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しんちゃん

青田山陣場(砦) 静岡県掛川市・掛川城攻めの拠点 (2021/12/31 訪問)

青田山陣場は小笠教育会館の裏の丘陵上にあり、そこからも道が続いていますが、私は南の茶畑から到達しました。陣場は東と西の峰からなり、案内板のある場所は東陣場と思われます。
永禄11年(1568)徳川家康は武田信玄と大井川を境に今川領を分割することを約束し遠海に侵攻、武田軍に駿府を追われた今川氏真は掛川城に籠り、家康は掛川城を攻めます。その際に青田山陣場を陣地としたので、陣場峠の名が残っています。
天正2年(1574)武田勝頼が高天神城を攻めた際には、陣場峠より救援を要請する狼煙が三回揚げられたにもかかわらず救援は来ず、高天神城は武田軍に降ったとのことです。その際に高天神城から浜松城の家康に対して救援要請の使者を務めた匂坂牛之助なる人物は、家康から「救援の確約」を反故にされ、その責任を取らされ、後に浜松城にて切腹を命じられたそうです。

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you

麓より 往時を偲ぶ 安土山 ひぐらし鳴くは 石段の跡 (2024/08/16 訪問)

下山中にひぐらしが鳴いておりました。いとをかし。

滋賀日帰り旅行ということで午前に佐和山城→彦根城の順に訪れ、
午後から帰路途中のJR安土駅で降りて安土城へ。
当初は駅から徒歩で向かう予定でしたが、改札を抜けてレンタルサイクルの文字が目に入り即決。
サイクリングコース内には、同じく近江八幡市にある名城 観音寺城もありましたが、時間の余裕がなく
安土城→信長の館を訪れました。

約200段続く石段がこの城の代表的景観ですが、
麓にある登城口を抜ける前からその景色は広がっており、圧巻の一言です。
少し進むと右手に釣鐘があり、100名城スタンプ設置場所の一つにもなっています。
押捺→鐘ゴーンして引き続き頂上を目指します。
要所要所に本丸跡(天主)を案内する石碑が建てられているので良心的、と言いたいけれど
とにかく段差のある石段がきついです。私は軽装で登ったので、軽い靴擦れを起こしました。
頂上の天主跡には石垣のほか、礎石建物跡と思しき遺構が確認できました。
ここで撮影した写真は、飛行機雲がいいアクセントになっていてベストショットです。
当日の天気は晴れと聞いていましたが、午前中に彦根城を訪れたときには雲が広がっていたので
撮影はしつつも、晴れてたらなおよかったのになんて思ったり、、、

自転車を返して、ホームで電車を待っているときに本投稿のタイトルを考えていました。
前の投稿みたいに一歌詠んでみようと思って何を季語にもってこようか考えていると、
下山しているときに聴こえてきたひぐらしの鳴き声がよぎって「コレだ!」ってなりました。
これからは行く先々でそのお城について一歌詠むのもありかもしれないですね。
そんなに続かない気はしていますが、、、

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HKISD

唐原山城跡散策 (2024/08/18 訪問)

こちらは古代山城だそうです。

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HKISD

大畑城跡散策 (2024/08/18 訪問)

近くの城跡を散策しました。黒田官兵衛に関係ある城跡は全部行きたいですね。

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しんちゃん

お勧めできないイブニング登城。 (2024/07/15 訪問)

日本城郭大系によれば、鎌田城は鎌倉時代に鎌田新藤次俊長によって築かれたとされています。俊長は鎌倉旗揚以来の御家人で、その功績によって、この地を賜ったとのことです。戦国時代に改修された痕跡が見られ、堀切や土塁などの遺構も良く残っています。
日程に余裕が無く、この日のうちに、なんとか登城したかったのですが、登り口を探しているうちに17時40分になってしまいました。片道1時間のハイキングコースしか手段がなく、帰ってくる頃には暗くなっているでしょう。
日程も一日しか残っておらず、伊豆を制覇するためには、ここを避けては通れません。下田の叔父の所で長居しすぎたかな、とも思いましたが、こちらも20年ぶりになるので仕方ない‥。地形図アプリと夜間訪問の備えは常に常備しているので、城址の様子を見ながら行けるところまで行ってみることにしました。この時期は一年で一番陽が長いこともあり、まだ城址の中を確認できます。ハイキングコースだけあって特に危ない個所は見当たりません(しんちゃん基準)。
引き際を見極めつつ進んでいくと最初の堀切が見えてきました。

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零汰

三納城公園 (2022/02/01 訪問)

こちらば三納城公園として駐車場とトイレが用意されている城跡です。公園化と言っても市街地にあるような遺構が消失している公園ではありません。主な遺構としては上下2段の曲輪がメインになります。

やたらと石碑と案内板が多い城跡で合わせて7か所位有りました。逆に曲輪以外の遺構は少々控えめですが探し方が足りなかったのかもしれません。

写真2の主郭虎口前の通路に横堀があります。主郭には建物の背後に丸い高まりが有りますがこれは何だろう。もう一つの曲輪周辺に土塁と空堀を確認出来ました。写真10は通路に入る前に気が付いた西側にある空堀っぽい場所です。倒竹により悲惨な状態になっていますね。これは城に関連するかどうか分かりませんが大手は西側なので堀切道として当時から有ってもおかしくは無いのかと思います。

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零汰

起伏が唸る (2024/05/25 訪問)

大館、茶臼館の後に行きました。昨日は1日中雨の中で走る歩く走る歩くの繰り返しだったので少々体が気怠い。ナビ通りに登ってくと左に堀切が見えて来ました。「こりゃヤバイ」すかざす途中でUターンして堀切のあった場所に戻りました。こんな良さげな城跡は下から登って行かなきゃ勿体ない。道路の広くなった場所に停車して先程の堀切からスタート。

こちらは遺構の見ごたえのある素晴らしい城跡です。そして主郭に登る階段と申し訳程度のベンチしか後年の造作物が無い。門とか東屋とか蛇足的に作りそうなものだが見当たらず遺構の量と質で勝負していて清々しささえ感じられる。道路の拡幅などで多少の破壊はあったかもしれませんが在りし日の姿に近いのではないでしょうか。

城域全体の地面は曲輪以外には起伏が多くあります。特に気に入った場所は桝形背後の堀切から大堀切の間の範囲です(写真1)。曲輪に出来る程の広さに空堀を何本か配置して時には横方向の空堀ぶつけたりと土の切り盛りによっての起伏が激しい。この一帯を防御一点のみに使用出来る贅沢さにも恐れ入る。「嗚呼!真っすぐ歩けない」嬉しい悲鳴。

写真1を気に入って眺めていると何となく顔に見えてきた。雑草の茂み2つが目、切った幹が口、鼻は低い。其のうち起伏が唸り出しそうだ。

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朝田 辰兵衛

民家の表札が… (2024/05/06 訪問)

草木が繁茂して,なかなか水堀の姿が確認できませんでした。そもそも,民家の表札がある周囲をウロウロすることにためらいも感じました。しかし,パネルにしっかり謳われているということは,「公認」と判断して宜しいかと…。
JR上今井駅が最寄りですが,手小塚城や替佐城とセット攻城を計画するなら,JR立ヶ花駅やJR替佐駅も徒歩圏内です。飯山線の運行ダイヤを考えると,往路か復路のどちらかで「徒歩の1駅スルー」がおすすめです。

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ヒロケン

気温32度 (2024/07/26 訪問)

有子山城は標高321mの有子山山頂に築かれた東西約740m、南北約780mにもおよぶ大城郭です。有子山城は但馬守護職、山名祐豊によって築かれました。山名氏は此隅山城を本拠地にしていましたが、羽柴秀吉に攻められ此隅山城は落城、その後、山名祐豊は堺に出奔したのですが、織田信長の許しを得て但馬国へ帰国し、築城したのが有子山城との事です。
この頃の有子山城は土の城で、今に残る石垣の城に変貌したのが、1580年に再度、羽柴秀吉に攻められ落城した後、城主となった羽柴秀長により石垣の城となりました。

現在は、曲輪、石垣、竪堀、大堀切などの遺構が数多く残り、山名氏時代の遺構に加え、織豊期を中心にした古い積み方の石垣が大規模に残っており、中でも、本丸と千畳敷を隔てる幅28m、深さ12mを誇る大堀切(但馬地方最大)や、東西135m、南北50mを誇る千畳敷(但馬地方最大)、全国的にも珍しい7段の石垣から成る井戸曲輪(今回は石垣下に降りる元気がなく10年前の画像を投稿)は、この城の見所だといえます。

7月26日8時30分頃出石に到着。出石城は4度目、有子山城は2度目の登城となります。気温30度、熱くなる前に登城しようと企てましたが、出石城の石垣、櫓が目に留まり、出石城を先に攻略した結果、9時30分気温32度での登城となりました。登城口から本丸まで約1km、約1時間程の行程です。所々にロープが張られ、200m程登った時点で、汗が滝のように噴き出る始末(;^ω^)第五曲輪を過ぎた辺りからは、平坦なハイキングコースで進めます。

やはり、山城を攻略するなら夏の季節は避け、秋か初冬にするべきと少し後悔です。

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チェブ

マンション見学? (2024/08/12 訪問)

お盆休みを利用して「馬加城」攻めです。

「馬加城」は千葉 常胤さんの子、胤信さんが築城しました。
千葉 常胤さんは、千葉市の礎を築いた方です。
石橋山の戦いで、安房に逃れた 源 頼朝さんに味方しました。
2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にもご出演してました。『千葉のじいさん』役です。

「馬加城」は皆さんの投稿にあるように大規模マンションが建ってました。
幕張東小学校の校庭側の道横が高くなっていて雰囲気がありました。上には神社があるようです。
この道をぬけると高台に14階建てのマンションが見えます。
マンションは1982年に建てられたそうで、私が小学生の頃だから、当時 見たら『カッコいい~』と言っていたと思います。最上階からは、千葉氏と同じ景色が見えるのでしょう。

最近、我が家付近は、雷の影響で停電になりました。マンション最上階から階段で下りるのは きついなー、と何の想像をしてるか分からなくなった「馬加城」攻めでした。

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しんちゃん

火ヶ峰砦  高天神城包囲六砦 (2021/02/07 訪問)

火ヶ峰砦は規模の大きい砦跡ですが、城址として整備されていないので、明確な登城道は有りませんでした。三箇所から攻めましたが、場所にとっては藪がひどくて、すぐに退散しています。他の二か所からは堀切、土塁、郭などの遺構を確認しています。
全体の確認まで及ばず、城址の一部は消滅しているようです。「武蔵の五遁」さんの記事を読むと、その凄さが解ります。南から攻めた際は、櫓台の先の大堀切に危険なものを感じて、迂回して北側の遺構を攻めています。あまりよく覚えていませんが東側の緩い傾斜から攻めているはずです。
第二次高天神城の戦いは敵兵に降伏を許さず、兵糧攻めを行うという、極めて鬼畜な城攻めであったと思います(鳥取城より酷い)。飢え死ぬか、討って出て死ぬかの二択しか許されず、じわじわ衰弱していくことになります。
若き井伊直政(21)が水の手を断ったことで、高天神城の将兵が討死の覚悟を決めることができたのは、結果として彼らにとっては幸いだったのかもしれません。高天神城の水の手に関しては私なりに幾度か訪れ推察をしています。それもどこかで投稿させていただきたいと思います。

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しんちゃん

火ヶ峰砦  高天神城包囲六砦 最後の一つ (2021/02/07 訪問)

高天神城包囲六砦の一つ 火ヶ峰砦です。ここと能ヶ坂砦は明確な登城道が無いので少し苦労します。結構藪が深いので自分は三か所から攻めています。南の津島神社から登っていくと土塁などの遺構が残っており、尾根上に郭が配されているようです。
ある程度進むと深い堀切が行く手を遮り、藪化しているので別の場所から攻めることにします。

火ヶ峰砦は高天神城から東に1.5kmの位置に築かれ、最も高天神城に近い砦とされています。規模も大きく城域は1kmを越え、高天神城に籠っていた横田尹松は火ヶ峰砦を見て敗戦を悟り、武田勝頼に兵力温存のために高天神城を見捨てるように書状を出したとされています。横田尹松は落城の際に「甚五郎抜け道」から脱出に成功し勝頼に高天神城落城を報告しています。
また尹松は岡部元信と共に、高天神城の城将をしている時に、降伏を拒否して石牢に幽閉された大河内政局に対して様々な配慮をし、そのおかげで政局は生き延びることが出来たとされています。

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todo94

お盆の攻城① (2024/08/15 訪問)

お盆の帰省に合わせて15日の午後、太田献血ルームに献血の予約を入れておきましたので、周辺の城めぐりも計画に入れました。山城が一つもなかったのは幸いです。まずは東毛地域に向かう途中で伊勢崎市の那波城に立ち寄ります。名波小学校前でネット越しの城址碑と説明板をチェック。本丸は東方にあった旨記載されているのは、ありがたい限りです。伊勢崎市立第二中学校前には城址碑のみが建っています。

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しんちゃん

当目砦  静岡県焼津市 (2021/02/23 訪問)

焼津市のサイトによれば当目砦は武田氏が花沢城を落とした永禄13年(1570)以降に築いたとされています。持舟城と連携して、海上監視を含めた出城としての役割を負っていたものと考えられています。
天正3年(1575)長篠の合戦で織田・徳川連合軍が勝利を収めると、徳川軍は攻勢を強め天正7年9月に当目砦にいた持舟城の武田軍を追い払い、そのまま持舟城を攻めて、城将の三浦兵部と向井伊賀守を討ち取ったとのことです。
翌年5月、徳川軍は再び持舟城を攻めようと当目峠まで軍を進めるも、武田勝頼が駿府に向かったという報をうけ引き返したそうとしたところを持舟城の城兵たちから追撃を受けます。石川数正は敵を峠の麓の平場におびき寄せて囲み、散々に打ち負かしたそうです。
砦跡は私有地で果樹園になっているようです。特に遺構は残っていないようですが、周辺の眺望はなかなかのものです。

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ぎりょう

古代東北の英雄を訪ねる (2024/08/16 訪問)

東北地方も台風5号、7号が押し寄せ天候不順が続いた夏休みでしたが、最近たまたま読んだ澤田ふじ子の小説『陸奥甲冑記』に触発され、「阿弖流為の里」胆沢(奥州市水沢)を訪れました。阿弖流為は1200年前、朝廷の東北侵略に対して蝦夷を纏めて抗った、胆沢地方のリーダーです。13年間にわたり朝廷軍と勇敢に戦いましたが、延暦21年(802)坂上田村麻呂に降伏して都で刑死します。胆沢城は同じ年に坂上田村麻呂によって造営され、多賀城に変わって鎮守府がおかれた場所です。
先ずは奥州市埋蔵文化財調査センターを訪れて古代東北の蝦夷の時代について学習しました。その後は胆沢城跡歴史公園で復元された外郭の築地や南門の柱跡を見学し、一辺675mもあったという壮大な古代城柵に思いを馳せました。

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しんちゃん

御前崎灯台と見尾火燈明堂 (2021/02/13 訪問)

静岡県御前崎市の御前崎の先端の切り立った丘陵の上に御前崎灯台は建てられています。日本の灯台50選に選ばれ、Aランクの保存灯台に指定されています。昔より、この周辺は航海の難所とされ、寛永12年(1635)に江戸幕府の命により見尾火燈明堂が築かれました。
明治4年(1871)に江戸幕府が建造した軍艦が沖合で座礁する事故が発生し、近代的な灯台の建造が必要とされ明治7年(1874)に完成しました。レンズはフランス製のフエネル式レンズとされ、日本で使用されるのはこの灯台が初になります。
参観灯台として解放されており、中学生以上は300円で見学が可能です。その美しいロケーションから映画やアニメの舞台として度々登場し、周辺には旨い海鮮料理の店も多く、それがメインで来る人も多いです。

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もりちゃん

水堀と土塁で見事に区画されています❗ (2024/07/21 訪問)

大手付近に上から見下ろせる絶景ポイントがあります。階段は急ですが、是非登ってみてください。
裏へ回ると「お屋形様の散歩道」なるものがあり、現存の躑躅ヶ崎館をぐるり一周できます。土塁や石垣、水堀が、そこかしこに残っていて必見❗️ 中でも主郭部と西曲輪を区間している水堀と土塁はお見事‼️
現在は信玄公を祀る武田神社になっており、もちろん御朱印好きにもたまりません。門前の茶店で信玄ソフトをいただきました❗

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しんちゃん

紀伊青石の岩場 (2024/02/25 訪問)

雑賀崎台場の続きです。石積み遺構の先に、土塁を備えた主要部(主郭と表記)があり、そこに大砲を設置していたようです。ライフル弾ならいざ知らず、大砲の直撃を受けると石が爆散して兵士を傷つけてしまうので、これで正解だと思います。防御の面で土塁だけだと少し不安になりますがやむをえません。主郭にはV字型の石積みが有るようですが、今は埋められてしまっているようです。
主郭南東にもV字状の石垣で区画された郭が有り、さらに南東にも土塁や石垣を備えた郭があります。これらの郭には台場に関わる設備があったと考えられているようです。
主郭からは大島や番所庭園を遠望することが出来ます。いずれも緑泥片岩の岩場と見られ、この周辺で採取された石材が和歌山城の主要部に使われているようです。

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城山八幡宮 (2024/08/17 訪問)

 久しぶりの末森城です。近くへ来たので立ち寄りました。城山八幡宮が跡地です。織田信秀が築き、死後は信長の弟、信勝(信行)が城主となりました。信勝が謀反を起こして殺された後は廃城となりますが、小牧長久手の戦いにおいて織田信雄が使用したと伝わっています。空堀が広範囲に残っています。南側の空堀は容易に観ることも散策することもできますが、他は藪になっている所も多く、また北側はフェンスに囲まれていて近づけません。それでも街中にこれだけの遺構があることに感謝です。
 地下鉄本山駅から徒歩10分くらいです。

 昼飯に末森城とは少し離れていますが、伏見にあるスパゲティハウスチャオ 錦通伏見交差点店さんで名古屋飯のひとつである「あんかけスパ」(ミラカン)をいただきました。

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上野城 (2024/08/17 訪問)

 1542年小豆坂の戦いにおいて活躍した小豆坂七本槍のひとり下方貞清が築城したと伝わる名古屋市千種区にある城址です。城びとは未登録です。東西約120m、南北約24m、二重の堀があったと伝わっています。名古屋市立上野小学校が跡地ですが、遺構はありません。周囲から見ると小学校は少し高い位置にあることがわかります。近くにある貞清の菩提寺である永弘院に石碑がありました。

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