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勝野武士

城跡トワイライト。 (2019/01/02 訪問)

勝竜寺城→離宮八幡宮→宝積寺(山崎城…の一部)→山崎聖天観音寺→水無瀬神宮→石清水八幡宮…と丸一日使って新春早々ひとり弾丸ツアーを敢行した勝野武士ですw

毎年恒例としている石清水八幡宮でのお参りを無事済ませた。
…しかし!勝竜寺城では本丸に攻め込めず、山崎城ではそもそも登山不可、てなこともあって消化不良感が否めない心理状況。

というわけで、夕暮れが迫ってて時間も限られてゆく中ではあるものの、せめて天守台だけでも見てやろうと思い立ち、急遽淀城攻めを強行致した次第です。

京阪電鉄淀駅を降りたった時点で、もう結構薄暗かったので、かなり急ぎ足で本丸跡へ。
…実際のところ、淀城の残存状況はあまり良ろしくなく、本丸跡は與杼神社(←よど、と読みます)の境内として残っているものの東半分はどうやら改変を受けているっぽい。残存状況が良いのは西半分で、天守台付近の石垣と内堀の一部が残るのみとなっています。

どんどん暗くなってきたので、天守台付近を重点的に観察。やはり徳川譜代の城らしく石材の加工が非常に丁寧です。そしてやはり高さもありますね。
そして何より、天守台の規模の大きさ!実際に訪れてみるとよーくわかりますが、徳川宗家でもなければ御三家でもないのに、単立式で天守を建てるにはあまりに大きすぎるのです。
で、実際どうしたかというと中央に天守を据えて、余った周囲の敷地をフル(すぎる)活用したのです。
つまりは一間四方の二層櫓を天守台からはみ出させて四方に置き、それらを多聞塀(小規模な長屋みたいなもの?)で繋ぐことで、かなり変則的かつ無理矢理に天守曲輪を形成したのです。なんということでしょう。

…しかしこれには理由がありまして、元々の計画では廃城になった伏見城の天守を移築するつもりで、天守台もソレ仕様に準備していたそうですが、後水尾天皇の行幸計画による二条城の大改修を進めていた徳川家光の『鶴の一声』によって急遽の計画変更。伏見城の天守は二条城へ、そして元々二条城にあった天守(大和郡山城から移築された天守)は淀城に移築されることになったのです。
しかし建坪の小さい天守を移築することによってデッドスペースが生まれた…しかし淀城は譜代の城、しかも淀川の水運を掌握するために超重要で見た目的に威信を示す必要があった。
その結果、他に例をみない天守が誕生したのです。

天守台の上にたつと、礎石がしっかり残っていて、穴蔵の構造も非常にわかりやすく、天守の平面的な規模が容易に想像できます。
是非とも、木造で復元して欲しい…。

余談ですが、旅の締めくくりに與杼神社にお参りして、ダメ元で御朱印をお願いしたら、なんと快く書いて下さいました!
もうすでに真っ暗なのに…申し訳ないというか、ありがたいというか…最後の最後でラッキーな気分になりました。

今度は、淀古城とセットで、もう少しじっくり時間をかけて見に行きたいですね(笑)。

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リステ

今年行きます! でも…

姫路城は御城印ないのですね(T-T)
有馬温泉入りながらの 予定を立てるぞ↑↑↑

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リステ

元旦 御城印&限定根付♬ (2019/01/01 訪問)

明けましておめでとうございます♬
浜松城からの富士山
そして初日の出 とても綺麗でした!
先着100名限定根付もいただけました♬

素敵な年明けになりました♬

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todo94

2018城納め (2018/12/29 訪問)

2018年の城納めはこの城なりました。雪が降りしきる中、大曽根駅から徒歩でのアプローチはちょっとだけつらいものがありました。宝勝寺の北側に空堀が認められますが、竹藪と化していてまともな写真は撮影できそうにありません。その空堀の北側の小丘の上に城址碑が建っています。家康の祖父・松平清康が命を落とした守山崩れの城で、山岡荘八の「徳川家康」を読む前、宮城谷昌光の「風は山河より」を読んだときからずっと訪れたいと思っていた城ですので、漸く念願が叶ったと云ったところです。

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まーやん

別名本目(梅?)城 (2019/01/02 訪問)

元々叡山系の金輪寺というお寺があり、そこから尾根を目指して登ってみた。
登山道は比較的整備されており、石垣らしきものや、曲輪、堀切らしきものがあるけど、城について案内がないので性格には分からなかった。結果、到達したかは分からないまま⤵️
苦手な夕方からの登山。。。でも、八木城に近く、篠山街道を見下ろす位置であり要衝地であることが分かった❕
光秀が波多野兄弟を連れてきたのもこの地らしい❕

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勝野武士

おのれ、去年の台風ェ…。 (2019/01/02 訪問)

勝竜寺城を後にして、長岡京駅からJR線で、次の山崎駅へ移動。すると背後に天王山が迫っています。
駅を出て、先ずは宝積寺へ。

なぜ宝積寺かというと、秀吉が山崎の合戦後に勝竜寺城を経て戦後処理と新たな本拠地=山崎城を築くために1年ほど滞在した場所だからです。
そして、山崎城が完成した後はその一部として取り込まれていたそうです。その見返りなのか、秀吉が寄進したという三重塔が今も建っています。なんでもこの三重塔、秀吉が一夜で建てさせたとか…。
そして何より、山崎城の登城口でもあるのです。

さて、ワクワクしながら宝積寺に到着。
件の三重塔を見て、ふと寺の掲示板を見ると…驚愕の事実が!
それによると、昨年の台風の被害が甚大だったらしく、天王山に通じる全ての登山道が通行止…だとぉ??
念のためお寺の方に確認をとってみると、やはりというか、倒木などで大変危険、とのことで行政サイドから固くお達しがされているそうな。ちなみに、復旧時期は今のところ未定…。
ということで、無念ではありますが、ここは素直に登山を断念しましょう。

消化不良な気分ではありますが、その分じっくりと拝観させていただきました。
ちなみに、境内には『秀吉の出世石』なるものもあります。
そして、登山口付近には転用石として使われたらしき石仏群があります。

天王山の中腹には宝積寺の他に山崎聖天こと観音寺もありますが、淀川流域や対岸の男山(有名な石清水八幡宮が鎮座するところで、南北朝~戦国時代にかけて軍事拠点としても使われたらしい)がよく見えます。
天王山をめぐって幾度も争われた地。京に近いだけあって、訪れてみるとなるほど納得ですね。

この後は山崎聖天、水無瀬神宮を経て石清水八幡宮にお参り(←実は本来の目的)致した次第です、はい。

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じゅんじん

山林 (2004/03/27 訪問)

詰の城

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カルビン

猫がいっぱいおりました (2018/12/29 訪問)

佐伯駅⇒臼杵駅と移動して、この日最後にきたのは大分駅
到着時間が16:45だった為、いそいで府内城へ向かいました。

結果、何とか明るい時間内に府内城は見学する事が出来ましたε=(・Д・。)

よく府内城は100名城には物足りないという記事を目にしますが、いやいやそんな事無いですよ~
天守が無くても、櫓が偽物でも、行って満足出来るかどうかが問題なので。

石垣や虎口や廊下橋等、見るべきところはちゃんと揃っているので。

ちなみに鉄パイプ?で組まれた仮想イルミネーション天守、実際にあった天守(豊後府内城之絵図)を参考に設置されたそうですが、なんなら模擬天守建てた方が良かったのでは?と思ってしまいましたw
ま、予算かかるからねw仕方ないねw

この日の強風で影響出るんじゃないか?とちょっと心配しましたが、なかなかどうして頑丈に出来ているみたいですw


府内城では数多くの猫と出会いましたが、全部距離離れた場所からも逃げていたので、人に雑に扱われているんだろうなぁ(悲)

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じんじゃー

信濃・美濃・三河・三国の境目の城 (2018/12/30 訪問)

城址東方面から「阿智公園」の案内が出ています。城址まで車で登れますがかなり荒れている上に狭いので注意してください、不安な人は途中の180度カーブから少し登ったところに切通し状になった大手道と思われる道があるのでそこから登るといいです(2郭と3郭の間の竪堀につながっています)
駐車場は大きな堀のようになっており水の手のような池があります、ここから東に秋葉社があり街道を一望できるので狼煙台として運用されていたのでしょうか。
西に進むと主郭ですが馬出し郭と堀切が連続して配置され、かつ南方向には無数の段郭を刻んでいて防御性を高めています。主郭はそれなりの広さがあり公園の名の通り遊具もありますが誰も使っていないでしょうね… ここから西に堀切・竪堀を挟んで2郭・3郭と続いています、この間にある竪堀は巨大で斜面の途中で連結していて先程の林道までつながっています。ここから西は尾根にいくつかの竪堀を刻み、地勢が上に登るあたりで城域は終わっています。
「信玄ののろし台」と大きな看板は出ていますが、明らかに戦闘を意識した戦闘用の境目の城であると思います。

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todo94

雪中の朝駆け (2018/12/29 訪問)

真宗大谷派名古屋別院の一角に城址碑があります。織田信秀の居城として山岡荘八の「徳川家康」にも登場していたので、昨年初より行ってみたいと思い続けていました。名古屋はこの日、まさかの雪景色になっていました。(松本も岡谷もこの日は積雪はありませんでした。)

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じゅんじん

松平の郷 (2004/03/27 訪問)

まあ初代はあやしい人みたいですが・・・

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ヒロケン

毎年恒例 (2019/01/02 訪問)

名古屋城は名古屋台地上に築かれた平城で、江戸城・大阪城と並ぶ日本三大名城(熊本城・姫路城とも)のひとつと称された。江戸幕府御三家筆頭、尾張徳川家61万9500石の居城です。
関ヶ原の合戦を制した徳川家康は、慶長14年に旧城跡を拡大しての築城を命じ、牧助右衛門が検地縄張りにあたり、翌年、加藤清正をはじめとする西国の諸大名20家が到着して築城にかかわった。江戸城・駿府城などにつづく家康による天下普請と呼ばれる一連の築城工事の一環です。

年に3~4回は名古屋城に出向きますが、毎年1月2日は必ず登城するようにしていました。2017年までは干支の置物を2日の日に無料配布しており、それを目当てに行っていたわけですが、昨年から干支の置物配布は元日に変わってしまい、後2年で十二支が揃ったのですが残念です。今日は天守閣には登れなかったものの(木造工事を行うため数年は無理との事です)、西南隅櫓と西北隅櫓(いづれも重文)が一般公開されており昨年の夏に続き拝見させていただきました。東南隅櫓は劣化が進んでおり公開されていないとの事でした。

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とみー

曲輪が一番わかりやすい城! (2019/01/02 訪問)

水生植物園(無料)に入ります。すると、森がみえてきます。その方向に、向かって行くと城があります。四阿のある、休憩所は、なんと腰曲輪!それに少し興奮!「城跡らしい!」そしてさらに上に行くと主郭を発見、主郭側は、坂があって防御力アップ!さらに進むと「ちょと待った。主郭の周りを囲む土塁を見なくては!」はしの方に行くと現在は、入れませんが虎口があります。主郭から土橋を渡ると二の郭があります。土橋の間にある、空堀は、とても深くて大興奮!中を歩くとその深さがよくわかります。郭は、とても広くて土塁に囲まれている。「これこそ本に郭の説明として書かれている例だ!」と、声を出してしまうほどの郭!復元された土塁もきれい、現存しているあい土塁は、大きい!その土塁の間に虎口を発見!またまた、興奮! 興奮!がたくさんある、東京都の城深大寺城!駐車場は有料  駐輪場は、無料です。 深大寺城は、周りも湿地や山に囲まれ、天然の要害でまもられまもられている城でもあり、それに注目しながら城を巡るのも、とっても楽しいし面白い!それも深大寺城(国指定史跡)の見どころだ!城を見たら国宝のある深大寺に行くのもおすすめです。

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城好きのメガネ

「攻防戦の舞台 臼井城」 (2018/12/31 訪問)

<オススメ>★★★★☆
臼井城は千葉氏の一族、臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(14世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。現在の遺構は15世紀以降のものと考えられる。戦国時代末期には原氏が城主であったが小田原征伐により千葉氏とともに滅亡した。以後、酒井家次が三万石で入り、転封まで使用された。太田道灌・上杉謙信との攻防戦も有名である。空堀近くには臼井城攻防戦で討ち死にした太田道灌の弟・図書の墓がある。現在、空堀、土塁、堀切など遺っている。

<アクセス>
京成臼井駅 徒歩20分

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まーやん

旧丸岡城らしい (2019/01/02 訪問)

今は西岸寺という浄土宗のお寺でした。

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城好きのメガネ

「謙信公一夜城」 (2018/12/31 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
謙信一夜城は、軍神・上杉謙信が原式部大輔胤貞が籠城する臼井城を攻略するために築いた城である。臼井城の守りは堅く、謙信は撤退を余儀なくされた。現在、城址公園として整備され、遺構は残っていない。

<アクセス>
京成臼井駅 徒歩10分

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あんらくごえ

500年の歴史を持つ名勝庭園 (2019/01/02 訪問)

正月と言うことで多気北畠氏城館に鎮座する北畠神社に参拝しました。
見所はなんといっても戦国を代表する庭園で、拝観料は300円ですが正月三が日は無料開放されています
実はこの庭園、北畠氏では無く室町幕府管領細川高国の作庭であり、京の争乱で伊勢に落ち延びた際に作られたものであります。

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勝野武士

戦国の世に翻弄された名城。 (2019/01/02 訪問)

謹賀新年、明けましておめでとうございます。
昨年からこちらでいろいろ投稿させていただいておりますが、今年も引き続き宜しくお願い申し上げます。

さて、本年初登城に選んだのは勝竜寺城でございます。
(本当は山崎駅で降りるはずだったんだけど寝過ごして長岡京駅まで行っちゃったのは内緒w)
ご存知の通り、このお城は天王山と淀川に挟まれたような場所にある、いわゆる交通の要衝です。
南西に天王山、淀川を挟んで対岸にある男山(有名な石清水八幡宮のあるところで、南北朝~戦国時代には小規模ながら城もあったようです)があるこの地を治めることで、淀川の水運や西国街道の交通を掌握し、かつ軍事的な意味で京都や大坂に睨みを利かすことができるのです。故に南北朝の動乱や応仁の乱、かの山崎の合戦、果ては禁門の変においても戦禍に巻き込まれることになったのです。
この勝竜寺城は、戦国時代における攻防の舞台となりました。

さて、長岡京駅を出てすぐに石碑が。
『江戸時代の勝竜寺城本丸跡』…???
どうやら山崎の合戦後に秀吉が一時的に入城、しかしすぐに山崎の宝積寺に移った後は石垣などが淀古城の修築に使われるなどしたため荒廃。江戸時代になってようやく修築されようとしたところ、幕命により旧城域の北に新たに築かれたようですが、すぐに高槻に移封となったため、とうとう廃城の憂き目に…そこまでは知らなかった…。

ともかく本丸跡を目指して南に歩くと、神足神社に。
するとその入り口すぐのところに、大規模な土塁と空堀が!
これは外郭を囲っていた土塁と虎口の一部で、神足屋敷という曲輪の入り口だそうな。しっかり横矢掛も造られております。ここ、必見ですぜ。

そして本丸跡へ。
ところがところが、年末年始に伴う休園日。1月4日まで休園とのことで、固く門扉は閉ざされておりました…。
よって今回は本丸外周をグルリと一周。無念…。

その足で沼田丸跡へ。
その名前の由来は細川藤孝の奥方様の実家が沼田氏であるところからきているそうな。
今はほぼ公園化されていて、曲輪の高まりと井戸跡が残るだけです。
但し、沼田丸と本丸の間にある土塁も見逃してはならぬところ。ここも神足神社の土塁同様、規模が大きいです。

全体的な印象としては大部分が宅地化されていたり本丸と沼田丸はやや整備され過ぎな感がありますが、土塁や堀が残っていたりして当時の様子が想像できます。
来年の大河ドラマ『麒麟がくる』の舞台にもなるところですし、知らなかった歴史も知れましたし、来てみて良かった!
次こそは本丸の中へ…!

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じゅんじん

(2006/08/06 訪問)

城址碑があるのみ

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じゅんじん

自動車学校 (2006/08/06 訪問)

自動車学校になっています。外に城址碑があるのみ

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