6城目中城城の続き(2/3)です。護佐丸の代名詞であるアーチ門がありました(写真①)。ここをくぐり一の郭に入ります。ここが最も高い場所です。ここから見下ろすと、中城城は予想以上に大きい城だったのには驚きました。首里城とほぼ同じくらいの大きさではないでしょうか。
一の郭には正殿の跡がありました。という事は、護佐丸はここで暮らし、そして最後はここで亡くなったという事になります(写真②③④)。一の郭の東隅には月見櫓(物見櫓)のような跡もあり、三段の段築で積み上げ、まるで東の阿麻和利をいかにも牽制するような風貌です(写真⑤)。また石垣は座喜味の時よりさらに進化していました。一の郭の石垣は、下段は相方積みで上段は布積みと崩れにくい強固な造りになっています。さらに石垣の内側全てに武者走りが追加されていました(写真⑥⑦)。これは鉄壁の防御です! にもかかわらず・・・
一の郭から二の郭、二の郭から三の郭に下る途中にも、それぞれアーチ門がありました。これらの郭には多くの兵が待機できる、まさに護佐丸を守る最後の砦であった事がわかります(写真⑧)。途中にはウブガー(井戸)もあり、籠城にも耐えられるようになっていました(写真⑨)。でも皆さん、このあたり夏は気をつけて散策して下さいね(笑)(写真⑩)。
1458年尚泰久から護佐丸討伐を命じられた阿麻和利は、護佐丸が月見の宴を開き油断していた夜、突然中城城を奇襲します。この一の郭で宴は開かれていたと思われます。しかし護佐丸は、なぜか反撃しませんでした。そして阿麻和利が持つ国王軍の旗を見た護佐丸は、何も抵抗せず、そのまま妻子とともにここで自害したそうです。
これだけの鉄壁な防御に加え、兵の数など戦えば護佐丸の方が有利だったと思われます。にもかかわらず、護佐丸はなぜ戦わなかったのでしょうか?
次は、最終回(3/3)へ続きます。
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