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しんちゃん

外国人に紛れて滑り込み入門 (2024/04/19 訪問)

姫路城に向かう前日、久々に二条城に行ってきました。国宝&世界遺産の城をハシゴとか、なんて贅沢な旅でしょう ♪
駐車料金が高いので近場の駐車場に停めて、堀の外周を周って東大手門を目指します。すると入り口で外国人の集団を入れて入門を閉め切ろうとしているようです。排除されてはかなわん‥訪問客の後ろにくっついていきます。
「いれてよ~」
警備員「‥仕方無いな~」滑り込みセーフで入ります。訪問客にまじって受付で外国人のフリをしますが、なんとなくバレているような気がします。まだ明るいけど、閉門までそんなに時間が無いのか。じゃあ一番良いとこを先に見よう。唐門をくぐってまっすぐ二の丸御殿へ!外じんさんがいっぱいいます。御殿内は撮影禁止なので大政奉還の間とか写真を撮りたくなる衝動をぐっと我慢。周囲の外じんさんもだれも写真を撮りません。みんなマナーがいいな~。
今回は時間が無かったので手短にすませた(ほう)のですが、二条城は企画展なども含めてみると、たっぷり2時間はかかると思うので、大手門駐車場の2時間1200円+追加料金は妥当な金額かもしれません。時間に余裕のある場合はこちらに駐車をしても良いかもしれませんね。

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チェブ

村役人もお花見中。 (2024/04/13 訪問)

まさに、桜満開の「桜町陣屋」にお邪魔しました。

「小田原城」の城主 大久保 忠朝さんの三男が分家して陣屋を創設したそうです。
その後、疲弊している領内の建て直しをする為に、二宮 金次郎さんが在陣し、復興しました。
37歳~62歳の頃なので、私達が想像する銅像の金次郎さんより、ずいぶん大人になってからです。
用水路や堰、橋などの整備をしたとありました。
金次郎さんの幼少時代、両親が洪水の被害で疲労し亡くなってます。

「桜町陣屋」は広い駐車場がある、大きな公園でした。駐車場から道を渡ると、レジャーシートを広げている家族が何組かいらっしゃいます。最高なお花見日和です。
土塁は桜の花びらが。
『むかーし昔、お爺さんとお婆さんがいました。』から始まる絵本に登場しそうな建物があります。ここで金次郎さんは日々、天災と戦っていたのでしょう。
敷地を囲むように土塁があり、向こうに神社がありました。向かって左手の狛犬様には、2匹の小さな狛犬ちゃんが纏わり付いてます。

「桜町陣屋」には建物が識別されて分かりやすくなってます。
詰所にも、桜の枝が伸びてます。
尽力を尽くした「桜町陣屋」にお勤めの金次郎さんと名も残らない人々。
美味しご飯が食べられるのは、こんな先人の努力のおかげなんだと改めて思った「桜町陣屋」攻めでした。

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しんちゃん

石垣をみてぶつぶつ‥ 本丸枡形、移築門 (2024/04/14 訪問)

加納城は文安2年(1445)に守護館である川手城を守るために土岐氏家老の斎藤利永によって築かれた沓井城が前身となるようです。関ヶ原合戦の後、岐阜城は破却され、慶長7年(1602)7月から短期のうちに工事がなされ、9月には徳川家康の娘・亀姫を妻に持つ奥平信昌が入っています。本丸を中心に二の丸や厩曲輪・大藪曲輪などを配しており本丸と石垣部分が残っています。
本丸の東側には本丸枡形があり、ここから二の丸に通じていたようです。ぱっと見た感じ石垣にはチャートと堅そうな砂岩が多く使われています。チェブさんの投稿によると破却された岐阜城の石垣が使われているようなので、チャートの部分は岐阜城からお越しいただいた物かもしれません。ご苦労様でした。
この堅そうな砂岩は、産地が近いことから、河戸石かな?名古屋城の二の丸の外側にも多く使われています。ジュラ紀に生成されているので砂岩なのに瓦のように隅部が欠けています。崩れてこないんですね。
本丸部分は公園になっているんですが、広いうえに遮るものがないので帽子や日傘が無いと熱中症になってしまいます。城門がいくつか移築されているようで、元しらかわ代官屋敷の結婚式場には二の丸門が移築されて新婚さんたちの門出に趣を与えています。いい仕事してますね。

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赤い城

中津川河口の海城 (2024/04/30 訪問)

広島から朝出発し、この日の宿泊地である別府へ。
途中中津城に立ち寄りました。

まずは中津からあげで腹ごしらえ、と三光の有名店へ。
からあげ弁当をいただきました(お昼前でしたが何組か後のお客さんで終了でした)。
ここはビールが欲しくなりますが車なので我慢。
中津城に向かいました。

本丸下段が駐車場になっていてまずは外周から、と復元された水掘沿いに歩きます。
中津市歴史博物館はこの日休館、水門跡から駐車場に戻ります。
再度川沿いの道に出て黒田時代の石垣を見学。
神籠石という古代山城の唐原山城の石を使ったものです。

北側に進んで定番の黒田、細川時代の石垣の境目を。
確かに違いが良くわかります。

東側にまわり、こちらも定番の模擬天守を見上げながら一旦大手門跡まで行ってみました。
小学校の前に石垣が残ります。

引き返し本丸へ、模擬天守内は奥平資料館になっていて入城料は400円。
続100名城のスタンプもこの中にあります。
とりあえず最上階まで行き、景色を眺めます。
中津川河口と周防灘が間近に望め、天気が良ければ綺麗だったかと。

この後諭吉さん生家を外観のみ見学し別府に。
奮発してちょっと高級な宿を予約したのでゆったりと宿を楽しむことにしました。
長距離ドライブで傷んだ身体が癒やされました。
やっぱり温泉っていいですね。



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しんちゃん

世界遺産の古墳が本丸 (2019/06/02 訪問)

小山城は2019年に世界文化遺産に登録された古市古墳群の一番北にある城山古墳を利用して築かれています。古墳は4~5世紀ごろのものと見られ被埋葬者は天智天皇の第七皇子・志貴皇子(志紀王)ではないかとされています。
古墳そのものは本丸と見られ、周囲に堀が巡らされていたようです。古墳西側に置かれている津堂八幡社は織田信長の河内攻めの際に焼失したものを享保5年(1720)に津堂古墳後円部頂の西端に移築したものと石碑には記載されています。

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しろりん

大垣市のシンボル (2024/05/09 訪問)

大垣城は1535年に創建されました。江戸時代に改修され、今の4層4階の天守になり、1936年(昭和11年)に国宝に指定されました。しかし先の戦争の空襲で焼失しました。現在の天守は数多く残っていた写真や設計図を元にしたコンクリート造りの外観復元天守です。内部は資料館になっていて入館料200円でした(大垣市郷土館との共通券です)。中の資料館は大きくはないもののコンパクトにまとめられており、大垣城の歴史や関ヶ原の戦い前後に果たした大垣城の役割りなどがよく理解できました。家康の策略に乗らなければ大垣城が天下分け目の戦場になっていた可能性もあったことを初めて知りました。難攻不落と呼ばれた大垣城なので、もしそうなっていたら歴史が変わっていたかも知れませんね🤔。展示資料のうち、弓や火縄銃、槍など実際に手に触れられる展示をしているのはいいな、と思いました。実際に火縄銃を構えてみてその重さだったり、弓の弦を引いてみてその引く力の強さだったりを体感出来て良かったです。四階の展望室では西は関ヶ原、東は岐阜城まで見渡せ、大垣市内が一望できます。

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トク

福岡城天守論争続きです(読売新聞の記事から思う)

またまたこの件の投稿ですいません。今度は読売新聞(5月9日)に、この件について取り上げられた記事がありましたので、またお伝えさせていただきます。

この記事の中に千田先生のコメントがあり、先生は「今の状況で天守を建てるのはハードルが高い。文化庁の許可を得るのも難しい。城の魅力は天守だけではない。資料が残る櫓を復元したり立派な石垣を生かしていくことが、市民が誇りに思える城になる近道だ。」と述べて下さいました。まさに福岡市民である私の今まで言ってきた事を代弁していただいたので・・・今ちょっと感動しています。

どうやら、天守を是が非でも建てようと福岡市長や市の行政を最も後押ししているのは、福岡商工会議所のようです。よって福岡城になぜ天守が必要なのか? その理由を9月を目途に福岡商工会議所が提言としてまとめるとの事です。その提言を基に福岡市長が文化庁へ陳情する形となり、つまりその提言がたたき台となって、いよいよ本格的な議論がスタートするという事になると思います。

いったいどんな提言が出てくるのか楽しみです。そもそもなぜこんな論争が始まったのか? だんだんと構図が見えてきました。この先どんな展開になっていくのか! 何だかおもしろい事になりそうな、そんな予感がしてきました。


詳しくは、以下にその記事がありますので、もしよければ読まれて下さい。
htpps://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20240509-OYTNT50090/
 

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リュウノスケ

いいとこ (2024/04/15 訪問)

海綺麗食べ物美味しい険しすぎる城跡難攻不落やった

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しんちゃん

当時、最も先進的だった平山城。 (2023/07/16 訪問)

多聞山城は松永久秀によって標高115m、比高30mの多聞山(眉間寺山)の山頂に築かれました。大和支配に適した立地にあり、石垣や贅を尽くした建築物に四重の天守まで備えた近代的な平山城で、西の丸は聖武天皇や光明皇后の陵墓がある佐保山に築かれていたそうです。
さすがに見学は難しいですが城址の主要部を占めている若草中学校の校門の隙間から城址碑を確認することが出来ます。
また中学校校舎と体育館の間にある道路は、かつての堀跡だったみたいです。

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しんちゃん

地元の民の力で建設・運営された国の史跡の台場跡 (2019/05/03 訪問)

淀江台場は文久3年(1863)に鳥取藩の命で地元の郷士・松波宏年(徹翁)によって築かれました。設計は徹翁の長男・宏元によるもので長崎で蘭学や築城法を学んだ人物とのことです。敷地に関しても徹翁が無償で提供し、松波父子と地元の民の尽力によって台場を完成させ「防禦隊」を組織し台場を守護しました。この防禦隊は農兵隊であったと思われます。
現在でも長さ65m、高さ5mの土塁が残っており、台場はかつては最大で大砲8門を備え、土塁の高さも今の3倍ぐらいあったとのことです。

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まさお

群馬太田 金山城 (2024/05/09 訪問)

SUBARU群馬製作所の裏山にこんなすごい城跡があるとは驚きました。
足利市から30分のドライブで西城の展望台がある駐車場に到着。
そこから尾根伝いに本丸跡までウォーキングしました。
途中には数々の遺跡が復元されていました。
城跡だけでなく素晴らしい眺望を楽しむことができました。

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甚右衛門

ずいぶん前‥ (2013/06/24 訪問)

本丸御殿第一期に行ったきり。また行きたいな。

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甚右衛門

新幹線の車窓から (2022/02/03 訪問)

以前に登城したけど、たまたま車窓から撮った写真。

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甚右衛門

上杉景虎を偲ぶ (2024/05/11 訪問)

中々登りがいのある山城跡。本丸からの景色は最高。

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まさお

鑁阿寺・足利氏館跡 (2024/05/09 訪問)

足利市の鑁阿寺を訪問しました。
境内には国宝の本堂をはじめ歴史がありそうな建物を見ることができました。
また、県天然記念物の見事な大イチョウと正面山門下の堀には大きな鯉が
悠然と泳ぐ姿を見ることができました。
近所には足利学校跡があり、多くの中国人観光客で賑わっていました。
森高千里の歌で有名な渡良瀬橋を渡って太田市に向かいました。

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甚右衛門

二回目の高田城 (2024/05/11 訪問)

春日山城に続き二回目。下手なりに綺麗に撮れた気がする。

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甚右衛門

二回目の春日山城 (2024/05/11 訪問)

五月晴れに誘われて久々にやってきました。やっぱり規模がすごい。今度はもう少し上まで行きたい。

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しんちゃん

お万の方の生まれた城 (2019/01/04 訪問)

勝浦城は勝浦湾に突き出した天然の要衝に築かれている海城で、大永元年(1521)に上総武田氏の一族、真里谷信興によって築かれたという説が有るようです。本丸の位地ははっきりしませんが地元の案内板には子供の広場あたりとされており、先端部の展望広場は物見のエリアとされているようです。(ひょっとするとここが本丸かも) なんにせよ陸側から攻められたら逃げ場のない文字通りの背水の陣です。
紀州徳川家の祖・徳川頼宣および水戸徳川家の祖・徳川頼房の母となる養珠院(おまんの方)にまつわる逸話があり、父の正木頼忠が同族の正木憲時の攻撃を受けた時に布を垂らして逃げ延びたとされる「お万の布晒し」の伝承が残っています。
この伝承は豊臣秀吉の北条成敗の時とする説もあるようです。

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しんちゃん

稲葉一鉄 (2024/04/14 訪問)

曽根城は稲葉氏によって築かれたとされます。曽根城は後に廃城になりますが本丸跡には稲葉一鉄が母の菩提を弔うために建立した華溪寺が移築されていると案内板に記載が有ります。縄張り図を見ると本丸を中心に幾重にも堀を巡らし(少なくても三重)周囲に家臣の屋敷や町家が並んでいたようです。近くを流れる平野井川も縄張りに取り込んでいますが、切所池(追堀)はどういう扱いになるのでしょうか? 北にある曽根城公園には大島堤が連なり梁川星巌紅蘭像があります。
せっかくだから稲葉一鉄の像もあると良かったんだけど‥梁川星巌は曽根村の漢詩人で、奥さんの紅蘭さんも漢詩人で結婚後に二人で岡山、下関、長崎を旅したそうです。坂本龍馬も新婚旅行をしたそうですが、それよりも早いですね。

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しんちゃん

かつての守護館あと (2024/04/14 訪問)

川手城は革手城とも呼ばれ斉美高校の敷地内の道沿いの一角にひっそりと城址碑が立っています。最初はその存在になかなか気づかず、周囲を二周してようやく解りました。すでに不審者予備軍になりかけているので、すぐに退散です。
川手城は美濃守護となる土岐氏3代・頼康によって築かれて以後11代まで歴代守護職土岐氏の居城となったようです。近くには正法寺跡と守護代館である加納城があり、これらはセットになっているイメージです。

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