JR徳山駅から山陽本線を東へ。晴れれば宮島と思っていたんですが,雨なので断念しました。
JR廿日市駅で途中下車。桂公園へ向かいました。地形図を基に現地を散策してみると,西側は削平されて住宅地となっている様子。ほぼ間違いないと思います。
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2024/08/26 20:57
2024/08/26 20:29
ここにも城キチ (2022/06/28 訪問)
こちらの城跡には2年前に訪問しました。遺構は残っていて見る事は出来ましたが自分さえ知っておけばいいやと投稿はせずにほっといていました。理由は簡単、汚写真だからです。このところ城跡毎に振り返りをしていました。こちらを見ていたら荒れた城跡に突撃して訪問している。ここでもまた城キチ発見。仮に城キチSin氏と呼んでおきます。地元周辺の荒れて見る為だけの城跡を真剣に訪問して発信してくれるのは素直に嬉しい。それにやりがいも出てきます。
遺構は無いとのことですが地図を見た所北と東には遺構が残っている様に感じ見れたらラッキー程度で向かいました。北側は城キチSin氏と同じ小竹の茂みから侵入し曲輪と土塁を確認。崖の高低差が高いからでしょう土塁が一律1.5m程の高さで全周回っています。東側には入口らしい場所が有り、進んで行くとそこが虎口の様に見えます。降りていくと大小3つほどの堀切道だか空堀を見る事が出来ました。
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2024/08/26 20:10
重原陣屋 (2024/07/20 訪問)
【重原陣屋】
<駐車場他>浄福寺駐車場
<交通手段>JR刈谷駅から徒歩
<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第4弾3城目。重原陣屋は1792年、陸奥国福島藩の板倉勝長が三河国1万石の所領を得て、碧海郡下重原村に陣屋を築きました。明治元年には板倉勝達は重原藩2万石を与えられ、陣屋を藩庁としましたが、明治3年に廃藩置県により廃止となりました。
陣屋は猿渡川の河岸段丘の縁に築かれていたようで、城びとポイントの空き地から南側が下がって高低差があります。浄福寺前に石碑があります。JR野田新町駅近くの願行寺・秋葉神社に移築表門と移築書院玄関がありますが後から知って見落としてしまいました。
<満足度>◆◇◇
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2024/08/26 19:43
栂牟礼城 の支城とも (2024/07/19 訪問)
こちらの城跡は北東に向かって突き出しており、3方は一部を除き崖となっています。堀切から最東端の曲輪迄70m程の長さの小規模な城跡です。案内板では栂牟礼城 の支城と書いていますが直線距離で12・3km程離れています。ちょっと遠いですよね。
古城盛衰記さんの情報により表示板より西へ100m強進んだ擁壁の裏から直登しました。ここには赤テープがぶら下げてあります。どうやらこちらが正規のルートみたいです。樹木の幹を手掛けに登らざるを得なく完全に直登だったのですが。
尾根に到着すると2か所の堀切が有ります。外部側は浅くギリギリ堀切と呼べる感じ、内部側はしっかりとした堀切が入っています。縄張り図には5段の曲輪と有ります。主郭は5x10程度の平滑部、そして北側に一部土塁があり、主郭脇の腰曲輪も平滑になっていますが、最東端の曲輪迄は全体的に自然地形で緩やかに下がっているように見受けられました。その他の主だった遺構は目に付きませんでした。
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2024/08/26 19:19
2024/08/26 19:03
薩摩土手(駿府御囲堤) 静岡市 (2021/02/28 訪問)
静岡市史によると、慶長11年(1606)薩摩藩主島津忠恒公が徳川家康公の命により井宮妙見下より弥勒まで約4kmに渡って築堤したのが薩摩土手と言われています(案内板より)。実際は薩摩藩がかかわったという明確な根拠が見付かっていないようですが、伝承として「薩摩」の名が根強く残っているようです。2017年に公益社団法人土木学会選奨の土木遺産に認定されています。
土木遺産というと橋・トンネル・堰・ダムなどが多いですが、灯台なども含まれるようです。
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2024/08/26 06:57
夏の夕暮れ (2024/07/28 訪問)
ニッポン城めぐりアプリのイベントの忍城の戦い限定武将5名を江戸城で一気にゲットできる期限が3日後に迫っていたので、伊勢崎陣屋の帰りに両毛線と上野東京ラインで一気に東京駅へ向かいました。18きっぷを使う日に行けばお得(^^)という目論見もありました。
但し武将たちをゲットできるのは“江戸城の狭い範囲”。この日の閉門時間の18時を既にまわっていたので、門の外からゲット出来るか微妙なところでした。
丸の内駅前広場を抜け、まずは桜田巽櫓へ。ここではゲットならず。それではと大手門へ移動。ここでもゲットならず。ですが、閉じられた門がとても新鮮で、暫し感慨に耽ってしまいました。夏の夕焼けと相まっていにしえのお城の雰囲気をあたり一面に漂わせています。なりゆきで閉門後に行ったのですが思わぬ幸せを味わうことができました。
なかなか武将ゲット出来ないのは天守台から遠いせいではないか?北桔橋門まで行けばきっと……と内堀通りを向かいました。歩きながら間近に見る金色に輝く水堀の美しさも格別で、季節や時間帯によってこうも違うものなのかと驚きでいっぱいでした。現役の役割を終えた現在のお城が見せてくれるもの、伝えてくれるものを享受できるありがたさを思いました。さらにはお城を見尽くしたという日は生涯来ないだろう、来ないほうがいいとさえ思えてきました。
限定武将5名は平川門でゲット出来ました。北桔橋門まで歩く覚悟だったのでホッとしました。
ポチポチしながら、遊びながらのお城めぐりもとっても楽しいです!
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2024/08/25 19:41
和歌山城 天守曲輪 (2024/02/25 訪問)
和歌山城天守曲輪に到着しました。天守二ノ門(楠門)に隣接しているのが天守二ノ門櫓で二ノ門に直結しているのが南多聞櫓になります。姫路城と同じ連立式天守になっており、北西に乾櫓、北東に小天守、南東に大天守が配され、それぞれ西多聞櫓。北多聞櫓・渡り櫓で連結され内部をひとしきり移動することが出来ます。復興天守ゆえ雰囲気はそれなりになりますが、内部をひとしきり歩いて見学できるのは良いことではないでしょうか。
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2024/08/25 19:21
2024/08/25 19:00
城キチ (2024/08/08 訪問)
建物や石垣を見る目的から登録城を廻るようになった頃、城跡は整備されているのが当たり前と勘違いしていた頃、2019年7月に初めて訪問し面食らった城跡です。地元なのでディスりますが「こんな所に入って行けるか」と思わせる城跡です。案内板と外観の写真を撮りさっさと帰えりました。整備を期待したらダメだと認識するには左程時間は掛からず現在に至っています。この城跡含めてこの頃に入口退散してしまった登録城3城が頭にへばりついていました。うち2城は2年前に決着を付け、残った1城の決着を付けに行きました。
こちらは南ケ城・本城・北ノ城と3か所に分かれており、最高所の南ケ城は独立した峰、他の2城は突き出た尾根になっています。デフォルメした案内板は宛てにならないので地図で本城では最高所を目指しました。給水タンクのある南ケ城と本城主郭にはさして苦労せず辿り着きました。空堀に向かう途中は真竹の猛威に晒されましたが辿り着き桝形を目視する事は出来ました。が、写真は全然ダメです。北ノ城に向かおうと右往左往していたら久しぶりに倒れていた真竹の束に足を滑らせ転倒して2m程度落ちてしまいました。周りには誰もいないのに平然を装い立ち上がり戦意喪失して終了。主郭を見たからOKとする。
先輩の投稿を見ると荒れた城域をもろともせずに北ノ城迄行き着き堪能した猛者を発見、稀に聞く幻の「城キチ」なのか?自分にはちょっと無理。
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2024/08/25 18:55
安祥城 (2024/07/20 訪問)
【安祥城】
<駐車場他>安城市歴史博物館駐車場
<交通手段>JR安城駅から徒歩
<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第4弾2城目。安城古城址から歩きました。現地説明板によると安城城(安祥城)の築城年代、築城者は明らかではありません。一説には永享年間(1429~1441年)に志貴荘の地頭和田親平によるものといわれます。「三河物語」には松平信光が1476年ころに安城城を奪い取ったという記述があります。その後安城松平家が4代続き4代目の清康(徳川家康の祖父)の時に本拠地を岡崎に移します。1540年に織田信秀が安城城を攻め取りその後10年間安城城争奪戦が繰り広げられます。1584年小牧長久手の戦いで徳川方が城を改修して使用したとも考えられています。
現在の大乗寺が主郭跡で南西隣の八幡社が二郭だったようです。間には現在は通路になっていますが堀切があったようです。主郭跡は小高く隅櫓跡の土塁が良く残っています。主郭を中心とした土塁遺構と縄張りの雰囲気が良く残っていました。歴史博物館には本證寺(城びと登録)の出土品や遺構が多く展示されています。安城古城とここまで駅から徒歩で来たので涼がとれました。
<満足度>◆◇◇
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2024/08/25 18:16
小田原城 (2024/08/25 訪問)
難攻不落の小田原城に行ってきました!
御朱印は通常版と限定版🏯
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2024/08/25 18:15
2024/08/25 17:55
島津氏大分拠点 (2024/07/19 訪問)
大分侵攻の前段階でまずは残りの登録城の訪問を済ませる事と周囲の山並みや道路を把握するのが主な目的のシリーズ。7/18~20の三日間で訪問しました。順不同、まずは松尾城からです。
こちらの城跡は島津氏が豊後攻略の拠点としてしれっと築城したらしく築城時期などは不明で突如現れたらしいです。ザクっと説明すると山頂部、中腹部と平地部の3つのエリアに分かれており、最長部では600mを超える規模の大きな城跡です。中腹部の最高部辺りには城山神社が有りそこから上は山頂部、下は中腹部となります。中腹部から下は数々の段曲輪が多く配置されています。
山頂部は周囲が崖に囲まれており長編方向が150m程度、最高所には土塁と思われる高まりが有ります。虎口に石積が有ったりしますが少々遺構は少な目です。見張り城の表示が有りました、こちらの山頂部は主郭では無いらしく陣城の様相です。
漸く先週に大分県城郭報告書が手に入ったので縄張り図を見てみました。主郭等は無く長期を見越した城造りを目指した様には見えません。あくまでも兵站拠点のみの目的で作られた大規模の陣城と理解しても良いかと思います。
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2024/08/25 16:24
続100名城スタンプ設置 (2024/08/12 訪問)
水城は、664年中国の唐王朝との戦争に敗れた日本が侵略に備えるため朝鮮半島にあった百済国の都を巡る城壁にならって築かれた、全長1.2km、高さ9mの城壁(土塁)です。中国文明に習い造られた強固な城壁(土塁)は、1360年経た今もその姿を留めています。
水城は、後に大宰府を守る役割を担った城壁跡で、大きな外濠があった為、「水城」と呼ばれたとの事です。
続100名城スタンプ設置個所の水城館は、土塁のイメージを盛り土で復元し、その内部に施設を埋め込んだ特徴的な建物になっています。
水城東門の碑のすぐ横に建設されており、開館時間が9:00~16:30 他にも、大宰府市役所にも設置されており、此方の開館時間は8:30~17:00までとなっています。(駐車場・トイレ完備です)
この日、10日から金沢に滞在しており、11日の17:00に車で金沢を出発。途中休憩を挟み14時間かけ水城にやってきました😫水城着が7:00少し回っていました。水城館周辺だけなら、40分もあれば十分で、8:00前には散策を終え、水城館の開館時間を確認し愕然( ノД`)シクシク…まだ60分もあり、この後、大宰府政庁跡、大宰府天満宮を散策し、人吉まで行く予定であった為、スタンプは諦めました。
次回、九州訪問の際、スタンプを求めて水城に再訪する計画を立てようと考えています。
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2024/08/25 16:18
堀切のオンパレード 舟ヶ谷の城山 (2021/02/13 訪問)
静岡県御前崎市の舟ヶ谷の城山は井伊直政の恩人である新野左馬助親矩の城です。城跡には連続する堀切が7つも良好な形で残っており戦国時代の山城の堀切を体験するには格好の教材だと思います。
その遺構の見事さから、徳川か武田によって改修をされているものと考えられています。主郭が無くなってしまったのは残念ですが、それでも十分に楽しめます。
桶狭間の合戦のあと、今川氏は衰弱し家康を始めとした、領主や武将達の離反が相次ぎます。井伊家当主の直親は讒言により氏真に謀反の疑いをかけられ掛川で殺害されてしまいます。直親の嫡子・虎松(直政)も命を狙われますが新野左馬助によって母の「ひよ」とともに屋敷に匿われ左馬助の助命嘆願によって命を救われたそうです。
左馬助は後に、今川から離反し翻意を露わにした引馬城の飯尾連龍(遠州忩劇)を攻めている時に討死してしまいます。左馬助には一男七女があったとされ、息子の甚五郎は北条氏に仕え、小田原征伐で戦死してしまったそうです。徳川家康は井伊直政の恩人の嫡子が小田原にいることを知り、直政に呼び寄せるように申し付けますが、果たすことは出来ませんでした。直政は左馬助の娘たちを家臣に嫁がせ、その子孫である木俣家に井伊直弼の異母兄・中守が養子として入り、後に新野親良と名乗ったそうです。
親良は井伊家家老として幕府大老である弟を助け、直弼の死後も幕末から明治の初期にかけて彦根藩を支え続けたそうです。
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2024/08/25 13:53
春王・安王の墓 池田輝政陣所古趾 岐阜県垂井町 (2024/03/31 訪問)
岐阜県不破郡垂井町には関東公方・足利持氏の遺児 春王・安王の墓があります。永享年問(1429〜1441)足利持氏は関東管領・上杉憲実と戦い幕府の援護を受けた憲実に持氏は討たれてしまいます。
春王・安王は下総の結城氏朝に匿われますが、嘉吉元年(1441)結城城は幕府の攻撃に会い落城し、春王・安王は囚われの身になります。二人は京都への護送中、垂井の金蓮寺において斬首され京都で晒されたのち、金蓮寺に埋葬されたとのことです。
私は南側からアクセスしましたが、北の国道21号線からアクセスした方が良いでしょう。同地には関ヶ原古戦場の池田輝政陣所もあり案内板も立っています。
私は関ヶ原に関しては一般に知られている陣跡以外の裏側ばかり投稿していますが、ひとしきり表も回っているので、そちらもぼちぼち投稿していこうと思っています。
私は関ヶ原は構造上、国家の命運を左右する規模の決戦を行うのに適した構造を持ち、古くは鎌倉時代元寇の頃から明治時代、日清戦争の直前まで時代の施政者や軍部を預かる者から注目をされていたと考えます。
私は白峰旬氏らが一般に発表されている一次資料による新説などを踏まえ、自分の目で見て考え、ある程度の考察をまとめています。遺構にしても、関ヶ原以前に築かれたものか、明治時代に軍部によって成されたものか、昭和以降に杉の植林で扁平されたものか、はっきりしないものもあります。明治に発表された陣所の外側にも遺構(らしきもの)が存在することに注目するべきだと思います。
関ヶ原の投稿を踏まえた上で、自分なりに豊臣秀吉の最期についての推察をまとめて行きたいと思っています。自分はあくまで一般ピープルなので一次資料を解読して新説を発表するということは出来ません。自分に出来るのは歩いて見て考えることだけです。その時代の背景や必然性、その時代を生きた人々の性格や考えなどを考慮し、その時代の医学や科学の発展の度合、地形や地質学的な要素も踏まえて挑んで行きたいと考えています。不快に思われる方もいるかもしれませんが、あくまで「私個人」の意見や考察ですので、そこはご了承願います。
まずはせっかく関ヶ原の古跡を回っているので、通例にそって投稿していきたいと考えています。
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2024/08/25 11:39
2024/08/25 09:30
いざ復興天守へ (2024/02/25 訪問)
和歌山城は天守と本丸御殿が別々になっています。いわゆる天守曲輪というやつで、いずれも本丸石垣の上に築かれていると思うのですが、御殿とは別の曲輪のようになっています。姫路城と同じ連立式天守となっており鉄筋コンクリートにより復興天守として再現されています。城域は最盛期の四分の一くらいになっているようですが、それでも十分な広さを誇ります。さすがは徳川御三家の城です。
「余呉くんのお城のホームページ」さんの縄張り図を見ると天守曲輪・本丸御殿・二の丸御殿・西の丸御殿とされている場所に主要な建造物が築かれていたようです。御殿が三つもありますが、実際はもっと多かったかもしれません。今回の訪問で心残りは南東の岡口門を訪問していないことです。和歌山城唯一の建造物の遺構なので次回への宿題にいたします。
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2024/08/25 08:58
お姫平 静岡県藤枝市 富士見平・若王子古墳群 (2021/02/27 訪問)
心臓破りの220段と赤文字で補足のある鬼岩寺の急階段を登るとお姫平に到着です。心臓破りなのに「ふじえだ健康スポット」とはこれいかに‥ムリをせず進みます。お姫平の先に若王子古墳群があり、富士見平の名がついています。
なんとなく砦の様な雰囲気があり、周囲の眺望は良好です。曇っていますが富士山も見えました。ありがたや‥
永享4年(1432)室町幕府六代将軍・足利義教が敵対する鎌倉公方足利持氏の様子を探るために富士山見物という名目で駿河にやってきたようです。9月10日に京都を出発し、17日に鬼岩寺に宿泊したそうです。伝説では義教がここから富士山を眺めたので富士見平と名がついたとのこと。義教の姫も同行しており、それが「お姫平」の名の由来になっているようです。
義教は「万人恐怖」とも称される強権的な政治を行い「嘉吉の乱」で赤松満祐に殺害されています。評判の良くない人物ですが恐怖政治については諸説あるようです。
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