築城時期は不明ながら、南北朝期よりこの地を治めた田原氏が三方を川で囲まれた丘陵に築いた城で、戦国期には三好長慶に従って飯盛城の支城として機能しましたが、三好氏の没落に伴って廃城となったようです。
駐車場はないので、東登城口近くの道路脇に路駐して登城開始。案内表示に従って民家の間を進むと田原城址の説明板が立てられていました。平面図にある一の門、二の門は住宅地になっていて見当たりません。説明板の脇を上って行くと、高さも幅もある見事な堀切がお出迎え。本丸と二の丸を隔てる堀切で、その先は切通道として水郭へ続いているようですが、まずは右に折れて東郭を抜け本丸へ。本丸は南辺に土塁がめぐり南西部は櫓台状になっています。最近まで住吉神社があったようですが、現在は基壇が残るのみです。北西辺には14枚もの説明パネルが設置されていて、田原城や田原対馬守について詳細に解説されていました。
本丸から堀切まで戻って水郭へ下りて行きます。本丸西下には西郭が南北に続き、本丸との間には横堀を設けています。切通道をさらに下りたところには水郭(井戸郭)が広がり、二つの井戸と堰堤を設けての溜井戸が見られます。堰堤を渡って進んだ先が搦手(北登城口)で、北谷川に架けられた橋の南詰に搦手郭を配していました。
最初の堀切まで戻って、今度は二の丸に突入します。二の丸はほぼ竹藪と化していますが、いくつかの曲輪を越えた先には分厚い土塁と虎口が見られました。二の丸の西側にも堀切があり、東側の堀切より小規模ながら切通状に水郭へ続いています。堀切の西側には裏山郭(と呼ばれる笹藪)と、そこから南にのびる尾根の突端に西砦(西出丸)が設けられていました。
比高わずか30mの小規模な丘城ですが、堀切に切通道、水郭などなかなか見応えがありました。田原城から北に約350mの千光寺跡(田原氏の菩提寺)からはキリシタンだった最後の城主・田原レイマンのキリシタン墓碑が出土しているそうで、またの機会にはそちらも訪れてみたいものです。
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