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dougen

2016.9.4登城 (2016/09/04 訪問)

和歌山駅でレンタサイクルを借りて、国体道路を南下、紀伊寺駅付近で国道42号に入り、橋を渡った和歌浦口にある津屋公園(城跡山公園)が雑賀城址となります。
遺構らしい遺構はありませんが、主郭跡に妙見堂があり、参道が整備されています。

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dougen

2016.9.4登城 (2016/09/04 訪問)

JR和歌山駅の東側に来迎寺があり、太田城址となります。
街中の平城の宿命から、遺構らしい遺構はありませんが、解説板と立派な石碑が設置されています。
また、秀吉が水攻めを行った城で、秀吉の築堤跡が周辺に残っています。

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ヒロケン

ダニ (2016/06/21 訪問)

小谷城は京極家の譜代家臣から北近江の戦国大名となった浅井家三代の居城です。小谷山南筋に展開する広大な城域は、実に戦国大名の居城らしい縄張りです。織田信長公の妹、お市の方と浅井三姉妹 お茶々(豊臣秀吉の側室)お初(京極高次の正室)お江(徳川秀忠の正室)が暮らした城としても有名です。

北陸自動車道長浜ICから約20分。山麓にはWC等完備された無料駐車場があります、山腹には5~6台分(もっとかな)駐車できる駐車スペースがあります。

今更になりますが、6月の梅雨の季節が一番ダニが増殖するのだそうです。自分も太股の付け根、タマタマの横をガブッとヤられました。市民病院に行き切開して頂きましたが、タマタマの横の切開はちょっと恥ずかしい思いをしました。
皆様も環境の整ったと思っている山城に行くときも、ハーフパンツ等お薦めできませんm(_ _)m

 

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勝野武士

本日、播州三大城制覇!(←遅) (2018/10/27 訪問)

行こうと思えば行けたのにも関わらず、なぜか今日まで行くことがなかった英賀城。
秀吉による播磨平定を語る上で欠かせない重要なお城ですね。
あ、ちなみに、播州三大城とは小寺氏の御着城、別所氏の三木城、そしてこの三木氏の英賀城なのです。

本丸跡の石碑近くにある復元縄張図をみる限りかなり広く感じますが、現地を訪れると改めてその広大さを実感できます。
港近くに本丸、二の丸などの主要な曲輪群を配置し、後になって城下西方に英賀御坊が築かれると寺内町としての要素もプラスされ、土塁と堀で町をぐるりと囲んで総構が築かれ、さながら巨大要塞都市の様相を呈していたようです。
石山本願寺や毛利方の関係がかなり強かったことから、どうしても織田方との対立は不可避であり、結果として三木城が陥落すると英賀城も次いで陥落してしまいました。

現在は大部分が住宅地となってしまい、本丸などの中央部はほとんど面影もありません。
唯一、英賀神社北側に僅かながら立派な土塁が残っています。前述の復元図から推測するに、英賀御坊の北側の総構の土塁の一部のようです。
その土塁の北側に公園があり、なぜか中央に模擬石垣がありました。何の説明文もありませんでした。前述の復元図から推測してみてもこの場所は総構の堀のあたりでは??…個人的には記念碑的なオブジェととらえてます(笑)。
あと、総構の城門の跡や英賀城関連の石碑が町のあちこちに立てられてるのはとてもありがたいですね。

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赤い城

堀が良く残っています (2016/08/21 訪問)

埼玉高速鉄道の新井宿駅から徒歩で20分。
外環道貫通しているものの本丸周辺の空堀が綺麗に残っています。

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赤い城

蕨城址公園となっています (2018/10/27 訪問)

京浜東北線蕨駅西口から徒歩で10分弱。
蕨城址公園として市民の憩いの場となっています。
江戸時代には徳川家の鷹狩御殿として使用されました。
神社池が水堀の跡のようです。

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オダリン

大村公園一帯に (2010/09/28 訪問)

復元された板敷櫓と白壁と石垣が残っている。御船倉の遺構があり昔の面影をそのまま残している。夕映えに映える雰囲気の良い写真写りのいい城だ。

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カルビン

被害甚大 (2014/04/20 訪問)

まだお城めぐり始めて間もない頃、八王子城を頑張って見学した際に管理棟の関係者様からすぐ近くに支城があると聞いて訪問
駐車場が無い為(車を停められるスペースも無さそう)、JRor京王線・高尾駅からバスでの訪問が宜しいかと
(バスの本数が意外に多い・・・行先はバラバラですが、ほぼ小田野城近辺まで行きますので、最寄りのバス停をご確認下さい)

最初の訪問では解説版の場所等知らず、また雨上がりの影響で斜面で思いっきり転倒し、ズボンが泥だらけになるという被害甚大でw
テンション下がって早々に敗走したという苦い思い出がorz

同年夏に再訪し、しっかりとリベンジ攻略を果たしました(苦笑)


遺構はと言いますと、地形はそれっぽいものの、これ!と言えるものは曲輪と切岸くらいで・・・それほどの物はありません

観栖寺台公園にある解説を確認し、その脇にある入口からお城をざっと見学し、北側山裾沿いに降りてトンネル脇の標柱を見て終了・・・ってところでしょうか


ここから徒歩圏内に、武田氏滅亡時に逃れてきた武田信玄四女・松姫が一時匿われていたとされる心源院があります(解説等はありませんが、お寺内に松姫座像があるとの事・一般公開はされていない模様)ので、一緒に見学されると良いかもしれません

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リベロスキー

“九戸の乱”の舞台、中世終焉の地 (2018/10/26 訪問)

政実の見た山並みを見。
政実の見上げ空を仰ぎ見。
政実の立った地に立つ。

それだけで充分。

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河内との国境に近く、東高野街道を見下ろす軍事的拠点 (2018/10/14 訪問)

長藪城は、標高約347mの城山に東の城かL字形の尾根上約600mに渡り、西の城、出城と3ヵ所の拠点が設けられ、堀切などで遮断されている!
かなりの規模で、戦国時代に大幅な改修を受けたと考えられますね!
所在は、橋本市城山台です!
城山台の地名の由来は、この城山から来ています!
長藪城は、楠木正成の家来で、しばしば手柄を立てた牲川左ヱ門頼俊は、南朝が衰え千早城が落ちると十津川に逃れた!
その子の義春になって、伊都郡に入り、長藪城を築いたと伝えられています!
そして、義春は守護畠山氏に仕え、その子義信の時は河内国の一部も領したという!
義信の子義則の時、近畿一円を支配下に治めつつあった松永久秀に攻められ、1558年にたまらず長藪城を退去、同城は松永氏に奪われてしまいました!
しかし、義則の子義次が1560年に松永方を攻めて長藪城を奪い返したと云われております!
だけど、これらは伝承で、残念ながら史実かどうか確認されておりません!
長藪城のように、東の城、西の城、出城と二つ以上の城郭が、城山という一つの城域内に含まれるのを「別城一郭」の城といい、和歌山県下で同様の形式を持つ城としては、海南市の大野城、湯浅町の広城が有名で、長藪城とともに、規模の大きさから畠山氏の主要三城とされております!
尾根続きから敵に攻められるのを絶つため、堀切を施し、郭への虎口は狭く複雑にして、敵の一気の侵入を防いでいます!
また、堀切に続いて堅堀を設け、敵兵の山腹斜面での横移動を制限しているのが特徴です!

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todo94

続日本100名城スタンプ60個目 (2018/10/21 訪問)

日本名城百選の城を精力的に攻めていた9年前も、倉庫跡、才蔵丸、明神丸と土の曲輪を次々と回り、小倉丸にまで脚を伸ばしていたが、今回は更に貯水池跡までチェックできた。しかしこの城の見どころは何と言っても本丸周りの石垣。徳島市街方面の眺望も素晴らしい。阿波九城のひとつである。

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モト

茨城県ではけっこう有名な城址みたいです (2018/10/16 訪問)

城址には土塁や曲輪を見ることができました。
ここ多良崎城は茨城県ではそこそこ有名らしいです。というのも心霊スポットで話題になったことがあるようです。
少々、城址を発見した時と城址へ入りる際はなんとなくドキドキしてしまいました。
霊感がない私にはまったく心霊的な印象はありませんでしたが...。

遺構は入り口から奥へ進むと曲輪があったり、そこを囲む土塁などが見られます。
城址の道はある程度整備されてますので歩きやすく見学もしやすかったです。
けっこう気軽に見れる城址ではないかと思います。
それでいて本郭、二の郭、3の郭としっかり残っているので城址の雰囲気をたっぷり味わえました。

駐車場はありません。
入り口付近に停車してささっと見学してきました。

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にのまる

分倍河原の戦い (2018/10/21 訪問)

新田義貞vs鎌倉幕府のクライマックス直前、分倍河原の戦いで新田義貞が陣を張ったとされるところが現・高安寺です。分倍河原駅前には鎌倉の方角を向いた新田義貞像が建っています。ここでの勝利が大きかったので英雄扱いなのでしょう。(古戦場碑は多摩川に向かう途中の公園にあります。)
百余年後、享徳の乱のはじまりである鎌倉公方足利成氏vs関東管領の分倍河原合戦もありました。古河を向く成氏像はありません。
どちらの合戦も人間味あふれる経過や駆け引きがあり、戦国や幕末じゃなくてもけっこう楽しいです。現地に遺構がなくても空気だけで楽しめる派の人にとっては高安寺の立派な仁王門や鐘楼は記憶に残るものになるのではないかと思います。
でも、分倍河原といえば、私にとっては武蔵小杉に住んでいた学生時代に南武線から京王線に乗り換えるための駅で、ホームの立ち食いそば屋さんの美味しそうな匂いにそそられつつも、うら若き乙女には立ち食いなど考えられなかったそんなセピア色の思い出の地。

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CLAD

人の住む城 (2018/10/21 訪問)

唐沢山神社の境内です。神様だけでなく、神社の方々がお住まいです。堀切に浄水装置があったりしますが、仕方がありませんね。よく保存していただいていることに感謝しつつ、失礼にならないように見て回りたいものです。

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ぽんたっく土佐守

思っていた以上にすばらしい城址です (2018/10/21 訪問)

バスツアー2日目は長篠城へ。
ガイドさんの案内で遺構をめぐります。
長篠といえば「長篠の戦」が有名ですが、
実際の戦場は設楽原。
地元では「長篠・設楽原の戦」と言うそうです。
広大な本丸もすばらしいですが、
本丸と二の丸の間の空堀は
「まっこと(本当に)見事!」でした。
JR飯田線に分断されながらも
よくぞ残してくれたものです。
ちなみに、
長篠・設楽原の戦に敗れた武田氏は
やがて滅亡するというのが定説ですが、
武田勝頼が土佐へ落ち延びたという伝説が
高知県にはあります。
武田勝頼の墓と言われている墓が高知県仁淀川町にあり、
不思議な縁を感じました。

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朝田 辰兵衛

ビスタラインはおあずけ… (2016/08/27 訪問)

岩村城から移動。岩村でのゲリラ豪雨がなければ,1本早い明智鉄道に乗れました。14:30までに名鉄東岡崎駅に着けば,岡崎レンタサイクル(無料)を利用することができ,大樹寺まで行って“ビスタライン”を確認することが可能でした。そもそも,岡崎城への入館もギリギリで,カラダは疲弊していました。

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カルビン

観光地・修善寺の近く (2014/08/24 訪問)

信長から謙信に送られた、あの洛中洛外図屏風を描いた狩野永徳と血縁関係にあったとされる狩野氏の拠点となったお城
狩野城は狩野氏が足利茶々丸を擁護していた為、伊勢新九郎:後の後北条家初代当主・早雲に落城させられてしまいます

お城は東西に長く、南は山の斜面がキツイものの、北側が全体的に防御力薄い感じがします
実際登城口は北側にありますので

遺構は中心部にある主郭を軸に堀・土塁等が中央に集中しておりました
ちょっと風化で鋭さに欠けるところはありましたが、そんなにガッカリする程では無いかと

主郭まではそこそこの登りになってましたが、それ程急坂は無いので、かなり散策しやすいお城と言えるでしょう
自分降りてきた際、サンダル履きのオバチャンが「この格好で頻繁にここ登ってるよ~」って言ってましたし・・・良いのか?(汗)


公共交通機関での訪問は難しいですし、広い無料駐車場あるので車での訪問推奨ですが・・・修善寺といえば有名な観光地で、時間帯・訪問時期によっては大渋滞します(自分も週末の渋滞にハマった)ので、朝一での訪問等、時間をずらされた方が良さそうです

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カルビン

9/13の・・・土曜日 (2014/09/13 訪問)

2014年の9月13日は残念ながら土曜日w
その為ジェイ〇ンには襲われる事はありませんでした・・・が、ちょっとしたアクシデントに見舞われました(汗)

場所は滝山城からほど近い場所にある高月城
現在は案内があるようですが、当時は場所がはっきりと解らず、目印の潰れた●ブホテルを目標に登城しました
(丁度建物に入る道の目の前に登城口があった)

現在は案内がある代わりに城域に入れなくなってしまったようですね(案内の意味無いですね、それ)
ま、お城見学者ではない人間も含めて当時からゴミを捨てる人(特に粗大ゴミ)が多かったようで、周囲が散乱していた為、土地の所有者様も迷惑していたんだと思いますので仕方がないですが・・・ちょっと勿体ないです

ちなみに最奥の主郭と思われる郭にある田畑までの道以外は整備されていなかった為、入口付近の土塁以外は藪のせいで堀とか見辛いものになっていた為、そんなにそそられるお城ではありませんでした
(他には虎口とか井戸跡と思われる場所くらいか)


帰りにはジェ〇ソンならぬ、虫に顔面を襲われました(たぶんバッタかとw)

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勝野武士

大塚城。 (2018/10/26 訪問)

主郭部の画像です。

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勝野武士

三木城包囲網の付城の一つ。 (2018/10/26 訪問)

平成25年に国史跡に指定された『三木城跡及び付城跡・土塁』のうちの一つ。
羽柴秀吉による三木城攻めの際、三木城の南方に毛利軍による魚住城から三木城への兵糧や物資の補給を絶つために付城を何カ所も築き、それらを二重~四重の土塁でつないだものです。この大塚城はその付城のひとつです。
前々から気になっていたのですが、本日ようやく訪れることができました。
何回か蜘蛛の巣のトラップにかかったり木々が多く薄暗かったり蚊にめっちゃかまれたりしましたが、下草が刈られ、見学しやすかったです。
で、遺構ですが、これがかなりしっかり残っていましたよ。
まず、『大塚城』の名が示すように古墳を利用したであろう痕跡が随所にみられました。主郭の土塁は周濠の堰堤部に手を加えたようで、中央部は円墳っぽい。ここはどうやら物見台として利用したのでしょうか。
それだけでなく、外枡形らしき土塁の形状やら横矢掛を何カ所も見受けられました。
いかにも織豊期の陣城って感じで興奮しました(笑)。

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