勝竜寺城→離宮八幡宮→宝積寺(山崎城…の一部)→山崎聖天観音寺→水無瀬神宮→石清水八幡宮…と丸一日使って新春早々ひとり弾丸ツアーを敢行した勝野武士ですw
毎年恒例としている石清水八幡宮でのお参りを無事済ませた。
…しかし!勝竜寺城では本丸に攻め込めず、山崎城ではそもそも登山不可、てなこともあって消化不良感が否めない心理状況。
というわけで、夕暮れが迫ってて時間も限られてゆく中ではあるものの、せめて天守台だけでも見てやろうと思い立ち、急遽淀城攻めを強行致した次第です。
京阪電鉄淀駅を降りたった時点で、もう結構薄暗かったので、かなり急ぎ足で本丸跡へ。
…実際のところ、淀城の残存状況はあまり良ろしくなく、本丸跡は與杼神社(←よど、と読みます)の境内として残っているものの東半分はどうやら改変を受けているっぽい。残存状況が良いのは西半分で、天守台付近の石垣と内堀の一部が残るのみとなっています。
どんどん暗くなってきたので、天守台付近を重点的に観察。やはり徳川譜代の城らしく石材の加工が非常に丁寧です。そしてやはり高さもありますね。
そして何より、天守台の規模の大きさ!実際に訪れてみるとよーくわかりますが、徳川宗家でもなければ御三家でもないのに、単立式で天守を建てるにはあまりに大きすぎるのです。
で、実際どうしたかというと中央に天守を据えて、余った周囲の敷地をフル(すぎる)活用したのです。
つまりは一間四方の二層櫓を天守台からはみ出させて四方に置き、それらを多聞塀(小規模な長屋みたいなもの?)で繋ぐことで、かなり変則的かつ無理矢理に天守曲輪を形成したのです。なんということでしょう。
…しかしこれには理由がありまして、元々の計画では廃城になった伏見城の天守を移築するつもりで、天守台もソレ仕様に準備していたそうですが、後水尾天皇の行幸計画による二条城の大改修を進めていた徳川家光の『鶴の一声』によって急遽の計画変更。伏見城の天守は二条城へ、そして元々二条城にあった天守(大和郡山城から移築された天守)は淀城に移築されることになったのです。
しかし建坪の小さい天守を移築することによってデッドスペースが生まれた…しかし淀城は譜代の城、しかも淀川の水運を掌握するために超重要で見た目的に威信を示す必要があった。
その結果、他に例をみない天守が誕生したのです。
天守台の上にたつと、礎石がしっかり残っていて、穴蔵の構造も非常にわかりやすく、天守の平面的な規模が容易に想像できます。
是非とも、木造で復元して欲しい…。
余談ですが、旅の締めくくりに與杼神社にお参りして、ダメ元で御朱印をお願いしたら、なんと快く書いて下さいました!
もうすでに真っ暗なのに…申し訳ないというか、ありがたいというか…最後の最後でラッキーな気分になりました。
今度は、淀古城とセットで、もう少しじっくり時間をかけて見に行きたいですね(笑)。
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