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kazu

鮫ヶ尾城 (2019/06/22 訪問)

斐多歴史の里総合案内所でスタンプを押しました。

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トーダイ

岩剣山が望めます (2013/02/13 訪問)

天正23年(1554)、岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちます。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかし山頂から麓までの道は大変険しく日常生活には不便でしたので、ふもとのこの地へ館を築いたのが平松城の始まりです。(案内板より)

現在城址は姶良市立重富小学校の敷地となり、正門<31.706312,130.604473>前に標柱と案内板があります。周辺の石垣は、江戸時代中期に整備されたものです。

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城好きのメガネ

「池上氏館」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
池上氏館は、鎌倉時代の武士・池上宗仲の館とされる。池上宗仲は、日蓮に深く帰依し、弟の池上宗長とともに池上兄弟と呼ばれた。1282年、日蓮が、身延山から病気療養のため常陸の湯に向かう途中、池上氏館に立ち寄り、入滅したとされている。宗仲は日蓮入滅後、館やその周辺の土地を寺に寄進し寺領とし、池上本門寺の基礎となった。城址としての遺構は残されていないが、池上本門寺五重塔(国指定重要文化財)、池上本門寺宝塔(国指定重要文化財)など見どころは多い。また、前田利家室の層塔(大田区文化財)、池上本門寺の石段(大田区文化財)は、加藤清正の寄進によって造営されたと伝わる。

<アクセス>
東急池上線 池上駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「瀬田城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
瀬田城は、後北条氏の長崎伊予守重光の居城とされる。長崎重光は出家後、行善入道と称す。重光没後は、重高・重次が跡を継ぐが小田原征伐の際に廃城となったされる。後北条氏滅亡後も長崎氏は土着し、代々名主をつとめた。現在、遺構は残されていない。

<アクセス>
東急電鉄田園都市線 二子玉川駅 徒歩約15分

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城好きのメガネ

「都指定旧跡 世田谷城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★★★★☆
世田谷城は、14世紀後半に吉良治家が居城を構えたことから始まるとされる。吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で世田谷吉良氏はその庶流にあたるとされる。吉良氏は後北条氏と婚姻関係を結び、庇護下にあった。その後、吉良氏八代、二百数十年の居城として栄え、「吉良御所」及び「世田谷御所」と呼ばれた。小田原征伐の際に、廃城となったとされる。現在、城址公園として整備されている。世田谷城から徒歩圏内に豪徳寺(国指定史跡 井伊家墓所)や世田谷区立郷土資料館、世田谷代官屋敷も必見である。

<アクセス>
東急世田谷線 宮の坂駅 徒歩5分

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城好きのメガネ

「兎々呂城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
深沢城は、後北条氏の南条重長の居城とされる。南条重長は小田原衆の一人である。小田原征伐後も、深沢に留まり蟄居したとされている。現在、都立園芸高校となっており、門前に「兎々呂城」と刻まれた石碑がある。残念ながら、遺構は残されていない。

<アクセス>
東急大井町線 等々力駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「区指定史跡 奥沢城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
奥沢城は、名門・吉良氏の世田谷城の支城として築かれたとされる。1590年の小田原征伐の際に、廃城となったとされる。その後、徳川家綱より奥沢城跡地に「九品仏唯在念仏院浄眞寺」を建立させた。現在、境内に土塁等の遺構が残されている。

<アクセス>
東急大井町線 九品仏駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「馬込城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
馬込城は、後北条氏の家臣である梶原助五郎の居城とされる。梶原助五郎は、後北条氏の江戸衆の一人で、武蔵江戸馬込で三十二貫六十文を領していたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
都営地下鉄浅草線 西馬込駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「荏原氏館」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
荏原氏館は、旗岡八幡神社及び法蓮寺境内が跡地とされる。旗岡八幡神社は、1030年の平忠常の乱を平定するために、源頼信公が下総に赴く際に、宿営し、戦勝祈願をしたことから始まったとされる。その後、鎌倉時代中期に荏原左衛門尉義宗公が領主となり館を築いたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東急大井町線 荏原町駅 徒歩10分

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ぴーかる

新発田城 (2019/04/29 訪問)

【百名城46城目】
<駐車場他>城の公園および辰巳櫓横に無料あり 
<交通手段>車

<見所>三階櫓外観・表門櫓・旧二の丸隅櫓・辰巳櫓

<感想>GW2泊3日上・越攻城の旅2城目。本丸の南西側の公園(ほぼ満車)になんとか駐車でき来城。目の前にあの有名な3ツ鯱T字屋根の三階櫓が内堀をはさんで見える。後から知って後悔してますが、ここで内堀をはさんで目一杯左に寄って三重櫓を見るとT字屋根と三つ鯱が確認できるんだって。(はっきり見れるのがここしかないこと知らずに撮り損ねました~)内堀は南西側と表門のある南東側のごくわずかしか残っていない。石垣は切込接布積。現存の旧二の丸隅櫓が本丸の南西隅櫓(鉄砲櫓)の位置に移築されていて外観を楽しむ。土橋門跡→堀部安兵衛像→表門・辰巳櫓の外観を見て、本丸内へ、溝口秀勝像が迎えてくれる。入城する表門の櫓下にスタンプがあるのでわかりやすい。櫓門にも海鼠壁がありじっくり観察。内部にも入れる。再建の辰巳櫓、現存の旧二の丸隅櫓内部にも入れる。三階櫓は自衛隊敷地にあり遠く眺めるのみ。木造再建が内部見れなく勿体ない。城見学後少し南にある清水園に行ったが閉園15分前だったので入らず、現存の足軽長屋の外観を見て終了。見れる範囲は少ないが、現存建物が内部も無料で見学できるのでよかった。

<満足度>★★★★☆

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gobigred

四層の城

 その昔、四層は死層に通ずるというので嫌われて、ほとんどの城は三層か五層であったのに、大垣城は四層だった。郡上八万城は大垣城のコピーで、従って四層。アメリカ軍の爆撃で燃える前は国宝。大垣は水都という別名を持つように、水が豊富で自噴水があちこちにわいていた(今でも一部で見られる)。そのため繊維工業、化学工業などの大工場が立地したので、それを米軍が狙って焼夷弾を落とし、燃やした。大垣の近くの金生山では石灰が採れるので分かるように、地質も古い。大垣城の石垣の石に化石を含むものがあるのはそのため。私が通った高校の校歌に「巨鹿の北野~」という文句があった。巨鹿城は大垣城の別名。濃尾三大河川に囲まれた地域なので地盤は固くない。それでも古代から日本史の分岐点に当たるような大きな会戦がおこなわれたり、重要な関所があったり、美濃は歴史好きにはお勧めの場所。春日局の生誕地も近い。

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todo94

久しぶりの城攻め (2019/06/29 訪問)

山城オフシーズンに入ってしまったのと、週末の度に所用が入ってしまったのとで、ゴールデンウィーク以来の城攻めでした。弘前にて献血後、レンタカーを借り受けて向かったのは、11年ぶりの再訪となる大浦城。津軽為信は大浦氏に婿入りしているので、この城在住時は、大浦為信ですね。弘前市立津軽中学校が本丸に当たるようです。

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かず

行ったど~ (2019/06/20 訪問)

車で行ったが入口が少しわかりにくい。

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巨大な三日月堀は県下随一 (2018/12/16 訪問)

下伊那郡松川町にある大島城は、平安時代末期に片桐宗綱が天竜川の右岸に築いたのが始まりで、簡素な砦程度の規模だったようです。宗綱は大島の地に知行を得て大島氏を称し、以後400年間大島氏の居城として機能しました。戦国時代、甲斐の武田信玄が伊那谷に侵攻した際、大島氏は武田氏に属しました。元亀2年(1570)武田氏は三日月堀や馬出などを備えた大城塞に改修しましたが、天正10年(1582)織田軍が伊那谷へ攻め入り、城将だった武田逍遙軒信廉(信玄の弟)は戦わずして甲斐へ退却、大島城は落城しました。本丸跡からは当時の焼米が見つかっています。

大島城の東側三方は天竜川が大きく蛇行した断崖に面した要害で、防備の手薄な西側の平坦地に馬出と三日月堀が築かれていました。その大島城最大の見どころである三日月堀。二重構造の大規模なもので、その立体感からかなりの威圧感を受けます。 現在残る大島城の構成は2期に大別され、天竜川に面した断崖の突端部分の本丸が、平安時代の末に大島氏が築いた最初の砦で、その後約400年の時を経た戦国時代、甲斐の武田氏が伊那谷を攻略した際に、本丸から西方向へ城域を拡張し大規模な改修を行いました。近年遺構の整備が行われたようで、三日月堀や馬出、土塁などが良好に観察できます。

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カルビン

バス停が近かった (2019/06/29 訪問)

「城びと」で初めてその存在を知ったお城。
昨年より目眩がきつくなり長距離運転が出来ず、公共交通機関で行ける場所を探していたものの種垂城は駅から遠すぎて訪問予定から除外していたんですが。。。

バスが近くを走っている事を知り、結構本数も多かった事から、雨模様ではありましたが今日ゆっくりと行ってみました。

JR鴻巣駅東口から加須車庫行きのバスで上種足バス停で降り、そこから5分程度で種垂城址公園に。。。
入口に解説と3台程度ではありますが駐車場もありました。


遺構は無いと伺っておりましたので、念のために何か無いかな?と探してみたところ・・・

奥の林の中にかなり浅くなっておりましたが、堀跡では?と思われる場所と、隣のエリアとの境にこちらも堀と思われる地形が。
同じエリアにある花崎城(地図で調べたら7kmくらい)に雰囲気が似ておりました。

そもそも種垂城はここから約4km離れたところにある菖蒲城の出城と言われております。
更にここから約3.5km離れた騎西城とも関連があるそうで・・・

こうして書いてみると周辺お城乱立地帯なんですね。。。車で回ればかなりの数のカウントできる場所ですが、うまく電車・バスを乗り回せば公共交通機関でも同じことが出来そうです。

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甘粕近江守景持

甘粕近江守長重とパパイヤ鈴木の甘粕は別人です

甘粕近江守長重は後に長尾景虎公から景の字をもらい景持と名乗ります。詳しくは、甘粕景持で検索してWikiをご参照ください。パパイヤ鈴木が天地人でやったのは甘粕備後守景継ですから同じ甘粕姓でも系統が異なります。

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赤い城

吉見百穴のすぐ近く (2019/06/21 訪問)

東松山駅から徒歩で25分。
市野川を天然の堀とし、自然の地形を活用した難攻不落の要害。
曲輪や空堀などの遺構もきれいに残っています。
比企城館跡群のひとつで国指定の史跡に指定されています。
近くには吉見百穴もあるので一緒に行くと良いかも。

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退会済み
ユーザー

尼城 (2019/06/29 訪問)

久しぶりの尼崎城🏯です。

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ぴーかる

村上城 (2019/04/29 訪問)

【続百名城33城目】
<駐車場他>登城口手前に40台程の無料あり。
<交通手段>車

<見所>石垣と種類・出櫓・本丸・曲輪・虎口・竪堀・切岸

<投稿時感想>先日の新潟・山形地方の地震、人的被害が少なくて良かったです。昨年の大阪の地震と台風で我が家も軽微でしたが被害あり、天災ほんとうに怖いです。震度が一番大きかったこの村上城も天守台西面の石垣は孕みも見られたので崩壊していないかと心配しましたが、村上市ホームページで崩落なく、城跡立入禁止解除を見て安心しました。

<登城時感想>GW2拍3日上・越攻城の旅1城目。人生初の新潟県&日本最北緯の地で、朝3時出発8時間かけて到着する。まず資料館にてスタンプとパンフレットをもらい「悠流里」で昼食後登城した。城全体像は山頂部と主に西面が江戸期の近世城跡、山の東面全体に本庄氏時代の中世曲輪跡が広がっている。まず江戸期の石垣の城跡を一巡りする。出櫓と本丸北東面の高石垣は下から眺めると圧巻です。本丸北東面の石垣は一面で打ち込み接・切込接/布・乱積みの4種類程があり珍しい。三・二・本丸・天守台の石垣は横矢の折れもちゃんとある。天守北西面の石垣は孕みが見られ未整備。搦め手道にある坂中門・田口中門跡は草木で覆われ朽ちていた。中世曲輪群は数多く、各腰曲輪も広くて興奮ε=、麓付近の虎口から登る竪掘りは見応えある。近世城跡と中世城跡の2つ楽しめる非常に見応えある城でした。

<グルメ>城跡近くの和食「悠流里」おすすめです。どれもおいしそうで私は海鮮丼と蕎麦のセットをいただきました。一般的な値段より3割くらい安くて、ボリュームは1.5倍くらいあります。店員さんの接客態度もすごくよくて美味しさ増しました。開店前から並んでいます。

<満足度>★★★

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じゅんじん

近代城郭城址公園 (2019/06/23 訪問)

石垣や塀が立派ですが摸擬なんですけど。まあここにお城があったんだなと知らせる意義は感じとれますね。

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