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赤い城

新壱万円札 (2024/11/16 訪問)

五十子陣から徒歩で1時間半、普通は歩かないですね。
途中道の駅おかべに立ち寄ったのでもう少し時間がかかりました。
深谷市の名物はもちろん深谷ねぎ。
道の駅でねぎフライとねぎバーガーを食べました。
両方ともねぎの香りが食をすすめてくれました。

深谷城跡は公園になっていて模擬石垣や模擬塀は立派ですが遺構はほとんど残りません。
ですが市民の憩いの場として親しまれており、この日も家族連れが何組か遊んでいました。

深谷市といえば新壱万円札の渋沢栄一の故郷。
街中が渋沢推しの雰囲気でした。
市内にはバナーがたくさん、ループバスにも描かれています。

でももう一人の深谷のヒーローである畠山重忠もちゃんと推していました。

ちなみに深谷城、深谷駅からは徒歩で15分くらいです。

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トク

角牟礼城(2/2):久留島陣屋と一目八景 (2024/11/25 訪問)

麓の久留島陣屋跡に立ち寄ってきました。入口には「わらべの館」(スタンプ場所)があり、館跡一帯は公園になっています。公園からは、角牟礼城を見上げる事ができます(写真①)。徒歩で登城される方は、ここが登山口です。また公園の奥には、久留島陣屋時代の庭園(写真②)や、初代藩主「久留島長親」と思われる石像(写真③)もありました。

ここから北へ車で10分程走った所には、「一目八景」と言われる奇岩と紅葉の名所があり、せっかくなので行ってみましたが、紅葉はまだ色づき始めでした。それでも綺麗でした(写真⑤⑥⑦:見頃は来週かな?)。

そこからさらに西へ10分程走った所に、「後藤又兵衛」の墓という場所もありました(写真⑧⑨)。又兵衛は大坂夏の陣の時に、道明寺河原で討ち死にしたとされていますが、実は生きて落ち延びていたという伝説がこの地方にはあるそうです。それが本当なら、かつての居城「益富城」を目指していたのでしょうか? しかし、この地まで着くも、豊臣秀頼が自刃したと聞いて嘆き悲しみ、自らもここで自刃したと伝わっています。いったいどちらが本当なのか? 興味深い話です。

途中の玖珠で、大分名物「しらす丼とだんご汁」を食べました。これが大分の味! しんけんうまいっちゃ!(写真⑩:大分弁です)
 

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トク

角牟礼城(1/2):三の丸から本丸へ (2024/11/25 訪問)

続100名城の角牟礼城を訪れて来ました。南側から車で登ると、三の丸まで行けました。そこから本丸まで徒歩8分です。まず三の丸の入り口には大きな巨石と櫓塀があったような跡があります。そこから二の丸へ上がる途中には竪堀の跡が・・。この斜面にはかなり大規模な畝状竪堀があったと推測されます。さらにその上には切岸も多数ありました。そして二の丸には、高石垣が今でも残っていました(これはすごい防御だ!)。本丸に着くと反対側の北側は切り立った斜面。この城は難攻不落と言われていたようですが、確かにうなずけました。

二の丸から本丸へ行く途中には小さな展望台があり、玖珠盆地や伐株山、遠くは久住山まで見渡せました。とても爽快な眺めです。本丸は工事中、発掘調査でしょうか? ここには櫓が建っていたようです。

最初の築城者は大友配下の玖珠群衆の一人、森氏であったとされています。北上する島津氏(おそらく岡城から転戦してきた義弘)の猛攻にも耐え城は落ちなかったようです。豊臣時代に大友氏が滅亡すると、直臣の毛利高政が入りこのような石垣を築きました。しかし高政は、九州の関ケ原では西軍に付くも、黒田官兵衛の説得でここを開城して東軍に寝返り、藤堂高虎の口添えもあって家康からは取り潰されず、佐伯城へ転封となってかろうじて生き残れたようです。

関ケ原後は、村上水軍の来島氏(久留島と改名)が入ります。海賊が山城に来るのは、さぞかし抵抗があったではないでしょうか? しかし能島氏は秀吉の命で小早川の家臣となるも断絶、因島氏は毛利の家臣をなって細々と生き残り、唯一豊臣秀吉から本領を安堵された来島氏ですが、その後の関ケ原では西軍に付くも、福島正則の口添えで何とか生き残り、もはや存続のためには家康には逆らえず山に上がったのでしょう。しかし1万4千石の陣屋大名であったため城を持てず、麓に陣屋を築いて居館としたようです。

次は、零汰さんおすすめ、麓のその久留島陣屋へ寄ってから、周辺を観光してみたいと思います。
 

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山内一豊が馬を買った市(木之本宿) (2024/11/28 訪問)

 JR木ノ本駅から徒歩約5分の場所に木之本牛馬市跡があります。室町時代から昭和時代まで毎年2回牛馬の市が開かれていました。貧しかった頃の山内一豊が、妻・千代が何かの時にと備えていた黄金十両で名馬を買った所として知られています。その名馬は馬揃えの時に織田信長の目にとまり、山内一豊は出世街道を走って行くことになります。
 木之本宿は地蔵院の門前町として栄え、北国街道と北国脇往還が交わる宿場町で、旅人とお地蔵さんの参拝客で賑っていたようです。 今もその風情が感じられます。バスの待ち時間に行ったので少ししか散策していませんが、見どころは多いようです。
 木ノ本駅の改札を出ると「賤ケ岳七本槍の里」と書かれた佐吉くんが出迎えてくれました。佐吉くんはもちろん七本槍のメンバーではなく、しかも槍ではなくお茶を持っています。野暮な突っ込みでした。

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しんちゃん

さりげなく撮影‥そして去る。 (2024/05/04 訪問)

狛江入道館は武蔵七党の狛江入道増西の屋敷と伝わり、マリア修道院晃華学園の敷地内が城址にあたるようです。かなりの勾配のある坂を登って行き、ここが城址であることを感じさせてくれますが、場所が場所だけにおおっぴらに写真を撮ることが憚られます。

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しんちゃん

遺構は無いが訪問してみるべき。 (2024/05/04 訪問)

由木城は武蔵七党の一つ・横山党の庶流・由木氏の居館とされ永林寺の境内や背後の丘陵が跡地になるようです。戦国時代には滝山城主・大石定久の居館があったとされ、墓所は歴代住職墓地の脇に移築され、銅像が由木城跡とされる丘陵地に置かれ、城址碑もあります。
戦国時代の遺構は残っていないようですが、立派な寺の境内に複数の見どころがあり、訪問してみる価値はあると思います。

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ぴーかる

丸山城 (2024/11/16 訪問)

【丸山城】
<駐車場他>丸山集会所
<交通手段>車

<見所>切岸・櫓台・天守台
<感想>日帰り伊賀攻めの旅3城目。丸山城は1576年に伊勢国司の北畠具教が隠居城として築城を開始したが、織田信長と不和になり三瀬館に移った為に途中放棄となっていた。1578年に北畠信意(織田信雄)は伊賀攻めの拠点として滝川雄利に修築を命じ開始します。危機感を感じた伊賀郷士達は同年、修築途中の丸山城を攻撃して滝川雄利達を退去させます。翌年の1579年に北畠信意が軍を率いて伊賀に攻め込む第一次天正伊賀の乱が起きます。丸山城の廃城年は定かではないようで、伊賀郷士達が攻めた時とその後織田信雄が丸山城を滝川雄利に与えて1584年に滝川雄利が伊勢松ヶ島城に転封となるまであったとする説があるようです。
 城跡は山城扱いとなってはいますが比高が100mないであろう丘城といった感じです。山全体に曲輪群を配した規模の大きな城郭で登城口に入ってすぐ曲輪群が見られます。城跡は主郭を中心におおむね南の登城路、北尾根の曲輪群、西尾根の曲輪群と3方向に分かれています。南側のピークに祠のある出丸のような曲輪があります。祠がある所が櫓台だったようにも感じます。北尾根の曲輪群は2郭を中心に横堀が走り広い削平地を取っています。西尾根の曲輪群は一番尾根が長く、真ん中辺りに古墳を利用した櫓台、西端に配水池に改変された櫓台があります。西尾根は尾根下段にも曲輪群があり見応えがあります。
 主郭は北西に天守台があり、周辺に礫石が沢山落ちているので現地説明板の通り当時は石垣造りであったことが分かります。藪化していましたが天守台の周囲を1周しましたが石垣は全く残されていなく、全部崩落したようです。主郭は広い削平地で北に土居があります。主郭も藪が酷くて少し残念な感じでした。
 甲賀・伊賀地方のスタンダードの単郭方形高土塁の城郭構造ではなく、山の地形に沿って大小不定形な曲輪群を備えた城跡でしたので伊賀ではない縄張りだということがよく分かる構造でした。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

信貴山城から古代の高安城へ (2024/11/10 訪問)

信貴山城を後にして古代の高安城を目指しますが、信貴山城の城域を抜けるのにしばらくかかります。柵を越えてしばらく進むと20人くらいの団体さんとすれ違います。けっこう人気のハイキングコースのようですね。柵を出て15分も立たないうちに「高安城倉庫址」の標識が見えてきました。こちらは古代の高安城と呼ばれ、白村江の戦いで日本の水軍が、唐の水軍に敗れた後に、危機感を抱いた天智天皇の命で築かれたとされています。城内には非常時に備えモミと城を蓄える倉庫が複数あったとされ、6棟が確認されているようです。

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しんちゃん

松永屋敷 (2024/11/10 訪問)

松永屋敷にやって来ました。これだけ楽しいのも久しぶりです。やはり松永弾正の屋敷ですからテンションもあがります。とにかく広くて、南北に4つくらい曲輪が連なっていて、それぞれに土塁が残っています。一番北の曲輪を降って行くと、そこにも曲輪があります。主君を守るための曲輪のようですね。全部の尾根を回っていく気概は無いので、高安城へ向かいます。道中にも結構、曲輪があります。城址の半分くらいは見れたかな? 近場だったら何度か訪れたくなる城ですね。

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朝田 辰兵衛

開門は9:00です🕘 (2024/11/02 訪問)

この日の雨予報は揺るぎない状況でしたので,「山城攻城を取り止めて,美術館巡りも抱き合わせよう」と計画変更。ホテルを出て歩いていたらバスがタイミング良く来たので飛び乗りましたが,開門の9:00まで待ちました。ま,深大寺城散策を午後に廻していたら,足元にも影響していた降りでしたので,この日の1城目にして正解でした。
ここは,完全ににのまるさんの庭だと思います…。1万歩だし…🐾

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堀秀政 (2024/11/28 訪問)

 賤ヶ岳の戦いにおける羽柴秀吉方・堀秀政の陣城で北国街道を挟んだ行市山に布陣する柴田勝家方・佐久間盛政と対陣しました。堀秀政はここを拠点として柴田勝家軍を食い止め秀吉の勝利に貢献したと伝わっています。ただ賤ケ岳の戦い以前から城はあったとされ時期は不明ですが、東野氏が詰城を築城したことが始まりとされています。現在残っているものは東野氏時代のものではなく、堀秀政が構築したものとされています。曲輪、土塁、空堀がよく残っています。コンパクトですが、楽しく散策しました。

 木ノ本駅から余呉バスに乗り「よご認定こども園」下車。そこから徒歩で登城しました。林道が城址まであり車でも行けますが、未舗装で比較的細い片方崖の山道です。林道の入口には獣除けの門があり東野山砦2.3Kmの表示がありました。そこから只管歩きますが、勾配もきつくなく歩きやすい道です。「もう2Kmくらい歩いただろう」と思ったところで残り1Kmの表示があり苦笑とため息。40分くらいで城址へ行くことができました。この日は城跡近くに軽トラックとショベルカーが来ていて道の整備をされていました。だから林道に倒木などほとんどなかったのかと思い感謝です。
 あさんが投稿されていた溝谷砦は林道の途中に上り口があることはわかりましたが、時間の都合もあり立ち寄ることことなくスルーしました。この付近には他にも賤ケ岳の戦い関連の砦が多くあり、機会があれば行こうと今のところ思っています。

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栃木西方城

栃木県栃木市西方町『ど田舎にしかた祭り』に参加します! (2024/11/28 訪問)

 地域の方々とみんなで楽しむ「ど田舎にしかた祭り」に栃木市文化課文化財係西方城グループも参加します。各アーティストによる演奏や西方地域にまつわる話など舞台上にて西方城グループも西方城跡について詳しくお話しいたします。
 会場内では「田んぼ相撲」や「俵飛ばし大会」、「トラクター体験」「スケボー体験」、「とち介ふわふわハウス」など来場された方が参加できるイベントを予定しております。また西方城グループの企画として限定50名様に無料で西方城跡オリジナルうちわも配布いたしますので、城びとの皆さま、城びとの情報を見てくださった方ぜひお越しくださいね!お待ちしております(*^-^*)

 
イベント名 「ど田舎にしかた祭り」
開催日時  令和6年12月1日(日)開催時間:12時~18時
会場    道の駅にしかた西側の田んぼ及び道の駅にしかた  
     (栃木県栃木市西方町元369-1)
交通案内  東武日光線「東武金崎駅」より徒歩約5分
お車    東北自動車道「都賀西方スマートIC」より約3分
      北関東自動車道「都賀IC」より約5分
駐車場   道の駅にしかた駐車場は混雑いたしますので、西方小学校・西方中学校をご利用ください。
〇西方小学校 住所:栃木市西方町元770  会場までは徒歩で約10分
〇西方中学校 住所:栃木市西方町元908-1  会場までは徒歩で約15分
※小学校及び中学校からは無料シャトルバスを用意いたします。
お問い合わせ
主催:にしかたふるさと祭り実行委員会
にしかたふるさと祭り実行委員会事務局
電話 0282-92-0300
https://www.city.tochigi.lg.jp/site/tourism/74769.html

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カズサン

2度目の登城-5/8 本曲輪周辺の堀編 (2024/11/10 訪問)

 2度目の登城-4/8 本曲輪虎口編の続きです。

 本曲輪の周囲には堀が廻らされていました、北堀は中間に土橋が有り東西畝堀で水掘りだった様です(歴史ひろば案内所の模型では)、現在は芝生が張られて空堀です。東堀は東曲輪との間に在り、中間に木橋と土橋が繋がった架橋が有り南北畝堀で水堀(歴史ひろば案内所の模型では)で現在も水が張られています。南堀は南西馬出に木橋が架かり水堀だった様です、現在は草原で登城時には草刈りがされて居ました。西堀も水堀だった様です、現在は草原で登城時には奇麗に草刈されて居ました。案内パンフレットに依ると犬走が西堀、南堀、東堀に在った様です。
 小田城の堀は三重に巡っていた様で史跡範囲でも南北550m、東西450mの広大な城域でした。
 
 2度目の登城-6/8 本曲輪Ⅰ編に続く。
 

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カズサン

2度目の登城-4/8 本曲輪虎口編 (2024/11/10 訪問)

 2度目の登城-3/8 南西馬出編の続きです。

 小田城本曲輪には3ヶ所の虎口があります、大手に当たる東虎口、北虎口、南西虎口です、現在は観光用利便性で歴史ひろば案内所から繋がる本曲輪北西角に出入口を造り内部に北面にトイレ設置、南面に土塁の原寸地層断面図を展示公開しています。
 東虎口は東曲輪と東堀に架かる木橋と土橋で繋がってる、北虎口は北堀に土橋が架かり曲輪Ⅱと繋がっていた、南西虎口は南西馬出と南堀に架かる木橋で繋がっていた。全て発掘調査されて復元された。
 
 2度目の登城-5/8 本曲輪周辺の堀編に続く。
 

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イオ

WAKAYAMA LIGHTS 2024 (2024/11/24 訪問)

(続き)

和歌山城~光の回廊~ライトアップ記念の「WAKAYAMA LIGHTS 2024」は和歌山城初、和歌山県最大のドローンショーとのことで、400基のドローンが和歌山城の夜空を彩りました。

砂の丸広場を飛び立ったドローンが天守群上空に至ると、タイトルロゴに続いて和歌山城を竜が舞います。27・28日に和歌山城ホールで行われる将棋の竜王戦を記念してのものだそうです。竜の次は虎。これは和歌山城が築かれている虎伏山にちなんだものですね。紀州徳川家の三つ葉葵紋は一目瞭然だとしても、石を割っているのは何だろう? と思っていたら、どうやら新裏坂北側に多く見られる石垣の刻印のようです。さらに刻印風の字体による「WAKAYAMA CASTLE」の文字が…。こんなの城好きにしかわからんぞ。なんとマニアックな!(笑) 最後に、和くぐりするイルカやパンダの南紀白浜アドベンチャーワールド、和歌山県PRキャラクターのきいちゃんが「いっしょに、いこな!」と呼びかける大阪・関西万博など、スポンサーを紹介して約10分間のドローンショーが終了しました。

ドローンショーを観るのは初めてでしたが、期待以上に見応えがありました。単に綺麗なだけでなく、和歌山城にちなんだ内容(マニアック過ぎ?)だったのも城好きとしては嬉しいところ。シャンシャンさんの投稿にあるとおり、先日は姫路城でドローンショーがあったようですが、これからも多くの城で開催されそうです。花火に取って代わるものではないとしても、新たな選択肢としての可能性を感じました。

そして、北内堀に映るけやきライトパレードのライトアップを眺めながら駐車場に戻り、和歌山城を後にしました。なお、けやきライトパレードはJR・和歌山駅から和歌山城まで約2kmのけやき大通りを100万球のLEDで彩る日本一のイルミネーションストリート! とのことで、なるほど確かに日本一を標榜するに値する見事なものでした。和歌山市、がんばってるなぁ…。
 

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todo94

特別設定 えきねっと限定 大人の休日パス スペシャルで青森の城めぐり② (2024/11/16 訪問)

多宇末井館からの転戦です。蓬田八幡宮の脇にかなりの規模の空堀が巡っていますが、写真撮影は困難でした。弁天堂跡も城域のようでこちらの方が古城址の趣きが濃厚です。

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赤い城

五十子陣 埼玉県本庄市 (2024/11/16 訪問)

東京出張を後泊し、どこか城行こうかな、と。
登録城の再訪でもよかったのですが折角なので未訪問の未登録城へ。

本庄駅から徒歩40分、国道17号線沿い、てんぐ茶屋という飲食店の辺りが本丸跡となります。
案内板と本庄かるたの石碑が設置され、奥に進むと説明板が立っています。

縄張図をみると説明板がある稲荷の背後が堀のようなので降りてみました。
大分改変されているとは思いますが堀跡のイメージが湧いてきます。
国道を挟んだ向かい側の小山川水循環センター周辺までの広大な城だったとされます。

享徳の乱で関東管領の上杉氏が居城とした城です。
以後、この地を巡る戦いが繰り返され、長尾景春の乱で攻め落とされ廃城となりました。

この後、深谷まで歩くことにしました。
最近、登る以外は歩いていなかったので良いトレーニングになりました。

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しんちゃん

今井兼平の居城 (2024/05/04 訪問)

金剛寺周辺が城址とのことですが、場所がわからず背後の丘陵を歩き回っていました。土塁のようなものもあったけど城址との関連性はあるのかな? 立ち入れない箇所もあるので引き返しています。城址碑を求めて再度チャレンジの予定なので、これでカンベンしてください。
今井砦は木曽義仲の家臣・今井兼平の城であるという伝承があり、城山稲荷がある扁平地が城址とされています。

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しんちゃん

昔から寺だけど、ずっと軍事的に利用されている。 (2024/05/04 訪問)

高安寺城は高安寺の境内をさしているようですが、いろいろいわれが有るようです。古くは藤原秀郷が居館を置いたとされ、市川山見性寺となりました。武蔵国府が荒廃した後は軍事的な重要拠点とみなされるようになり、新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えているそうです。見性寺は一連の戦乱によって荒廃してしまったとのことです。
暦王年間に足利尊氏によって龍門山高安護国禅寺として再興され、隆盛を誇りますが、足利公方や戦国大名に軍事的に利用されることも多かったようです。
写真の騎馬像は分倍河原駅前の新田義貞像です。情報は城びと先人の方々の投稿からいただいております。感謝でございます。

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しんちゃん

前身は武家居館内の寺。 (2024/05/04 訪問)

立川氏館は玄武山普済寺の境内に築かれていたようです。立川氏は武蔵七党西党・日奉氏の氏族で立川宮内少輔が居住していたとされます。前身は鎌倉時代の居館で、南北朝時代に屋敷内に寺を建立し、戦国時代の末期に立川氏が滅亡した後は現在の普済寺になったようです。山門脇には手入れされた土塁が今でも残ってます。

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