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todo94

福岡城さくらまつりとPIKMIN BLOOM TOUR FUKUOKA 2024 (2024/03/30 訪問)

前日は、黒島にて佐世保鎮守府周遊ラリーを完遂し、特急みどりで博多へむかいました。そして博多港からフェリー太古の船中泊で奈留島へと渡りました。世界遺産の「奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)」が目的です。レンタサイクルでササっと回って福江港経由で長崎大波止へ。長崎駅まで走って長崎新幹線に乗り、リレーかもめと福岡市営地下鉄で赤坂駅に到着した時刻は17:27。18時には終了してしまうPIKMIN BLOOM TOUR FUKUOKA 2024に30分ほどでしたが、参加してまいりました。折しも、福岡城ではさくらまつりが開催されていましたが、今年は桜の開花が遅く漸く咲きそろってきたという感じでした。天守台にはイルミネーションの天守が組みあがっていました。まだ点灯はしていませんでしたが。この後は、福岡空港に向かい株主優待の航空券で帰路へと着きました。

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うさ

神奈川台場 (2024/05/05 訪問)

公園があり、その近くの民家の隙間に石垣が残っています。

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にのまる

甲武国境越えと杉田屋敷 (城びと未登録・東京都西多摩郡奥多摩町) (2024/04/14 訪問)

春もうららな行楽日和の日曜日、中央線と青梅線を乗り継いで奥多摩へ出かけました。
山小屋風の駅舎がとても素敵なJR奥多摩駅は東京都最西端の駅です。
駅前の観光案内所で散策マップを数種類いただき西東京バスに乗り込みます。臨時便も出るほどの混雑ぶりでしたが奥多摩の大自然に吸い込まれるようにみなさん下車していかれました。ハイキングコースや観光スポットが沿線にはいくつもあるようです。

車窓を彩る雄大な自然や奥多摩湖を眺めながら約30分間のバス旅を楽しみ、奥多摩駅から36駅目の「留浦(とずら)」停留所で下車しました。
「留浦」は東京都最西端のバス停です。終点ではないので次のバス停は山梨県。県境越えのバスなんて太川さん大喜びしそう(*^▽^*)

ここまで来たらもちろん歩いて“ぴょ~ん”と都県境越えをしたいところですが、その前に湖畔に下りてみました。「秩父多摩甲斐国立公園」の構成要素である奥多摩湖は正式名称を小河内貯水池という戦前から戦後にかけて造られた人造湖です。
お目当てのひとつだった留浦浮橋(麦山浮橋も)は水位低下のため通行止めで橋も外されていましたが、周辺には渇水によって湖底から姿を現したか上流から流れついたかと思われる年代物の“ママレモン”の容器や動物の頭骨(熊かも?)など、人々の暮らしや自然界の生き物たちの痕跡が見られました。

いつか水位が戻ったら浮橋を渡りにまた来ることとし、鴨沢橋を渡って山梨県丹波山村にぴょ~んと入りました。城びとらしく言うと甲武国境越えです。青梅街道が塩山や甲府まで通じていますが、境目に立つとなかなかディープな場所に来たものだと感慨深かったです。

ここからが本題なのですが、国境における戦国時代末期の甲州側の守将は小菅の川久保に館をもつ武田氏の家臣小菅遠江守信景、武州側は小河内の川野に館を構える杉田入道重長とその一党で、表題の【杉田屋敷】は杉田入道重長の屋敷跡のことのようです。城びとには未登録ですが、“ニッポン城めぐり”に登録されていたので今回レポートさせていただきました。しかし、屋敷跡と推定される場所は奥多摩湖の湖底。ダム建設の際に小河内村と共に沈んでしまっています。
※帰りに寄った「水と緑のふれあい館」に戦国期の資料や解説、中世文書の展示があり、私の乏しい知識を補ってくれました。

街道沿いの雲取山登山口に向かうあたり(山梨県)でお食事できるところをさがしたのですがあいにく開いていなかったので、東京都に戻って深山橋の手打ち蕎麦「陣屋」さんへ行きました。いただいたのは「そば定食(ご飯なし)」。この素朴さが最高の贅沢なんだなーと思いながらおいしくいただきました。

その後再びバスに乗って、小河内ダムの見学に行きました。
どこを切り取っても美しい、いつまでも見ていたい(でも夜は怖いかな)景色が目の前に広がります。都心の桜は既に見頃を過ぎていましたがここでは山桜がまだ山々を彩っています。都会のアスファルトに散る花びらには花のいのちの儚さを思いますが、風に吹かれ空を舞う花びらに寂しさなどは少しもありませんでした。
今でも鮮やかにそれらの景色が目に浮かんでくるのですが、合わせて読んだ『日蔭の村』(石川達三著)を思い返すと、山の中腹に立つ民家はダム建設にあたって高台に移転を余儀なくされた人たちの家なのかもしれませんし、観光客としての視点では見えてこない歴史があることを思います。
ダムに沈んだ村のこと、家や仕事や将来の希望も失った人のこと、建設工事で命を落とした人たちのことも記憶していたいと思いました。

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シェル

雨の一乗谷 (2024/02/25 訪問)

 福井駅東口の京福バスの窓口にて「休日フリーきっぷ」を購入して、福井駅西口6番バスのりば から乗車。約40分で「復原町並」のバス停に到着し、攻城開始!!
(休日フリーきっぷは、京福バスの路線(福井・一乗谷・越前大野・丸岡など)が乗り降り自由になるので、かなりお得です!!)
 雨模様であったため、山城には行かず谷を 朝倉館跡→中御殿跡→諏訪御殿跡→復原町並み→朝倉景鏡屋敷跡→下城戸の順で見学。
 日本100名城のスタンプは復原町並南側の入り口で押印。
 復原町並では、雨模様であったということもあり、ほぼ貸し切り状態で見学させていただきました。建造物内は当時の様子の再現が展示されており、なかなか興味深かったです!!
 また一乗谷北側の下城戸の土塁と水堀、さらに巨石で構成された虎口は迫力満点でした!!
 
 雨の一乗谷の醸し出す幻想的な雰囲気もなかなか味があり良かったです!!

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しんちゃん

石垣や土塁、堀切などの土塁も楽しめる。 (2023/12/30 訪問)

楯岩城を主郭から西側に降って行って周囲に巨岩があるあたり、少しわかりにくい場所に石垣が有ります。右手に回り込んで下から見上げると、向かって北側に石垣がついていました。ぴーかるさんの投稿にある二の丸虎口の周辺です。西の少し広い郭(三の丸?)には土塁が残っています。ある程度まで降りて行って、ひとしきり遺構を見たら、主郭に引き返します。改めてこの城址は岩の多いところです。主郭の北側にも堀をいくつか配して背後の守りを固めています。
どうも東の小高いピークも城山と呼ばれているようです。楯岩城の支城かな? と思いましたが訪問はしませんでした。先は長いので体力温存です。
楯岩城は標高250mの大山の山頂部に築かれており鎌倉時代末期に三浦大輔が居城したとされますが、詳細は不明です。現在の楯岩城を築いたのは赤松範資の子則弘(広岡氏の祖とされる)で嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際に落城しています。広岡氏の一族がその後も在城し、その後 浦上氏と結んで置塩城の赤松惣領家(屋形)や龍野赤松家と争ったとの話もありますが、羽柴秀吉に攻められ落城したことだけは確かなようです。

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モト

中世の宇土城は土の城 (2024/05/03 訪問)

曲輪や空堀が本郭を守る中世の城が味わえました。
近くにある宇土城には石垣が、ココ古城は丘陵を利用した土の城の縄張りを味わえます。

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モト

石垣の残る小西行長の城 (2024/05/03 訪問)

城跡は公園になって見学しやすくなってました。
小西行長の銅像が建ってます。
駐車場を少し歩くと石垣があります。
だいぶ草が生えて覆われてきておりましたが、素晴らしい石垣が顔を覗かせてました。
すぐそばに宇土古城もあります。
もちろん、そちらも登城します。
中世と近世の変化をセットで楽しんでまいりました。

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しんちゃん

赤松氏の築いた山城 (2023/12/30 訪問)

楯岩城は去年の年末に訪問した山城です。西側から登山道が続いているようですが、私は東側より途中まで林道を車で進み、そこから徒歩で進みました。入口はチェーンで封鎖されていますが、山ライダー三人組が狭い隙間から出てきました。マジですか‥。
しばらく林道を歩きますが、搦め手からの訪問なのでいきなり主郭です。風情に欠けるなあ‥そこから下に降って遺構を見に行きます。

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しんちゃん

永源寺 東近江屈指の紅葉の名所 (2019/11/23 訪問)

永源寺は近江守護の佐々木氏頼(六角氏頼)が寂室元光禅師に帰依し寂室元光を開山として創建したとされています。東近江の紅葉の名所で多くの観光客で賑わっていました。京都などは外国の観光客でごった返してましたが、東近江の紅葉の名所は、ほとんどが日本の観光客でした。まだコロナ禍に入る前で、なんか懐かしいですね。
永源寺も戦国時代には二度も戦火に見舞われ全山が焼失し衰亡しています。これに関しては織田信長の焼き討ちとは無関係のようですが、三重県いなべ市にある永源寺の寺院は滝川一益の軍勢によって放火され焼失してしまったようです。

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しんちゃん

長浜市石田町周辺 石田三成ゆかりの地 (2019/11/24 訪問)

石田町周辺には石田会館以外にも石田三成ゆかりの場所やパネルなどが豊富にあり、彼が地元の人にどれだけ愛されているかが良く伝わってきます。観音寺は石田三成と羽柴秀吉の出会いの場所とされ、秀吉のために三成がお茶の水を汲んだとされる古井戸(池)が残っています。
また観音寺は秀吉が城主を務めたとされる横山城に繋がるルートにもなっています。
石田八幡神社には石田三成一族とその家臣の供養塔が有ります。関ヶ原の合戦後に村人が秘かに埋めて隠していた五輪塔や宝篋印塔が昭和16年に発掘され、昭和48年に整備されたものです。境内には三成の詠んだ歌や辞世の句の句碑などが立てられています。

石田八幡神社‥滋賀県長浜市石田町576
観音寺‥米原市朝日1342
石田三成産湯井戸‥長浜市石田町644

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朝田 辰兵衛

「青天を衝け」聖地巡り✨ (2024/02/25 訪問)

高島秋帆幽閉の地にやってきました。初回放送ながら,みなさん印象深いシーンとして心に残っているようで,自分自身も人並みであると安堵しました…<笑>。
雨風が強まり,何度も傘があおられたので,ここで越後に引き返しました。ホテルから借りた☂だし…。

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もも

白河小峰城と桜 (2024/04/13 訪問)

綺麗な石垣と櫓門!公園になっていて常に賑やかです!

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もも

二本松霞ヶ城の桜宴 (2024/04/13 訪問)

憧れの二本松霞ヶ城と桜と宴!周辺には桜回廊や菜の花

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もも

弘前城桜 (2024/04/21 訪問)

久々の弘前城にて夜桜みてきました!

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海軍舞鶴鎮守府 舞鶴要塞 建部山保塁砲台 (2024/05/05 訪問)

「城びと初投稿いただきます」(ぴーかるさん投稿からのぱくり)。急峻な斜面と広い山頂部をもつ、いかにもな山体。標高(ほぼ比高)316m。登山口の説明板が退色して読めません(^^; 他サイトの10年前の写真を拝見すると、「南北朝時代に、丹後国守 一色氏の守護所の背後に築かれた。明治に、海軍舞鶴鎮守府 舞鶴要塞 建部山保塁砲台が建設された。丹後富士とも呼ばれ、八合目に小池がある」由。
砲台建設時に作られたと思われる緩やかな幅広の道が山頂まで続きます。馬車で資材を運んだのでしょうか。緩やかな分、距離があり(3km)、行きも帰りも同じくらい(45分ほど)かかりました。途中に、水が染みだしている箇所があり、小池の水源でしょうか。
山頂の保塁の保存状況は良く、内部にも入れます。舞鶴湾入口に砲台がいくつか作られましたが、湾の奥のこの砲台は、敵に湾へ侵入されたり、上陸された際の守りを担うのだと。
木がだいぶん繁っていて、眺望の写真を撮るのに木々をかき分けかき分け。山城の遺構は、保塁建設で、なくなっていると。登山口表示が道路から入った所にあり、ちと分かりにくいです。

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カズサン

【越中 放生津台場】富山県射水市 台場は放生津八幡宮裏北側? (2024/04/20 訪問)

 放生津城を終えて北陸路17番目北に約700m程の放生津台場を初登城しました。

 駐車場:特に無し、放生津八幡宮鳥居前の空エリアに路駐
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
 住所:富山県射水市八幡町2丁目2-27

 先ず鳥居を潜り参拝し境内を一巡するが台場跡の案内板、指示板が無く、スマホのグーグルマップを起動して放生津台場跡を確認、案内板は無し、神社裏手の丸石垣で高まったあたりに「奈呉乃浦」石碑が立つ辺りが放生津台場跡の様です。
 砲台場に関しては唯一八幡宮鳥居の前に在る「放生津八幡宮の由来」に三行の文章に記載されてるのみ。
 記載文章は「江戸時代には歴代加賀藩主に崇拝され、嘉永3年(1850年)13代藩主前田斎泰が参拝した際には、当宮裏手に砲台場を設けるため視察した。」と有りました。

 宮司さんにお聞きした処、古老の話として戦前までは砲台跡の痕跡が在ったそうです。幕末か日清、日露か?良く分からないそうです。

 ここは新湊、富山新港が近く旧海王丸が係留されていますので見学に行きました。
 
 今回の北陸路城廻の締めは何年かぶりの高岡城へ。
 

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カズサン

神保氏の居城 (2024/04/20 訪問)

 安養寺城(勝興寺の安養寺御坊跡)を終えて北陸路16番目北東に約28km程の放生津城を初登城しました。

 駐車場:特に無し、放生津小学校正門前の空きスペースに路駐(36°46'32"N 137°05'21"E)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 登城日は土曜日で小学校は休み、校門は開いていましたのでグランド西側を進み、遺構の有る北側へ北側東西約100mが公園の様に成っていて、城址と刻まれた自然石碑、隣に放生津城跡案内解説板が立っている、土塁よ様な土盛りが北側一帯と少し低い土盛りが東側に在りますが、遺構の土塁ではないようです、案内板によると遺構はグランド土の下に在りと記載されています。

 案内解説板によると。
 放生津城は越中守護の畠山氏の重臣で守護代神保氏の居城である。明応2年(1493年)室町幕府将軍足利義材(義稙)が京都の政変を避けて越中に逃れた。義材は放生津城主神保長誠に支えられて放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙した。
 義材のもとへ公家、大名、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れ放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えた。その後の長尾氏上杉氏、織田氏、佐々氏、前田氏との攻防も有りますが豊臣期、江戸期は前田氏の領有となり廃城された。江戸後期には加賀藩の蔵屋敷と成り、現在は放生津小学校が建てられてる。

 城域は、本丸と二の丸からなり、本丸は南北約126m、東西81m、二の丸は南北約50m、東西約36mの大きさ。現在遺構は全て地中に埋もれている。発掘調査は昭和63年、平成元年、平成3年に行われている。

 土曜日で児童もお休みであまり気にせず探訪が出来ました。
 この後は直ぐ近くの放生津台場跡を訪ねます。
 

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イオ

乾櫓特別公開 (2024/05/03 訪問)

西の丸北西隅に建つ乾櫓は、大坂夏の陣の後の大改修により築かれた城内最古の二重櫓で、L字形で一階と二階の面積が同じ総二階造りが特徴です。大手口から京橋口までを広く見渡し、南の上町筋、西の高麗橋筋、北東の京街道からもよく目立ったことから「三方正面の櫓」とも呼ばれました。徳川期の大改修が完成すると三代将軍・徳川家光が乾櫓を訪れ、堀端に呼び集められた町民を前に金の采配を振るって大坂の地子免除を宣言し、大坂城の城主が徳川将軍であり豊臣から徳川の治世となったことをアピールする舞台ともなりました。

乾櫓の内部は通常非公開ですが、9年ぶりに特別公開されるとのことで行ってきました。西外堀越しにも西の丸からも外観は何度も目にしていましたが、改めて見てみると櫓台の石垣に化粧が施されていることに気付きました。それでなくても徳川将軍の城ですが、家光自らか来るとなればそりゃ化粧も必要ですよね。

内部は3つの内室の外周を武者走りが囲む間取りで、二階への階段(二階は非公開)が2つあり、西面と北面には16箇所の隠し狭間と出張に4箇所の石落としが設けられています。通常は非公開のためか床にはちょうなの痕がはっきりと残っていました。北西隅には家光の故事にちなんだ陣羽織と金の采配が備え置かれ(着用して写真撮影できます)、そばの窓から覗いてみると、上町筋、高麗橋筋、京街道が三方にのび、なるほど三方正面の櫓であることを実感しました。その他、乾櫓の修理時に交換された鯱瓦や懸魚、説明パネルが展示されています。

姫路城の西小天守特別公開が300円だったことを思うと、西の丸庭園の入場料と乾櫓記念符付きとはいえ、乾櫓のみで800円、大手口多聞櫓と千貫櫓込みで1500円はいささか高いようにも思われますが、それでもやっぱり念願の乾櫓を見学できて良かったと思ってしまうのは惚れた弱みというやつでしょうか(笑)
 

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三浦の晃ちゃん

整備は、まだ、途中 (2024/05/06 訪問)

途中まで、舗装された道があります。道の駅に車を置いて、往復40分ぐらいです。ところどころ、石垣があります。他は、何となくですが、廃城された時に、破却されたのかなと思いました。

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todo94

佐世保鎮守府周遊ラリーの後に (2024/03/28 訪問)

佐世保鎮守府周遊ラリーの最後のキーワードを旧佐世保鎮守府凱旋記念館で手に入れ9つのキーワードがすべてそろいました。時間にはまだまだ余裕があったので、2023年末に登城を断念していた佐世保城へと赴きました。亀山八幡宮に駐車させていただき、雨中の城攻めです。石段の先に堀割が見えます。堀割に向かって右手が出丸のようですが、こちらの方が本丸の雰囲気をまとっています。堀割の左手は急峻な岩盤をロープを伝ってよじ登ります。こちらが本丸のようですがフェンスに阻まれてあまり先へは進めませんでした。実は2023年12月に今回踏破した場所のフェンスの向こう側は散々さまよっているのでこれで撤退することにしました。この日の夕食はくっけん広場にて護衛艦カレーをいただきました。昔ながらの香ばしさがあっておいしかったです。佐世保のホテルに連泊して、翌日、黒島にわたって無事、佐世保鎮守府周遊ラリーを完遂することができました。終了2日前の駆け込みだったにもかかわらず、先着150名のカードケースをいただくこともできました。

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