行政の職員さん?が整備中のようで数名おられたお陰で勇気をもらいいざ侵入。ぼっち女子で初見だと昼間でも薄暗く怖かったです。
神社まで上がった先に「甚五郎抜け道(犬戻り猿戻り)」という、軍艦横田甚五郎が落城を知らせるため尾根伝いに甲州の武田勝頼まで馬を走らせた難所の入口もあります。
石段も多いですが、堀切や抜け道辺りは雨天時足元要注意です。
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2024/05/11 11:08
2024/05/11 10:57
房総旅行にて (2024/04/29 訪問)
偶然のショットが撮れました。
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2024/05/11 10:55
2024/05/11 10:48
2024/05/11 10:20
栃木佐野 唐沢山城跡 (2024/05/09 訪問)
自宅から関越道・圏央道・東北道・北関東道経由で1時間半くらいで到着しました。
田沼の街を抜け、つづら折りの山道を登ったところで、猫ちゃんがお出むかいしてくれました。
神社に向けて参道を登っていくと、曲輪跡や堀切跡が見られ、神社の周りには立派な石垣が残っていました。
この周辺のゴルフ場でプレーしたことがありましたが、こんな立派なお城跡が近辺にあるとは知りませんでした。
また違う季節にお邪魔したいお城です。
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2024/05/11 09:42
歴史は深い (2024/04/19 訪問)
二条古城は織田信長が足利義昭のために永禄12年(1569)に約70日の短期間で築き上げた城郭造りの居館で二条御所とも呼ばれます。かつては義昭の兄、義輝の御所があり、それ以前には武衛職にあった斯波氏の居館が有ったようです。工期を短くするため本圀寺から多くの建物を移築しており、本圀寺やその宗徒にとってはとんだとばっちりだったようです。
義昭が槇島城での戦いで敗れ毛利氏を頼って逃れた後に必要性が無くなり破壊され、地元の衆が持ち去ったり、安土城に運ばれたりで御所跡は後肩も無くなったそうです。いまでは平安女学院敷地内に城址碑と案内板が立てられています。
わずかな時間で斯波武衛陣跡と足利兄弟二代の御所を見学できるチョコ城(ぴーかるさん拝借します)の鑑です。あたたたたたっ
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2024/05/11 09:22
生沼家住宅の巻。 (2024/04/13 訪問)
「上三川城」を右手に見て、城址公園通りを歩くと大きな道に出ます。
手前にコインランドリー。道を渡った斜向かいに「生沼家住宅」がありました。
道路沿いに「生沼家住宅」の説明板。格子戸に桜のくす玉がいくつも飾られていて、可愛らしくなっています。
調べてみたら季節ごとに、くす玉 飾りが変わり、格子戸が華やかになるようです。
とても大きな「生沼家住宅」。主屋、土蔵、店舗が国登録有形文化財なんだそうです。
生沼家の初代は1698年生まれ。このお宅は、明治~大正時代に活躍しました。
現在、一般公開はしてないらしく、外から威風堂々とした佇まいを眺めるだけです。
バリアフリーの歩道と、黒漆喰の建物。とても融合していました。
「上三川城」周辺は、古い物と 新しい物が 一緒に、街を彩っている印象でした。
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2024/05/11 08:38
「ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地」 (2019/10/27 訪問)
八木城は戦国時代の有名なキリシタン武将である内藤如安ゆかりの城で丹波国では八上城、黒井城に並ぶ規模の大きい山城です。本丸を中心に四方に張り出した尾根上に郭が設けられており、私は本丸を中心に付近の郭をいくつか散策したのみに留まっています。
付近には「ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地」の石碑や園部城の太鼓櫓を移築した安楽寺も有ります。情報が不足していて石垣の部分を見ていませんが主郭からの眺望は素晴らしかったです。
私は元々ヒザが弱いうえに最近は仕事で体力オバケのオッサンに引っ張られてGW中は膝がガクガクの状態でした。開き直って神奈川・東京・埼玉のユルめの城(あたた系 ぴーかるさんいわくチョコ城(笑))を多く含むルートを周ったら4日で56城いっちゃいました。
もちろんキツい城もあったし箱根関所や新撰組ゆかりの地・斎藤別当ゆかりの地も訪問していますが、この数です。相模・武蔵恐るべし‥。さらにストックが増えてイッペイさん状態です(例えが悪い)。
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2024/05/11 08:07
京都市内のあちこちに点在している。 (2024/04/19 訪問)
御土居は天下人となった豊臣秀吉公が京都の防衛のために天正19年(1591)に京都を囲うように築いた防塁です。かつては総延長22.5kmにも及んだそうで現在は9か所が指定地になっており、廬山寺や北野天満宮にも残っています。私は以前7か所ほどを周っていますが途中で飽きて長らく御土居訪問はストップしていました。O型あるあるというやつですが久々に鷹ヶ峯・北区旧土居町の御土居を訪問してきました。
道路沿いに石積みが続いていて石段から上に上がって行けます。二段構造になっていて後世に公園として改変されているようです。
最上部にはベンチや石碑が置かれていて、そのあたりが古い御土居の雰囲気を残しているようです。今さら全部の御土居を周りたいというエネルギーは湧いてきませんが大宮と北野天満宮の御土居は一見の価値があると思います。
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2024/05/11 03:55
2024/05/10 20:39
雑賀崎台場 (2024/03/02 訪問)
【雑賀崎台場】
<駐車場他>駐車場有<34.191880,135.141961>縦列駐車で3台程
<交通手段>車
<見所>石積み・土塁
<感想>日帰り和歌山山城攻めラスト5城目。現地説明板によると雑賀崎台場は紀伊水道に突出したトンガの鼻と呼ばれる舌状丘陵に紀州藩が1854年10月~翌年の9月までに築造したとされます。現地から元番所台場跡(城びと未登録)も見えることから2つの台場が連携していたことをうかがわせます。
駐車場から段々と下って行って台場跡があります。駐車場から一つ下って畑地、畑地の削平地を通り、舌状の削平地があります。ここから和歌山城がカメラの望遠で見えます。一つ下って算木積みの一文字石積み土塁があります。一つ下って広い削平地があり、先に丘陵状の小丘に砲台跡と思われる土塁囲みの削平地があります。丘陵全体を石積みで囲み、脇の方形区画の曲輪も石積みで囲んでいます。この石積みがなかなか見応えありました。舌状の削平地が段々となっていたり、砲台跡の土塁が石積囲みの主郭のようでもあり、中世山城のようにも見える台場跡でした。これにて日帰り山城攻め終了、280㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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2024/05/10 20:11
地元の方の立ててくれた案内板がある。 (2024/02/23 訪問)
小泉城はかつて大乗院宗徒であった小泉氏によって築かれた城で、小泉館と記録には有りますが、実際には城郭としての機能を持っていたようです。長禄3年(1495)に筒井順永に攻められ一族の多くが切腹して果て、城は焼却され、その際に大和中の郷民が動員されたことで城郭としての規模を持っていたと推測されています。文明7年(1475)にも落城し、破却の憂き目に会いますが、元和9年(1623)片桐貞隆が陣屋を構えて入ります。これも陣屋とされていますが、内堀と外堀を備えた城郭に近い陣屋だったようです。ただし石垣造りではなく塀囲いだったようです。
住宅地に囲まれた主郭の東部に城址碑が立てられ、この東側に内堀があったようです。城址碑の周辺には地元の方が立ててくれた案内板があり、かつての城域や移築された建築物についての情報が記されています。城址碑の南西にある小泉神社には陣屋の追手門が移築されていました。貴重な情報ありがとうございます。
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2024/05/10 19:36
2024/05/10 07:02
金谷城特別公開前日の城めぐり② (2024/04/13 訪問)
磯部城からの転戦です。相模線入谷駅から徒歩にてアプローチしました。後背の小高い丘も城址なのかもしれませんが写真は撮りませんでした。グーグルマップでは「白井織部是房館跡」と表示される路傍の石碑だけ撮影して撤収しました。海老名へは小田急線座間駅を利用しました。
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2024/05/10 00:07
今でも残る環濠集落 (2024/02/23 訪問)
若槻環濠は今でも残る環濠集落で天満神社や西融寺を含む周囲に水路や堀が巡らされています。文正元年(1466)ごろには東端の庄屋屋敷と西端の宮地を繋いで東西に細長い環濠が形成されていたようです。現在の環濠の範囲は東西およそ200m、南北およそ70mになるそうです。車で来られる方は、周辺の道は狭いので置きやすい場所に車を置いて、あとは歩いていくしかなさそうです。
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2024/05/09 23:53
天守台跡に土盛りが残る。 (2024/02/17 訪問)
松ヶ島城は天正8年(1580)に織田信雄が入り、かつては五層の天守がそびえ立っていたそうです。後に蒲生氏郷が入りますが、天正16年(1588)に新たに松坂城を築いて城下の住民ごと強制的に移住したので、松ヶ島は元の漁村に戻ったと伝えられています。
かつては伊勢湾に面した海陸の要衝に築かれた城でしたが、今では本丸天守台跡に土盛りが残り、周囲の住宅地に堀跡が残っている程度です。天守台跡に登れば、かつての城址周辺を見渡すことが出来ます。
城郭放浪記さんの情報によると松坂市愛宕町の竜泉寺には松ヶ島城の裏門が移築されているとのことです。
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2024/05/09 22:24
紀伊田辺藩庁なのだ。最後は。 (2024/11/03 訪問)
水門が有名だが水門しか残っていないという言い方もできる。築いたのは浅野氏重だが紀州徳川家の附家老であった安藤氏代々が居住するところとなり、安藤氏が土壇場で独立大名になったので最後の最後に紀伊田辺藩庁となった。
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2024/05/09 21:58
鳥屋城 (2024/03/02 訪問)
【鳥屋城】
<駐車場他>鳥屋城山公園公衆トイレ前に3台程駐車できる。<34.063573,135.260068>から狭いが西へ入る。
<交通手段>車
<見所>石垣・堀切・眺望
<感想>日帰り和歌山山城攻め4城目。現地説明板によると鳥屋城の築城年代は明らかではないが、1379年に山名義理が南朝征伐のために石垣城(鳥屋城の別名)を攻めたとあり、南北朝時代には南朝方の城であったことがうかがわれます。室町時代には紀伊国守護の畠山氏が入国し畠山氏や城代の神保氏が治めました。1585年に秀吉の紀州攻めに際して神保氏が内通して城は落城したとあります。
鳥屋城山公園に城跡碑・説明板・展望台・遊具があります。公園から山頂の城跡まで1300mの登山ですがハイキングコースになっているので苦はなく登れます。登城距離は長いのにもかかわらず現在は登城途中に表面観察できる遺構は特には見られず、いきなり山頂部の城跡に着きます。城跡は東西に長い細尾根を削平しています。登った所の左手が段になって虎口・門跡のようにも見えます。その先の西端に広めの曲輪、尾根の南側全体に帯曲輪(帯曲輪が曲輪で尾根を背後の土塁としている見方もできる)を通しています。城跡の中心部の尾根に堀切を設けていて、堀切から東側の曲輪にはかつて後世に社(現在は倒壊している)があった曲輪壁に石垣、その下の帯曲輪に石列、帯曲輪の斜面に石垣が残されています。ここら一帯が東端になり、その東側は切岸・堀切跡になっています。
東端の石垣・石列の残る一帯が主要部のようですが比較的に細めの尾根上の削平地で戦国期以降によくみられる広い主郭をもつ城跡ではない。南北朝時代以前に詰め城として築城されて以降、地形の改修を行わず廃城となったのだとしたら、古い縄張り遺構がみれて見所はあった。
<満足度>◆◆◇
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2024/05/09 21:25
2024/05/09 21:16
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