さいかじょう

雑賀城

和歌山県和歌山市

別名 : 妙見山城
旧国名 : 紀伊

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①養珠寺妙見堂
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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:雑賀城 (2025/05/28 訪問)

和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市)から徒歩10分弱で、津屋公園入口(34.191331、135.171900)に着きました。
そこから、城跡山公園へ向かいました。

築城年代は定かではないようですが、雑賀孫一(鈴木重秀)の父、鈴木佐大夫重意によって築かれた城のようです。
佐大夫は雑賀党の頭目を務め、本願寺顕如に与して織田信長と石山合戦で戦いました。
その後、1585年(天正13年)に豊臣秀吉が6万の大軍で紀伊に侵攻、いわゆる「紀州征伐」で落城しました。
1585年(天正13年)に和歌山城が築城される頃に廃城となったと思われます。

現在城址は「城跡山公園(津屋公園)」として整備されていますが、当時の遺構は残っていません。
丘陵の南端には妙見堂が祀られています。
バスが遅れていた為、一本前のバスに乗れました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=日方城を目指す為、和歌浦バス停からバスで日方バス停に向かいました。

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ぴーかる

雑賀城 (2024/09/28 訪問)

【雑賀城】
<駐車場他>津屋公園の南にある和歌浦交番(Googleストリービューにある)が無くなっていたのでそこが駐車スペースになっています。
<交通手段>JR紀三井寺駅から歩きましたが、先達の通りJR和歌山駅から和歌山バス和歌浦バス停が良いでしょう。

<感想>電車で和歌山ちょこ城巡り、写真消えた旅4城目。津屋公園から登り口があります。登り道の分岐を左左に行くと妙見山の石碑がある御堂にたどり着きここが城跡のようです。御堂のある曲輪は周囲が緑色片岩の石積みがありますが、遺構情報に石垣が無いので後世のものと思われます。南側に港の眺望が望めます。曲輪の北側は高い切岸になっていて、城跡だったことが北側から分かります。北側は尾根曲輪になっていて、近世に造られた緑色片岩の壁や消防塔が残っていますが、当時の尾根曲輪だったように思います。

<満足度>◆◇◇

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鈴木佐太夫 (2024/09/05 訪問)

 鈴木佐太夫によって築かれた城です。妙見堂がある北側に千畳敷と呼ばれる平坦地があり城を構えていたようです。妙見堂から北側へ歩いて行くと謎のコンクリートの塔がありました。後で調べてみると今は使われていない消防用の望楼でした。もう少し散策したかったのですが、蜘蛛の巣が多く断念しました。登城口である城跡山公園(津屋公園)に説明板があり、少し雑賀城のことが記されています。

 JR和歌山駅よりバスに乗り和歌浦バス停下車。目の前が城跡山公園です。ただ道路を横断する必要があり横断歩道は少しだけ離れています。

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しんちゃん

雑賀党の城  (2024/02/25 訪問)

雑賀城は雑賀崎の東2km弱に位置する丘陵の上に築かれており、この山自体が紀州青石と呼ばれる緑泥(色)片岩の岩山と見られ、本丸跡とされる妙見堂は巨大な扁平な岩肌の上に建てられています。
周辺は緑泥片岩の産地で、弥勒寺山城も岩盤上に築かれています。雑賀崎で採取される緑泥片岩は和歌山城の本丸周辺の石垣に多用されています。
雑賀党は雑賀の荘の鈴木・土橋・島村・栗村・松江・宮本の士族らによって結成されており、鈴木氏はその中心的な役割を担っていたようです。雑賀城は孫市の父・鈴木佐太夫によって築かれたとされています。
天正5年(1577)の雑賀合戦の際には石山本願寺に味方し、孫市は雑賀党の中心人物となって織田信長の大軍相手に活躍し、一度は敵を退けたそうです。その後、再度総攻撃をかけてきた織田の軍勢の前に屈服し、佐太夫は藤堂高虎の計略によって粉河で切腹したとのことです。城址には特に遺構らしきものは残っていませんが、山肌は急峻で、当時の周辺への眺望は良かったものと思われます。

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 鈴木重意
築城年 戦国時代
主な城主 鈴木氏
廃城年 天正13年(1585)?
遺構 曲輪
住所 和歌山県和歌山市和歌浦中3