岩国城は慶長6年に吉川広家入国後、築城が始められ現地調査の後、山麓の御土居建設から着手されました。続いて山上の城郭工事が計画され、慶長8年から開始されました。岩国城の縄張りは山頂部の本丸を中心として北東側に北の丸、東西側に二の丸、西側に水の手郭4つの曲輪で構成され、本丸には山陽道側に天守が設けられていました。
吉川広家といえば何と言っても思い出されるのが「関ヶ原の戦い」ではないでしょうか?最初、石田三成率いる西軍に属していましたが、徳川家康率いる東軍への寝返り組の一人として記憶しています。
西軍の総大将 毛利輝元 毛利一門でありながら、小早川秀秋・吉川広家が寝返ったことにより、西軍が負け、東軍の大勝利となりました。(諸説あるようですが、戦う以前から徳川家康と密約ができており、毛利家領土112万石安堵を条件に決戦前夜に寝返りを決心したと伝わっていますが、結局、毛利輝元が西軍総大将であったことから、密約が反故にされ周防国の東部と長門国30万石に厳封されてしまいます。)毛利元就公の「三本の矢」は生かしきれていなかったと言えますよね(o゚ω゚)チーン
もし、毛利家一門の裏切りがなく、石田三成・毛利家家臣の安国寺恵瓊等と一緒に戦っておれば、歴史は大きく変わったのではないかと
妄想しながら城跡を堪能させて頂きました。
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