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イオ

本圀寺(京都市下京区柿本町) (2024/07/06 訪問)

本圀寺(城びと未登録)は、鎌倉中期に日蓮が鎌倉に建立した法華堂を起源とする法華宗の大本山で、南北朝期に京都に移ると室町幕府の庇護のもと隆盛を誇りましたが、戦国中期には比叡山・六角勢の焼き討ちにより焼失(天文法華の乱)。再建される際に城郭化を進めたようで、第15代将軍・足利義昭の上洛時には仮御所となり、三好三人衆の襲撃を撃退しています(本圀寺の変)。本圀寺の変を受けて二条古城が築城されると建物や什器(の一部)が二条古城に運び出されたり、豊臣秀吉により南半分を本願寺に割譲させられたりしながらも、江戸初期には徳川家康により寺領を安堵されました。その後、徳川光圀の帰依を受けて本国寺を本圀寺に改め、昭和に山科に移転して現在に至ります。

本圀寺は明智光秀が歴史の表舞台に初めて登場した地でもあり、前々から行ってみたいと思っていましたが、本圀寺の変の頃の本圀寺跡は西本願寺の境内と駐車場、その北側は住宅地になっていて城郭寺院としての遺構は消滅しており、かろうじて五条通北側の万寿寺通沿いに立てられた大本山本圀寺の題目碑(と朝鮮通信使ゆかりの地の説明板)と西本願寺北西側の大宮通から東に少し入ったところの題目碑の位置関係から、往時の規模の壮大さを想像することができるくらいです。
 

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todo94

お盆の攻城③ (2024/08/15 訪問)

旧新田郡の太田市を抜けて群馬県最東端の邑楽(おうら)郡へと進みます。上毛カルタで「鶴舞う形の群馬県」と詠まれている群馬県の鶴の首にあたる部分が邑楽郡です。高崎からは隣県栃木県の足利市の方が近いので県内といえどもなかなか足を伸ばしにくい地域ではあります。とある煩悩の登城目録さんに倣って合格の門と日本初の女医さんの石像なども見て回りました。その奥の池では睡蓮も咲いていました。光恩寺本堂の裏手にある堂山古墳の土塁も城の遺構のように見えてしまいます。

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シャンシャン

三大平山城のひとつ (2024/08/18 訪問)

夜の広島城ライトアップと木造復元二の丸を見に。
黒色の武骨な天守はライトアップされてもかっこいい!
築城400周年に木造復元された二の丸内部は、表御門から長い渡り櫓まで木の床を踏みしめる感覚は何とも言えない心地よさがある。
一応、天守の木造復元計画もあるようなので、いつになるかわからないけど是非とも実現して欲しい。

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しんちゃん

生生流転 (2024/05/03 訪問)

藤沢御殿は東海道上の相模国の藤沢に慶長元年(1596)頃に築かれたとされています。「慶長記」には家康公が慶長5年(1600)に鎌倉遊覧のために訪れたと記載があるのを初めとして、秀忠・家光と三代に渡って28回使用されているようです。
寛永11年(1634)に利用されたのが最後であり、明暦の大火(1567)に伴う江戸城再建のために資材として建築物が持ち去られ、後に耕地となったようです。表御門は東海道に面した南側に築かれ、6千坪もの敷地を持ち、周囲を水堀と二重の土塁で囲まれた立派な城郭造りであったようですが、今は堀跡に案内板が立っているのみで、御殿と関係ないであろう謎の顕彰碑が立っています。

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しんちゃん

野田の城山 マイナーだが地元の方々によって支えられている。 (2021/02/23 訪問)

静岡県島田市野田の「野田の城山(じょうやま)」の投稿です。城びとの城でもないし城郭大系にも載っていませんが、地元の「城山を学ぶ会」の皆さんの活動によって整備が進められています。
城山は島田市街地から大津通りを1.5km北上した藤枝バイパスの野田インター背後の比高95mの小山の上に築かれています。先行研究では南北朝の時代に駿河南朝方の佐竹兵庫入道・藁科他が立てこもった大津城ではないかと考えられています。
今川範氏は足利尊氏に南朝方の討伐を命じられ、伊達景宗らを率いて観応3年(1352)8月20日大津城を攻撃しました。城兵は激しく抵抗しましたが9月8日に大井川上流川根の鴇彦太郎の「徳山城」に落ち延びて行ったとされています。
「駿河志科」には戦国期に武田氏家臣の初鹿傳右衛門が在城したた記されているようです。また大津城の候補地には諸説あるようです。登城ルートは①中央公園ルート(南側) ②野田ICルート(東側) ③安間堰ルート(北側)の三つがあり、私は③を選択しています。
途中、城山古墳のある郭が有り、いくつかの堀切を越えて最高所の主郭に到達しました。主郭からの眺望は良く、周囲に腰郭が配され、三方の尾根上にも郭や堀切が配されています。

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朝田 辰兵衛

武田方の北信濃軍事拠点🏰 (2024/05/06 訪問)

上杉方の飯山城を見据え,武田方の北信濃軍事拠点として築かれたと伝わります。
JR替佐駅から,徒歩約20分で登城口に到着。散策は冬枯れシーズンがおすすめです。
内堀館とセット攻城を計画するなら,JR上今井駅も徒歩圏内です。飯山線の運行ダイヤを考えると,往路か復路のどちらかで「徒歩の1駅スルー」がおすすめです。

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しんちゃん

加太・城ヶ崎の和泉砂岩  雑賀崎台場の余り (2024/02/25 訪問)

和泉砂岩の産地を見たくて、加太の城ヶ崎に寄って来ました。この地域の地層は和泉層群と呼ばれ、泥岩と砂岩が交互に積み重なって出来た、白亜系の典型的な砂岩泥岩互層となっているようです。ただ、この日は天候も悪く、車を留める場所も無く、潮も満ちて来ていたのでタイミングが悪いと思い、県道65号によって分断された丘陵の断面の確認で済ませました。
断面を見ると確かに和泉砂岩です。見た目に脆そうだけど、こういった石をせっせと切り出して岸和田城や和歌山城に使っているようです。和泉砂岩とはいえ産地は広く、阿波や淡路でも採取できます。
撫養城は地元で採取された撫養石を使用しており、神社の裏の石積みがそうだったと思います。洲本城は西の丸に和泉砂岩の採取場があるようですが、去年訪れた時には立ち入り禁止になっていました。
叶堂城は感応寺の移転の際に、かつての石垣は失われ一部が積み直され残っているようです。遺構が消滅する前に製作された資料には石材の記載が無いですが、資料を見た限りでは、地元で取れた和泉砂岩で間違いないと思います。何せボロボロですので。
資料の使用許可ももらっているので、またいずれ叶堂城にかかわる投稿もしたいと思っています。

後半の写真は雑賀崎台場の写真の残りです。周辺で豊富にとれる緑泥片岩を石垣に利用しており、ここで採取される石は和歌山城の主要部に多用されています。


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零汰

ひっそりと空堀と土塁 (2022/05/24 訪問)

四国を横断してフェリー乗り場に向かう途中に寄り道してこちらを訪問しました。表示板が有ったので直ぐに分かりました。そこはお寺です。平地では無いのであわよくば遺構が残っているかもしれない。

散策しながら標柱など写真に収めるが一寸物足りない。そこで付属建物の裏に行ってみると小さな階段が。登ってみるとビンゴ!最初は物見と思っていた場所に小さな祠が有ります。そして左下には空堀らしい光景が目に入りました。早速降りていくと確かに空堀、そして物見と思っていた場所は土塁の最高所でした。正にひっそりと空堀と土塁。満足してその場から脱出すると石垣が目に付きました。いくら何でも出来すぎだろう。

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零汰

断念 (2024/05/25 訪問)

こちらは岬上に城跡が有り直下にトンネルが通っています。写真1で説明すると左がトンネルへ、右が旧道です。勝手な想像ですが、旧道は岬の付け根付近に有りますので往時の堀切か岬を横断する小道が元々有り、それを拡幅等で作ったのだと思います。そこで岬の付け根の最高所に登れる道探しましたが旧道は住宅が密集していて見つける事が出来ません、写真を撮って早々に断念しました。

帰宅後に復習していると勘違いをしていた事に気が付きました。どう考えても岬の先端が主郭なのじゃないか?トンネルに入る道路の海側に入口があるではないだろうか?今ではそれが正解だと考えています。何方かこちらにお越しの際は訪問して投稿されることをお待ちしています。

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WEST

岩崎城探訪 (2024/08/13 訪問)

愛知県にある岩崎城を訪問しました。岩崎城は丹羽氏の居城で、あの長久手の戦いにおいて徳川家康が勝つことができた重要な「岩崎城の戦い」があった場所です。
アクセスは、まず地下鉄東山線の名古屋駅から星ヶ丘駅へ、次に名鉄バスにて星ヶ丘駅前から岩崎御岳口バス停まで行きます。バス停からは徒歩6分程度となりまあす。トータル1時間弱で着きます。
岩崎城は関ケ原の戦いの後に廃城となってしまいましたが、公園として整備され、城内には土塁、空堀の遺構など、当時を偲ばせるものがあります。
現在、本丸には模擬天守が建てられており、最上階に登ると街並みを見ることができます。
隣接して岩崎城歴史記念館があり、岩崎城のパンフレットが常備されており、城内散策の一助となります。

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WEST

清洲城探訪 (2024/08/12 訪問)

清洲城を訪問しました。織田信長が桶狭間の戦いにおいてここから出陣したとか、本能寺の変後の信長の後継者を決めた「清須会議」の場所でもあり、戦国時代の重要なお城となります。
アクセスはJR東海道線の清洲駅からです。駅からは徒歩にて約15分程度となります。
現在の清洲城は、遺構はほとんどありません。しかし、模擬天守となりますが威風堂々とした天守閣が建っています。(東海道新幹線の車窓からも眺めることができます)
隣接する清洲公園には、織田信長像とお濃の方の像があり、清洲古城跡公園では、織田信長公を祀る小社が建っています。是非立ち寄ってみてください。

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宗春

夏休み中にちょっと城めぐりしよう その3 (2024/08/17 訪問)

会社の夏季休暇にいくつか城めぐりしました。
3城目は彦根城。

帰省中の名古屋から青春18きっぷを使って彦根まで行って来ました。 目的は、JR東海の「EXたび」で「湖上から彦根城を眺めよう」というミニクルーズプランがあり、ひこにゃんと新幹線とコラボした特別な御城印付きだったため。
ただ、クルーズの名称から彦根城を眺めるのがメインだとばかり思っていたのですが、琵琶湖の案内がほぼ100%で、クルーズの帰りに遠くから彦根城も見えますよ的な内容でガッカリでした。
もちろん、せっかくなので入場料を払って間近でも見学して来ました。

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宗春

夏休み中にちょっと城めぐりしよう その2 (2024/08/16 訪問)

会社の夏季休暇にいくつか城めぐりしました。
2城目は岡崎城。

JR東海の「EXたび」で新幹線とコラボした特別な御城印付きのプランがあったため飛びつきました。
岡崎城は何度も訪れているため、写真は1枚だけ。夏限定「金龍と花火」の御城印も合わせて入手しました。

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宗春

夏休み中にちょっと城めぐりしよう その1 (2024/08/15 訪問)

会社の夏季休暇にいくつか城めぐりしました。
1城目は久能山城。

帰省中の名古屋から青春18きっぷを使って静岡まで行って来ました。実は本当の目的は久能山東照宮の「プラモデルランナー風御朱印」を頂くことでした。
久能山城はほとんど遺構が遺されていませんが、ロープウェイの久能山駅から久能山城の石垣を見る事が出来たので写真を撮りました。

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赤い城

お茶屋グラウンド (2024/08/04 訪問)

倉敷天城高校の野球部グラウンドが跡地で遺構は無さそう。
ただ、グラウンドヘ登る道はカーブしていて虎口っぽい感じなのは気のせいなのでしょうか。
グラウンドの前に「お茶屋のあと」の石碑が立っています。

近くの静光寺には陣屋総門が移築されています。
お寺がいくつか並んで建っていますが何か理由があるんでしょうか。
前回レポートの下津井城の門が移築されている正福寺も徒歩圏内にあります。

一国一城令で下津井城が廃城となった際に池田由成が築いた陣屋です。

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しんちゃん

杉山城 おまけ (2024/05/06 訪問)

杉山城のおまけです。北二の郭の先は道が枡形か、喰い違い虎口のようになっています。北三の郭の先は搦手になっており、土塁を備えた虎口が付いています。そこから下りに入って、山から脱出しました。車で来られている場合は、近くに駐車場が有るはずです。
10年ほど前にも訪れていますが、今回の訪問でも以前と同じくらい楽しませてもらえました。

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しんちゃん

ようやく本郭に到達 (2024/05/06 訪問)

杉山城投稿の続きです。井戸郭から西側をぐるっと回り込んで、本郭の北虎口にたどり着きます。前々回の投稿では北二の郭と書いた記憶がありますが直接、本郭にたどり着くのが正解ですので、ここで訂正させていただきます。
本郭の周辺には土塁が良く残っており(復元?)東側に虎口が空いています。今回は省略しましたが、次に訪れる時には、東の郭も探索してみたいと思います。
大手から登城して来ましたが、帰りは北の郭を通って下山します。まだもう少し楽しませてもらえそうです。

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零汰

二重空堀 (2021/11/03 訪問)

こちらは道路沿いにある標柱の直ぐ後ろには二重空堀の外堀の断面が見えていおり、そこから城内に入って行くことが出来ます。内堀端部は塞がれていて外部からは存在すら気付く事は有りません。

主郭の西・北面を囲うように二重空堀、時には平坦部となっています。南は道路、東は谷となって二重空堀の端部はそこに接続しています。内堀はこちらでは見る事のない綺麗な断面しています。南国と言ってもこちらの土質はシラスと違います、それで綺麗な断面が作れるのでしょう。但しちょっと土質に粘りが無いようです。何度か土塁の上り下りして歩いたところ土が柔らかく歩きずらい、その度に靴に土が入ってきました。こんなに靴に土が入る城跡はそうそう有りません。土塁は硬いはずと思い込んでいましたので驚きました。

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朝田 辰兵衛

直線ではない北東辺は… (2024/06/08 訪問)

天守台跡の北東辺だけ直線ではありません。鬼門除けの隅欠的意味合いなのかな…と,考えてしまいました。たぶん,こんなパターンは他には例がないと思います。
本丸自体は,ほぼ方形だったと伝わりますが,現在は住宅地となり,遺構はないとのこと。
南北朝時代に,寒河江城の支城として築かれたと伝わります。

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零汰

もう一歩進んでいたら (2024/05/25 訪問)

こちらに到着した時に何だか不思議に思いました。辺りを見渡すと標柱が有り小さく染川城とある。ここが正解のようです。

土塁に見える高まりが西から東に続いています。足元には何やら堀の様に見えアヤメの様な植物が育っていました。よく見ると水が溜まっていたので水堀なのかもしれません。じゃあ土塁と水堀の組み合わせなでおかしく無い、ではこの裏(北側)が城跡なのだろうと道路を進みました。しかしこの道路は東に向かって土塁から遠ざかっていく。150m程進んで行くと蔦の巻き付いた倒木が道路を塞いでいました。蔦は深かったので暫くの期間ここには誰も来ていないのでは無いか?跨ぐかどうか考えていた結果引き返してしまいモヤモヤの残る訪問でした。

帰宅後の復習の時間、先輩投稿写真と見比べてみた所、倒木の先に曲輪が映りこんでいる。もう一歩進んでいたらモヤモヤが晴れていたのにと反省。と同時に疑問に思いました。入口の土塁と水堀は城跡に関係あったのか?土塁だけならおかしくはないと思う。それなら水堀は後年の物?距離も遠いし方向も違う、配置的に不思議に思います。モヤモヤ去って違うモヤモヤ。どなたかこちらに訪問された際は是非とも結果を投稿ください。

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