阿坂城の投稿のラストです。けっこう城域が広く攻め甲斐のある城址です。椎の木城と白米城の二つの城で構成されていますが、途中にも郭のような扁平地があったような気がします。白米城は単郭ですが、なかなかの広さで眺望も良く、本城の風格があります。
周囲には堀切や竪堀も残り、比較的良く遺構が残っている城址です。
この日は天気が安定せず、帰りに雨に見舞われましたが、傘をさしても歩けるほど、上り下りしやすい道でした。ただし私は傘を持ってきていなかったので擦れましたが。
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2024/11/01 18:40
椎の木城から白米城 (2024/09/28 訪問)
阿坂城の投稿のラストです。けっこう城域が広く攻め甲斐のある城址です。椎の木城と白米城の二つの城で構成されていますが、途中にも郭のような扁平地があったような気がします。白米城は単郭ですが、なかなかの広さで眺望も良く、本城の風格があります。
周囲には堀切や竪堀も残り、比較的良く遺構が残っている城址です。
この日は天気が安定せず、帰りに雨に見舞われましたが、傘をさしても歩けるほど、上り下りしやすい道でした。ただし私は傘を持ってきていなかったので擦れましたが。
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2024/10/31 20:50
2024/10/24 19:40
ハイキングコース (2024/09/28 訪問)
阿坂城は椎ノ木城と白米城に分かれています。応永年間に北畠満雅が北朝の足利勢を防ぐために築いたとされています。戦国期には永禄12年(1569)織田信長軍の侵攻を受けた際に北畠家臣・大宮入道合忍斎が立て籠もりますが、木下藤吉郎秀吉らに攻められ、落城したそうです。城址までかなり距離がありますが、道は比較的なだらかで傘を差しながらでも歩けそうです。地元の方の格好のハイキングコースになっており、けっこう年配の方も来られてます。
各所に扁平地(郭)のような場所が有り、門跡のような場所を越えて城址に近づいていきます。堀や竪堀もけっこうあり、戦国期の山城だということを実感します。
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2024/05/15 08:07
南郭(白米城) (2024/03/09 訪問)
(続き)
北郭南端の堀切から南郭へと続く尾根筋には二条の堀切が設けられています。南東側の堀切を過ぎて坂道を登って行くと、眼前に立ち塞がる南郭主郭の切岸…。高さと大きさは北郭以上で、こちらもよく刈られていて大迫力です。南西麓のスロープから主郭に上がると、楕円形の曲輪には白米城阯石碑が建ち、360度視界を遮るもののない眺望が広がっています! この地に城が築かれた理由と、ここまでの道中で多くのハイカー(登城者ではない)と出会った理由がよくわかりました。南郭はほぼ単郭ですが、切岸の下には帯曲輪がめぐり、南方向に竪堀(堀底道)が落ちています。北東にはほぼ自然地形の尾根がのび、その付け根を堀切と堀切から続く竪堀で断ち切っています。南東方向への竪堀はかなり下まで落ち込んでいました。尾根の東端から北側に派生する支尾根の付け根にも浅い堀切が見られます。
阿坂城の両郭をひとめぐりした後は来た道(浄眼寺ルート)を下山しましたが、東麓の浄眼寺は北畠氏の菩提寺であり、往時は阿坂城を詰の城とする山麓の居館としての役割もあったようです。
北郭も南郭も切岸と堀による防御を主としたオーソドックスな中世山城ながら、草木が綺麗に刈られているために切岸の高さと急峻さが際立ち、大変に印象的でした。この状態を維持し続けるのは並大抵のことではないと思いますが、おかげさまで阿坂城を存分に堪能させていただきました。
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分類・構造 | 山城 |
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築城主 | 北畠満雅 |
築城年 | 応永年間(1394〜1428) |
主な城主 | 北畠氏、大宮氏(北畠氏家臣) |
廃城年 | 永禄12年(1569) |
遺構 | 曲輪、土塁、堀切 |
指定文化財 | 国史跡(阿坂城跡附 高城跡 枳城跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 三重県松阪市大阿坂町桝形 |
問い合わせ先 | 松阪市教育委員会事務局 |
問い合わせ先電話番号 | 0598-53-4393 |