川と川の二股を利用した天然の要害、かなり堅固な城ですね! 諏訪神社迄の道のりも困難です。
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2019/01/31 21:32
天然の要害 (2019/01/31 訪問)
川と川の二股を利用した天然の要害、かなり堅固な城ですね! 諏訪神社迄の道のりも困難です。
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2019/01/31 20:03
突っ込み所満載の高月城と根小屋城。 (2019/01/05 訪問)
「滝山城」に行った時、観光エリアマップに「高月城」と「根小屋城」の名前がありました。
皆さんの情報でフワッと分かってましたけど、もしや見られるようになったのか?っと向かいました。
「高月城」はホテルの近くとあります。
実はホテル、何件かあります。
まさかホテルの名前が同名の「高月城」なんて・・・。
お城跡の「高月城」は私有地なので立ち入り禁止の看板がありますのでご注意を。
ホテルの「高月城」も廃城してますが立ち入りを見かけたら警察に通報とありました。
調べたら廃墟マニアのブログありますので、こちらメインで来る方もいるんですね。
ちょっと、いづらい感じなので「根小屋城」に向かいました。
前に来た事のある道でした。
崩落箇所があるので注意とあります。
私、以前にこの崩落箇所の情報で怖くなってやめた事がある!
「根小屋城」=「戸吹城」かーい!!!
またしても、諦めました。
「滝山城」に来た時は近くの「高月城」「根小屋城」、ちょっと違う覚悟が必要です。
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2019/01/31 19:51
本多正純預かりの地 (2014/07/31 訪問)
本多正純は徳川秀忠を宇都宮城のつり天井部屋で亡き者にしようとした・・・等の罪で佐竹藩に身柄預かりとなりました。
(実際にはつり天井部屋等は無く、権力争いのライバル・土井利勝(実は家康の近親だった説も)等に他の罪をねじ込まれてハメられたのが実状らしい)
佐竹藩では優遇されていた事・実際悪い事していないと訴えていた事が秀忠を逆上させ(やはり徳川秀忠は凡庸だったとこの事実から伺えるとの最近の研究結果らしい)、佐竹藩に命じて横手城に幽閉されてしまったらしいです。
結果その幽閉は生涯解かれる事無く、本多正純(とその息子・正勝)はここで没してしまいます。
戦国時代までは小野寺氏が支配していた横手城ですが、関ヶ原合戦では昵懇だった上杉氏に見方し西軍に付いた結果、津和野城預かりとなり、代わりに同じく西軍に付いて減封された佐竹氏が移ってまいります。
横手城にはその後近代の整備によって遺構は大きく消失してしまい、現在ある模擬天守も展望台と化している模様。
自分が訪問した際には既に時間切れで展望台閉まっていたので中は未確認です。
遺構の大半は失われましたが、地形を見る限りそれなりの規模のお城だった事は伺えます。
(横堀跡や帯郭跡・虎口跡等、おそらくそういう遺構があっただろう・・・という予測が出来る場所が多かったです)
一応土塁とか解る遺構も残っているので、訪問して損した感は全くありませんでした。
しかも横手城といえば本多正純のお墓がありますので(前振り長かったのはここにつなげる為w)
こちらもしっかりお参りさせて頂きました(むしろメインだったかも)
横手駅から歩いて散策するのであれば、先に本多正純(親子)のお墓見学⇒横手城、の順で回ると効率良いと思います。
本多正純のお墓のところには宇都宮城関係者(「よみがえれ!宇都宮城」市民の会)からの記念碑板がありました。
横手と宇都宮・・・本多正純つながりの縁はかなり太い様です。
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2019/01/31 12:43
柵に囲まれた中の城跡の碑 (2018/12/31 訪問)
町の一画に柵で囲まれた狭い場所があります。
その中に城跡の碑が建っていました。
囲まれたその場所は、なんとなくなにかあるなって雰囲気が漂ってます。
(そう感じるのは私だけ?笑)
少々土が盛られているような感じです。
これはきっと土塁の一部かなと。
(そう思えてしまうのも私だけ?笑)
小さい場所ながら柵で囲まれているがことで神聖な印象です。
(またまた思うのは私だけ...)
案内板を見ると、歴史でそこそこな堅城だったようです。
そんな城のきれいな遺構が残ってればなぁなんて思った駒城址でした。
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2019/01/31 07:59
2019/01/31 06:15
続日本100名城スタンプ92個目 (2019/01/19 訪問)
2005年1月以来、14年ぶりの再訪です。この城にはさほど魅力を感じていなかったのですが、本丸周りの空堀や、三の丸の空堀、土塁に惹きつけられてしまいました。14年前は作事(建造物)にばかり目がいっていて、土の城の部分は完全にスルーしてしまっていたのですね。14年経って、自分の城を見る視点の成長を感じることができました。
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2019/01/31 01:47
河内キリシタン受洗の地 (2019/01/14 訪問)
野崎城を経てひたすらに飯盛山山頂を目指します。
前日の高取城&宇陀松山城登山の筋肉痛はまだきていないので大丈夫。
途中「七曲りor竹林、アナタはどちらを選択しますか〜?」との問いかけがありました。こういう場合、時間はかかっても七曲りの方が安全だというのは学習済みなので迷いません。
辻の新池の近くに、短いロープのある脇道がありました。こういう場合、行かずにはいられないので登ってみると「危険な道を無理して通らない。」という紙がぶら下がっていました。謀られた。
野崎城跡から飯盛城千畳敷までちょうど1時間で、ところどころに石垣がありました。
本丸高櫓郭と展望台郭(謎の名称多し)がメイン城址(危険じゃないところでは)で、展望台からの、天下とったどー的な眺めが素晴らしかったです。本丸の周囲、楠公寺側がいちばん石垣がありました。三好長慶でも楠木正成でもない楠木正行像は逆光で後光がさしていました。
あとは二の丸御体塚郭、史蹟碑郭などを通って四條畷方面に下って行くだけです。石垣や堀切がボチボチとありましたが、上ったり下ったりしながらの道で、これがなかなか遠かったです。でも下界がだんだん近くなってくるのが眺望でわかってそこは楽しめました。
野崎駅から四條畷駅は電車だと一駅、2分の距離です。歴史民俗資料館や野崎観音、野崎城に寄った時間も含めてですが、3時間かけての山越えはなかなか濃いものであったと満足しております。
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2019/01/30 23:20
城井谷崩れ (2014/01/04 訪問)
城井(きい)氏と改名した豊前・宇都宮氏が居城としていたとされる城で、豊臣秀吉から命じられた伊予国への転封を拒んだ城主・城井鎮房(きいしげふさ)公が、豊臣方の黒田長政の軍勢を破ったとされる「城井谷崩れ」の舞台となったと考えられる城です。
城井谷の名前の通り、北東の海側から南西にある城まで谷状の地形が20km続き、特に城近くの5km程になると、両脇の山との間隔が200m程になり、「この両側の山で待ち伏せされていたら・・・この谷間で進路を絶たれたら・・・」と不安になり、黒田軍も進軍しながら士気が低下したのだろうなと感じました。
城井谷城は、天然の巨岩を城の防御に有効に活用した城で、三丁弓ノ岩(攻め手を防ぐのに三丁の弓だけでこと足りることから名付けられた)や巨岩の表門、城内との高低差20m程?の裏門等、なかなか見ることのできない城の姿を見ることができました。特に表門の巨岩の門は、大人一人がかかんで通らなければならない程狭い上に、門を潜った先は急坂になっており、弓・鉄砲を使わなくてもつぶてだけで黒田軍を撃退できるのではないかと思いました。黒田軍になったつもりで攻め込んでも、門を潜ると頭をあげて坂を目にする前に無数のつぶてを受けて死んでる姿しか想像できませんでした・・・
本丸側から裏門に行った場合、裏門の上に登る為には鎖を伝ってかなり高所を登らなければなりませんので、行かれる方は十分注意してください。滑落したら生命が危険にさらされるレベルだと思います。比高はあまりない城ですが、スニーカーではなく、登山靴があれば登山靴で行くことをお勧めします。
車での訪問の場合、宇都宮氏一族の碑がある英彦山との分岐の道の所に数台止められるスペースがあります。そこから先、城の入口にある寒田(さわだ)水子地蔵にも数台駐車スペースありますが、車一台分の道で離合(すれ違い)ができないので、時間に余裕があれば、宇都宮氏一族の碑の近くに駐車して訪問した方がよいかもしれません。碑から城址入口まで徒歩10分程、途中、三丁弓の岩を見ることができます。
公共機関での訪問の場合、築城駅からバスで終点の上寒田まで30分、上寒田から約5kmで徒歩50分ですが、バスの運転手に城井谷城まで行くと伝えると、上寒田のさらに先で下してくれるようです(上寒田から数分走った所で休憩後折り返すそうなので)、少しでも歩く距離と時間を節約したい方はバスの運転手に尋ねてみてください。
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2019/01/30 20:07
世田谷に江戸? (2019/01/13 訪問)
江戸 重長公の銅像がある「喜多見城」です。
江戸氏の菩提寺である慶元寺がお城跡です。
江戸氏?みなさん、この方、ご存知ですか?私は「喜多見城」の銅像を見るまで知りませんでした。
江戸 重継さんが元祖で現在の江戸城辺りが本拠地のようです。
その後いろいろあって家康さんの家臣になります。
江戸に移る家康さんに配慮して「喜多見」の名前になったとも、喜多見の地を与えられたから江戸氏から「喜多見」になったともあります。
住宅街の中、一方通行と細い道がたくさんありました。区画が細かそうなのに「喜多見城」は手入れの行き届いている広い御寺さんです。
家康さんに遠慮しなかったら、世田谷区に江戸城の名前がつくお城が築城されたのでは!(なんちゃって)
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2019/01/30 20:01
腰をお~ろせ~ば~、鹿の~○~○~♪ (2016/07/25 訪問)
島に着いてすぐ、辺りには鹿だらけww
それだけでなく、道を埋めるように鹿のフ〇が至る所に(=Д=;)
腰を下ろさなくても鹿の〇ンですw
そんな中まず最初に向かった宮尾要害への階段にもばら撒くように〇ンがあって、途中で感覚マヒして履みまくっていたと思いますw
宮尾要害は毛利元就が陶晴賢を宮島に誘い込む為に築城したとされますが、どうやらその前から毛利家のお城として存在していた模様。
おそらく陶晴賢にアピールするように増築したのが築城に見えたのかもしれません。
か、そんな宮尾要害、正直遺構は残っていないと思います。。。見る限りそれらしい所が無かったので。
城域と思われる場所を一回りしましたが、ある(いる?)のは鹿ばかりでw
一応コテージみたいな休憩場があるところが主郭っていうのはわかりました。
正直厳島神社に記憶食われました・・・ま、厳島神社には勝てないよねw
ちなみにこの日朝広島駅前のホテルで起きてすぐに腰に猛烈な痛みが走り、この日帰宅するまでずーっと脂汗流して痛みに耐えていました。
次の日に病院行って知った原因は・・・尿管結石だった・・・そりゃ痛い訳だ(←てか出先であっても病院行けよw)
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2019/01/30 13:01
丸山千枚田 (2019/01/27 訪問)
赤木城から紀和鉱山資料館にスタンプをもらいに行く途中、ちょっと寄り道して丸山千枚田へ。
冬期は時季外れでしょうから、とりあえず行ってみる程度でさほど期待してなかったのですが…いや、これは凄いです。野面積みの石積みにより設けられた棚田が高低差160mに渡って段々状に連なっており、中央部には巨岩まで。棚田としての見応えだけでなく、城好きの心に訴えかけるものがきっとあると思います。
わざわざ来るのはなかなか大変ですが、赤木城に来られたのならついでにぜひ。私も、今度はもっといい季節(棚田に水を張ってから収穫までの間)に来たいと思っています。
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2019/01/30 12:37
雪中行軍 (2019/01/27 訪問)
この日は元々は八幡山城や安土城に行くつもりでしたが、滋賀県は前日から生憎の雪の予報…。雪だと遺構がわかりづらくなりますし、冬期の山城めぐりのためにこの冬からスタッドレスタイヤを導入したとはいえ、正直、雪道を走るのは不安なので予定変更、雪の影響の無さそうな熊野方面に行くことにしました。
夜明け前に家を出て、五條市から十津川村を抜けて赤木城へ。十津川村も熊野市も新宮市も雪の予報はなく大丈夫! と思いきや、五條市の旧西吉野村あたりから道路脇に雪が残り、旧大塔村では路面にも雪が積もっていて、雪道を避けたつもりだったのに…と泣きそうになりながらも、スタッドレスタイヤのおかげで何とか無事にたどり着くことができました(十津川村以降は積雪なし)。
赤木城でも小雪が舞う中の登城となりましたが、さすがは藤堂高虎が築いたとされるだけあって、深い山奥に石垣に囲まれた郭が連なる情景といい、技巧的な縄張りといい、実に見応えがあり、寒さを忘れて1時間余り歩き回ってしまいました。
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2019/01/30 01:00
行ったっていうか、途中にあった。 (2019/01/14 訪問)
飯盛城彷徨の記を書こうと思ってデジカメの写真を見ていたら「野崎城碑」の写真があって…思い出しました。ほぼ麓に野崎城があったのでした(^_^;)
野崎観音の釣鐘が飯盛山ハイキングコースの大東市側スタート地点で、程なく野崎城に到達します。野崎城に寄ると飯盛城までは3分のロスになるのですが、どうせ1時間以上歩くことになるので、3分の寄り道なんて遠まわりのうちに入りませんよっと。
写真の石碑があるところは本郭で、この地点で結構登ってきたんだなという感じでした。下の展望休憩所がある平場も曲輪だったようです。
飯盛山を駆け抜ける覚悟がホントにあるかと自分に問うのにいいポイントでした。
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2019/01/30 00:50
空堀、土塁と遺構が残る中、やっぱり日本三大坑道の1つというのが気になります! (2018/12/31 訪問)
城跡だったエリアは今は家や畑になっていますので所々に残る遺構を見ながらまわります。
といってもそこまで規模は広くはないので苦もなく遺構を発見しながらまわれると思います。
駐車場もありますので車を停めて、そこにある案内板を見て見学開始です。
歩き始めるとすぐに坑道跡の看板が目に入ります。
この関城は他の城跡とは少々変わった見所がございます。
土塁、空堀の跡も見ることができますが、城攻めをする為に掘った坑道跡が残っています。
なんと日本三大坑道の1つとのこと、テンションがあがります。
洞窟のように残る坑道跡を外から見ます。
中は安全上の理由から入れませんが雰囲気が伝わってきます。
なるほど。
エリアをまわると土塁も確認できますし、空堀も今は浅くなってしまってはいますが残ってます。
日本三大坑道の1つという、ちょっと他にはない一風変わった城跡の関城でした。
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2019/01/29 23:41
太閤の野望とある女性の一生 (2014/01/01 訪問)
築城当時は、大坂城に次ぐ巨大城郭だったそうなので、破却するのも大変だったらしく、石垣が多く残っていました。
山里丸跡に広沢寺というお寺が建っているのですが、地元の肥前垣添城主・名護屋経勝の娘で豊臣秀吉の側室となった広沢局に由来するお寺でした。
広沢局は20歳で秀吉の側室となったそうですが、秀吉が名護屋城に滞在したのは1年2ヶ月程で、秀吉は広沢局を名護屋城に残したまま大坂に帰ってしまい戻ってきませんでした。それから5年程して秀吉が亡くなったので、広沢局は26歳の若さで出家したそうです・・・
秀吉の側室になったことで、名護屋氏としては恩恵も多かったのだろうとは思いますが、広沢局の一生を考えるとやるせなくなります。
戦国時代なんだからそんなことは当たり前で、広沢局は恵まれている方だったのかもしれませんが。太閤の夢跡の名護屋城より、広沢局のことの方が心に残ってしまいました。
遺構について全然書いてなく申し訳ないですが、広沢寺には加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝わる蘇鉄がありました。5枚目の写真です。加藤清正が好きな方は広沢寺に行けば見られますよ。
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2019/01/29 22:58
四国最大規模の天守がいつか見たい (2019/01/13 訪問)
秀吉の四国平定戦の功により讃岐一国17万石を与えられた生駒親正の居城として築城されました。以後、関ケ原も乗り切りましたが、寛永期に起きた御家騒動により実質的な改易、その後、水戸徳川家二代光圀(いわゆる水戸黄門)の兄、頼重が高松松平家として封じられ明治維新に至る…という外様改易からの親藩・譜代入封という、徳川氏の支配を徐々に西日本に拡大する、秀忠・家光期によく見られたパターンですね。何年か前の初登城の際は天守台が補修工事中で涙を飲んだため、満を持して再訪です。今回は車のため、東の旭門より宣材でよく使われる艮櫓を見ながら入場、二の丸へ進むと補修なった美しく立派な天守台が見えてきました。天気も良かったので、堀に綺麗に逆さに写る姿も映えていました。天守の復元構想もあるようでイメージ図見ると、ちょっと珍しい形、見てみたくなりました。長い目で応援しましょう(笑)。廊下橋である鞘橋(さやばし)を通って天守台へ向かうと確かに大きい、地下部も再現されていました。その後は月見櫓、水手御門の方面へ。その名の通り、当時、城の北部は海に面しており、ここから直で船により海へと出る門だったそうです。今治、中津と並び「三大水城」といわれる本城の特徴ですね。続100名城で山城、平山城続きだったので、たまには息抜きと足休めに平城巡りを入れるのもいいですね。
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2019/01/29 22:12
2019/01/29 21:50
見事な横堀が残る中世城郭 (2018/08/13 訪問)
国道横にいきなり深い横堀があります。柵と藪で全周することは出来ませんが堀底を歩くことが出来ます。横堀は折れを伴い主郭からの横矢が掛かるようになっています。堀底を登るとすぐに主郭に至ります。右側に櫓台、左に土塁が続きます。主郭奥から下を見るとオーバーハングしており危険なので柵を越えない様に注意してください。専用の駐車場は無い様なので入口の自販機横のスペースか歴史民俗館、道の駅に駐車するといいでしょう。全体に小振りな城ですが中世城郭ファンにはおすすめの城です。
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2019/01/29 21:34
小さな櫓と門が移築され昔を偲ばせる (2006/01/01 訪問)
公園の一角に小振りな乾櫓と東門が移築されています。城跡は大きく破壊されていますが堀跡と土塁が一部残ります。
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