二の丸 南仕切門の北側、隠し曲輪、刻印石広場の刻印を投稿させて頂きます。
元和・寛永年間(1620年~1629年)、徳川幕府が西国の大名(64家とも)を動員して、豊臣大坂城の上に徳川大坂城の再築工事が行われました。
工事を分担する丁場割が行われ、参加を命ぜられた各大名は石垣の石材に家紋や文様を刻み、その刻印の数は5〜6万個にのぼるそうです。
二の丸 南仕切門の北側の残石には、大名は分かりませんが、見事な「桐紋」「左◯き十七」の刻印が見られました。
本丸西側下の隠し曲輪の石垣では刻印が沢山あり間近で見られました。
「丸に出十字(くつわ紋)」と「丸にニ八」が多く、「丸に出十字」は伊予大洲藩 加藤泰興、「丸に二八」が丹波園部藩 小出吉親の刻印とされます。
左右で「丸に出十字」と「丸にニ八」に分かれる境があり、ここからは俺たちが持って来て積んだと担当範囲を主張し合ってるのかと妄想しました。
美濃高須藩 徳永昌重の刻印とされる「地紙」も見付けることができました。
徳永昌重は、お酒が好きで大坂城石垣の工事を遅延し責任を取らされ、領地を没収されたとされます。
山里丸の刻印石広場には刻印がある残石が沢山集められていて、石置場・出土した地域・大坂城内など7つのゾーンに分けて展示されてました。
観光客が残石に座っていたり、子供が遊んでいて、刻印は28個(恐らく3割位)しか確認できませんでしたが、最近刻印好きになった私にとってはパラダイスでした。
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