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まさお

比企城館跡群の平山城 (2024/04/29 訪問)

鉢形城跡から国道254号で30分のドライブ。登城スタンプは嵐山町役場入口ということで、町役場を目指す。町役場は丘の上に突然、劇場が現れたと驚くような立派な建物でした。スタンプが壊れていてインク漏れがあり、スタンプ帳が汚れてしまった。スタンプ押印の際には十分にご注意ください。
杉山城跡は、町役場から5分ほどの中学校隣地の丘陵上に地形を生かした城跡で、観光バスでのガイドツアーの方が大勢いました。

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チェブ

勝姫が見守る子供にやさしい公園。 (2024/04/13 訪問)

『上三川』、小学1年生でも漢字で書ける「上三川城」です。
宇都宮家一族、横田 頼業さんが築きました。

昭和感漂う『城址公園通り』の途中、お肉屋さんの揚げ物の良いにおいがすると、「上三川城」の入口に到着しました。
駐車場もあります。この日は土曜日で桜が満開。駐車場は季節により込み合い方が違いそうです。
水堀と土塁が本丸を守ってました。遊歩道が水堀横に続いているので右回りで散歩です。
鯉や鴨がゆったり泳いでます。折れがありましたが、復元か遺構かは分かりません。
一部 石垣で飾られてます。これはこれで美しいです。
途中、土塁に登れる階段があります。土塁の上も歩きやすく整備されてました。土塁は高さがあります。近くの幼稚園(保育園?)が入学式のようで、晴れやかな笑い声が聞こえます。
本丸に降り『勝姫稲荷神社』。こちらの勝姫様は、跡継ぎ問題で戦になり、片目に矢を受け堀に身を投げたんだとか。
今は公園の桜の花びらが勝姫様に降りかかります。
本丸では保育園の子供たちがお散歩してました。

こちらの「上三川城」は小さな子供が多い印象です。
『城址公園通り』を歩いてみたら、昭和感を感じました。でも、比較的 若い家族が住む新しいお宅が目立ちます。
新しい世代が「上三川城」を整備して、笑い声が絶えない本丸なら、勝姫様も穏やかに過ごす事ができるだろと思った「上三川城」攻めでした。

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まさお

埼玉県を代表する堅城 (2024/04/29 訪問)

本日2城目。行田忍城から約1時間のドライブでした。荒川玉淀河原の河岸段丘の崖上で、荒川とその支流深沢川に守られた堅城
とのこと。規模が大きくじっくり見るには半日以上かかりそうです。また来ます。

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刑部

城と桜 2024 (2024/04/16 訪問)

桜の時期の松本城も最高でした! また、近くにある犬甘城の桜も最高です! ここから松本城がよく見えます。 写真の5枚目からは犬甘城で撮影です。

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刑部

小笠原長時の城 (2024/04/16 訪問)

戦国時代の山城、小笠原長時の居城なので訪問。
小笠原氏城館より登城しました、途中土砂崩れで木が倒れてて道を塞いでいましたが何とか乗り越え30分ほどで主郭部へぐるりと散策かなり遺構が見られ満足。下山しようとしたら女性が1人で登って来てビックリ人影がゼロだったので・・話をすると反対側から40分以上かけて上がって来たとのことなんかいい出会いでした。

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まさお

2回目の忍城 (2024/04/29 訪問)

昨年に続いて2回目の登城です。駐車場整理の係員さんが日本100名城94城達成の方で自分も頑張ろうと決意を新たにしました。

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まさお

絶好の低山ハイキングの地 (2024/04/18 訪問)

八王子城に続いて滝山城跡(現在は都立滝山公園になっているそうです)に行ってきました。駐車場から滝山城跡碑を通り、ガイドマップに従い一周ハイキングしてきました。かなりの規模がある城跡です。

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まさお

北条氏が築いた山城 (2024/04/18 訪問)

北条氏照が滝山城の後に築いた本格的な山城。 ガイダンス施設から石段を通って御主殿跡まで行きました。本丸登城は次回にとっておきます。

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todo94

年度末の城めぐり (2024/03/28 訪問)

2023年度末、有給休暇をとっての旅は2023年末に続いて長崎県にしました。佐世保鎮守府周遊ラリーを完遂するためです。前日は、朝一で家を出て無事、献血ルーム西海にて献血することができました。佐世保に泊をとってレンタカーを借り受け、まず向かったのが広田城。登城路が民家の中を通っている感じで二の足を踏んでしまいます。ウッドヒル広田という住宅地の奥にある「ひろたの丘公園」からのアクセスだったら気兼ねすることなく登城できます。土橋、空堀、土塁などの遺構を視認することができますが、城址碑の存在がなんともうれしい限りです。

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marimo

堀川城跡も追加してほしいです (2023/05/28 訪問)

永禄11(1568)年12月、徳川家康の遠江侵攻に際して最大の戦いは、今川氏真が立て籠もる掛川城攻めでした。今川軍の抵抗もあり、戦いは長期化したが、この氏真に呼応し「反徳川」を鮮明にしたのが、堀江城(浜松市西区)の大沢基胤と連帯した堀川城です。多くの農民が含まれていたことから「堀川一揆」とか「気賀一揆」と呼ばれ、井伊領の土豪や農民が武装蜂起して徳川軍に抵抗しました。

看板と首塚があります。

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しんちゃん

松尾山城の出城(2)。小早川秀秋はガチだったと結論(想定)。長期の投稿ご容赦を (2024/04/14 訪問)

GWに関ヶ原を訪れる方もおられることと存じますので松尾山城での投稿はこれでキリにさせていただきます。長々と投稿させていただきましたことを、ご容赦願います。最後に松尾山城の出城の続きになります。半ば無理やり登城しましたが、城址の西側には明確な遺構が集中して残っています。これまで、この陣所の存在が明らかになったことは有りませんが、それが意図してのことなのかは不明です。
土塁が北側、大谷吉継の陣の方に向かって続いています。最初はわかりにくい程度ですが、だんだん明確に土塁の形状をしてきます。続いて堀切と土橋が現れます。堀切は二つ続いていていずれも土橋がかかっています。一つ目の方深く、形状が良く残っています。その先に扁平地が続いた後に下に向かって竪堀が続いています。敵の侵入を阻止するのが狙いだと思います。
東側高所の扁平地が主要部と思われますが、西側ほど明確な遺構は残っていません。山頂付近を始め各所に開発の手が入っていて、散策が危険な個所もあります。一部ではありますが、明確な遺構を確認したことで、ここに松尾山城勢力の陣所があったと想定します。
私は対面の山中の城山(仮)に宇喜多秀家の陣所が有ったのではないかと想定しており、松尾山の陣には本来なら毛利勢が入る予定だったのではないかと考えています。根拠は三つの山とその周辺を自分の足で散策して、歴史的な背景や人物の立場などを考慮、地形の形状や構造から見る、その役割など総合的に考慮してのことです。もちろん、白峰氏らによる一次史料の解読の内容を知らなければ、関ヶ原にこんな場所があったのかで終わりです。
合戦前に松尾山とこの陣所を押えたことで、小早川が東軍側に付いたことは明白で、事実上の西軍の主力の正面に軍勢を配置したことで小早川秀秋に対する従来の(優柔不断で気弱)イメージは大きく変わってくると思います。この状態での長時間の対峙は難しく、開戦と同時にこの周辺でも合戦が行われた可能性は高いと想定します。

個人的には小早川秀秋には最後まで立場を明らかにしないで欲しかったというのはあります。その方がミステリアスで深堀りができますから。
小早川秀秋は合戦から2年後、21歳の若さで亡くなりますが、生まれは天正10年(1582)死亡は慶長7年(1602)なので21は数えで実際は20歳で亡くなったのだと思います。合戦の際は実年齢で18歳前後です。この時代の人物は吉川広家や毛利秀元、小早川秀秋など誰一人侮れる人物はいないと改めて感じました。特に合戦に自ら赴いてくる者はなおさらです。毛利ポンコツトリオは言いすぎでしたね。広家さん、秀元さんゴメンなさい。輝元さんはよくわかりません。

小早川の死後の翌年に徳川家康が征夷代将軍に就任します。実際に秀吉の時代・関白の方が征夷代将軍よりはるかに権威が高かった期間が3年あり、かつて秀吉の後継者候補であった小早川はその存在を危険視され暗殺された可能性もあると考えます。

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じゅんじん

豊臣秀次館 (2024/03/23 訪問)

石垣よきよき~

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じゅんじん

2回目 (2024/03/23 訪問)

琵琶湖が見られませんでした( ;∀;)
石垣よき
ねこ多し

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じゅんじん

掛川桜 (2024/03/02 訪問)

ピンク濃いめの早咲きです。

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じゅんじん

永林寺 (2024/02/17 訪問)

お寺の奥に城跡があります。お寺が立派。

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まさお

岡山 烏城 (2024/03/30 訪問)

宇喜多秀家が構築した烏城 登城者は圧倒的に外国人旅行者が多かった。

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まさお

秀吉水攻め 中国大返しの舞台 (2024/03/30 訪問)

岡山駅からJR吉備線で備中高松駅下車 徒歩15分位で到着。城跡というより水性植物園のような印象でした。

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カズサン

復元御台場 (2024/04/20 訪問)

 松任城終えて松任駅前のホテル宿泊し朝7時半にホテルを出発し北陸路11番目北北東に約8.6km程の寺中御台場を初登城。

 駐車場:銭屋五兵衛記念館駐車場(36°35'48"N 136°35'47"E)利用。
 参考資料:城びと、グーグルマップに依る。

 駐車場から大野湊緑地公園に入り復元されてる台場の土塁を見学、砲座一門の復元、解説板によると土塁80mの内17mを部分復元し大砲は700m西の犀川方向を狙っていた、下関戦争を考慮し外国勢上陸後の対応を図った模様。寺中台場は慶応2年(1866年)加賀藩によって築かれた。
 大野湊緑地公園には回遊式庭園が造園され、隣接地に銭屋五兵衛記念館が有りますが朝早く開館前周囲を見学、東奥には鬱蒼とした森が有り大野湊神社が鎮座してる、加賀藩5社の筆頭で加賀藩にも篤く祀られていた。
 
 奇麗に整備された緑地公園によく保全されている、大変ありがたい。銭屋五兵衛記念館は朝早くて見学できませんでした。
 この後は今回の主目的、切山城へ向かいます。
 
 

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ぴーかる

詰城の踏破ならずも収穫あり (2024/02/24 訪問)

【夕景城】
<駐車場他>北麓の堅田地区から登城しました。<35.111863, 133.044869>から南にどんどん進んで行くと石敷道と東方向に行く分岐があり、その分岐に1台停めれる。
<交通手段>車

<感想>1泊2日尼子十砦の旅ラスト9城目。尼子十旗のラスト1こ、2023/2/26の攻城ならずのリベンジに来ました。昨年来た時から林道が整備されていて上記駐車ポイントから石敷道がかなり奥まで出来ていました。前回は雪もひどくて進めませんでしたが、今回行ってみて結局、熊笹もひどくて雪が無くても全然進めなかったであろう事が分かった。
 石敷道が終わり林道に入ると林道の横に並行して堀があり、その上段に広い削平地があります。大石も数個転がっています。丸太橋を渡り(少し怖い)少し進むとサイト城郭放浪記さんの平段と名付けた曲輪群に着きます。北正面に崩れた石積み遺構があり南の山側に広く連段となっています。手前の方は杉が植林整備されていますが、奥の上段は熊笹が鬱蒼としています。連段の東側は近年改変した道が付けられていますが途中で終わっています。連段の段差に僅かに石積み遺構が見られ、発見したのが東側、沢の方を藪漕ぎして上へ行くと、掘り下げて石組した沢からの取水場のような遺構と曲輪壁の内側を角に切った石垣遺構がありました。これらが遺構であれば麓居館跡だと思います。
 道が無いので詰めの山城の登山口が分からず、平段を藪漕ぎして上へ行ったり、沢を登ってみたりして迷走、時間をロスし、平段の横の沢を渡り、保安林の看板のある所から奥へ進み、尾根が急斜面に迫った場所から登りました。登るにつれて上方が積雪になっていて靴がぐちょぐちょ、雪に阻まれ、時刻が17:00でタイムアップとなり、またもや断念しました。後日、城郭放浪記さんの写真と照合して登山口は合っていそうなので登城の目処はたちました。14:30に到着しましたが、時間も相当かかりそうなので積雪の無い時期、朝一番目に攻めようと反省し、今シーズンのうちに再チャレンジしようかと思います。城びと唯一、尼子十旗をコンプリートされているtodo94さん、2回目の夕景城挑戦でさらりと攻城されておられるのに感服いたしました。
 
 これにてこの旅終了。尼子十砦の城は砦跡らしく、山の尾根や山頂部を僅かに削平しただけの小規模のものが多かった。尾根には堀切がほとんど無く、この地方独特の城郭構造の特徴ではないかという感想を持ちました。投稿としては初投稿、初登城記録合わせて3城できた事は嬉しい。総走行距離控え忘れたが無事帰還しました。

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ヒロケン

能登半島地震の爪痕 (2024/04/29 訪問)

賤ケ岳の合戦以降、前田利家公が金沢城に入城して以来、近世城郭としての形が整えられ版籍奉還まで14代にわたって金沢城は前田家の居城として改修や修繕が行われてきました。
この度、金沢城に訪問し能登半島地震で崩れた石垣や膨らんだ石垣を見てきました。崩れた石垣が3か所、膨らんだ石垣が1か所あり、城内で通行の規制がかかっている箇所が数か所ありました。主に本丸と玉泉院丸の石垣がダメージを受けておりました。
ですが、重要文化財の建物や復元・復興された建物にはダメージが無かった様に思います。

早く、復興されることを願っております。

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