福江城(石田浜に築城されたので別名石田城)横町口蹴出門(けだしもん)。長崎の西約100km沖にある五島列島の福江島に江戸時代の最後(1864年=大政奉還の3年前)に築城された3方が海に面した海城(今は周囲が埋め立てられたため内陸の城)。幕末に海岸防衛の為に東シナ海に面して築城されたとの事。行ってみると石垣、枡形、大名庭園も残り風格がありました 。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2024/08/08 08:17
五島列島の江戸時代最後の城「福江城」 (2024/07/20 訪問)
福江城(石田浜に築城されたので別名石田城)横町口蹴出門(けだしもん)。長崎の西約100km沖にある五島列島の福江島に江戸時代の最後(1864年=大政奉還の3年前)に築城された3方が海に面した海城(今は周囲が埋め立てられたため内陸の城)。幕末に海岸防衛の為に東シナ海に面して築城されたとの事。行ってみると石垣、枡形、大名庭園も残り風格がありました 。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2024/08/07 22:15
朝倉浅井の陣城というが (2024/02/10 訪問)
宇佐山城周辺で激戦を展開した朝倉・浅井連合軍が陣取ったと「信長公記」が記す山城の中で場所がほぼ特定されているのがここ。でも陣城にしては石積みが多いので明智氏の頃に何らかの補強がなされたのかも。歩くと結構遠い。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2024/08/07 21:45
銀液丹、万病円 テリブリー毒薬の世界 (2024/06/22 訪問)
田中城から南に程なく行くと田中城下屋敷があり、敷地内には本丸櫓が移築されており、無料で中を見学することができます。田中城は家康の趣味の鷹狩の際の宿泊所としてよく利用されましたが、元和2年(1616)正月21日、家康公は鯛の天ぷらを食した後に腹痛を起こし、駿府城に戻って静養しましたが、4月17日に亡くなったとのことです。
藤枝市のマイ広報紙によると腹痛の後、万病円30粒と銀液丹10粒を飲んで気分が良くなったと側近に語ったとのこと。銀液丹というのは名前からしてヤバいですが、間違いなく水銀が調合されています。
元々、健康オタクの家康公ですが、中国の医学書「和剤局方」や薬草辞典「本草綱目」を愛読していて、自ら薬研で薬を調合していて、側近らにも分け与えていたようです。家康公は不調の原因を寄生虫によるものと考えていたらしく、水銀の副作用である下痢が効果的と考えていたのかもしれません。万病円と万病丹がごっちゃになっている感がありますが、加賀藩の秘伝の薬剤にも万病円があり、一部の業者に調合と販売を許可したようです。外貨獲得が目的と思われますが、この万病円は中国の丹薬や金丹液(雄黄を含む)の影響を受けているようです。銀液丹の名称から伺えるように、家康公も影響を受けているようですね。
万病円の成分として、牛黄(ごおう)・麝香(じゃこう)・犀角(さいかく)などの強壮剤
マメハンミョウ・ムカデ・トカゲなどの動物薬
朱砂や雄黄といった水銀やヒ素の化合物も含まれているようです。全部だめですね、家康さんの調合した薬。
家康公の死因は胃がんとされていますが、毒物の影響があるのではないかと言われているのは、これらの薬が原因のようです。
ヒ素というのは無味・無色・無臭で暗殺にはもってこいと言われています。ヒ素で殺害されたのではないかと思われている、武将や人物はけっこう多いみたいですね。
個人的には 豊臣秀吉(!)・小早川秀秋が怪しいと思います。後の時代の松平忠長も怪しいですね。彼はなかなか死なないので、結局自害に追い込まれてしまったようですが。そんな気がします‥。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2024/08/07 20:50
滝境城 馬場美濃守の縄張りとされる。 (2021/02/13 訪問)
牧ノ原市片浜の比高60mほどの丘陵上に滝境城は築かれていました。曲輪はほぼ茶畑になっていて、縄張りは連郭式で、角郭の間を堀切で区切ってあり、二重堀になっている所もあるようです。東の先端部に本曲輪が築かれ、西に二の丸が配され、その先にも幾つか曲輪が配されています。主要部の周囲は急な斜面になっており、地元では「ホッカケ」と呼ばれているそうです。
地元の案内板によると元亀2年(1571)武田信玄の命で、馬場美濃守が築いたとされ、後に武田勝頼が高天神城を落とす際に大いに役に立ったようです。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2024/08/07 20:38
それでも遺構は残る (2021/04/25 訪問)
写真1が南側の入口なのですが躊躇してしまい北側から入りました。結局出る際はこちらから出てきました、倒竹を避けながらでしたケド。
北側は耕作地や低木の植樹地となっており現役として活用されていました。城域には昔の牛舎だかなにかの建物跡が有ったりとそれなりに荒れてはいます。石積があるとのことでしたので目を凝らして見つけてみると確かに見る事が出来ます。まぁ見ようによっては後年の石積に見えなくもありませんがここでは当時の物と考えました。(城郭放浪記さんにもそうあったし、信頼できる長い物には巻かれておかないと)
耕作地のあたりが主郭なのでしょうが私には確信は持てませんでした。空堀が始まる周辺は竹が猛威を奮っていましたがそこを抜けると一転して空堀がきれいに見えてきます。常に思う、たとえ荒れていても遺構は残るものなのだと。見せるのが目的の城跡では無い場合は一寸踏み込んでみないと遺構を見る事は難しそうです。こちらは見せる城跡ではなく見る城跡です。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2024/08/07 20:08
遠州は意外と穴場 佐馬武神社 (2021/02/13 訪問)
静岡県御前崎市新野は井伊直虎の叔父であり、井伊直政の命の恩人とされる新野左馬助親矩公ゆかりの地です。けっこう遠州も穴場が多く、武田・今川・徳川ゆかりの城址が豊富にあります。新野には親矩公の墓と、彼を祀った左馬武(さまたけ)神社があり、付近には地味ながらもなかなか魅力的な城跡が残っています。
釜原城は堀切などの遺構を残す、連郭式の山城で武田氏か徳川氏の手が入っているとされています。
舟ヶ谷の城山は親矩公の居城とされ、後に武田氏によって改修を受けたのではないかとされています。
天ヶ谷の城山も武田氏によって改修を受けているとされ、二重堀などの遺構を良く残しています。
少し離れて牧之原市の滝境城は武田信玄の命で馬場美濃守が築いたとされ、空堀や土塁が残っています。
甲斐から遠く離れた遠州にもこれだけ武田氏ゆかりの城跡が残っているわけです。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2024/08/07 20:05
畑 (2024/05/23 訪問)
洲崎館・花沢館・勝山館の次に訪問したのはこちら原口館です。
厳密には想定地のようです。
現地の周囲は見渡す限り緑が広がっていました。
ナビの案内で到着した所、案内を放棄した看板が目に入ります。
すると脇には緑の中に誘うような入口が有りました。
緑の中には「ここだよ」と言わんばかりの畑が忽然と現れました。
何故ここだけ畑?
見渡す限りの緑の中で畑と姿を変えて残っているのも悪くは無いと暫く一人畑とその先を眺めていました。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2024/08/07 19:24
海津城ができるまでの北信濃重要拠点ということで… (2024/05/05 訪問)
海津城ができるまでの北信濃重要拠点ということで,猛暑の中ではありましたが,興味が高まり決行しました。
往路も復路も,玉依比賣命神社からのコースを選択しました。登城口から,徒歩約70分です。
プランでは,復路は北側尾根で下山でしたが,本郭周辺をスズメバチが回遊していたためです。「5月でもダメなの…?」と,落胆しましたが,なんとか本郭までは辿り着き,撮影することができました。頂上ではゆっくりしたかったのですが,スズメバチの数が次第に増えてきたので,慎重かつ速攻で下山しました。
ホンネは,とある煩悩の登城目録さんや昌官忠さんのように,ゆっくりと山全体を堪能したかったです…<泣>。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2024/08/07 16:37
次浦城跡 千葉県香取郡多古町 (2024/08/06 訪問)
築城年代は不明だが、北の山中に次浦八郎常盛の館跡がある。千葉氏一族が次浦を領有し、次浦氏を名乗り、その後本拠地を次浦城に移したものと推測・・・と案内に載っている。
多古町次浦地区は道が狭く、曲がりくねっており分かりづらい。城跡入口周辺には駐車場はないが、車の通りはほぼないので端の駐車可能な場所に駐める。入口から虎口、主郭に入った場所までは草刈りがしてある。虎口は坂虎口で両土塁は高い。主郭内の東から南の土塁は確認出来るが、北から西は下草が多く踏み入れられず確認出来なかった。中央北側に鳥居が見えるが側に寄れない。虎口下から北を見ると、郭跡かと思えるが、藪になっている。奥に土塁状の高まりが見えるが、城に関係するものだろうか。主郭南西隅から北に向かう堀跡と思われるが、ここも木々・下草が多く分かりづらい。
城跡南で農作業していた男性が、この地区は4つに別れており、その1つで城跡の草刈りをしているそうだ。毎年2月に実施するので、その後に来たらいいですよ、と言っていた。また主郭は地権者が前に売りにだしていたらしいが、他の郭辺りは所有者が違うので整備にも差がでるらしい。主郭内の神社は稲荷を祀り、月に一度当番で管理するとも。他の情報では妙見社とあるが、千葉一族なら妙見神社か。多古城郭保存活用会さんと連携しているのだろうか。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2024/08/07 11:11
東北の関ヶ原 (2024/08/07 訪問)
直江兼続と最上義光が、戦った東北の関ヶ原と呼ばれる長谷堂城ノ戦いの舞台です。城址公園があり、車を停められます。険しい要害の感じです。大雨の影響が、ありそうなので、途中まで登りました。
+ 続きを読む
♥ いいね
8人が「いいね」しています。
2024/08/07 08:28
とことん江戸城・番外編(赤穂浪士御預先) (2024/06/21 訪問)
(続き)
2月放送の英雄たちの選択「赤穂浪士・最期の49日」を観て、泉岳寺だけでなく赤穂四十六士の御預先の大名屋敷にもいつか行ってみたいな…と思っていましたが、それぞれ泉岳寺からわりと近くにあるようなので、品川台場を取りやめにした余り時間でめぐってみました。
まずは大石内蔵助ら十七士が御預けになった細川越中守高輪下屋敷から。泉岳寺から北に徒歩約5分、都営アパートの入口脇に大石良雄等自刃ノ跡の石碑が、その奥に赤穂義士史蹟碑と大石良雄外十六人忠烈の跡の説明板が立てられています。十七士を義士として手厚く遇した細川家だけあって、石碑や説明板があちこちに見られます。屋敷跡は見学できませんが、窓越しに中を眺めてここで十七士と堀内伝右衛門が…と考えると感慨深いものがありました。屋敷跡から白金高輪駅に向かう途中、屋敷跡沿いに設けられたあじさいロードが見ごろで、その先には旧細川邸のシイが立っていました。なかなかの古樹のようですが内蔵助たちも見上げたのでしょうか…。
白金高輪駅から地下鉄で三田駅へ。三田駅の北西部にあった水野監物芝中屋敷には一番槍の間十次郎ら九士が御預けとなりました。屋敷の痕跡は残っておらず、三田駅から慶応義塾大学への道中に水野監物邸跡の説明板がある…はずですが、見落としてしまいました。慶大の北側、現在の駐日イタリア大使館が松平隠岐守三田中屋敷跡で、大石主税、堀部安兵衛ら十士が御預けとなりました。大使館敷地内に「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」の碑が立てられているようですが、当然ながら見学はできません。
大使館から赤羽橋駅まで歩いて地下鉄で六本木駅へ。六本木ヒルズの毛利庭園あたりが毛利甲斐守麻布上屋敷跡で、岡島八十右衛門ら十士が御預けとなりました。毛利家では十士を罪人として扱ったこともあってか、毛利庭園内の毛利甲斐守邸跡の説明板には元禄赤穂事件が淡々と記されています。
…ということで、3年にわたって東京出張にかこつけて江戸城と関連する史跡をめぐってきましたが、今年で一段落ということになりそうです。細かく見ればまだ見落としもありますし、この間にリニューアルされたところもあるようですが、その辺はまたいつかの機会に。長らくお付き合いいただきありがとうございました。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2024/08/07 07:18
2024/08/07 05:31
2024/08/06 22:48
中村城山砦 続き満勝寺 (2021/02/13 訪問)
掛川市の高天神城包囲六砦の一つ、中村城山砦。先ほどは若宮神社の砦の方を紹介しましたが、満勝寺の周辺も砦の比定地とされているようです。これに関してはとにかく情報が少ないので「武蔵の五遁」さんのHPから位置の情報を取得しました。
距離的には若宮神社の北西になりますが、そんなに離れていないので、同じ城塞として機能していた可能性もあるかな?
満勝寺から西に伸びる丘陵上が比定地で堀切があったり、見張台らしき曲輪があったりと砦の雰囲気はあるようです。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2024/08/06 20:24
高天神城包囲六砦 三井山砦 (2024/06/22 訪問)
三井山砦は第二次高天神城の戦いの際に、高天神城を包囲するために築かれた砦の一つです。掛川市大阪にある大浜公園の東にある比高40mほどの丘陵の上に築かれていて、間を深い天然の堀に遮られているので、鉄橋を渡って訪れます。
まずは西の腰曲輪に到達すると、周囲には堀も残っているようです。そのまま登城道をのぼっていくと最高所である主郭に到着し、南側周辺には腰曲輪が幾段か配されているようです。全体的にコンパクトにまとまっていますが、城ではなく、あくまで砦であるということを考えると、これで十分ではないでしょうか。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2024/08/06 20:00
高天神城包囲六砦 中村砦 (2024/06/22 訪問)
中村砦は第二次高天神城の戦いの際に、高天神城を包囲するように築かれた六つの砦の一つです。徳川方は馬伏塚城から横須賀城に拠点を移し、なおかつ高天神城の周囲に砦を築いて対象を孤立させていきます。小笠山砦には家康の本陣が置かれ、天正7年(1579)ごろには三井山砦・中村砦が築かれ、天正8年(1580)には獅子ヶ鼻砦・火ヶ峰砦・能ケ坂砦が築かれたとされます。
城址の西側には若宮神社が建立され、その背後が物見台跡とされていますが、藪に埋め尽くされているので放置とします。
東の丘陵上には逆コの字の形に曲輪(物見台)が配され、北側の曲輪は東に向かって段々に続いています。比高はさほどでは無いのですが、周囲は平地なので、この城址からでも十分に見晴らしは良く、十分に砦として機能したと思われます。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2024/08/06 19:18
2024/08/06 19:08
2024/08/06 18:39
三瀬の変 (2024/06/08 訪問)
【三瀬館】
<駐車場他>「北畠家の遺跡をたどるみち駐車場」3台分程に駐車しました。館跡にも2台分程のスペースがあります。
<交通手段>車
<見所>曲輪・石垣・山腹の詰めの曲輪
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅2城目。現地説明板によると三瀬館は伊勢国司8代北畠具教の隠居地で1569年に大河内城の戦いに敗れ和睦の条件として織田信雄を養継子とした後、この地に居館を造り隠居します。北畠具教は1576年に三瀬の変において織田信長の刺客により誅殺されてしまいます。
まず館跡の南にある北畠具教公の胴塚にお参りし館跡を散策しました。館跡は説明板には3段とありますが最上段の砂防壁の曲輪(石積み跡が僅かに残っているので)まで入れると5段程のひな壇状の曲輪になっています。正面虎口の大石の石垣が見事です。中段程に庭園跡らしき池や石組暗渠が残っています。また石段も良く残っていて当時の館の雰囲気が残ります。
次に見張り台跡に登りました。東屋のある曲輪と秋葉神社がある曲輪の2つの曲輪が南北にあり、間を堀切で仕切っています。神社のある曲輪からは三瀬地区が一望できます。
以前から三瀬の変は歴史小説か何かの本で読んで、信長の苛烈さに衝撃を受けて知っていました。プランを立てている時から散策終わりまでずっと頭の中に「三瀬の変」がくっついていました。
<満足度>◆◆◇
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。