戦国末期に滝野氏が築城し、第二次天正伊賀の乱では各地から立て籠もった伊賀衆と織田軍の最終決戦地となりました。山崎の戦いの後にも、織田方の隙をついて伊賀衆が柏原城を奪って籠城するなど、抵抗の象徴のような城です。
この地域特有の四方土塁で囲まれた単郭方形の城郭で、主郭の南側の虎口や北西隅の櫓台には石組みで補強した跡が見られ、東隅にはお滝女郎化粧井戸と呼ばれる石組みの井戸があります。主郭を取り巻く二重の横堀はかなりの深さがあり、北西隅や南西隅には落とし穴と思われる窪地も見られます。また、主郭の南東には堀切も一条設けられています。
桜町中将城に続いての登城でしたが、雑木が伐採されるなどよく整備されていて、遺構も遜色ありませんし、大いに見応えがあるものの、これまでの投稿にあるとおり「マムシ注意」の看板があちこちにあるため、12月の登城とはいえ、やはりどんどん藪に分け入っていく勇気(蛮勇?)は持てませんでした。
それにしても、この日にめぐった城の歴史を振り返ってみると、北畠(織田)信雄が伊勢と伊賀を支配する課程をたどっていることに気付きました(そういうつもりはなかったんですが)。北畠氏を滅亡(多気北畠氏城館と霧山城)させて伊勢を掌握し、丸山城の修築が天正伊賀の乱の引き金となり、伊賀制圧のために滝川氏城と桜町中将城を築き、最終決戦の地となった柏原城を攻略して伊賀を支配する…。
これまで信雄については、重臣から織田氏の跡目を継ぐに値しないとみなされた残念な人物というイメージでしたが、少なくとも伊勢や伊賀の歴史と城については、多大な影響を与えた人物だったんだな、と。
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