続100名城の角牟礼城を訪れて来ました。南側から車で登ると、三の丸まで行けました。そこから本丸まで徒歩8分です。まず三の丸の入り口には大きな巨石と櫓塀があったような跡があります。そこから二の丸へ上がる途中には竪堀の跡が・・。この斜面にはかなり大規模な畝状竪堀があったと推測されます。さらにその上には切岸も多数ありました。そして二の丸には、高石垣が今でも残っていました(これはすごい防御だ!)。本丸に着くと反対側の北側は切り立った斜面。この城は難攻不落と言われていたようですが、確かにうなずけました。
二の丸から本丸へ行く途中には小さな展望台があり、玖珠盆地や伐株山、遠くは久住山まで見渡せました。とても爽快な眺めです。本丸は工事中、発掘調査でしょうか? ここには櫓が建っていたようです。
最初の築城者は大友配下の玖珠群衆の一人、森氏であったとされています。北上する島津氏(おそらく岡城から転戦してきた義弘)の猛攻にも耐え城は落ちなかったようです。豊臣時代に大友氏が滅亡すると、直臣の毛利高政が入りこのような石垣を築きました。しかし高政は、九州の関ケ原では西軍に付くも、黒田官兵衛の説得でここを開城して東軍に寝返り、藤堂高虎の口添えもあって家康からは取り潰されず、佐伯城へ転封となってかろうじて生き残れたようです。
関ケ原後は、村上水軍の来島氏(久留島と改名)が入ります。海賊が山城に来るのは、さぞかし抵抗があったではないでしょうか? しかし能島氏は秀吉の命で小早川の家臣となるも断絶、因島氏は毛利の家臣をなって細々と生き残り、唯一豊臣秀吉から本領を安堵された来島氏ですが、その後の関ケ原では西軍に付くも、福島正則の口添えで何とか生き残り、もはや存続のためには家康には逆らえず山に上がったのでしょう。しかし1万4千石の陣屋大名であったため城を持てず、麓に陣屋を築いて居館としたようです。
次は、零汰さんおすすめ、麓のその久留島陣屋へ寄ってから、周辺を観光してみたいと思います。
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