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しんちゃん

志太郡衙。 大和国家が出来上がってくる頃の遺跡。 (2021/02/27 訪問)

志太郡衙は藤枝市にある、およそ1300年前の郡衙の遺跡です。大宝元年(701)に制定された大宝律令によって、国の仕組が固まりつつあり、国の都を「平城京」とし、天皇を中心に中央の貴族によって政治が行われ、全国を「国」「郡」「里(郷)」に分け「国府」「郡衙」「駅家」などの地方官衙が設置され、「国司」「郡司」「里長」がそれぞれを治めるようになりました。
志太郡衙は古代駿河国志太郡の郡衙の遺跡とされ、国の史跡に指定されています。

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零汰

鯉作城:熊本県玉名郡南関町:城と絶景 (2022/02/09 訪問)

何回目かの熊本侵攻の際に行った城跡です。城郭放浪記さんでこの場所を知り近くに侵攻する際は絶対に行くと決めていた城跡でした。

東西に長い主郭部には2つの曲輪、そして腰曲輪が片方の主郭部曲輪に馴染んでいっています。小さいながらもはっきりとした虎口とギリギリ横堀と言えるような箇所。たったそれだけの遺構しかない小さな城跡です。日頃、遺構遺構と考えていてもこんな城跡に来てしまうと探す事を辞めてしまう。神社も程よく馴染んでいますし、適度に残った樹木も雰囲気がいい。何より下界を見下ろす景色がそそられます。

ですがここに来るまでは中々大変、囮林道に騙されたのもありますが歩きで往復7km強、時間は2時間近く掛かりました。それでもこちらに訪問出来て満足出来ました。


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零汰

大阪港へ、タイムアタック滋賀:後編 (2024/05/27 訪問)

前編より

11.八町城(写真1)→12.那須城(写真2・3)→13.肥田城(写真4・5)→14.下之郷城(写真6・7)→15.尼子城(個別投稿)→16.高宮城
→大阪フェリーターミナル→帰宅

以上で延べ23日間、総走行距離約7300km、訪問した城跡約130城(うち石碑や標柱のみや立入禁止など60城程)。絶景ロードを走りながら、景色を楽しみながらの割には想像以上の成果でした。

今後、早いうちに行きたい所として、沖縄本島50城訪問と、壱岐対馬60城侵攻は済ませておきたいかなと。きっとこの二つの地方は北海道と同じく本土とは雰囲気の違う城跡が待っていると楽しみにしています。それにそんなに距離も走らなくて良さそうなので現地でスーパーカブでもレンタルして絶景見ながらトコトコ廻って行けたらいいかもしれない。

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たか

勝頼のことを知ることができた (2024/08/18 訪問)

諏訪御料人…初めて知りました。
諏訪頼重の娘で信玄の側室、そして勝頼の母。
信玄が滅ぼした諏訪家の娘が後の武田勝頼だとは。
説明文には諏訪氏の通字「頼」を使っているので、信玄は諏訪家を継がせようと考えていたと書かれていました。

高島城は浮城と呼ばれるというのに諏訪湖が遠いなあと思っていたら資料を見て納得。
以前はやはりお城のところまで湖があり、その後干拓などで現時点まで湖が下がったとのこと。
地盤が軟弱なため沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んだと説明にあり、非常に過去の築城に対する研究や対策に感心しました。
あと天守台石垣修理の際に借り受けの櫓を作って梃子の原理で持ち上げたとなっていました。
やはり重機の無い時代に工期短縮などを考えたところに感心してしまいます。

みなさんのお城に対する気持ちがとてもよく伝わりました。
最後に注意ですが櫓内にあるスタンプですがわたしが押したときインクが大量でベチャベチャでした。
わたしは試し押し用の紙を持参しているので良かったのですが備え付けがありませんので用意していった方が良いです。
ちなみにその日わたしの前の方かもしれませんがそのインクが台についていて危うくスタンプ帳が汚れるところでした。
気を付けて確認しながら押印されることをお勧めします。

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たか

函館以外にも! (2024/08/18 訪問)

五稜郭が2つあるとは知りませんでした。
出会いの館に行って親切なおばちゃんから麦茶を頂き、資料をじっくりと拝見。
たしかにしっかりと星形になっています。
御城印及びスタンプをゲットし、いざ登城。
と言ってもぐるりと一周しただけですが(笑)
しかしきちんと歩いて回れるように草を刈ってあるところに有難みを感じます。
とても天気が良く新緑が光って見えます。

一周した後にふと見るとお城とは関係ありませんが「北斗の拳マンホール」が。
ここにはリンとバットのものでしたが佐久市内には北斗七星の形に配置されているみたいです。
佐久市出身の武論尊さん協力でコラボしているそうです。
ファンの方はこれもぜひ見学されてみては?

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たか

久しぶりの登城 (2024/08/18 訪問)

約8年ぶりの登城になります。
当時は子供も小さく城址を見て回るというより動物園がメインでした(笑)
今回はわたし一人という事で自由に散策ができます。
珍しい穴城と共に以前に石垣が印象的だったので楽しみにしていました。

まずはスタンプと御城印をゲットして登城。
二の丸跡は上田合戦の徳川本陣跡とのことでした。
黒門橋を渡りいよいよ本丸跡へ。
懐古神社にご挨拶した後に天守台跡へ。
そうそう、この眺めにこの松の枝っぷりが昔を思い出しました。

天守台を降りて今度は下方向から天守台の石垣を見ると天気も良く松がとても青空に映えます。
石垣も非常に美しくダイナミックです。

お城とは関係ありませんが、城址を堪能して駐車場に向かうとSLのC56があります。
SLはとても大好きです。
D51とはまた違う魅力がありました(笑)

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栃木西方城

にしかた子ども夏まつりに参加します‼ (2024/08/23 訪問)

※台風10号の影響により予定しておりましたイベントが中止となりました。
 ご了承ください。

 地域の方々とみんなで楽しむ「にしかた子ども夏まつり」に栃木市文化課文化財係
西方城グループも参加します🎐
 西方城にちなんだ楽しい企画を用意していますので城びとの皆さま、城びとの情報を見てくださった方
ぜひお越しくださいね!お待ちしております(*^-^*)

イベント にしかた子ども夏まつり
開催日時 令和6年8月31日(土)15:00~
場所   関東ホーチキにしかた体育館(栃木市西方総合文化体育館)
所在地  栃木県栃木市西方町本郷1705-1

主催 にしかた子ども夏まつり実行委員会
共催 お問い合わせ:栃木市
TEL 0282-92-0316(栃木市西方公民館)
URL https://www.city.tochigi.lg.jp/site/tourism/17966.html

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赤い城

博労淵砦 大阪市西区 (2024/08/12 訪問)

大坂冬の陣、博労淵の戦いがあった場所です。
城びとは未登録、地下鉄西長堀駅から徒歩で10分くらいですが遺構も標柱も説明板もありません。

跡地とされる場所は駐車場になっています。
近くに木津川が流れ、ちょっとした公園になっています。
木津川にかかる伯楽橋が唯一その名を残している感じでしょうか。

砦跡にはロマンの他には何も無いのでグルメレポートです。
この日のお昼は千とせさんで肉吸いと小玉。
有名店です、開店直後にもかかわらず長い行列が出来ていました。
花紀京が二日酔いで同店を訪れた際に「肉うどんのうどん抜き」と注文したのが発祥だそうです。
やはり発想が奇抜、そして美味しかったです。

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宗春

夏休み中にちょっと城めぐりしよう その4 (2024/08/19 訪問)

会社の夏季休暇にいくつか城めぐりしました。
4城目は松本城。

名古屋から関東にUターンするにあたり新幹線ではなく中央線経由で、松本城に寄って帰って来ました。
松本城は何度も来ていますが、松本市役所の展望フロアから松本城を一望するという新たな撮影スポットを知ったので行ってみました。1枚目の写真がそれです。

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朝田 辰兵衛

「三矢の訓」はここで…🏹🏹🏹 (2024/06/21 訪問)

JR下関駅から山陽本線を2時間ほど進んだところで途中下車。JR新南陽駅から,徒歩約5分の駅チカ物件です。
あの毛利元就公の教訓状発祥の地です。駅は無人駅でしたが,もうちょっとPRしといた方がいいのでは…と感じました。

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しんちゃん

禁止です (2024/05/03 訪問)

太田道灌屋敷は太田小学校の周辺が推定地とされています。案内板などは見当たりませんが、周囲は急坂になっていて要衝の地であったことが伺えます。太田小学校の名前に主の名残があるようですが、関係性は不明です。
校門のところにやたらと「~禁止」の注意書きが張ってあります。「犬の散歩禁止」まであるのか‥ 「Uターン禁止」でかいな。
禁止、禁止って禁ハラですわ~(ウソ) とりあえず「不審者禁止」と書かれないように気を付けます。

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しんちゃん

登城道の東西に遺構が残る。 (2024/05/03 訪問)

鷹の巣城は案内板のある郭に至る道の東西に城域が広がり、それぞれ郭と土塁を有しています。それぞれの郭には扇状地形が付いており、三日月掘のような堀跡が残っており、西側の遺構の方がよりはっきり残っているようです。
鷹の巣城は小田原北条氏が築いた箱根山の城の一つとされていますが、家康公も鷹の巣城を落城させた後、しばらくここに滞在したとあるので、その間に改修が成されたかどうか興味が湧くところです。家康公はこの後、ここを引き上げて今井陣城に移り、鷹の巣城は廃城になったそうです。

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零汰

城と絶景 (2019/10/05 訪問)

こちらの城跡は遺構を見ながら絶景を味わえる所です。こちらは主郭部は山頂に有り、南に0.5km北に2.4km、合計3kmに渡り稜線に沿って11か所の城館を配置する城跡です。味見峠の登山口から主郭部に辿り着く間にも、砦と表示されてたり、小高い山があるのですがここら4か所が城館跡らしく遺構も残っているようです。当時の自分はそんな知識も情報も無く、絶景に打ちのめされて目的である遺構を探す事を忘れてしまう程でした。

主郭部は南北に約300m程有り、片方からこれ程の範囲の城跡全域を見渡せる城跡は中々無いのではないでしょうか。通常は山の上で樹木に覆われた中を散策して全体像は縄張り図でしか把握できないです。九州で樹木が無く主郭部全体が把握できる城跡は、福岡の鷹取山城、大分の伐採山城、佐賀の隣り合わせの2つの城の基肄城・木山城が思い付きますがその中でもこちらの城跡は高低差があり見渡し易くお勧めです。これも地域の方々が保存に尽力されているからの賜物なでしょう。

が、遺構に関して主郭部は少々少な目。大きい堀切と各曲輪の土塁位です。南に下がると堀切が2か所、その先に2つの城館跡が有るようですが軽い気持ちでは見る事が出来ないのではないでしょうか。

写真7は登山道でとても登りがキツイ場所です。訪問した日にこの坂道の先で地元の保育園?幼稚園?の園長と保母さんが草刈をしていました。話をした所遠足でこちらの城跡に登るんだとか。「あの坂道を、小さな子供が。」この話を聞くとこの城跡が確実に地域と密着している事が分かります。

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しんちゃん

志太郡衙(しだぐんが)跡  静岡県藤枝市 (2021/02/27 訪問)

志太郡衙跡は8世紀前半~9世紀前半ごろ(奈良・平安時代)の駿河国志太郡の郡衙(郡司の役所)の跡で国の史跡に指定されています。
西側に資料館が併設され、南側一帯に丘陵が配されています。発掘調査によって掘立柱建物30棟や板塀・門・井戸・石敷道路などの遺構が
発見され、発見された260点あまりの墨書土器から「志太」の地名や郡司の官職名などが判明したそうです。
史跡公園として整備され、井戸・門・一棟の掘立柱建物・石敷道路などが再現されており見学が可能です。

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零汰

大阪港へ、タイムアタック滋賀:前編 (2024/05/27 訪問)

久保田城を断念した後は高速道路で南下、途中のSAで作戦をたてました。横須賀港深夜初のフェリーを当てにしていましたがこの日は日曜で運休で不可能。全て陸での九州到達はちょっと無理。結果静岡の快活クラブで1泊して次の日の大阪発のフェリーで帰る事にしました。

時間的に午前中は時間が出来そうなので、途中に琵琶湖周辺の山城を2か所位訪問しようと考えて天気予報を見ると関西全域が雨予報でした。バイクだと雨では容易に寄り道する事すら楽ではありません。結局は大阪に向けて滋賀県で大阪方面に向けて雨具装着の上でタイムアタックを決行しました。

1.山上陣屋→2.山上城→3.青山城→4.大森陣屋→5.鯰江城→6.畑田城→7.平居城→8.我孫子城→9.目賀田城→10.吉田城→後編に続く。

青山城は遺構がありそうでしたが寺院の裏手で入り込めず、大きく裏に廻ったのですが一寸入れる雰囲気ではなかったです。目賀田城は立派な土塁を保存している公園でしたが多くの先輩方が投稿されていたので石碑写真のみとなります。

後編に続く。

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織田信康 (2024/08/22 訪問)

 今年2度目の登城です。近くまで来る機会があったので寄ってきました。子供の頃から何回も登城し、ここへの投稿も複数回になりますが、木曽川の断崖沿いに見える天守閣は見飽きることのない好きな風景です。今回は天守閣周辺のみの散策でしたが、夏休みも終盤で平日ということもあり比較的人は少なかったですね。ただ暑いのでさらりと散策しました。

 城下町を歩きましたが、暑さに耐えかね「犬山ぐーまる」という三店舗があるフードコートで「げんこつソフト」をいただきました。黒みつきな粉をかけた黒糖アイスに白玉団子とあんこが乗った犬山名物げんこつ飴をイメージしたソフトクリームです。

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木之下城 (2024/08/22 訪問)

 犬山城の前身の城と伝わっています。ということで犬山城の周辺観光で投稿させていただきます。犬山城から名鉄犬山駅方面に歩いて行くと愛宕神社があり、その周辺が城址です。東西200m、南北350mの平城でした。愛宕神社が本丸跡で、金明水という井戸は当時に掘られたものです。石碑と説明板がありました。日本城郭大系には堀跡などが残っていると記載がありましたが、よくわかりません。
応仁の乱の頃、美濃国の守護代であった斉藤妙椿が斯波義敏の領地である尾張地域を攻略するため鵜沼に進軍しました。これに備えるため義敏の臣であった織田広近が,その防御のため1469年5月に城砦を当地域に築いたのがはじまりとされています。六代目とされる織田信康が1537年に木之下城を廃城し,現在の犬山城付近に城を移しました。織田信康は信長の叔父、父織田信秀の弟にあたります。

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トク

115【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政人生最大の失態(1/2)-焼津中里) (2024/03/17 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑰です。
いつも何事にも完璧に思われる直政ですが、1度だけ人生最大の失態をした事があります。それは(浮気)です。私は芸能レポーターに変身し😎、その浮気現場を訪れてきました。ではまずそれまでの経緯についてからお話します。

天正壬午の乱の後の北条との和睦を成立させた翌年の1583年、直政は松平康親の娘「花(=唐梅院)」と結婚します。それから豊臣秀吉と対立した小牧長久手の戦いの後、1589年に花は身ごもり「直継」が生まれます。しかし、この花が身ごもっている最中に、何とその花の待女「阿古」とも関係があり、その侍女も同時に身ごもってしまいました(😱~)。これを知った花が怒り心頭になったのは言うまでもありません。花はその待女を城から追い出します。浮気をして、それが最悪のタイミングで妻にバレるとは、直政人生最大の失態ですね(笑)。この後、直政が花に一生頭が上がらなくなったのは言うまでもありません(笑笑)。

焼津駅から1km程北へ行った「中里」という所に、「直孝産湯の井戸」という所があるので行ってきました。その待女は実家に帰り、ここで翌1590年に直政の子「弁之助」(後の井伊直孝)を生んだという言い伝えがあります。これには諸説ありますが、後に直孝は自分が生まれたのがここだと知り、井戸の隣にある若宮神社に寄進している事から、直孝が生まれたのはここで間違えないようです。

では次は、なぜそもそもこうなってしまったのか? その浮気のなれそめと、そしてこの結末はいったいどうなったのか?・・・に続きます。(🤔これもしかして人生の教訓ですか?)
 

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歳月の経過 (2024/08/01 訪問)

2021.12にまーくさんが登城、2021.11にしんちゃんさんが登城しておられます。その後、3年に満たないですが、ちと藪化が進み、標識類も えー味を出しています。本丸南西尾根の二重堀は、茂みをかき分け探索。山中の木の標識が、激しく損傷しているのは、人のせいか、獣のせいか?
 しんちゃんさんの「波佐谷城は前身である松岡寺とセットで訪問したほうが良いでしよう」とのアドバイスに従い、まず、松岡寺を目指しました。波佐谷城に行く途中で分岐すればよいのですが、勘違いして、直接、松岡寺へ登る道をしばらく探してました。幸い、磯前神社の右脇に登り口がありました(写真9)。松岡寺跡と波佐谷城登城道の途中には氷室跡も。
 登城前に公民館前で地元のおばあさんとお話しました。松岡寺(しょうこうじ)のご本尊は、今、公民館に納められており、地元では、松岡寺と言うと公民館を指すのですと。

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イオ

二つの本願寺 (2024/07/06 訪問)

本圀寺跡だけではあまりにも見るところがないので、本圀寺跡に建つ西本願寺と、あわせて東本願寺もめぐってみました。

本願寺(西本願寺)は、織田信長との石山合戦の後、鷺森、貝塚、天満を経て、豊臣秀吉から寺地として本圀寺南半分の寄進を受けて京都・堀川六条の現在地に移転。城郭寺院ではありませんが、東辺には幅広い堀と築地塀が続いています。境内は文化財の宝庫で、本堂にあたる阿弥陀堂、親鸞聖人の木像を安置した御影堂、伏見城からの移築とも云われる唐門、聚楽第または京都新城の遺構と云われる飛雲閣(通常非公開)など7件の国宝建造物があり、御影堂門、阿弥陀堂門、総門、鐘楼、手水所、太鼓楼、築地塀など数多くの国重文建造物が見られます。時間があったのでガイドツアー「お西さんを知ろう!」(申込不要・無料)にも参加しましたが、西本願寺のお坊さんによるガイドだけあって西本願寺だけでなく浄土真宗への理解を深められ、なかなか貴重な機会でした。

続いては東本願寺へ。秀吉により隠居させられていた教如に徳川家康が烏丸七条の寺地を寄進したことにより、本願寺は准如の西(本願寺派)と教如の東(大谷派)が分立することになりました。西本願寺から歩いて行くと、北西隅部に近世城郭もかくやというべき見事な切込接の石垣が! 北辺の堀沿いに進むと、北東隅には鬼門除けの隅欠も見られました。東本願寺の建造物は禁門の変に伴う火災により多くが焼失し、現在の御影堂や御影堂門(ともに国重文)は明治に再建されたものですが、西本願寺を意識してかいずれも西本願寺の御影堂や御影堂門よりも大きく、木造建築としては世界最大級を誇ります。実際、門前に立って見上げる御影堂門は思わずのけぞるほどに巨大で壮麗でした。東本願寺でも参拝案内に参加して境内をひとめぐりして、東本願寺を後にしました。

二つの本願寺をめぐってみて、かつての本願寺はこの二つを合わせた勢力だったと考えると信長が苦戦したのも納得ですし、一向一揆の脅威を身をもって知る家康が東と西に分立させたことも頷けます。一方で、西本願寺には文化財が大切に守り継がれ、東本願寺には西に勝る壮麗な建物が再建されているのは、両派が対立抗争を繰り返す敵対関係でなく良い意味でのライバル関係であったことが、かえってお互いを高めあう結果に繋がっているのかもしれないな、などと想像をふくらませた本願寺探訪でした。
 

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