公園になってるいるとはいえ、この規模をただで楽しませてもらえるのは、金沢市太っ腹だな。
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2024/11/18 12:07
2024/11/18 09:59
伊賀門辺り-4/4 (2024/11/09 訪問)
本丸清明館廻り模擬石垣と堀-3/4の続きです。
宇都宮城本丸の南側に枡形の伊賀門が在りました、発掘調査の上埋め戻されて芝生の丘に成っており市民の憩いの場所でもあります、伊賀門辺りの散策は、車を駐めた南駐車場から本丸堀跡解説板、西回りで櫓と高土塁を見学し、清明館廻り模擬石垣と堀を東周りに見学して、伊賀門跡辺りに戻り散策、南駐車場に二の丸から三の丸への土橋の側面石垣がレプリカ展示されていましたので見学、本物は埋め戻し地中保存されて居るそうです。
長々と4編ご覧頂きありがとうございました。
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2024/11/18 09:36
本丸清明館廻り模擬石垣と堀-3/4 (2024/11/09 訪問)
清明台と土塀-2/4の続きです。
宇都宮城址公園には平成19年西側高土塁、清明台、富士見櫓と続き土塀が復元される以前に清明館が建てられていました、今回久しぶりに無料の清明館入場し歴史、文化財の見学しました。
清明館建設にあたり周辺北側、東側、南側に城郭風の雰囲気を出すためにか?模擬式?現代の技法による石垣、空堀、木橋虎口が施設されてやや紅葉の木々もあり、写真撮影しましたので投稿させて頂きます。
伊賀門辺り-4/4に続く。
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2024/11/18 08:10
とことん津山城(二の丸) (2024/09/16 訪問)
(続き)
二の丸へと続く表中門跡の石垣。写真では何度も目にしていましたが、実際にその場に立ってみてあまりの巨大さに驚かされました。この石垣の間を埋める櫓門ってどんな規模だよ…。思い描くとそら恐ろしいほどです。表中門跡を抜けると、まずはすぐ右手の桐の段へと続く石段へ。桐の段には塩蔵、南西隅に表中門前を見下ろす見付櫓、東辺に玉櫓、北東隅には十六番門があったようですが、今は玉櫓跡の櫓台に忠魂碑が見られるくらいです。
表中門跡に戻って広大な石段を二の丸に向かうと、左に二度折れて四足門跡に至ります。四足門の東に隣接していた走櫓は失われましたが、四足門は中山神社の神門として移築現存しているようなので、またの機会にはせひ見に行きたいものです。四足門跡から登城ルートは今度は右に三度折れて切手門跡に向かいますが、その前に二の丸内を散策します。二の丸の南辺には東西60mに及ぶ鉄砲櫓が三の丸に睨みを効かせ、その名のとおり1000挺の鉄砲と2万個の玉が備蓄されていたそうです。二の丸は二の丸台所で仕切られていて、台所西側の二の丸御殿に行くには備中櫓南西下の十七番門を潜る必要があったようです。現在のトイレと自販機のあたりでしょうか。長柄櫓跡へは石垣崩落のため近付けませんが、二の丸西辺を昇櫓跡~塩櫓跡~白土櫓跡とたどって折り返しました。
多門櫓跡の石垣を見上げつつ備中櫓の下を回って切手門跡に向かう途中、ふと見上げると備中櫓の石垣に張り付く人の姿!? 一瞬ぎょっとしましたが、津山城ほどの高石垣になると草刈りにも命綱は必須ですよね。そして長局跡の高石垣を見上げながら切手門跡を抜けて石段を上ると、右手に桐の段を見下ろす弓櫓が、もう一段上には辰巳櫓があったようですが現在はベンチが置かれているくらいです。北東隅の十四番門から本丸東辺にも行けるようですが、まずは表鉄門から本丸に向かいます(続く)。
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2024/11/18 07:30
『YOASOBI 5th ANNIVERSARY DOME LIVE 2024 “超現実” 』前の攻城① (2024/11/09 訪問)
『YOASOBI 5th ANNIVERSARY DOME LIVE 2024 “超現実” 』のための上京ですが、せっかくですので朝一番のあずさで東京駅にアクセスし、城めぐりもしてみました。常磐線に乗り換えて南千住で下車し向かったのが、石浜城。石浜神社は七五三のお子さんもおりそれなりに賑わっていました。鳥居越しのスカイツリーという楽しみ方があったとは。
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2024/11/18 00:32
戊辰戦争横手の戦いを訪ねて (2024/11/09 訪問)
仲間たちとの歴史探訪ツアー秋の陣は、秋田県南の横手市・大仙市に。慶応4(1868)年8月、佐竹家支城横手城は戊辰戦争時、奥羽列藩同盟軍(庄内・仙台・松山藩)の攻撃により落城します。今回横手市内では戊辰戦争に関連する場所を訪問しました。
先ず城下から10kmほど北西にある古戦場「耳取合戦跡地」、次に「生の森庄内藩二番隊斥候の地」に。生の森は城下の西6kmほど、高台からはるかに横手城を望むことができました。
その後、市街地に戻りいよいよ横手攻城となります。往時は城代戸村大学とその家臣が籠城していましたが、庄内藩一番大隊が大手口より、同二番大隊が搦手口より攻撃して合戦に及びます。城兵の善戦空しく城に火の手が上がり、戸村大学は脱出し落城します。二ノ丸跡に建つ展望台(昭和40年に建設された三層の模擬天主)には燃え上がる城の姿を描いた「横手攻光景」など絵画も展示されています。
本丸跡には明治12(1879)年11月に戊辰戦争戦没者供養の目的で秋田神社が祀られています。今回訪れて残念だったことに本丸一帯の草が伸び放題、社が大きく壊れていたことです。不思議に思い展望台の職員さんに尋ねたところ、数年前に本丸の樹木が豪雪によって倒れ、社が大きく傷つき修理されていない状況とのこと。この社は本丸の表門を解体した際の木材を使って建立されており、柱には戊辰戦争当時の弾痕が残っており、ぜひ復旧してもらいたいと感じました。
また、市内城西町の城代戸村氏の菩提寺龍昌寺には戊辰戦争戦死者墓所があり線香をあげお参りすることができました。
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2024/11/18 00:14
2024/11/17 23:49
野口城 飛騨市古河町野口 (2024/10/14 訪問)
向小島城の代わりに野口城を投稿してますが、まだ写真が残っていました。野口城は一城三郭とも言える城で、それぞれ曲輪ごとに見ごたえのある城です。
北の曲輪と南東の曲輪にはそれぞれ連続した堀切と畝状の空堀が付いています。この畝状の空堀ですが南東の曲輪のほうは少し浅いようです。以前の投稿で南東の曲輪付の畝状の空堀として紹介したのは二重の空堀のほうだったかもしれません。ご容赦願います。
ひとしきり遺構を確認した後は下山と相成ります。北の新しい道を下りて行く方が安全なのですが、そこから南に回るのにはかなり遠回りになりそうです。車をとりに行かないといけないので、南側を直下することにします。斜面が急なので足を横向きにして滑り降りていきます‥。 ズザザザ~、名付けてスライディング下山。
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2024/11/17 23:17
主郭からの眺望は良い (2024/10/14 訪問)
高堂城はハイキングコースになっていて、それほど急な高配は有りませんが、訪れる人はあまりいないようです。もっと街に近ければ多くの人が訪れると思うのですが、少し惜しいですね。最初に訪れる遺構は「のろし台跡」で背後に堀切がかかっています。この城で堀切を見れるのはこのあたりだけでしょうか、主郭周辺にもいくつか扁平地はあるのですが、土塁や堀切などは見られませんでした。
とはいえ頂部からの見晴らしは、とても良いです。
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2024/11/17 22:58
2024/11/17 18:29
鳥居越しのスカイツリー…⛩ (2024/10/14 訪問)
JR亀有駅からJR南千住駅に移動。ここから徒歩で向かいました。にのまるさんの投稿から「鳥居越しのスカイツリー」が,“お約束”となっているようですね…。イイ天気を狙わねばと思っていました☀
白鬚橋からスカイツリーを眺望すると,近距離からかイイ眺めでした。そのまま白鬚橋を渡り切ったら,押上行きのバスが来ましたので,飛び乗って散策終了しました。
この日は,押上駅のコインロッカーにキャリーバッグを入れて散策をスタートしましたので,これでループが完成です。
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2024/11/17 17:34
東山霊山城 (2024/11/03 訪問)
【東山霊山城】
<駐車場他>東山山頂公園駐車場
<交通手段>車
<感想>東山霊山城は1552年に第13代将軍の足利義藤(のちの義輝)が築城したとされます。義藤はこの数年前より大御所の父である足利義晴と共に中尾城を築城し上洛できる活動を行ってきたが、父義晴が死に、中尾城の戦いにおいて三好長慶軍に敗れ近江朽木に幽居していました。後ろ盾となっていた六角定頼も死に、後継の六角義賢が三好長慶との和睦を働きかけ和議が成立し今出川御所に上洛します。同じく三好長慶に敗れた細川晴元が丹波で勢力を盛り返し京都まで迫ってくると、身の危険を感じた足利義藤は清水寺の裏山に東山霊山城を築城します。足利義藤の奉公衆たちは三好派と晴元派に真っ二つになり義藤は厳しい選択をせまられた末、三好長慶を「御敵」とします。1553年に三好長慶は大軍をもって東山霊山城を攻めて落城します。京都の船岡山に陣取っていた義藤は朽木に退去しここから5年間幽居することになります。(ちょど今この辺り勉強中なのでつい長文になりました<(_ _)>)
攻め口ですが、南からの通路が立入禁止ということで北の将軍塚から。結局、添付写真にあるように北側も通路は立入禁止となっていました。お勧めしませんが直登できる所があります。将軍塚のある青蓮院門跡の山門の左脇に京都1周トレイルの東山22番から山に入ります。分岐を知恩院の方へ。十字路で左に曲がって南下します。丸太橋を渡り少し下ると左手の沢向こうに北側の立入禁止があります。そこを過ぎて更に少し下ると滝の手前に沢に降りれる国有林のピンクリボン誘導があります。沢に降りて渡っても斜面にピンクリボンがありますのでそれに沿って直登(以前は道があったようですが今はロストしています)します。登り切ったところが主郭南側の堀切に登り切ります。主郭南の堀切から南へは行きませんでしたので遺構はどうなっているか分かりません。主郭は登ってきた堀切と主郭は小さく、すぐ北に伊藤博文詩碑のある副郭、副郭の周辺は西奥の尾根は藪化、以外は急斜面で特に表面観察で確認できる遺構は残っていませんでした。登ってきた降りが大変で、落葉の堆積で表面層と一緒にずるっと背中からコケて2m程、お尻と背中が泥だらけになりました。頑張った割には見れる遺構が少ない。
<満足度>◆◇◇
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2024/11/17 12:52
全国山城サミット2024益田大会 (2024/11/13 訪問)
全国山城サミット2024益田大会。今日で終了。
残念ながら、当日は参陣は叶いませんでした。
れきしーなで数冊購入した兵法書で、策を練って、後日攻入ります。
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2024/11/17 12:02
七五三詣 (2024/11/16 訪問)
足利市駅から徒歩で訪城、途中の中橋は架替え工事でした。鑁阿寺の境内は七五三詣の元気な子供たちが沢山いて活気に満ちていました。
本堂も不動明王堂も趣深く、色づき始めた大銀杏には圧巻され、鎌倉時代からの歴史を感じました。
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2024/11/17 11:50
京都御所(紫式部ゆかりの地を訪ねて③) (2024/11/10 訪問)
京都御所を訪れました。地下鉄烏丸線(今出川駅)で下車しそこから歩きました。
御所の中は清所門から入り無料で中を見学する事ができます(予約不要、ただし事前にネットで見学可能な日時や方法などの確認を)。また御所の中はとても広く結構歩きます。下も砂利なので歩きやすい靴で行かれた方がいいと思います。でも中に入ると、歩き疲れも忘れるほど感動がありました。
特に「御車寄」(写真①)から「建礼門」(写真②)、朱が映える「承明門」越しに見た「紫晨殿(ししんでん)」(写真③④⑤)、天皇の御座所「清涼殿」(写真⑥)、金色がまぶしい「春興殿」(写真⑦)、緑が映える「御庭池」(写真⑧)などはとてもきれいでした。「蛤御門」では禁門の変の弾痕跡も残っていました(写真⑨⑩)。
清涼殿では一条天皇と中宮の彰子(道長の娘)が暮らす姿や、紫晨殿で一条天皇が即位するドラマのシーンなどが、次々と思い浮かんでしまいました。藤式部(まひろ)の部屋はいったいどこだったのだろうか?🤔 思わずキョロキョロと覗き込んでしまいました(笑)。
宮中に上がったまひろ(当時32才)は、藤原の藤の字と父為時が式部省に所属していた事から、「籐式部」という名を与えられます。しかしだんだんと紫の君に似ているという事から、「紫式部」と呼ばれるようになったようです。
そして一条天皇が、亡き前妻「定子」の事をいつまでも忘れなかったため、中宮「彰子」(道長の長女)の方に気を引くような内容に源氏物語を書き変えるよう道長から密命が下り、籐式部は、源氏物語桐壺の巻(第一帖)を書き始めます。この物語に興味を引いた一条天皇と彰子の間には二人の男子(敦成親王・敦良親王)が生まれ、式部は無事密命を果たす事ができました。しかしその直後、一条天皇は何と病に倒れ崩御してしまいます(一条天皇32才、彰子24才)。
その後、ここから藤式部(まひろ)は自分の書きたかった物語(第二帖以降)を長々と書き綴るようになりました。その物語は、この時代に生きた貴族の女性たちの恋はハッピーエンドでは終わる事はない、だからと言って自立もできない、政事(まつりごと)の道具にされるだけの「恋するもののあはれ」を物語で表現したかったのではないかと思います。
しかしその執筆途中、道長が一条天皇の後に即位した弟の三条天皇との間でうまくいかず、ストレスからか病に倒れ宇治で療養していると聞き、藤式部(まひろ)は道長を見舞うため宇治を訪れます。
次は、宇治平等院へ続きます。
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2024/11/17 11:48
県指定史跡になるだけの土塁・堀切 (2024/11/08 訪問)
神奈川県内の国指定史跡の城は100名城・続100名城の小田原城、石垣山城のみ。
県指定史跡になっている城郭はこの早川城と山北の河村城の2城のみ。
遺構がよく残っているんじゃないかと訪問。
海老名駅東口からバスに乗ると、閑静な住宅街の中に現れます。
土塁、堀切がよく残されています。
お城好きの人が見れば確かに単なる公園ではなく城郭跡だったことがわかり、確かに訪問の価値あり。
ただ良くも悪くも公園として歩道・柵が整備されているため、城としてなのか公園の整備の結果なのかは不明な箇所もあります。
渋谷氏って武蔵の城郭ではちょくちょく名前を見かけますが、鎌倉時代がメインで戦国時代のことはこの城の案内板では窺い知ることはできませんでした。
東京都の都指定史跡は教育委員会による共通の形式の案内板がありますが、神奈川県はそういったものはなさそうでした。
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2024/11/17 11:28
清明台と土塀-2/4 (2024/11/09 訪問)
富士見櫓が修復中-1/4の続きです。
本丸の西側高土塁からの眺めを楽しんで宇都宮城ものしり館を覗き、清明台側の登城路から清明台へ、清明台、続き土塀を副柱側を北から南へ南から北へ眺めて、屏風折れの土塀も観察、エレベーターの南側は富士見櫓修復工事中で立入禁止。
本丸内部の芝が車の轍がはっきりするくらいに高土塁からも良く分かる、悪さする輩が居るのかな?と思ったのですが、ものしり館をの方に聞くと「先月の宇都宮城祭り・宇都宮城餃子祭りの催事で雨も降りぬかるみ荒れた状態に成った」との事でしたが芝生がぐちゃぐちゃ直るのには時間がかかりそう。
今回初めて高土塁登城見学後エレベーター使用しました。ものしり館にまた寄り先の事情を聴きました。
本丸北の清水門辺りを観察、地表表示されているが良く分からない、清水門跡の解説板を読んでも地表表示の跡がよく掴めない。
この後、以前から本丸に建っていた清明館に寄り見学、無料です、宇都宮城歴史、縄文時代の遺物展示・歴史・文化財の展示説明がされて居ます。
本丸清明館廻り模擬石垣と堀-3/4へ続く。
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2024/11/17 10:49
富士見櫓が修復中-1/4 (2024/11/09 訪問)
孫の運動会が午前中の開催でしたので午後の空き時間に孫たちが在住する宇都宮市の宇都宮城を何度目に成ったか分かりませんが訪ねました。
予定していた宇都宮市市役所の城址公園西側駐車場が満車駐車待ち渋滞でしたので穴場の南側駐車場へ2台の空きがありラッキー駐車出来ましたが、直ぐに1台入り即満車。
本丸南の駐車場から西側の高土塁を南側、西側、北側へと移動、南西の在る富士見櫓に工事用の仮設シートが覆われている、何かな?後で高土塁中の宇都宮城ものしり館の方に聞くと「先月10月より壁の修復工事が始まり1月には終わる」との事でした。
桜のもみじと清明台、高土塁、堀の景観を眺めて写真撮影、ものしり館を覗いて情報収集、資料ゲット。
清明台と土塀-2/4へ続く。
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2024/11/17 09:44
とことん津山城(駐車場~三の丸) (2024/09/16 訪問)
室町中期に山名忠政が築いた鶴山城を前身とし、江戸初期に入封した森忠政が鶴山を津山と改めて現在見られる津山城を築きました。四代続いた森氏が改易になると松平氏が入って明治まで続きましたが、廃城令により天守と全ての櫓は破却されました。
吉井川と宮川の合流点を見下ろす鶴山に築かれた総石垣の平山城で、頂部に本丸、本丸を囲むように二の丸、三の丸を階段状に配した「一二三段」が特徴として知られます。鶴山の東側は宮川の断崖、南西北側には堀をめぐらせて六つの門を設け、往時は城内に60基の櫓と30を超える城門がひしめく威容を誇り、日本三大平山城のひとつに数えられています。
取りこぼしの回収メインの今回の遠征にあって、全くの初登城は津山城と鬼ノ城だけ(小阪部陣屋もですが)。大いに楽しみにしながら前夜に津山に入って一泊し、朝イチで城下をめぐった後(別途投稿します)、鶴山公園駐車場から登城開始。どうせなら城内にあった櫓や城門を余すところなく見てみたい、ということで「おかやま、城さんぽ」と津山市公式サイトから拾ってきた図面を手にとことん津山城です。
鶴山の南西麓から表門に向かうと三の丸南西隅の石垣が見えてきます。少し先には「忘れ去られた石」と題した矢穴のある石が設置されていますが、説明板によれば、石切場近くの谷川に残置されていた石を築城400年記念の「歴史石曳き」として運び込んだもののようです。忘れ去られた石の背後には矢穴のある石垣石が数多く見られ、この石もこうなりたかったのかな…と、ちょっとしみじみとしてしまいました。入場券売場の手前には写真でよく目にしていた森忠政公の銅像。森蘭丸の弟なら外見もそう悪くはなかったろうに、どうしてこんなぱっとしない姿にしたんだろう…と思っていましたが、説明板を読むと菩提寺の木像を基にしたとのことで、根拠のある姿を伝えるという意味では正しい選択なんでしょうね。妙に納得させられました。城内に入る前に冠木門南側の石垣沿いに東に進み、津山城南東隅の二階門跡と長屋跡を確認。石垣が遺るくらいで特に痕跡は見られません。
表門(冠木門跡)から城内に入ると高石垣に囲まれた桝形が広がり、突き当りには番所があったようです。桝形の南東部には鶴山館へと続く石段がありますが、これは廃城後に設けられたもの。登城道は180度折れて西に石段を上ります。桝形なら石段の手前に櫓門がありそうなものだけど…と思っていたら、北側の石垣の上に櫓門の土台らしき痕跡が遺っていました(何故か松尾芭蕉の句碑が建てられています)。櫓門を設ける予定だったのが、武家諸法度の公布により断念したものと考えられるんだとか。それでなくても豪壮な城だけに、要らぬ嫌疑を受けないためにはやむを得なかったんでしょうね。
桝形から三の丸に上がり、まず西に向かうと、7月の大雨での長柄櫓跡の石垣崩落により十八番門跡付近から先は立入禁止になっていました。今度は三の丸を東へ。表中門を素通りし見付櫓跡の石垣を見上げつつ長屋門跡を抜けた先にはつるまる広場が広がっています。昭和から平成にかけては動物園だったようです。往時は東端に火縄蔵、半地下の煙硝蔵に隣接して煙硝拵所などが建てられていましたが、現在は津山藩学問所「修道館」が移築されて「鶴山館」として津山城の古写真や資料が展示されています。登城ルートから外れているため訪れる人は少なそうですが、鶴山館前からは備中櫓が綺麗に見えました。桜の頃はさぞや…。
さて、表中門まで戻って二の丸に向かいます(続く)。
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