高知県室戸岬周辺には海岸が隆起して形成されたとされる奇岩が多数あり、それぞれに名前が付いているようです。付近には空海(弘法大師)19歳の時の青年大師像があり、全高は21mもあります。若き日の空海が籠り、修行をしたとされる御厨人窟(みくろど)もありますが、崩落の危険性があるとして立ち入り禁止になっていました。修行の際に、洞窟の中から見えた景色が空と海だけだったことから、「空海」の名を得たと伝わっています。
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2024/08/12 16:47
室戸岬周辺 (2018/01/04 訪問)
高知県室戸岬周辺には海岸が隆起して形成されたとされる奇岩が多数あり、それぞれに名前が付いているようです。付近には空海(弘法大師)19歳の時の青年大師像があり、全高は21mもあります。若き日の空海が籠り、修行をしたとされる御厨人窟(みくろど)もありますが、崩落の危険性があるとして立ち入り禁止になっていました。修行の際に、洞窟の中から見えた景色が空と海だけだったことから、「空海」の名を得たと伝わっています。
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2024/08/12 14:41
おのれー!!スズメバチ!! (2023/11/11 訪問)
古河城跡から南に進み、徒歩約20分で到着!!
総合公園内に駐車場・トイレが設置されています。
現在は古河総合公園となっています。茨城県民の感覚では、桃の名所として話題にあがる印象が強いです。
北側の歩行者用入口から公園内に入場。桃林を南に進むと、徳源院跡があります。ここに五代 古河公方 足利義氏の墓所があります。徳源院は義氏の娘 氏姫の法号にちなんだお寺だったようです。
そこから公園内の南側へ移動し、館跡のエリアへ移動。館跡のエリアは総合公園内の南側のエリアです。公園東側の駐車場を経由し、茶畑や移築された古民家のあるエリアを西に進んだところにあります。
ここは 別名鴻巣御所と呼ばれています。西・南・北の三方を御所沼に囲まれ、半島のような地形になっており、攻めにくくなっています。
館跡の東側(駐車場側)に石碑が設置されており、そこから空堀を見ることができました。
それでは!! 古河公方館の曲輪にいざ突撃!!と思ったら、スズメバチの巣があるということで、土橋から先は立ち入り禁止になっていて入れませんでした…
御所沼をぐるっと回って、反対の西側の入り口も同様に貼り紙があり、入れず・・・
こればかりはどうしようもないので、スズメバチが落ち着いた時期に再訪したいと思います!!
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2024/08/12 14:20
本丸は河川敷 ~町なかに遺構が点在~ (2023/11/11 訪問)
JR東北本線(宇都宮線)古河駅西口から諏訪曲輪跡(古河歴史博物館)まで徒歩約20分。古河歴史博物館に駐車場があります。
駅から諏訪曲輪への道中にあるお休み処坂長は、古河城の文庫蔵と乾蔵を移築したもののようです。お休み処坂長では、古河城の御城印が販売されています。
その南にある福法寺には古河城二の丸御殿 乾門が移築されています。
福法寺から西に進み、古河歴史博物館へ移動。
博物館の周辺が諏訪曲輪(出城)跡で、こちらには土塁と空堀跡が残っており、きれいに整備されていました。
古河歴史博物館の入り口部分には、「古河城出城諏訪曲輪跡」の石碑が立っています。博物館の常設展の方では、古河城の模型が展示されており、展示室で古河城の解説シートも配布されていたので、せっかくなのでいただきました。
博物館を見学後、諏訪曲輪跡から移動し、西に5分ほど進むと桜町曲輪の獅子ヶ崎土塁も現存しており、案内板も設置されています。この周辺に、徳川将軍の日光社参の時に使用されていた御成門があったようですが、石碑等は設置されていませんでした。
そこから西に進み、渡良瀬川の河川敷の堤防を南に進んでいくと堤防上に古河城の本丸跡の石碑が建っています。石碑は御三階櫓がデザインされています。堤防から見て、河川敷の野球グラウンドの周辺が本丸跡だったようです。
本丸などの主要部は河川敷になってしまいましたが、諏訪曲輪や建造物が残っているので、かなり楽しめました!!
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2024/08/12 12:14
雑賀党の城 (2024/02/25 訪問)
雑賀城は雑賀崎の東2km弱に位置する丘陵の上に築かれており、この山自体が紀州青石と呼ばれる緑泥(色)片岩の岩山と見られ、本丸跡とされる妙見堂は巨大な扁平な岩肌の上に建てられています。
周辺は緑泥片岩の産地で、弥勒寺山城も岩盤上に築かれています。雑賀崎で採取される緑泥片岩は和歌山城の本丸周辺の石垣に多用されています。
雑賀党は雑賀の荘の鈴木・土橋・島村・栗村・松江・宮本の士族らによって結成されており、鈴木氏はその中心的な役割を担っていたようです。雑賀城は孫市の父・鈴木佐太夫によって築かれたとされています。
天正5年(1577)の雑賀合戦の際には石山本願寺に味方し、孫市は雑賀党の中心人物となって織田信長の大軍相手に活躍し、一度は敵を退けたそうです。その後、再度総攻撃をかけてきた織田の軍勢の前に屈服し、佐太夫は藤堂高虎の計略によって粉河で切腹したとのことです。城址には特に遺構らしきものは残っていませんが、山肌は急峻で、当時の周辺への眺望は良かったものと思われます。
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2024/08/12 10:09
日本三大水攻め 太田左近宗正と雑賀孫市 (2024/02/25 訪問)
太田城は「日本三大水攻め」の一つとして有名な城です。天正5年に織田信長が紀州に大軍を送った際には、当時雑賀党と対立していた太田衆は織田軍の先導を務めました。そのことで両者の間にしこりが生まれ、翌年 雑賀党は太田城を攻めますが、根来衆の援軍を受けた太田城はなかなか落ちず、雑賀孫市は太田左近宗正に和睦を申し入れたそうです。
これらの一連の出来事で、対立関係もあったこの地域の三つの勢力が結びついたようです。後に豊臣秀吉が寺領72万石、3万の僧兵を所有する根来寺に対し、寺領を納めよと要求したことに三党は反発し、天正13年(1585)の紀州攻めが始まります。根来寺が焼き払われた後も太田左近は5千の兵と共に強く抵抗したため、秀吉軍は総延長5~6kmにも及ぶ堤を築いて水攻めを行ったとされています。
太田城の兵は攻め手の船の底に穴を開けるなど、勇敢に戦いましたが、水攻めが始まって1か月後、太田左近ら首謀者50余人の首を差し出すことを条件に他の者は助命され、城は開城したとのことです。
来迎寺が本丸の中心だとされています。境内には大きな石碑が建ち、近くには自刃した武将たちの首を葬ったとされる小山塚が有ります。周囲は宅地化が進んでいるので三大水攻めとされる城の中では最も雰囲気から遠いですが、「紀伊名所図会」の「太田城水攻め図」には忍城などにも負けない立派な太田城が描かれています。
ちなみに堤跡には情報不足で行ってません。
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2024/08/12 07:21
日本遺産「鮭の聖地」 (2024/08/09 訪問)
ヲンネモトチャシから100kmを遥かに超える道のりを運転して到達。標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡の中にあるチャシです。有料区域の中にありますが、330円を支払う価値はあります。零汰さんも投稿されている通り、湿原をはじめとして見どころがたくさんありますから。肝腎のチャシは、いただいた案内地図では円弧を描く遊歩道の外側のテラス、近くの案内板では遊歩道の内側にある「村長さんの家?」のくぼみになっています。とりあえず両方の写真を投稿しておきました。標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡は日本遺産「鮭の聖地」の構成資産になっています。ここに来る前に郷土料理の店で三代漬け丼を昼食としていただいたのはベストチョイスだったと思います。
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2024/08/12 01:10
諸行無常で御座い (2024/02/25 訪問)
秋月城は太田党の支城としての役割を持っていたとされ、天正13年の豊臣秀吉の紀州攻めの際に廃城となったようです。かつては「城の内」と呼ばれる畑とみかん畑で、曲輪や堀が残っていたようですが、今では御立派な工場に御成りで遊ばされます。
堀はどうなった? なんとなく周囲の道路が不自然にまがっているので、これがその名残でしょうか?柵の内側の側溝も喰い違いになっています。しかし、こんな感じにカキカキにする必要があったのかな‥? 何かのこだわりですかね。
尺が余ったので、以前「ゆるキャン」を参考に造ったダムカレーを紹介します。ただ途中で方向性が変わってしまって「第一次信州上田城攻め 神川堤防決壊DE徳川軍急襲オムハヤシ」と相成りました。すでにカレーですらない‥。
ちなみに柿の種が真田軍、ピーナツが徳川軍です。
とりあえず配置して堤防を決壊してみたんだけど、夏の水難事故が多発する今の時期、これはまずいんじゃないか?‥‥徳川ピーナッツ軍の皆さんは泳ぎが上手で全員助かったことにしておこう‥‥。
写真を撮ったらあとはまとめて胃の腑の中です。
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2024/08/12 00:43
佐和山城遺構 (2023/04/09 訪問)
滋賀県彦根市の石田三成の居城・佐和山城は関ヶ原の合戦の後、徹底的に破壊され、遺構はほぼ残っておらず一部の石垣を残すのみです。しかし、東麓には大手門跡が残り、土塁らしきものも残っています。琵琶湖に流れ込む矢倉川から引いた水路が佐和山城の東側を流れていて、これがかつての堀跡であるようです。井戸跡とされる場所もあり、今でもそこは水が染み出していました。
肝心の城跡の写真はロストしてしまったので、またいずれ登城しなくてはいけませんが、それはそれで楽しみでもあります。
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2024/08/11 23:44
円城寺門 (2024/08/11 訪問)
南部氏の家臣、北氏の居城です。市役所などが、敷地に含まれています。藩政期からの遺構として、円城寺門があります。
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2024/08/11 21:53
村上海賊の娘 (2024/02/25 訪問)
真鍋城は和田竜氏の小説「村上海賊の娘」で重要な役割を果たす七五三兵衛(しめのひょうえ)こと真鍋貞友の居城とされています。
松岡山・南溟寺の境内が城址とされ伯太藩渡辺家墓所もあります。
貞友は信長の命で淡輪より当地に拠点を移し真鍋城主になったとのことです。真鍋水軍を率いて第一次木津川口の戦いで毛利水軍と戦いますが討死を遂げました。家督は嫡男の貞成が継ぎ、関ヶ原の合戦では西軍に付いたと見られ、一時没落するも徳川秀忠の命で、紀州藩主・徳川頼宣の家臣となったそうです。
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2024/08/11 21:17
西尾城の丸馬出・障子堀・転用石 (2024/08/10 訪問)
昨日は西尾市資料館の企画展「西尾城跡発掘調査40年のあゆみ」の展示解説を聴いてきました。
西尾城は一般に西条城が起源とされるが、鎌倉・室町時代の遺構・遺物はほとんどなく、当時の居館は吉良氏菩提寺の実相寺がある上町エリアにあったとする説が有力とのこと。
発掘される遺構・遺物は戦国時代以降のもので、個人的に興味深いのは小牧長久手の戦いの頃の改修とされる丸馬出と障子堀。
昨年の訪問時は見逃した丸馬出の二重の堀。現在は枯山水で表現されています。
二重堀は一方の堀が築かれた直後、もう一方に作り替えられた可能性もありますが、発掘結果では二重で存在したと考えられている模様。
また障子堀の独特な形状の障壁は、元の堀を更に深く広くしたためとのことで納得。
そして本丸表門の石垣には墓石が転用されているとのこと。
知らないと気付かないものですが、探すと真四角の石材が2~3個使われていました。
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2024/08/11 19:52
猫派?犬派?それとも・・・。 (2019/08/03 訪問)
福岡県八女市に猫尾城という名の城跡があります。綺麗に整備され主郭の神社周りには立派な薄い石の石垣も残っており雰囲気の良い城跡です。城ひとの登録城で数名の先輩方が投稿されています、気になる方はそちらを参照ください。そこから西に犬尾城という名の城跡もあります。5年前の同日に訪問しました。猫尾城は黒川氏が在城しており、犬尾城はその黒川氏の長男が築城したそうです。
「さては黒川氏は親子で生き物の尻尾フェチなのか?」
すみません。昨日に続き動物の名前つながりの投稿です。サブカル好きの私としては歴史云々よりもこんなくだらない事柄の方に興味が湧くのです。しかし今回はもう少し続きます。
2年程経ち、福岡の未登録城の侵攻を始めようとしていた頃に福岡県の調査報告書で情報収集していました。すると八女の辺りで鷹尾城なる名前が飛び込んできました。「近くに似たような・・・」調べていくうちに犬尾城の支城とあります。「やっぱ動物の尻尾フェチの家系じゃん、だけどここでなぜ鷹?虎とかの方がしっくりくるけど」
さらに調べていくと近くに兎城もある。残念ながら築城者の記載は無かったし尾が付かないがおそらく同じでしょう。兎と付くからには確信犯じゃ、と妙に親近感が湧き楽しくなり記憶に焼き付いています。次の福岡侵攻の際はぜひ鷹尾城には訪れたいと思っています。
犬尾城は南北に長い主郭を持つ城で、主郭の両端には土塁が途切れながらも残っています。比較的に小規模なのですが南東にしっかりとした空堀も残存していて目を楽しませてくれます。この頃は城廻りを始めて3カ月くらいの時期で畝堀の存在を知りませんでしたが縄張り図と写真を照らし合わせてみたところ写真7は畝堀の中の1本だったようです。
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2024/08/11 18:40
城とバイク
先月大分侵攻に行った際に、岐部城でバイクで城巡りをしている人と遭遇しました。
自分は見終えた後、彼は北陸ナンバー、歳はひと廻り程若い方でした。
荷物は満載、でもデント類は積んでいなかったのでホテル泊なんでしょう。
車の中から眺めていてとてもシンパシーを感じて思わず声を掛けたくなりました。
と同時に寂しさと羨ましさの混じる複雑な気持ちが襲ってきます。
昨日の投稿で北海道シリースは一区切り、実際はもう少々続くのですが区切りもいいので。
本格的に城廻りを始めたのは5年前、19年の春だったと思います。それ以来9割以上をバイクと共に訪問しました。
山城の魅力に取りつかれて19年に九州本土内登録城の8割を勢いだけでバイクと共に訪問しつくしました。
登録城以外の城に行くようになってからも、西日本の正続100城廻りもずっとバイクが一緒でした。
数年前には自分が日本中を走り廻るなど想像していませんでした。
逆に言うと沖縄を除く都道府県をバイクで走破出来たのも城の存在があったからで城とバイクがが自身の世界を広げてくれました。
加齢により山城を廻りながらバイクを運転する事を繰り返すのが徐々にきつくなって来たのは当然の成り行きだったと思っています。それに昨年のバイク事故も何かのメッセージだったのかもしれない。今回の北海道行はバイクで行く最後の城廻りで出かけました。予想以上の成果だったのでバイクと城の良い終わり方が出来て本当に良かった。今は車で城廻りをしています。
城廻りをされている若い方々はまだまだ時間があります、是非自分のスタイルで沢山の城を廻って直に見て欲しいなと思います。
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2024/08/11 17:42
和泉砂岩と桃色花崗岩 (2024/02/24 訪問)
岸和田城はかつて周囲を三~四重の堀で囲まれていました。今でも本丸の周囲と二の丸周辺に見事な水堀が残っています。石垣の部材の中でも最も脆い「和泉砂岩」を用いており、当然のように崩れてくるので延宝(1675)以降、花崗岩を用いて修復し続けてきた結果、複数の色が混在する石垣になっています。江戸時代の修復跡はそれほど目立たないですね。さすがに石垣が主体の時代の人達なので上手にまとめています。主郭北側に上側がうっすらと赤い石垣がみられますが、そのあたりですね。
問題なのが南東部分でモザイクみたいになってしまっています。地元ボランティア曰く「お金がないから」だそうです。違和感しかない。
「じゃあ、お金ちょーだい」と言われましたが‥返事は「出ません~」 こんな掛け合いが出来るのも大阪ならではです。
いろいろ地元自治体なりの事情があるようです。
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2024/08/11 17:08
鎌刃城 (2017/05/20 訪問)
少し古い写真ですが、鎌刃城の投稿です。標高384mの高所に築かれ、南東に伸びる尾根は細く「鎌刃城」の名の由来になっています。
案内板によると応仁の乱の頃にはすでに存在していたようで、城主掘氏は当初浅井氏の家臣でしたが元亀元年(1570)織田信長に与したとされています。天正2年(1574)堀氏は改易され鎌刃城は廃城になってしまいます。少しもったいないですが、近江を信長が完全に支配し、湖北地域を秀吉に与えたことで当城の必要性が無くなってしまったみたいです。
主郭の枡形虎口は石垣で固められ、この城の見どころの一つになっています。
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2024/08/11 16:10
存分に役割を果たしたお城 (2024/02/10 訪問)
宇佐山城の戦いの舞台となり、和議の条件として破却されたという解釈が正しければ極めて短命なお城なのだが、京~近江の往来を制限し朝倉・浅井に存分に脅威を与えた点では存分にその役割を果たしたと言えるのだろう。
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2024/08/11 10:25
2024/08/11 10:09
土々累々 (2024/02/25 訪問)
淡輪城というよりは館の跡のように見受けられます。道路に面して南側に土塁に囲まれた一角があるのでわかりやすい。
淡輪氏の祖先は義経に仕えた佐藤忠信らしきことが案内板に記載が有ります。別の辞典には橘兼重なる人物が淡輪荘の下司職を源頼朝に認められ、これが淡輪氏にあたるようです。
戦国時代には淡輪微斎の娘「おこよ」が豊臣秀次の妾となり小督の局と呼ばれたが、三条河原で斬首されたとのこと。微斎の次男六郎兵衛重政は大坂夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」で塙直之(団右衛門)とともに壮絶な討死を遂げたとのことです。
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2024/08/11 08:12
一度は行く価値のある城跡ではないかと思いました (2024/07/28 訪問)
波多氏から代わり、寺田氏の時代に石垣の城への変貌を遂げたとの事です。
城跡ではその見事な石垣を見る事ができました。
城跡へ車である程度近くまでは行く事ができます。
駐車場と登城口が2箇所ありいずれも城跡までの距離はほぼ同じくらいで行けます。
そこからは往復1時間ほどのまずまずの登山となります。
遺構を眺めながら進むとおよそ2時間を過ぎるくらいの往復になるかと思います。
登城して、最初の旗竿石との分岐点以外は城の縄張りは尾根を三の丸から本丸、その先にある姫落としの岩まで順に見学できます。
三の丸前の堀切も素晴らしいのですが、二の丸との間の二の堀切には見事な石垣が残ってました。
石垣には苔のような物も付いていて、なんとも言えない雰囲気です。
本丸の石垣にも感動させられながら先に進むと、三左衛門殿丸石垣の登場です。
これもまた素晴らしいです。
所々抜けてしまった崩れそうな石垣も一見の価値ありだと思います。
その先には、抜け穴と伝わる穴や姫落としの岩もありました。
ここはよく心霊スポットとして載っているのを見ました。
秀吉から受けた波多氏の無念の怨念が残るのも理解できるので少々怖い気もしましたが、訪れてみると怖さを凌駕する素晴らしい城跡でした。
佐賀の城跡では10本の指に入る城跡だと思いますので、皆様もぜひぜひ訪れてみてください。
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2024/08/11 06:24
4度目のヲンネモトチャシ (2024/08/09 訪問)
根室半島チャシ跡群へ行ったと言うには、スタンプのデザインになっているヲンネモトチャシは外せません。3回スタンプラリーを完遂しているのでこれが4度目のヲンネモトチャシです。階段が設置されていて、他の観光客が複数いました。観光客の流入により、漁港のガードは厳しくなっています。初めて訪れた2007年7月に撮影したような海越しの遠望の写真は撮るのが少しずつ困難になってきています。
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