戦国末期に、九州統一を目指す島津氏の北上に対し、寡兵で戦い散った高橋紹運公の最期の地です(城址の解説には敵の島津軍5万とありました。5万は誇張があるかもしれませんが、圧倒的な兵力差だったことは間違いないはずで、城兵は763名と伝わります)。
圧倒的な兵力差にもかかわらず、島津氏の猛攻に約2週間耐え、ついに紹運公以下、城兵全員が玉砕したと伝わる壮絶な戦地の本丸跡には「鳴呼壮烈岩屋城址」の碑が島津軍に立ちはだかるように、城下に向かい建てられています。島津軍を防いだ2週間という数字はとても大きく、岩屋城攻略後、島津軍は紹運公の実子の立花宗茂公の立花山城に兵を進めますが、豊臣秀吉の援軍が九州に到着し、島津軍は博多へ撤退しました。
遺構は本丸に土塁のような高くなっている所がありますが、櫓台跡とも伝わりはっきりわかりません。本丸の下には腰曲輪のような所も見えます。本丸から車道を挟んで下にある二ノ丸と伝わる場所には、紹運公の胴塚と家臣の墓碑があります。また、城から離れますが、西鉄二日市駅の近くに紹運公の首塚があります。
大野城のある四王寺山の中腹にある城で、太宰府や二日市方面の眺望が良いので(太宰府政庁跡や水城の土塁が見えます)、紹運公を知らない方でも、楽しめる場所ではないでしょうか。
車での訪問の場合、岩屋城の近くに車1台が止められるスペースがありますが、大野城の太宰府口門跡近くの焼米ヶ原に10台くらいの無料駐車場があり、そこから岩屋城まで遊歩道が整備されており、徒歩10分~15分くらいです。太宰府駅または太宰府政庁跡から徒歩で訪問される方も、岩屋城からの車道は路肩がなかったと思うので、大野城へ向かう場合、遊歩道を歩いた方が安全だと思います。
高橋紹運公と岩屋城の戦いを詳しく知りたい方は、吉永正春先生の「筑前戦国史」がおすすめです。
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