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カズサン

神保氏の居城 (2024/04/20 訪問)

 安養寺城(勝興寺の安養寺御坊跡)を終えて北陸路16番目北東に約28km程の放生津城を初登城しました。

 駐車場:特に無し、放生津小学校正門前の空きスペースに路駐(36°46'32"N 137°05'21"E)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 登城日は土曜日で小学校は休み、校門は開いていましたのでグランド西側を進み、遺構の有る北側へ北側東西約100mが公園の様に成っていて、城址と刻まれた自然石碑、隣に放生津城跡案内解説板が立っている、土塁よ様な土盛りが北側一帯と少し低い土盛りが東側に在りますが、遺構の土塁ではないようです、案内板によると遺構はグランド土の下に在りと記載されています。

 案内解説板によると。
 放生津城は越中守護の畠山氏の重臣で守護代神保氏の居城である。明応2年(1493年)室町幕府将軍足利義材(義稙)が京都の政変を避けて越中に逃れた。義材は放生津城主神保長誠に支えられて放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙した。
 義材のもとへ公家、大名、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れ放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えた。その後の長尾氏上杉氏、織田氏、佐々氏、前田氏との攻防も有りますが豊臣期、江戸期は前田氏の領有となり廃城された。江戸後期には加賀藩の蔵屋敷と成り、現在は放生津小学校が建てられてる。

 城域は、本丸と二の丸からなり、本丸は南北約126m、東西81m、二の丸は南北約50m、東西約36mの大きさ。現在遺構は全て地中に埋もれている。発掘調査は昭和63年、平成元年、平成3年に行われている。

 土曜日で児童もお休みであまり気にせず探訪が出来ました。
 この後は直ぐ近くの放生津台場跡を訪ねます。
 

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イオ

乾櫓特別公開 (2024/05/03 訪問)

西の丸北西隅に建つ乾櫓は、大坂夏の陣の後の大改修により築かれた城内最古の二重櫓で、L字形で一階と二階の面積が同じ総二階造りが特徴です。大手口から京橋口までを広く見渡し、南の上町筋、西の高麗橋筋、北東の京街道からもよく目立ったことから「三方正面の櫓」とも呼ばれました。徳川期の大改修が完成すると三代将軍・徳川家光が乾櫓を訪れ、堀端に呼び集められた町民を前に金の采配を振るって大坂の地子免除を宣言し、大坂城の城主が徳川将軍であり豊臣から徳川の治世となったことをアピールする舞台ともなりました。

乾櫓の内部は通常非公開ですが、9年ぶりに特別公開されるとのことで行ってきました。西外堀越しにも西の丸からも外観は何度も目にしていましたが、改めて見てみると櫓台の石垣に化粧が施されていることに気付きました。それでなくても徳川将軍の城ですが、家光自らか来るとなればそりゃ化粧も必要ですよね。

内部は3つの内室の外周を武者走りが囲む間取りで、二階への階段(二階は非公開)が2つあり、西面と北面には16箇所の隠し狭間と出張に4箇所の石落としが設けられています。通常は非公開のためか床にはちょうなの痕がはっきりと残っていました。北西隅には家光の故事にちなんだ陣羽織と金の采配が備え置かれ(着用して写真撮影できます)、そばの窓から覗いてみると、上町筋、高麗橋筋、京街道が三方にのび、なるほど三方正面の櫓であることを実感しました。その他、乾櫓の修理時に交換された鯱瓦や懸魚、説明パネルが展示されています。

姫路城の西小天守特別公開が300円だったことを思うと、西の丸庭園の入場料と乾櫓記念符付きとはいえ、乾櫓のみで800円、大手口多聞櫓と千貫櫓込みで1500円はいささか高いようにも思われますが、それでもやっぱり念願の乾櫓を見学できて良かったと思ってしまうのは惚れた弱みというやつでしょうか(笑)
 

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三浦の晃ちゃん

整備は、まだ、途中 (2024/05/06 訪問)

途中まで、舗装された道があります。道の駅に車を置いて、往復40分ぐらいです。ところどころ、石垣があります。他は、何となくですが、廃城された時に、破却されたのかなと思いました。

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todo94

佐世保鎮守府周遊ラリーの後に (2024/03/28 訪問)

佐世保鎮守府周遊ラリーの最後のキーワードを旧佐世保鎮守府凱旋記念館で手に入れ9つのキーワードがすべてそろいました。時間にはまだまだ余裕があったので、2023年末に登城を断念していた佐世保城へと赴きました。亀山八幡宮に駐車させていただき、雨中の城攻めです。石段の先に堀割が見えます。堀割に向かって右手が出丸のようですが、こちらの方が本丸の雰囲気をまとっています。堀割の左手は急峻な岩盤をロープを伝ってよじ登ります。こちらが本丸のようですがフェンスに阻まれてあまり先へは進めませんでした。実は2023年12月に今回踏破した場所のフェンスの向こう側は散々さまよっているのでこれで撤退することにしました。この日の夕食はくっけん広場にて護衛艦カレーをいただきました。昔ながらの香ばしさがあっておいしかったです。佐世保のホテルに連泊して、翌日、黒島にわたって無事、佐世保鎮守府周遊ラリーを完遂することができました。終了2日前の駆け込みだったにもかかわらず、先着150名のカードケースをいただくこともできました。

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しんちゃん

こじんまりとした城址 (2024/04/13 訪問)

大留城は庄内川の北側にある子安神明社の周辺に築かれていたようです。神明社の北側に二の丸の空堀が有るようなのですが、情報が足りておらず確認していません。
築城者であり城主の村瀬作左衛門は小牧・長久手の合戦の際には羽柴秀吉に味方し池田恒興らの大軍はこの城で軍議を行ったとされています。その後、村瀬作左衛門は池田恒興らと共に長久手で敗れ討死したそうです。

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しんちゃん

石田会館 石田屋敷跡・石田三成出生地 (2019/11/24 訪問)

石田会館‥滋賀県長浜市石田町治部576
石田会館は石田三成が生まれた屋敷の跡地に建てられています。三成公にまつわる展示がされており、敷地内には三成公の銅像や石田治部少輔出生地の碑などがあります。三成公のファンの方にとってはぜひとも訪れたい場所の一つだと思います。
この地は関ヶ原の合戦場からも、さほど離れておらず敗戦後に伊吹山を経て長浜市のいずれかに潜伏していたようなのですが、心の中では郷里のことを想っていたのかもしれません。

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HKISD

小牧山城散策 (2024/05/02 訪問)

少し山の中を登っての天守でしたので実感わきました。
全ての戦いはここからだとも言っていました。

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HKISD

犬山城散策 (2024/05/02 訪問)

国宝の天守閣とても良かったです。
城下町での出店も良かったです。

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HKISD

名古屋城散策 (2024/05/01 訪問)

とても広く、天守に入れなかったのは残念でしたが
見応えありました。

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HKISD

清州城散策 (2024/05/01 訪問)

清州会議が行われた場所ですね。
信長の銅像も良かったです。

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HKISD

岡崎城散策 (2024/05/01 訪問)

岡崎城を散策しました。
徳川家康の誕生城。とても良かったです。

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姫街道

静岡県北遠にある大洞若子城 (2024/05/06 訪問)

場所は静岡県天竜区佐久間町、奥山氏の城を武田軍が遠州侵攻時に改修した山城で、高根城の前衛を守備した武田軍の番手城と考える。
特徴的なのが、ニの曲輪の南側にある二重堀切だ。本曲輪に対して内側の堀が箱堀で外側が薬研堀。小規模だが保存状態は良好で、高根城とセットで楽しむ事を推奨している。
登城ルートでの注意点。
R152から橋を渡ると、分岐点の看板に「新道←」「旧道→」とあるが、おススメは新道。
旧道からの登城は巨石が点在する沢を登るワイルドコースで上級者向けだ。

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カズサン

勝興寺の安養寺御坊跡 (2024/04/20 訪問)

 蓮池城を終えて北陸路15番目南西に約3.4km程の安養寺城に初登城しました。

 駐車場:無し、跡地約50m南の道路歩道のやや広い所に路駐(36°27'47"N 136°50'07"E h=60m)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップによる。

 カーナビの目的地を少しずらし過ぎて目的地を見失うも、近くの八幡宮辺りで地元の方に聞き目的地に到着。
 県道274号線を八幡宮角四辻を東に100~150m程行くと右手歩道側に勝興寺跡(安養寺御坊)指示看板が立っている、そこより北に農道50m程に安養寺城(安養寺御坊跡)の跡地に石碑、案内解説板、蓮如上人御文書の一説が刻まれた石碑が石橋を渡って小公園と成っている。約四百数拾年前にはこの辺りに越中門徒の一大拠点である、勝興寺が建っていたのでしょうが、現在は農地改良整備で水田地帯に成って小公園がその跡地を偲ぶ姿と成っている。
 地元の方に聞いた時「安養寺御坊跡」より「勝興寺」の方がよく理解されてる様子でした。

 案内板によると。
 伏木古国府にある勝興寺は、蓮如上人の次男蓮乗が土山御坊を開いたことが起源である。その後移転を経て永正16年(1519年)に当地安養寺御坊を開く。天正9年(1581年)木舟城主石黒氏に攻められ焼失。天正12年(1584年)佐々成政は守山城主神保氏張を通して古国府城地を勝興寺に寄進し、勝興寺は現在の地に再建された。
 
 勝興寺と井波城に在る瑞泉寺とは越中一向一揆二大勢力を誇った、現在の古国府城勝興寺、井波城瑞泉寺の寺院伽藍の彫刻は素晴らしく時間を忘れて見ほれるばかりです、さすが欄間彫刻で有名な井波の彫刻師集団の職人技なのでしょう。
 
 この後は、射水の放生津城へ地道を使って走行。
 

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ぴーかる

見事な2重空堀 (2024/03/02 訪問)

【寺中城】
<駐車場他>野上八幡宮駐車場に駐車しました。八王子厳島神社まで車で行けます。野上八幡宮に一旦入って駐車場北側から狭い道が北に伸びているので道なりに進んで行けば着く。
<交通手段>車

<登城路>八王子厳島神社から西方向の山道に入ります。⇒すぐに電波塔の基地があり、左脇を通り抜けます。⇒谷を降り登りピークに出ます。⇒ピーク(一帯が削平地みたいになっている)を右折し杭に沿って進みます。⇒削平地の先端からロープが要りそうな崖になっています。ピンクリボンが僅かに見えているので、ズルズルと少し降りると貯水池が見えてきます。⇒降りきったら貯水池のほとりに出て堤防上を渡ります。⇒踏み跡の道があるので左手の谷を登ります。⇒登り切ったら土橋に出ます。⇒登った土橋の右手の山、切岸風になったピークを登る。⇒登り切ったら左手の鞍部(植林整備されているのが見える)を行くと主郭が見えてきます。

<見所>2重空堀
<感想>日帰り和歌山山城攻め2城目。初投稿のつもりが投稿にもたついてる間にキンヤさんの2番手になってしまいました。城跡は円形の主郭を2重空堀で囲んでいます。1重目は深い堀で、主郭西側にある長方形の副郭の横堀と繋がっています。2重目の横堀は現在は浅くはなっていますが、1・2重間の土塁は高く見応えがあります。副郭の横堀は曲輪西端に堀切竪堀となっています。城跡手前の土橋・ピークの削平地辺りも城跡かと感じました。小規模ながらなかなか見応えある城跡でした。帰路は貯水池手前のズルズルと降りてきた斜面を今度は急斜面、登るのに少しキツイです。

<満足度>◆◆◇

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城好きのメガネ

「師戸城」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
師戸城は、臼井城の支城として築かれたとされる。臼井四天王の1人として師戸四郎が居城していた。戦国時代には後北条氏の傘下に入る。小田原征伐で後北条氏の滅亡に伴い廃城となる。現在、空堀、土塁などが遺されている。※ 臼井城も併せて散策することをオススメする。

<アクセス>
京成臼井駅 徒歩40分

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城好きのメガネ

「臼井城」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★☆
臼井城は千葉氏の一族、臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(14世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。現在の遺構は15世紀以降のものと考えられる。戦国時代末期には原氏が城主であったが小田原征伐により千葉氏とともに滅亡した。酒井家次が3万石で入り、転封に伴い廃城となる。現在、空堀、土塁などが遺されている。

<アクセス>
京成臼井駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「中泉陣屋」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
中泉陣屋は、徳川家康が伊奈忠次に命じ、鷹狩のための施設として御殿を築いた。その後は、中泉陣屋として遠江・三河・信濃の天領を支配する代官所として利用される。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR磐田駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「横須賀城」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
横須賀城は徳川家康が大須賀康高に命じて築いたとされる。その後、東海道の要衝を守護する地として大須賀家2代、渡瀬家1代、有馬家1代、大須賀家2代と能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、廃藩置県まで西尾氏が治める。戊辰戦争では尾張藩の説得を受け、新政府軍に恭順した。現在、曲輪、石垣、土塁などが遺されている。

<アクセス>
JR袋井駅 秋葉バス「七軒町」下車 徒歩10分

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カズサン

自然石基壇に石碑と解説板 (2024/04/20 訪問)

 木舟城を終えて北陸路14番目南西に約6.3km程の蓮池城を初登城。

 駐車場:無し、自然石基壇の南横に路駐。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 自然石を使用した基壇に松、ツツジが植栽されて自然石の蓮沼城銘記の石碑、蓮沼城跡解説板、城主遊佐加賀守藤原長滋の連歌「たひ人の しつまる月に かねなりて」句碑が立っている。

 解説板によると、城域規模は東西26間(46.8m)、南北36間(64.8m)で周囲に幅5間(9.0m)の堀が有ったとの事。蓮沼城は室町中期越中守護の畠山氏の家臣である守護代遊佐氏の居城であった。遊佐氏一族は文事を好み都より連歌師がしばしば蓮沼城に立寄り句会が開かれた様子、代表作が句碑の刻まれてる。天正13年(1585年)佐々成政の家臣が守備していた蓮沼城を前田利家が攻略した。(解説板抜粋)
 短時間の探訪にて次に安養寺城(安養寺御坊)を目指す。
 

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ゆき

広大な広さ (2023/12/30 訪問)

まさに圧巻です。
本丸までが遠い‥
以前はもっと遠くにあったんでしょうね。
ゾッとします。

年末だったため天守閣の内部は公開されてませんでした。
残念!!
時間がなかったのでさらっとしか見てませんが多分一日かけて回らないとじっくりは見れないと思います。

石垣の発掘調査をやってました、いずれ公開されるようです。

この辺りは大阪の陣絡みの史跡や名残が色々あるのでまたしっかり時間をとって行きたいですね。

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