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すっくと平地から立ち上がった姿が素敵です (2019/03/24 訪問)

西側は平地からすっくと山が立ち上がり、山体の容積感も適度で、とても好きな景観です。花崗閃緑岩の岩山で、麓から山頂まで大石がごろごろ。切り岸は、石垣か自然石か私には判然としない。主郭(TVアンテナ塔)〜三ノ丸の更に北西に続く尾根に屋敷跡と思われる平削地と100mほどもある土塀跡。主郭から東側に鞍部を挟んで大山構(出丸。こちらの方が少し高い)。
登頂ルートは、主郭直下の館跡・黒岡神社脇からと、西側若王子神社からの新道と、南側から車で途中まで登られる秀吉ルートがある。新道はアサヒスーパードライの緑の募金を活用したと。新道は花崗閃緑岩が風化した小石が一面にあり滑りやすいので注意。

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バリィ

平成30年 (2018/08/19 訪問)

幾度か行ったことがあるのですが、造りが複雑なので縄張り図を持って確認しながら見学するか、複数回にわたって行かないと全てを回るのは難しいかも知れません。
写真の枡形に続き、180°曲がるトリッキーな道。
まさしく平城を代表する城です。

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くろもり

鉄砲を初めて実戦で使用 (2014/12/30 訪問)

加治木城は日本で初めて鉄砲が実戦で使われたとされる加治木城の戦いの舞台です。鉄砲伝来から6年後の1549年のことで、種子島の領主・種子島時尭から鉄砲を贈られた島津軍が使用したそうです。

加治木城は、比高70~80m程のシラス台地上に築かれ、各曲輪を堀切で区切った連郭式の縄張りの城でした。切岸や曲輪跡等ははっきりと分かるのですが、手入れがされていないので、散策は少し苦労しました。本丸跡は私有地、西ノ丸の方へ向かうと「ザボン畑」になっていたので散策を諦めました。

車での訪問の場合、県道から長い坂を登った所に車一台分のスペースがあり、そこに縄張図もありました。

城びとさんに未登録ですが、加治木高校に加治木館跡があり、こちらが「鬼島津」と恐れられた島津義弘公が晩年を過ごした所と伝わります。石垣があるのですが、亀甲積みなのに石に穴がぼこぼこあいた軽石のような素材なので、ちょっと不思議な感じがしました。

1~5枚目が加治木城、6~9枚目が加治木館の写真です。

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カルビン

落雷の傷跡 (2014/03/15 訪問)

JR横浜線・橋本駅から三ヶ木行バスに乗り、津久井湖の水門の先のバス停が津久井城の登城口からすぐ近くになるのでそこで下車。

訪問したこの日、時間が圧してまして・・・到着したのが15:00頃
16:00には真っ暗になる為、その前に下山するように書いてあった為、めちゃくちゃ無理して登りましたww
この当時まだ山城はおろかお城見学自体駆け出しだった為、体力も体重も全然なっていなかった為に、山城の洗礼を始めて受けた訳で
(津久井城は今考えれば山城としては散策するのにまだまだ楽な部類ですし(汗))

無茶して登ったおかげで、かなり早いうちに高い場所まで到達したので、これで暗くて危険な山下りはなくなり一息 ε = (・Д・。)


まず最初に見られる遺構が宝ヶ池、そこから飯縄曲輪を経て大杉に到着。

今でこそ落雷で消失した大杉が普通に見れますが、当時は大杉が燃えてしまって時間が経っておらず、杉の木が燃えた生々しい状態が見られました(汗)
燃えて炭化した部分が光ってましたので・・・

その後は尾根沿いに堀切・虎口を通って本丸へ。

津久井城自体、遺構満載って訳では無いので(消失したわけではなく、元々遺構はボチボチだった模様)、登ってしまいさえすればそんなに散策に時間はかからないと思われ、同様に遺構がある場所は山の上の方に集中している為、散策でアップダウンで苦労する事も少ないと思います。


帰りは西の根古屋地区方面へ下山しましたが、登りの時の薄暗さはどこへやら・・・西日が差して夕方にもかかわらず明るかったですw
こちらからちょっと北に向かえばバスの通る国道413号線に出られるので、むしろ登り降りは西側からの方が良いかもしれません。

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チェブ

Googleマップに凸の形。 (2019/03/23 訪問)

「金山城」攻めの後で地図を確認していたら水堀がある凸形の場所がありました。
昨日、投稿した「江田館」と似た折があり怪しい形です。
「反町館」でした。
カズサンと同じように新田荘歴史探索をしました。
新田 義貞公の居館の「反町館」、現在は反町薬師という寺院です。
幅の広い水堀と土塁があります。
土塁には桜の木があったのでお花見シーズンは賑わうんじゃないでしょうか。
一応、寺院の裏手も行きましたが、こちらの遺構は分かりません。
私は東京の端っこに住んでます。新田 義貞公が大活躍した分倍河原の戦いの多摩川は近くです。
「反町館」近くの生品神社で挙兵した新田 義貞公。
分倍河原駅のロータリーには銅像があります。

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クロピー

続日本100名城 高田城 (2019/03/27 訪問)

今年初の城めぐりは高田城。
来週からの「高田城百万人観桜会」の準備で忙しそうでした。
桜はつぼみかたし。

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SIN

続日本100名城 No.180 岡豊城 (2019/03/24 訪問)

高知市のお隣にある南国市の岡豊(おこう)城へ行きました!
岡豊城は四国の覇者、長宗我部氏の居城として知られています。長宗我部国親は岡豊城を足掛かりに土佐の有力大名へと成長しました。その後、国親の子・元親があらたに浦戸城を築いて移ったため、廃城となりました。現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残っています。かつて曲輪があった場所には県立歴史民俗資料館が建てられており、長宗我部氏関連の資料が展示されています(^_^)

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イオ

室町時代の中心地 (2019/03/17 訪問)

二条城から京都御所に向かう途中、二条古城に立ち寄りました。といっても、先人達の口コミにあるとおり遺構はなく(二条城と京都御苑に移築された石垣あり)、石碑と説明板があるだけですが。

この辺りは室町初期には室町幕府の三管領筆頭・斯波氏の邸宅があり(武衛陣)、武衛陣が応仁の乱で焼失した後、第13代将軍足利義輝が邸宅を構えましたが、三好三人衆らの襲撃により焼失、その跡地に織田信長が第15代将軍足利義昭の居城として二条古城を築いた、ということのようで、二条古城の石碑から南に少し行ったところには斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺城址の石碑と説明板が立てられています。幕府要人の邸宅が再三築かれる、室町時代を通じての中心地だったんですね。

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カズサン

新田荘城館群巡り (2019/02/28 訪問)

 反町館を城名にて。
 最近「江田館」チュブさん投稿に刺激され先月末群馬県新田荘の城館群を巡りました抜粋写真を投稿したいと思い立った次第です。
 群馬県もそこそこの城郭を廻ったのですが太田市金山城本丸の新田神社しか新田氏絡みの探訪無く今回小雨、霧雨の中新田荘歴史公園資料館を手始めに(生憎同館はメンテナンス作業中で休館)、世良田氏館、東照宮、長楽寺、新田義重館(総持寺)、徳川館(満徳寺)、大舘氏館(カーナビに番地を入れ向かったのですが分からず)、安養寺館(明王院)、岩松館(青蓮寺)、反町館、新田義貞立上の生品神社、発掘復元された江田館と巡り新田義貞公の息吹と中世関東武士の城館群が良く残って居り貴重な文化財が太田市資料館文化財保全管理の努力が垣間見れますし、あちこちで徳川氏発祥の地と看板、幟がはためいていますので益々の全国情報発信をお願い致したし。
 駐車にも困らず廻る事が出来ましたし新田荘遺跡からは外れますが近くの久永氏陣屋も探訪しました。

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コウキ

木津城登城 (2019/03/27 訪問)

木津城に行ってきました‼️
西側は、木津城山公園となっていました。
また、城山にものぼりました‼️
畝状竪堀が、たくさん見えました‼️
草木が生い茂っていて登るのも大変😖💦
本丸は平らになっているのがよくわかりました‼️
皆さんも木津城山に登る時には、気をつけてくださいね🎵

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バリィ

平成30年 (2018/06/10 訪問)

姫路城を観ながら、岡山市には高校の3年間通学しましたが、今思う事は
現存天守とそうで無い城とは、こうまでに扱いが違うのか!?ということ。
岡山城は旭川を渡るときに見えるのに、
あれほどの遺構が残っているのに
残念ながら全くと言ってもいい程に興味が無かったです。
知名度と観光にどれだけ押されているか、の差だと思います。
姫路って姫路城しか無いのに、姫路城のためだけにあれだけの人が来るのですから。

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todo94

【平成13年】石垣の城の魅力に開眼 (2001/11/24 訪問)

3連休の中日のドライブで初めて訪れました。その当時は、現存、復元、復興、模擬にかかわらず天守や櫓など作事のある城ばかりめぐっていて全国城郭管理者協議会発行の「城のしおり」に載っている城を順次攻めていました。竹田城に赴く前には福知山城に立ち寄っています。「城のしおり」に載っている49城(2001年当時は47城)の中で石垣だけの城は竹田城のみだったのでとても気にはなっていたのです。訪れてみて山上に広がる石垣ワールドに一目で魅せられてしまいました。「日本のマチュピチュ」というフレーズが素直に浮かびました。携帯電話が漸く普及しだした時代なので情報発信の機会はありませんでしたが。当時は当然、無料でしたが、観光客は少なく、立入禁止区域もありませんでしたし、天守台には竹のはしごがかかっていて登るようになっていました。現状の竹田城とは隔世の感がありますが、思い出深き城として強く記憶に残っています。竹田城のおかげで、熊本城の石垣の素晴らしさにも目を開かせて頂くことができました。

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バリィ

平成30年 (2018/04/14 訪問)

江戸時代からのもの、大戦後のものが入り混じっているので、その辺りを色分けした縄張り図を観光客に渡すなどしてほしい城。
知らない人なら全てがニセモノに見えてしまう。
私も豊臣時代の石積み以外はニセモノだと思っていました…

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バリィ

平成30年 (2018/01/30 訪問)

市街からでも意思表示が高い城です。
高い建物が無い時代なら遠くからも威厳あるお城を見ることができたでしょう。
典型的な升形と立派な石垣には感動とともに、平山城の勉強にはもってこいのお城です。

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バリィ

平成30年

この日は初の冬の四国へ渡った日、
そして雪に降られた日です。
この日から山間部は四国でも珍しい大雪に降られ、宇和島では電車が運行中止になるほどでした。
松山城も戦国時代の城らしく細かく折れ曲り、道を間違うと行き止まりになったりの迷路のような城でした。

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バリィ

平成29年8月2日 (2017/08/02 訪問)

岐阜県では岐阜城に続き2城めのリア攻めしたお城で、
岐阜県初の自力によるリア攻めのお城です。
更に言うなればお城と認識しては初の自力で登った山城でもあります。
お城に興味が無いときに登山していて偶然、登った山城はありますが切岸、堀切、空堀…さ〜っぱり意味わかんな〜い!の世界でした。

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前ちゃん

玉石の石垣 (2019/03/26 訪問)

丸びをおびた、たま石垣が美しい

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前ちゃん

遠州の覇者になりえる城 (2019/03/26 訪問)

織田・徳川vs武田の激戦地。

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前ちゃん

もう少し整備を (2019/03/26 訪問)

サポートセンターが出来たのは喜ばしいが、最寄りのJR金谷駅からの導線が乏しい。また城内の掲示板をもう少し設置してほしい

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朝田 辰兵衛

地元での愛称は“ごまんどやま”です。 (2019/03/23 訪問)

この“ごまんどやま”ですが,小学校低学年時代の遠足や,当時の町内会イベントで数えきれないほど登らされました…。春が中条・鳥坂山なら,秋はごまんどやまという風に…。なので,ワクワク感が他の山城より⤵⤵⤵です。
標高:約271m,比高:約260m。見どころは石切場かな…と思います。

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