多くの山城が点在する中村川沿いの丘陵地に位置する城で、鎌倉期に三浦氏が築いたと伝わり、戦国期には大多和氏を称して北畠氏に仕え、織田信長の伊勢攻めにも籠城して耐え抜きましたが、和睦後に北畠具教が謀殺されると大多和氏は帰農し、八田城も廃城となったと思われます。
カズサンさんに倣って登城口前に駐めさせてもらい登城開始。防獣柵の扉を開閉して城内に入ると、右側に城跡碑と説明板が、左側奥に丸太を組んだ「砦門」があります。砦門の並びの東屋にはテーブルと椅子が設置され、東屋の隣の小屋は物置とトイレになっているようです。
登城道を進むと道は切通状となって東曲輪の麓を北側から半周し、その間、逃げ場のないまま東曲輪から横矢を受け続けることになります。東曲輪の南側に回り込んだところに裏登城道への分岐があり、そちらに下りて行くと井戸跡と北東方向に下る竪堀がありました。この竪堀が裏登城道にあたるようです。
分岐に戻って主郭に向かう前に、まず東曲輪から。東曲輪は周囲を高さはないものの厚みのある土塁で囲み、灌木越しながら切岸の下には先ほど登ってきた登城道が見渡せます。そして主郭へ。東虎口は枡形状に設けた土塁によって動線を屈曲させています。主郭は北東辺を除いて分厚く高い土塁で囲まれ、南東隅の南虎口脇のひときわ高い部分は櫓台と思われます。北西隅の土塁上には丸太組みの櫓が建てられていますが、老朽化しておりトラロープが張られていて登れませんでした。櫓の脇から土塁を北に下りたところが北曲輪で、西辺に土塁が続いています。土塁の西下には帯曲輪が設けられていました。
主郭に戻って南虎口を出たところには堀切があり、丸太組みの橋が架けられています。こちらもトラロープが張られているので渡るのは控えて、堀底まで下りて堀切を越えるとなだらかな自然地形の尾根が東にのびていて、尾根の南西側を堀切で遮断していました。尾根の東側にも浅い堀切が見られ、出曲輪的な位置付けだったのかもしれません。
30分あまりでひとめぐりできる小さな城ながら遺構はなかなか見応えがあり、砦門も櫓も橋も老朽化してはいるものの、城内はよく整備されていて地元から大切にされていることが感じられる良い城でした。
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