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片岡氏の城 (2023/10/05 訪問)

 片岡氏によって築かれたとされる城です。戦国時代には松永久秀に攻め落とされています。奈良中世城郭辞典(日本の城郭シリーズ17)によると4つの曲輪群で構成されているということでした。ただ城址は私有地とのことでしたので案内のあった所を散策させていただきました。

 JR畠田駅より徒歩10分くらいで行くことができます。

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秋津氏の城 (2023/10/05 訪問)

 秋津氏の城として伝わっています。説明板の近くから墓の中を登って行くと5分もかからないで主郭に行くことができます。主郭にも墓がありました。南側と北側に曲輪と思われる削平地が展開しています。帯曲輪らしき地形もありました。堀切と土塁を見ることができます。

近鉄吉野線下市口駅から徒歩約20分で行くことができます。

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トク

71【関ケ原の26人】(24) 島津義弘 (島津四兄弟生誕の地:伊作城②) (2023/09/24 訪問)

(伊作城①)の続きです。
薩摩では各曲輪に城の名前を付けるようです。本曲輪は亀丸城と呼ばれていました。その他にも、御仮屋城、蔵ノ城など7つの主な曲輪があったようです(説明写真①②③)。

ここ伊作城は島津の城の中でも最大級クラスの城だったようです。しかし訪れた時は全体的に背丈ほど雑草が伸び、あまり整備されていなかったので、今回はその全容がよくつかめませんでした。亀丸城と御仮屋城以外は雑草で歩ける状態ではなく、曲輪間を渡る橋も崩落していたため行けませんでした(写真④⑤)。

各曲輪の間はとても高い空堀で仕切られていました。その中で、亀丸城と御仮屋城の間の空堀は、ロープを伝って下りる事ができるようで「空堀の底に下りてみませんか」と書いた看板があったので(写真⑦)、ここは勇気を出し😠恐る恐る下りて見る事にしました。大量の蚊や蜘蛛の巣や倒木と戦いながら気をつけて下りました(かゆい~)。傾斜も急でシラス台地はよく滑ります。そして降りた後に下から上を見上げると(うわ~!😲)とても高く垂直の土壁に圧倒されてしまいました。10mくらいはありそうですが、風化されている状態でこの深さなので、昔はもっとこの倍くらい深かったのではないかと思います。写真ではわかりにくいかもしれませんが、まるで深い土壁の谷底へ落ちてポツンと取り残された感じです。この高さでさらに土が滑るので、ここから攻めるどころかロープがなければ上に登って戻る事すらできません。これで各曲輪を完全に遮断していたようです。島津はいったい何という城を作るのでしょうか!(写真⑧⑨⑩) この空堀はさらに下に深く続いているようなので行ってみたかったのですが、さすがに蚊の大群に囲まれ続け、あまりのかゆさに耐えられず、蛇など出ると怖いので断念しました。ここは冬に来た方がよさそうです。

次は、義弘が少年期を過ごした(一宇治城)を目指します。
 

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赤い城

ガイドツアーの帰りに (2023/09/24 訪問)

利神城ガイドツアーへの道中で国道沿いに案内板を発見。
帰りに立ち寄りました。
案内板から車で登ると後悔します!
少し離れた国道沿いの駐車スペースに車を置き、徒歩で向かいました。
道を進むと空堀に続いていました。
主郭部は畑になっていて土塁が残っています。
土塁上には福原霊社が鎮座しています。
赤松家の福原氏の居城でしたが黒田如水と竹中重治の攻撃により落城しました。
ほぼ登らなくて良いのでこの辺りの山城を攻める際の合間に是非。

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にのまる

姫路城十景めぐり⑧ (2023/09/19 訪問)

【名古山霊苑高台】
その名のとおり、霊苑の高台です。
景福寺公園からは徒歩30分くらい。霊苑の階段をてっぺんまでのぼりました。
離れた分、天守は小さく見えます。
でも、どこ?どこ?どこ??って探さなくてもすぐにわかります。
主役かというとそうでもないのですが、かといって背景でもなく、存在感もあって、離れたところから見ることでランドマークなんだということを実感しました。

写真④の石の間にすっぽりとはまる天守が撮れるはずなのですが、園路からだとずれているので何でかなぁ?と思ったら、近くに草に埋もれた⑤が目に入りました。この台の上からだといい感じの写真が撮れそうです。でも、草の中に突入するのは素足にスポーツサンダルの女子🤭にはちょーっときびしかったです。

ただ、レンズを通すよりも、自身の目で、視界いっぱいに風景を捉えた方が何倍もきれいで印象にも残ると思いました。

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しんしんちゃん

本丸の 土塁が語る 逃げんなよ (2023/10/01 訪問)

古宮城は元亀元年(1572)馬場美濃守信春の縄張りで築かれたとされています。
武田方の三河進出のための重要な拠点であり、亀山城の奥平氏を見張る役目を負っていた
という説もあります。小山全体が城郭として改造されていて、その精緻な縄張りは
土の城の到達点の一つといっても良いと思います。西側を除く周囲を泥炭質の湿地に囲まれ、
西側には水濠を備えていたようです。白鳥神社への階段が城址への入り口となり、
両袖枡形と呼ばれる虎口を経て本丸に至ります。この本丸ですが中央を土塁で隔て
東西に分かれています。‥これは容易に降伏などせず最後まで戦えという馬場美濃守の
メッセージでしょうか?‥無言の圧を感じます。今の時代ならハラスメントですね。
死にハラですね。本丸の北側は曲輪が段々に連なります。五段はありますね。
本丸西側から大竪堀が北側に続いていて西の曲輪とを分けています。この西の曲輪も
枡形虎口や丸馬出しを備え一城二郭の様相を呈しています。木の根の張った土塁の下を
堀切と土塁が周回し、なかなか壮観な眺めです。非常に見所が多い城で、林立する樹木が
絶妙な保水力を有し雨から遺構を守ってくれてます。土塁や空堀を復元せずにこの姿を保って
いることは奇跡的だと思います。まさに土の姫路城とも呼べる城です。
ただ古宮城も手勢が少なかったとはいえ徳川方にあっさり落城させられてしまっています。
本格的な水堀などを備えていない中世の土の城の到達点でもあり、限界を示した城でも
あると思います。ちなみに城兵は落城の際に逃げて行ったらしいです。土塁のメッセージは
無視されたようですね。

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小城小次郎

語りたくなる歴史がある (2023/02/11 訪問)

毛利とタッグを組んだ宍戸氏の苗字の地で、宍戸にいた宍戸氏は佐竹氏と共に秋田に去り、秋田から秋田氏が宍戸にやって来て、最後は水戸松平家の宍戸藩陣屋となったが天狗党の乱で藩主が切腹・・・わー書ききれない。

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ぴーかる

竜門寺城 (2023/08/19 訪問)

【竜門寺城】
<駐車場他>龍門寺駐車場はあります。システムパークタケフ(コインP)に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>越前ちょこ城巡りの旅7城目。現地案内板によると龍門寺は曹洞宗のお寺で1299年に悦巌崇善によって創建されたと伝えられます。1573年には織田信長が越前朝倉攻めの際にここを本陣としました。朝倉氏滅亡後は一向一揆の支配することとなり、羽柴秀吉・明智光秀が龍門寺城に攻め入ります。その後は織田信長家臣の不破光治が入城します。
 上記コインPから炎天下のもと徒歩で10数分かかり汗だく。武生駅から城跡までの街並みは碁盤目状に区画整理されています。城跡地にはお城の遺構はほぼ残っておらず南側墓地が窪地になっていて堀跡と分かります。周囲はお寺の密集地域になっています。

<満足度>◆◇◇

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織田晃司

黒田官兵衛が攻城にてこずり (2023/09/17 訪問)

宮本武蔵が足を負傷した富来城ですが、
現在残る本丸跡だけ見ると小さくて、その話ホンマかいなと思うが、実際はもっと大きな城らしい。

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織田晃司

小学校の周りに (2023/09/17 訪問)

石垣と石段と堀が残ってます。

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織田晃司

白米+まったけ+調味料=松茸ご飯 (2023/09/17 訪問)

白米をまったけとは普通読みません。
だから城にある幟は平田城となってます。

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織田晃司

廃城感 廃城感 昇竜拳 (2023/09/17 訪問)

ダートな車道を登り、さらに徒歩でつづら折れの山道を登ると廃城たっぷりの一ツ戸城に到着。

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にのまる

姫路城十景めぐり⑦ (2023/09/19 訪問)

【景福寺公園】
男山配水池公園から景福寺公園までは1㎞足らず。
姫路城の市橋門からだと徒歩3分ほどです。

眼鏡市場の駐車場脇の登り口から坂道を登りはじめると、すぐ左手に展望広場への階段がありました。
しかし、なかなかの草叢ぶり。
見なかったことにしてしてそのまま坂道を登ってみました。
登りきったところは「お花見広場」のようです。
しかし、ここも時期的に仕方がないのですが、生命力の強そうな自然の草々が跋扈しています。
突っ切れば展望広場とつながっていそうではありましたが、一歩も踏み込めずに引き下がりました。

まぁ、こういうこともあるよなぁ……と帰りかけたのですが、せっかくなので気合を入れなおして最初にスルーした展望広場への階段を駆け上がってみました。
意外とあっさり行けて、着いた広場には西の丸が展望できるベンチも説明板もありました。
樹木の陰に隠れてお城の全貌を眺めることはできず、木々の隙間からのぞき見る感じでしたが、秋~春にかけては西側からの穴場的ビュースポットとなりそうです。

景福寺公園は平成6年3月31日に都市公園として一部供用を開始したと説明板にありました。姫路城の世界遺産登録が平成5年12月なので、周辺環境整備の一環として公園化し「十景」にも登録されたようです。

全景を拝むことはできませんでしたが、今の季節はこれが精一杯だと思います。
いい季節に姫路に行くことが出来たら再訪したいです。

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朝田 辰兵衛

「福島県のお城」ではありません。 (2023/07/11 訪問)

高良山神籠石から路線バスで西鉄久留米に戻ったら,八女営業所行きのバスが停まっていました。まさに発車寸前でしたので,飛び乗りました。降車バス停は,柳病院前。片道【510円】でした。ここから,約1.2km離れていますが,鉄道利用よりも断然近いです。
城址碑は石段ワキにひっそりとたたずんでいます。見落とし注意です。
この後,越後に帰還しました。ホントは基肄城の水門を見たかったんですが…次回に持ち越しです。

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にのまる

姫路城十景めぐり⑥ (2023/09/19 訪問)

【男山配水池公園(山頂)】
シロトピア記念公園から西へ向かって歩くと北勢隠門跡、清水門へ至ります。
かつては繋がっていた二つの門。北勢隠門では姫山公園への出入口として活用されている様子を、清水門では外枡形石垣の内側に復元された鷲の清水を見ることができました。

ここから道路を渡って住宅街の静かな小径へと入り、しばらく行ったところに男山配水池公園の案内板を見つけました。目的地に到着です。
と思ったら、案内板の奥に長い石段が待ちかまえていました。
絶景を拝めるのはこの石段の上から。甘くはないです。

姫路城を背にして(右後方)石段をのぼります。途中、何度か振り向きたい衝動に駆られましたがぐっと我慢。見るのは足元だけ。
そして数分後(意外と早い)、山頂に到着しました。

……呼吸を整えて、いっせーのせっ!

こ、これは(。◕ˇдˇ◕。)

振り向いた視線の先に屹立する白い魔物。
天空に向かって聳え立つ巨大な天守はまるで山城の化身のようです。

山頂のベンチで、朝からの猛烈な暑さのためにすっかりぬるまったペットボトルのお水をちびちびと飲みながらこの景色を心ゆくまで堪能しました。
姫路城の記事などで時折見かけていたすてきな写真。
どこから撮ったものなのかわからなかったけれど、きっとここからだったんだな。
全身に纏った至高の美が発する神秘性と表裏一体の排他性に城の神髄を見た気がしました。

とは言えこの姿、空からの攻撃には丸腰です。
築城時には想定されなかった災禍をくぐりぬけ今あることは決して奇跡や偶然ではなく、この城を守りたいと願う人たちが心と力を尽くされた賜物であることを心に留めておきたいと思いました。

山頂の広場には色鮮やかな千日紅が咲き誇っていました。5枚目の写真はスマホの壁紙にしています。

石段を下る途中、中腹の男山八幡宮と千姫天満宮に寄りました。
男山八幡宮の石鳥居は越後村上から国替えになった姫路城主榊原政邦寄進、千姫天満宮は全国唯一の千姫様の神社だそうです。
このあたりによく来るという兵庫県在住の姉にLINEすると「途中に牛おったやろ(笑)」と返信が来たので、そういやおったわーと思いだしたのが千姫天満宮の撫で牛でした。

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しんしんちゃん

地元の人に良く整備されている。看板の位置が変わった。 (2023/09/30 訪問)

久野城は明応年間(1492~1501)久野宗隆によって築かれたとされています。家康が
関東に移封されると久野氏も関東に移りますが、正保元年(1644)に廃城になるまで
城主がいた城です。久野城は地元の方々によって良く整備がされていて、北の堀の跡に
駐車場があり、そこから北の郭を見ながら登城していきます。本丸を中心に周囲に数段に
わたって郭が配されています。北の郭を確認した後は、三の丸、二の丸を経て主郭に
至ります。そのあとは南西の虎口から再び二の丸に下り井戸跡を確認します。
南に移動し、高見から周囲を見渡すと、かつての水堀があった場所に貯水池が
あるようです。その後は下段に降り、南の郭を経て西側の遺構、東側の遺構を確認して
大手から脱出します。大手から本丸を見ると久野城址の看板が本丸から下段あたりに
下げられているようです。

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しんしんちゃん

浄土寺 広島県尾道市東久保町 (2020/01/05 訪問)

浄土寺は推古天皇の時代616年に聖徳太子が創建したと伝わります。足利尊氏が
建武3年(1336)九州に落ち延びる際に祈祷を行い、九州で再起した後、再度参詣し
一万巻の観音経を読経し和歌を詠じて戦勝祈願をしています。本堂と多宝塔が
国宝に指定されていて、山門や阿弥陀堂・方丈など多数の建築物が重要文化財に
指定されています。境内全体が国宝に指定されており、国宝の寺とも呼ばれています。

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しんしんちゃん

夕食(ゆうげ)前 皆で水汲み 釣井の段 (2020/01/05 訪問)

新高山城は小早川氏代々の居城である高山城の沼田川をはさんだ対岸に築かれています。
沼田小早川氏を継いだ隆景によって天文21年(1552)に改修されたとあります。
標高197.6mの山頂部に本丸を頂き北側一帯と西側の尾根上に郭が展開します。
南には匡真寺跡と呼ばれる郭があり、さらにその南の頂上部に鐘の段と呼ばれる
郭が存在します。匡真寺跡の南東に続く登城道はいくつかの番所跡が付随し土塁を
備えます。本丸の北側に半壊する釣井の段の周辺には石垣が良く残り石積みの井戸が
六つも残っています。城主の隆景のほかに多くの家臣団がいたらしいのですが、夕飯前
の井戸汲みの渋滞解消にも一役買ったようです。

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しんしんちゃん

小早川隆景の築いた海城 (2020/01/05 訪問)

三原城は天文21年(1552)小早川隆景によって因島村上氏ら瀬戸内の勢力を統制する
ために築かれたとされ、天正10年の羽柴秀吉との講和後、さらに強化されたようです。
関ヶ原の合戦後は福島氏の支配下になり、福島氏の失脚後浅野氏の筆頭家老、浅野忠吉が
入り明治まで続いています。城域は市街地化が進み天守台の一部が残っているのですが
本丸南東の船入櫓跡の周辺には石垣が残っているようです。今回は調査が不足していて
実訪問ですが、いずれ訪問してみたいとおもいます。

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トク

70【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津四兄弟生誕の地:伊作城①) (2023/09/24 訪問)

(24人目)は「島津義弘」です。
これから義弘ゆかりの諸城を巡り、関ケ原での島津の退き口とその後の人生までたどってみようと思います。

まずは義弘が生まれた「伊作城」を訪れてきました。鹿児島中央駅から加世田行のバスに乗り60分、吹上町の「ふもと」で下車します(写真①②③)。そこから徒歩15分程登ると本曲輪(亀丸城)です。いきなり本曲輪入口の空堀がとても高かったのにはビックリしてしまいました(入口写真④本曲輪写真⑤⑥⑦)。

ここは、伊作島津氏である祖父の島津忠良の居城で、忠良は鎌倉時代以来分裂していた島津家を統一した島津の祖(日新公)と呼ばれています。その教えもありました(写真⑧⑩)。その教えは子の貴久に引継がれ、貴久は薩摩大隅日向の三州を統一します。義弘は貴久の次男として1535年にここで生まれ貴久が伊集院へ移るまでの2年間(2才まで)をここで過ごしたと言われています。島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)は皆ここで生まれ、四兄弟生誕の碑もありました(写真⑨)。よって江戸時代には、ここは島津の聖地と呼ばれていたようです。義弘はここでいったいどんな赤ん坊だったのでしょうかね?😊

次は(伊作城②)空堀を探検してきます。
 

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