には斯波高経は越前全土を掌握します。
 城跡地は北に九頭竜川、西に日野川、南に足羽川に囲まれて南東側は当時は深田だったようで平城ながら堅固な立地だったようです。現在地表面には遺構はのこされておらず、城跡碑が残るのみです。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

この子は完全バーターです。 (2023/07/08 訪問)

JR大分駅で1時間空けば,行って帰って来れます。南口から徒歩約20分。周囲は住宅街となっていますので,かなり近づかないとわからないかと思います。

にのまるさんへ。
「るの門」へ,人の流れに逆らって向かうという「変態プレイ」(←私が命名)を満喫されたようで,楽しい攻略レポートありがとうございました。他人まで誘(いざな)い,「をの門跡」を見せないという…<笑>。まさしく「悪魔の所業」…。
『チケットを買って,悪魔に心を売ったのだから,差し引きゼロだ。ぐわっはっはっはぁ~!』(←キングボンビー風に。デーモン閣下風とも言う。キングボンビーは,デーモン閣下がモチーフとなったという説アリ。当時はデーモン小暮)

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毛利秀元の城 (2023/07/15 訪問)

串崎城と海峡メッセ下関で行われた50周年記念事業講演会に行ってきました。
時間の関係で本丸のみの訪問でした。
串崎城は、関ヶ原本戦の2年後の1602年に毛利秀元によって築城され、僅か13年後の1615年に一国一城令により廃城となり、その後は城の西側に居館を構え幕末まで「長府陣屋」として支配しましたね。
また、二ノ丸に船手組屋敷や煙硝倉を置いていました。
現在は、かなり住宅が建ち並んでいます。
「御城山絵図」は1858年当時の城の現状を記録したものです。
現地で地形や残存する石垣を見てみるとよく似ており、串崎城の縄張りがよく解りました。
海に突き出た台地全体が地域で、南北と東の海に面した箇所は断崖絶壁で、残る西は薬研掘になっており、更に石垣によって囲まれています。
3箇所の虎口、西側には8mの高石垣を築いて、北端部に内枡形の松崎口という虎口が有りました。
海岸に開く浜ノ坂口という虎口が有りました。
南端には、三軒屋口という海岸に通じる虎口が有りました。ニノ丸の海側に詰ノ丸があり、その反対側には西ノ檀が有りました。
西ノ檀は、2つの曲輪で構成され、南側曲輪は細い尾根状の曲輪で搦手口を挟んで本丸と接し、その北端部には建物が建っていました。
最南端が本丸で、その北西隅に天守を配置して北東部には搦手口が有りました。
串崎城は、関ヶ原本戦直後の緊迫した状況下で築かれました。
毛利秀元は、吉川広家や安国寺恵瓊と南宮山の麓で陣を構えていましたが、徳川家康との間で領地安堵の密約が出来ていたので、大坂城にいた毛利輝元と共に全く動きませんでした。
東軍勝利後、領地安堵の密約は反故にされ結局周防国と長門国の2国だけになりました。
下関海峡の対岸には、黒田長政(肥前国)、細川忠興(豊前国)らの関ヶ原合戦に於いて東軍に属した諸大名が配置されていました。
そこで、毛利輝元は国境の城の築城が急務と考えて、領国の防衛体制構築を急いだのですね。
毛利氏領国の西端に位置する串崎城は、下関海峡や瀬戸内海に睨みを利かせて、主に九州方面からの攻撃に備える役割を担っていたと考えます。

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トク

泰平寺(島津義久:豊臣秀吉謁見の地) (2023/09/23 訪問)

丸武から川内駅行のバスで帰る際、途中下車し「泰平寺」を訪れてきました。大小路前バス停から徒歩3分程の所にあります(川内駅から徒歩だと20分くらいです)。

ここは豊臣秀吉が九州征伐の時、最後に陣を敷いた場所です。根白坂の戦いで豊臣秀長軍に大敗を喫した島津義久は、ついに降伏の証として、頭を剃髪し、秀吉の本陣があったここ泰平寺まで出向き、恭順の意を示します。寺の前にはその時の様子を語る銅像がありました(写真①)。お寺が古く傾いていて、今にも崩れそうだったのが、ちょっと心配でしたが(何とかならぬものか🤔)。

昨年NHK-BSの英雄たちの選択という番組の中で、根白坂の戦いが取り上げられ、なぜ島津は豊臣に敗れたのか? そして降伏を選んだ義久と徹底抗戦を唱える義弘との対立! 磯田先生を囲んだ義久の選択枝へ心の内へ分け入った討論や、千田先生が実際現地の根白坂を訪れ、なぜ島津が敗れたのかを徹底解説されていたのを思い出しました。昨年の私の投稿で「島津VS大友最終決戦の城めぐり」から宗麟死後の島津も追いたかったので、いつかは自分も根白坂を訪れてみたいと、ここに来て改めて思ってしまいました。

結局、義久は義弘の反対を押し切り、ここ泰平寺にて降伏します。この時、義久が泰平寺に着く前に剃髪に使ったという石が、ここから30km程南にある一宇治城の麓にある母の菩提寺跡に残っていました(写真⑦⑧)。義弘も結局は幼い頃から兄を慕っており、兄に逆らい続ける事は本意ではないため、この11日後に同じく剃髪し秀吉の元を訪れ降伏します。これで秀吉は九州を完全に平定する事ができたのでした。

次はここから(24人目)島津義弘の人生を追って行こうと思います。
 

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カズサン

留守氏の城郭は館山公園として整備されてます (2023/09/18 訪問)

 利府城は仙台の北東部、多賀城の3~4km程北に在ります、8、9年前から認知し宮城県の城跡を廻って居ましたが今回の宮沢遺跡探訪企画2日目に入れて初探訪、もう一つの主目的多賀城復元南門見たさの前に登城しました。

 駐車場:利府城北部分郭の北東頂部駐車所を利用、南西面麓に広い駐車場が2ヶ所あります、南西面麓手前の駐車場からは南部分郭への遊歩道が有るようです。
 参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップに依ります。

 利府城は北部分郭と南部分郭にて構成されてる巨大な山城です、今回は北部分郭を廻りました、南部分郭への遊歩道が余りにも草が茂っており諦めました。
 北東部の駐車場から熊鈴を付けて遊歩道を進み主郭下の曲輪へ館山公園案内図とトイレあり、登城路を回り込むように主郭下段へ、桜の葉が茂り鬱蒼としていますが春は桜で最高でしょう、下段に利府城跡解説板が有り、一時勉強、上段に登り「利府城址の石碑」明治百年記念の設立との事、南側に虎口階段が有り利府城跡の看板と東屋、主郭を南から東に周り、南部分への遊歩道は草茂り状態、南の段曲輪、主郭の切岸を眺めて終了としました。

 利府城の歴史は、鎌倉時代に留守氏一族の有力者であった岡村氏の館が築かれていましたが、永禄12年(1569年)留守氏家督相続の問題が起き、血統を守る派と伊達氏より養子を迎える派で抗争、永禄13年(1570年)伊達政景(政宗の叔父)が留守家に入嗣し伊達勢力圏へ、村岡城を利府城に改める。(利府城跡解説板抜粋)

 8、9年前からの認知でやっと今回の城廻で一部ですが登城する事が出来ました、車で主郭下まで行けて大変便利です。

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能登守利信

呟き (2017/09/06 訪問)

模擬天守が撤去されたと公民館できかされて愕然としました。 公民館に多少の展示物あり

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能登守利信

呟き (2023/09/17 訪問)


袋井駅よりバスに乗車、七軒町バス停下車、徒歩7分。外堀跡沿いから西門跡を巡り、松尾集会所向かいの城址に到着。名物の玉石垣を撫でながら本丸と天守台、西の丸、北の丸、松尾山、三の丸、三日月池を散策しました。

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しんしんちゃん

自衛隊敷地内の三階櫓も見てみたい。 (2021/05/09 訪問)

新発田城は新発田の地を本拠とする新発田氏の城でしたが、上杉謙信の家臣
新発田重家は御館の乱のあと、恩賞の不満より景勝と対立し、ついには滅ぼされました。
その後、慶長3年に加賀大聖寺より新発田へ移封された溝口秀勝によって、今の縄張りに
仕上がったようです。本丸の大部分と二の丸は陸上自衛隊新発田駐屯部隊の敷地と
なっていますが、平成16年に復元された辰巳櫓、現存の表門、二の丸隅櫓を移築した
本丸鉄砲櫓を見学することが出来ます。

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しんしんちゃん

石井山陣(秀吉本陣) 岡山県岡山市北区立田 (2019/12/29 訪問)

石井山陣は備中高松城を水攻めにしたときの羽柴秀吉の本陣が置かれた場所で
高松城の南東600mの石井山に築かれています。麓より道が続いていて本陣の
置かれた場所には扁平地が広がり、周囲には堀切や小規模な扁平地がありました。
周辺には太閤岩と呼ばれる岩や、清水宗治公の首塚跡があります。
かつて清水宗治公の首は首実検の跡、当地に丁重に葬られましたが、明治42年に
高松城に移されたようです。その際、供養塔の下から首瓶が出てきて、杯(さかずき)
や歯などが見つかったようです。

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シェル

鹿島城と鹿島神宮 (2023/08/26 訪問)

鹿島神宮駅から西に徒歩10分ほど
本丸跡と本丸北西側の麓部分の二ケ所に駐車場があります。(トイレも本丸にあります。)
公園東側の入口の坂の途中から、いきなり立派な空堀を見ることができます!! 
坂を登りきり、本丸跡へ
本丸には土塁が残っていました。本丸の西側に石碑や説明板が設置されており、そこからは北浦(湖)を望むことができます。
本丸から北側の腰曲輪を通って山を下り、西側の水堀跡へ
水堀跡は、現在も水草らしきものが生えており、名残りが残っていました。
そこから鹿島高校(二の丸)北の与平次坂を登って、東へと進み10分ほどで鹿島神宮に到着。
鹿島神宮は常陸国一宮で、創建は紀元前に遡るとのことです。
境内は広大な樹林が広がり、真夏でも比較的涼しく、神聖な雰囲気が漂っていました。

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小城小次郎

現存櫓でいいんじゃないか (2023/01/28 訪問)

三河一向一揆の舞台ともなったお寺は本格的な城砦寺院としての姿を今に伝える。鼓楼なんか現存櫓の扱いでいいんじゃないかな。前回は見落とした外堀跡や主要部北辺の土塁等も(外からだけど)しっかり見てきた。

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もりちゃん

お城の中心って本丸にあるものと思っていました。 (2023/09/24 訪問)

天守の役割を果たしたという三階櫓は、御殿があった中心エリアの二の丸にあったとのこと。
現存する遺構はほとんどありませんが、名門水戸第一高校の敷地内にある薬医門は、今の立地の面白さと合わせて必見❗ 自然の地形の活かし方が半端ないことも実感できます。
今の城内には多数の学校があり、お店は全く目につきません。お楽しみの「名物をつまみにちょっと一杯」は今回はお預け(笑)
御朱印をいただける神社も、かの有名な弘道館のある三の丸の中にありますよ。

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カズサン

【陸奥菜切谷館】宮城県加美郡 大崎家臣菜切谷尾張守居館 (2023/09/17 訪問)

 城生柵の遺構三ヶ所を回ってグーグルマップの史跡マークに菜切谷館跡が菜切谷廃寺跡から南に約300~400m程の所に在り寄ってみました。
 住所:宮城県加美郡加美町菜切谷白畑(共同墓地)
 駐車場:同墓場の砂利駐車場を利用

 菜切谷館跡の標柱は南隅に一本立てます。
 標柱の解説では、大崎家家臣菜切谷尾張守の居館とあり、規模は南北45間(82m)東西30間(55m)、遺跡北側に土塁上の高まりと濠跡とみられる水田が確認できる。と記されています。
 標柱と周辺を見ただけで終わりました。
 

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カズサン

奈良・平安期の城柵・官衙跡 (2023/09/17 訪問)

 以前より認知して居たのですが、7、8年前から多賀城、岩出山城、鶴丸城、涌谷城などを優先し一昨年昨年も素通りして、今回の宮沢遺跡探訪の城郭探訪にやっと組み込み初登城しました。
 参考資料:古城盛衰記さんとグーグルマップに依ります。

 古城盛衰記さんとグーグルマップの史跡マークを頼りに3ヶ所廻りました。
 
 【城生柵碑と案内板】
  住所:宮城県加美町城生寺作23の交差点の北西角。車はその西幅広部に路駐。
  黒御影石の立派な「国史跡城生柵跡」と刻まれています、脇に国指定史跡城生柵跡(じょうのさくあと)の案内板があります。
  規模は東西350m南北370m、発掘調査は昭和51年から平成10年に掛けて行われた。(案内板抜粋)

 【城生柵北東築地塀跡】
  住所:宮城県加美町菜切谷城生裏二番25-2、車は慈恩院跡共同墓地空き地エリア
  案内板は「城生柵跡(北東部コーナー)」として立ってる。案内板の北裏が草の茂った土手と成っており、築地塀跡で崩れて土手状になって保存残存してる。北側は田圃との間に高まりと成って往時の築地塀跡を偲ばせる。

 【菜切谷廃寺跡】
  住所:宮城県加美町菜切谷清水、車は廃寺跡の南に1台ほど駐車エリアがある。
  案内板は「菜切谷廃寺跡」と緑板に記されてる、城生柵の付属寺院跡で城生柵の800m程東。
  案内板と板上の石に「菜切谷廃寺跡」刻まれた立派な碑、建物礎石が数点散乱してる。

 以上三ヶ所を廻りましたが遺跡保存整備が多賀城は別格としても近くの宮沢遺跡、伊治城、名生館官衙跡、奥州市の胆沢城などに比べてまだまだ進んで無い様な感じを受けます。
 碑と文字の案内板、一部の残存遺構でしたが車でサラッと回れました。
 

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トク

甲冑工房「丸武」訪問(後編) (2023/09/23 訪問)

次は展示館の中で、映画やドラマで使用された展示コーナーを見学しました。
ここで作られ、撮影に使用された中で、以下のものが展示されていました。

(写真①)乱
黒沢映画です。三本の矢をモチーフにした仲代達也さん主演の作品です。
(写真②)影武者
これも黒沢映画です。武田信玄の死を3年隠すため、影武者を演じた仲代達也さん主演の作品です。
(写真③)ステキな金縛り
数年前に公開された、三谷幸喜監督、西田敏行さんが落武者で主演する作品です。
(写真④)天地人
妻夫木聡さんが主演した大河ドラマです。直江兼続の「愛」の兜がよかったですね。
(写真⑤)レジェンド&バタフライ
今年の映画で木村拓哉さんと綾瀬はるかさんの主演作品です。木村さん着用の織田信長の甲冑が展示されていました。

これ以外にも、おみやげコーナーや、お食事処もありました。ちょうどお昼でお腹がすいたので、ざるそばを食べました。おいしかったです(写真⑥⑦)。着付け体験もこれは有料ですができるようです(写真⑧)。しかし、おみやげコーナーは休業中で買えませんでした😩。どうやらここでふだん売られているおみやげや武将グッズは、「お城EXPO姫路」へ運ばれたようです。

無料なのに予想外に楽しめました。皆さんも、もし機会があれば、訪れてみてはいかがでしょうか? パンフレットも掲載しておきます(写真⑨⑩)。
 

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トク

甲冑工房「丸武」訪問(前編) (2023/09/23 訪問)

ドラマや映画に出てくる甲冑や兜、これらは今どこで作られているか、皆さんは御存知ですか?

大部分がここ「丸武」という会社の工房で作られているそうです。そこがいつでも見学できるという事なので、行ってきました。JR鹿児島本線「川内(せんだい)駅」から南国交通「川内港フェリーターミナル」行のバスで30分、船間島入口で下車し徒歩3分の所にあります。

入口に立つと何とビックリ😯! ここはいったいどこのお城? 立派な門や三重の天守もある? 中に入ると庭園や櫓もある?(写真①②③)。いやいや、ここはお城ではありません、会社の工房です。

行ってみると実におもしろい所でした。制作工程が見学でき、職人さんたちの真剣な眼差しにも感動しました(作業場は撮影禁止なのでお伝えできないのが残念)。

展示館では各武将の甲冑がずらりと並んでいました。すごい数です!(写真④)。販売も兼ねているようで価格も提示されていました。これらは、いったいくらすると思いますか? 最も高かったのは大友宗麟で600万円(写真⑤)。300万円台の価格帯が多かったです。いちばん安かったのは石田三成の150万円でした(三成がちょっとかわいそう)。島田紳助さんが購入されたという信長もありました(写真⑥)。

本来は30体くらい展示されているはずですが、なぜか10体くらいありません(あれ?なぜ?)。どうやら「お城EXPO姫路」に運ばれアクリエ姫路で展示されているそうです(写真⑦)。たぶんイオさんが見られたのも、ここ丸武の甲冑ではないかと思います。

現在の大河ドラマ「どうする家康」で俳優さんが身に着けている甲冑もほとんどがここで作られたそうです。松本潤さんのもありました(写真⑧)。また最近話題になった、エンゼルスの大谷翔平選手がホームランを打った時にかぶる兜もここで作られたそうです(写真⑨⑩こま犬が飾られているとの事)。

(後編)に続きます。
 

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