秀吉の四国平定戦の功により讃岐一国17万石を与えられた生駒親正の居城として築城されました。以後、関ケ原も乗り切りましたが、寛永期に起きた御家騒動により実質的な改易、その後、水戸徳川家二代光圀(いわゆる水戸黄門)の兄、頼重が高松松平家として封じられ明治維新に至る…という外様改易からの親藩・譜代入封という、徳川氏の支配を徐々に西日本に拡大する、秀忠・家光期によく見られたパターンですね。何年か前の初登城の際は天守台が補修工事中で涙を飲んだため、満を持して再訪です。今回は車のため、東の旭門より宣材でよく使われる艮櫓を見ながら入場、二の丸へ進むと補修なった美しく立派な天守台が見えてきました。天気も良かったので、堀に綺麗に逆さに写る姿も映えていました。天守の復元構想もあるようでイメージ図見ると、ちょっと珍しい形、見てみたくなりました。長い目で応援しましょう(笑)。廊下橋である鞘橋(さやばし)を通って天守台へ向かうと確かに大きい、地下部も再現されていました。その後は月見櫓、水手御門の方面へ。その名の通り、当時、城の北部は海に面しており、ここから直で船により海へと出る門だったそうです。今治、中津と並び「三大水城」といわれる本城の特徴ですね。続100名城で山城、平山城続きだったので、たまには息抜きと足休めに平城巡りを入れるのもいいですね。
+ 続きを読む