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しんちゃん

掛川古城  掛川市掛川 (2024/06/22 訪問)

掛川古城は遠江に領土的野心を持つ今川氏の重臣・朝比奈氏によって明応年間初めごろ(1492頃)に築かれたとされています。後に築かれた掛川城に、この地域の中心の機能は移りますが、永禄11年(1568)の徳川家康の掛川攻めでは、掛川城の出城として機能していたようです。
明暦2年(1818)に北条氏重によって、本曲輪跡に徳川家光を祀る龍華院大猷院霊廟が建立されました(その後、大名としての北条氏は嗣子なく改易となる)。本曲輪の東に大堀切があり、その東にも曲輪が幾段か配されています。龍華院のあるあたりも曲輪跡とされ、南の掛川第一小学校が居館の跡とされ、北側は県道とその周辺辺りに北曲輪群が配されていたようです。

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トク

平和について考える旅(岩国徳山1/4)-岩国城 (2023/08/03 訪問)

トクの8月恒例、終戦記念日を前にまた平和について考える旅に出てきました。一昨年は(鹿屋・知覧)を、昨年は(呉・広島)を訪れたので、今年は(岩国・徳山)を訪れてきました。ではまず「岩国城」から始めます。

岩国城の南蛮造りの天守は何度見ても美しいと思います。錦帯橋から見上げた景色や、反対に天守から見下ろした景色も最高です。ここは私の好きな城の一つです。一国一城令で破却されたとはいえ、吉川広家が築いた天守台や石垣や空堀もよく残っています。ではこの天守から本題の平和について考えていこうと思います。

皆さんは、太平洋戦争中に「陸奥」という戦艦があった事を御存知でしょうか? 陸奥は、大和・武蔵に次いで長門と並ぶ、当時の日本で2番目に大きな戦艦でした。

しかし陸奥は、昭和18年6月8日、周防大島沖に停泊中に謎の大爆発を起こし、乗組員1100名を乗せたまま海底に沈みました。原因は今も不明だそうで、当時の大本営はその失態を国民に必死に隠したそうです。そしてその乗組員1100名は、今でも陸奥とともにこの岩国沖の海底に眠っています。

岩国城の天守からは、その沈没地点を眺める事ができます(写真⑥)。そしてその手前に見えるのは米軍岩国航空基地です。この基地には最新ステルス戦闘機F35Bやオスプレイなどの米軍最新鋭(最先端)の機種が多数配備されています。つまりここが、北朝鮮や中国に最も近い米軍航空基地という事になり、ここで日本本土は守られているという事になるのです。私にはなぜかこの距離感が、とても皮肉に思えました。

では次は、写真で見える周防大島へ渡り、この続きを考えていきます。
 

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イオ

とことん江戸城・番外編(高輪大木戸) (2024/06/21 訪問)

高輪大木戸は江戸中期に江戸の南の入口として東海道に設けられた木戸で、後に高札場も移され江戸に出入りする人々の送迎の地として賑わいましたが、江戸後期には木戸の設備は廃止され、石垣だけが遺されました。幕末期には伊能忠敬が全国測量の起点としたことでも知られます。明治に西側の石垣が失われましたが、東側の石垣は現在も遺されています。

泉岳寺駅のA4出口が最寄りですが、高輪大木戸にちなんで名付けられたという高輪ゲートウェイ駅から登城(徒歩約7分)。国道沿いに歩いて行くと行く手に石垣が見えてきます。時季的に草が伸び盛っているものの、さすがは江戸の南入口、なかなかの規模です。石垣の前には標柱と説明板が立てられています。東側を回り込んで北側からも眺めてひとめぐり。たったこれだけのことながら、今年の東京出張で見た城郭遺構は高輪大木戸くらいのものだったので、貴重な石垣でした(笑)
 

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しんちゃん

うまく繋がるといいねェ (2024/07/14 訪問)

長浜城は発端丈山から西に伸びる尾根の先端の丘陵に築かれています。現在は県道で分離していますが、かつては尾根上で網代山砦、岩尻山砦とも繋がっていたようです。であれば、発端丈山に至る道が有るはずで、その先は南北朝時代に使用されていた城跡に行きあたるはずです。三津城は北条の改修を受けていると思われているようですね。
そこから尾根沿いに北上していくと、北砦(三津城の一部?)出城らしきもの、三津新城と遺構が連なっています。その先は不明ですが「?」マークを付けた箇所がなんとなく怪しい。
三津新城から北西を尾根上で遮断して宮脇城まで繋がれば、武田勢から内浦湾を守る防御網がひとまず成立します。調査の進展を期待したいところですが、私もいずれゆっくり再訪して調べてみたいと思います。
現在はとにかく文献や資料が発見されない限りは、史跡として認定が受けにくいと思うので、長浜城に関わる有益な資料の発見を待つしかありませんが、条件がそろえば国の史跡の「附」として認められるかも知れません。難しいとは思うけど、松江城の例もあるので、少しづつでも調査が進むと良いと思います。なんといっても尾根上では繋がっているのだから。

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T-Shionoya

関ヶ原の城郭訪問第2段 松尾山城 (2024/03/30 訪問)

2月に関ヶ原で聴講した「山城シンポジウム江濃境目の城」で"城"であることを知り、前回投稿した菩提山城に続き3月末に訪れた岐阜県不破郡関ヶ原町の松尾山城。

関ヶ原盆地の南、比高150~200mほどの松尾山山頂エリアに築かれた城。
山麓の東山道には、嘗て畿内と東国の出入りを監視する関所が設置されたポイント。

築城時期は不明だが、1500年代中頃まで浅井方の城として堀氏などが在城。
1570年の信長の近江侵攻で開城し、以後は不破光治がしばらく城主を務め廃城に。
その後、関ヶ原合戦前に石田三成の命で伊藤盛正が再建・警備していたが、合戦前日に小早川秀秋が盛正を追い払ったとのこと。

現在は関ヶ原史跡の1つとしてハイキングコースが整備され、主郭からは関ヶ原一帯が一望可能なスポット。

訪問時、関ヶ原からの新しそうな登山道で入城したが、馬出状の曲輪から土橋や枡形虎口を経て主郭へ入る南からのルートの方が城へ入り込む雰囲気を味わえる印象。
メインの遊歩道を外れると整備状況は良くないが、各曲輪は土塁で囲まれており、主郭西側の谷の喰違い土塁も見どころの1つ。
城域滞在時間2時間の松尾山"城"が、私の城郭巡りの180城目となりました。

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三浦の晃ちゃん

登城できない (2024/08/03 訪問)

先日の大雨の影響なのか、案内所があるところまでしか、登城できないです。

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零汰

山田城:姶良市・・・5年振りの再訪 (2024/08/02 訪問)

小山田城に寄った後気分が良くなって好みの城跡に1時間掛けて移動して寄り道してしました。嗚呼、今日も仕事にならない。

こちらはシラス台地を切り裂くように大手道が配置されています。堀切道1~3迄の堀切道はシラスを掘り切ったもの。堀切道4はシラスの浸食谷を加工して使用しているのだと思います。大手道を東に進むと左手崖上に各曲輪が展開されています。時折見上げると曲輪の境の堀切の断面を見る事ができます。場所により浸食された水の跡を竪堀に加工しているのが分かる場所もあります。

写真の大半を大手道と堀切に使ったので他の遺構を記載する事は出来ませんが無名な城ですが多くの遺構が有り十分に楽しむことができます。ですがメジャー好みの方には消化不良かもしれませんね。

私の中で鹿児島で無名上位30城に入る城です。

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しんちゃん

下↗上 (2024/02/24 訪問)

下から上へ。上赤坂城でございます。
標高349.7m、比高150mの山城で、下赤坂城とともに楠木正成によって築かれたとされています。元弘3年(1333)楠木正季と平野将監は鎌倉幕府の大軍相手に善戦するも水の手(水路)を断たれて落城したとのことです。
このさいにフン尿を敵にかけるという奇策を取り、「くそんど(クソ谷)」という地名が残っているようです。ここは「悪党」の一族の本領発揮というところでしょうか。勝ってナンボとやりたい放題やってますが、後の時代に真似する人は現れなかったようです。
登城道の最初から狭い道が続き、一の木戸から四の木戸まで四ツの木戸跡を越えていきます。その先は大堀切に「そろばん橋」がかかり、その先は東に二の丸、西は茶碗原から本丸に道が続いています。城址は比較的コンパクトですが堀切等の遺構が残っていることから戦国期に改修されて使われている可能性がありそうです。
クソに話を戻しますが、ベトナム戦争ではベトコンがトラップに利用していたみたいです。最近は風船に乗ってどこぞの国にふわふわ飛んで行ってるみたいですな(‥‥やばいって)。

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零汰

5年ぶりの再訪 (2024/08/02 訪問)

外出した時に近くを通った際「そういえば近くに城跡あったな」と、思い付きで寄りました、5年ぶりです。

入口が2か所あり、片方は正規の大手道、もう片方は進んだ先は行き止まりでそこで上部から攻撃されてしまうような城跡を幾つも見受けられます。(これに関しては自分だけが感じるのであって、もしかしたら違うのではないかと昔から疑問に感じている。が、正確な答えを見つける事が出来ないのでそれで通しています。)

こちらもそんな城跡です。写真6は右側正規の大手道と左側ダミー堀切を仕切る高さが3~5m程の隔て土塁です。二重堀切と言ってしまえばそうなのかもしれませんが大手道とダミー道を完全に仕切っているので二重堀切と呼ぶのは違うような気がしています。写真10は城内に入る際のダミーの大手道です。突き当たりで道は無くなっており、写真を撮った場所から入口を間違った人間を攻撃する事が可能です。正規の大手道は左側にあります。写真6と10の境目で正規の大手道が左右反対となって敵を惑わしますが、現在その部分に道路が出来ており交差する当時の様子は伺えません。

各曲輪や主郭には一般的な様相で特記する事は有りません。小さな戦程度でしたら、大手道の攻防で勝負はついたのかもしれません。

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ぴーかる

三瀬砦 (2024/06/08 訪問)

【三瀬砦】
<駐車場他>城跡入口前の空き地に数台駐車できます。
<交通手段>車

<見所>土塁・櫓台
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅1城目。現地説明板によると三瀬砦は室町時代~戦国時代に築かれた城砦跡である。この城の城主と伝えられる三瀬氏は北畠氏の家臣としてこの地を治め、北畠具教が北西にある三瀬館に隠居したときも三瀬館守護の支柱となったと伝えられています。
 城は南に大きな川である宮川が流れていて断崖になっています。北側に支流の大谷川があり堀の役目をしています。城跡の主要部はほぼ単郭方形の高土塁囲みで甲賀伊賀地方に見られる縄張りによく似ています。土塁は高さ3m程あり石垣があったようですが今は川原石が少しだけ土塁の壁面に残っているだけです。主要部の奥が1段高くなっていて、今は神社の祠があります。その奥は小曲輪がスロープ状に下っていっています。

<満足度>◆◆◇

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三浦の晃ちゃん

模擬天守閣 (2024/08/03 訪問)

立派な模擬天守閣です。天守閣のそばまで、車で行けます。中は森林博物館のようですが、着いたのが、早朝だったので、入れませんでした。天気が良かったので、景色が良かったたです。本来は、砂沢城址が、正しいようです。

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Ninja

親切なお城 (2024/08/04 訪問)

酷暑が続く中、朝5時に愛馬忍者250に乗り出発。8時ごろ公園の登城口に到着。まず三日月堀が目を引きました。丸馬出上に民家があり、堀に囲まれ、家の裏は枡形虎口になっています。すごい家だと思いました。三の丸、二の丸、本丸、堀や土塁も見ごたえあります。トイレにパンフレットがあったりいろいろな場所に説明看板があったり
見る人に親切です。土塁を利用してゴルフコースがあるのも面白かったです。夏なので予想通り草や虫に少しやられましたが、無傷で登城し生還しました。

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天守無しがアツい

お台場は幕末、軍事施設だったんです (2024/08/03 訪問)

ゆりかもめ(モノレール)に乗り、お台場海浜公園駅にて下車🚝 そこから砂浜沿いにひたすら歩き、着いた先の四角形の岬が品川台場

入口側に(1枚目の)公演案内があります。ペリーの黒船来航後に、国防の意味合いで建設された砲台跡…しかし本来12門設けられるはずだった砲台は全て完成せず6門のみ

一度も実戦で使われることはないまま時が流れ、1926年に国の史跡として公園となり現在は2門のみが残されている

(参考URL)
https://www.tptc.co.jp/park/01_01/history

その現存する2門(2枚目)…砲台と言っても現在では大砲の筒は取り外されて跡しか残ってません。公園としての安全性を保つため、そりゃそうなんでしょうけど

あと…大砲のすぐ前には松の木が生えており、砲撃する場合にそれが邪魔になってしまうので当時(幕末)は無かったかも…ですね。つまり公園として…史跡として残される事が決まってから植えられたもの…多分🌲

現存する2門のうち片方から内陸を撮影(3枚目)。そこには弾薬庫に陣屋、かまど…があったそうです。要は砲撃のための補充の役割を担う場所。弾薬庫から弾を砲台まで運び、そこに詰める…数十メートルの距離があるので運ぶ姿をイメージしただけで重そう…2,3人がかりだったのではないでしょうか?💣

ちなみにこの品川台場(お台場公園とも呼ぶのかな?)…ここ以外にも(4枚目に写る)陸地…海に浮かぶ島があり、もしかしたらそこにも幕末に幕府が何らかの軍事施設を設けたかもしれません

けれどそこまでアプローチする橋はない…連絡船はあるのかな?多分無いんじゃないかと思います。なのでただここから眺めるだけ…緑の生い茂った小さな島という見た目🏝️

「おっ…島の内部に何らかの史跡があるぞ」というノリで5枚目を撮影。ここが陣屋跡。当時はここにちゃんとした建物があったのでしょう

伊豆半島の付け根に現存している韮山反射路…それを手がけた江川英龍がここ、品川台場の砲台建設も担当したそうです。さらに(当時国内屈指の近代化を成し遂げ、軍事大国的存在であった)佐賀藩にも協力を仰ぎ、江戸を守るための…それなりの防御施設を建設

軍事演習くらいはおこなわれたかもしれませんが、戊辰戦争においては江戸が無血開城してしまったため実戦導入されることはなく…明治初期の不平士族の反乱は東京が戦場にあらず…日清日露の戦役では日本が戦場ではないため使われず…第一次大戦の対独戦も同様…そして大正の末に公園になり軍事施設は解体…という流れ

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しんちゃん

棚田散歩 (2024/02/24 訪問)

今、南北朝時代が静かに熱いです。個人的には戦国時代の背景や武将たちが好きですが、洗練された戦国の武将たちに比べて、無骨で荒っぽいネイティブな南北朝時代の戦や武士(もののふ)達にも魅力を感じます。
南北朝時代だと私が好きなのは楠木正成や護良親王(大塔宮)ですね。親王は皇子なのにゲリラ戦ばっかりやってるのが良いですね。
「逃げ若」だと、痛鎧の石塔範家ですかね(なんで?)。
下赤坂城は標高185.7m 比高61.4mの丘陵状に築かれた山城(案内板による)です。最近は比高100m以上を山城にしようという動きが学会を中心に起きているようです。確かに高低差は重要な要素ですが、詰の城って大概、50m~100mぐらいの間に築かれているんですよ。厳密に言えば江戸城や名古屋城も、元々は丘の上に築かれているし、それだと城郭は平山城ばっかりになってしまうんですね(カオス)。
歴史や用途(築城者の意志)、地形的要素や城郭の構造などを考慮すると比高100mに満たない城でも山城に匹敵する城は山ほどあり、比高100m以上にある単郭の砦を山城とするなら比較自体がnonsenseになります。現状では誰も明確な区別をつけることが出来ないのではないでしょうか。
高低差のみで判別するのなら、kodomoで事足ります。
下赤坂城の駐車所から10分ほど歩くと城址碑のある場所に到達します。周囲は棚田として開墾してあり、正直山城としての雰囲気は感じません。とはいえ、平山城というとちょっと違う気がします。当時の城址の面影がまったく無いので、どのような防御態勢を取っていたかがイマイチ判別できない。とはいえ楠木正成や護良親王ゆかりの城でもあるので、ここに来るだけの意味は十分にあるわけです。

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しんちゃん

富士山山頂 (2018/07/15 訪問)

空を仰げば雲ひとつとして無し。下を見やれば一面雲海が広がる。富士山山頂の投稿です。
富士山に一度は登ってみたいと思われている方は多いのではないでしょうか。もう登ったよという方も多いと思います。一年を通じて、その山容は美しく戦国時代には織田信長公をして「天晴れ」と言わしめています。特に富士山に強い執着を持っていたのが徳川家康公で関ヶ原の合戦後、富士山本宮浅間大社の建造物30棟ほどを造営し、山頂付近を事実上の富士山本宮浅間大社の境内地としたとされます。
賽銭が行われいていたことから参拝は許されていたようで、安永8年(1779)八合目以上が富士山本宮浅間大社の境内になることが幕府に認められたようです。
とある事情で、山頂で野宿することになり、ちょっとした地獄を経験しました。奥宮を風よけにしようとしたのですが、四方八方から強風が吹きつけ体感温度はマイナスです。一睡もできませんでしたね。天の川はやたらとキレイでした。
そのあとは御来光を見て感動。奥宮に参拝して、最高所に到達、御鉢めぐりをする体力は残ってなかったので下山。そのあと葛山城に行きました(ちょっとだけ回復)。登山の際には体調を万全に整え、宿の予約を必ず取っておくことをお勧めします。
データフォルダが2回も破損したので写真はほぼ消滅しているのですが、ちょっとだけ別枠に保存してあったものが残っていました。
他にもいくつか富士山に関わる写真を掲載しておきます。

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しんちゃん

尾山神社 藩祖・前田利家を祀った神社 (2015/10/24 訪問)

金沢市尾山町にある尾山神社は明治6年に建立された藩祖・前田利家を祀った神社で平成10年には芳春院(まつ)の合祀されています。
塔のような独特の形状を持つ神門が建てられ、境内には前田利家公の騎馬像があります。境内にある摂社・金谷神社は2代・利長から17代・利建公までが祀られており、若衆達が力比べに興じた「さし石」が近くに置かれています。
東神門は金沢城の二の丸門とされ宝暦9年(1760)の大火でも類焼を免れたとされています。利家公の騎馬像に話を戻すと、赤母衣衆筆頭の利家をはじめ9人の赤母衣衆と、佐々成政を筆頭とする10人の黒母衣衆が織田信長の下で連絡役を務めたと案内板には書かれています。
母衣は流れ矢を防ぐ役目をしていたようで、風に膨らんだ形状を示すために竹串や、クジラの骨やヒゲを骨組みに入れるようになったようです。空気抵抗が大きくなりそうですが、それを言うのは野暮ってやつでしょうかね。

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todo94

青春18きっぷでの城めぐり① (2024/07/28 訪問)

この日も猛暑予報だったので、幾分かでも涼しい朝駆けをしてまいりました。最寄り駅は大阪メトロの野江内代駅ですが、青春18きっぷ利用なので迷わずおおさか東線の野江駅を利用しました。皆さんの投稿を拝見してまず榎並小学校校門前の城址碑をチェック。それから水神社、水流地蔵尊の説明板で洪水にまつわる伝承を拝見いたしました。

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しんちゃん

小笠山砦③ 家康さんらしい本陣の設置場所 (2021/02/06 訪問)

ひとしきり回って戻ってきました。これまでいろいろな城址を周ってきましたが、大きなケガもなくこれたのは僥倖だと思っております。これからも怪我をしないように注意していきたいです。怪我をしたら城めぐりができなくなりますからね。
天然の崖や堀切に目を奪われがちですが、土塁等の遺構も残っているようです。こんな場所に本陣を置きたがる家康さんにも困ったものですが、その分防御力はバッチリです。帰りに神社から見る富士山も赤みがかかってキレイです。見るだけでパワーをもらえる最強のパワースポットですね。でも私は山頂で山小屋から締め出されて野宿したことがあるんですよ(予約しないと)。死ぬかと思いましたね、マジで。
天の川がキレイだったなあ‥。

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しんちゃん

小笠山砦 落ちたら大変 (2021/02/06 訪問)

高天神城包囲六砦、最大の規模を誇る小笠山砦。写真の崖の形状から見て北西の最高所に向かうところだと思います。けっこうスリルを味わいながらの訪問だったはずだけど3年たつと忘れてしまいますな。カァ
地形図を見てもこの辺は、なんというかメチャクチャ あっちこっちに崖が迫ってきています。城びとの城に登録されなかったのは危ないからかな? でもそれいったら戸吹城なんかもっと危ないし。100万円くれるんだったら命綱つけていくけど、そうでなかったら絶対行かない、あんなとこ(戸吹城の詰の城のこと)。
このあと南西の城域も訪問してるけど、ここもなかなか道が険しい。でも遺構はイイんだよな。最近たまに落ちたりするので再訪は考え物です。落ちたら死にはしないけど大ケガしそうだし。皆さんもお気をつけて。

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朝田 辰兵衛

真田本城に来たらお約束🎀 (2024/05/04 訪問)

真田本城に来たら,真田氏館と真田氏歴史館はお約束だと思います。この日は猛暑に見舞われたので,真田氏歴史館へは「涼」を求めに入りました。甘味処が併設されていますが,満席状態だったので,スルーしました。真田氏館内では,ピクニックをされているファミリーが多かったです。

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