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イオ

小さな良城 (2024/03/09 訪問)

多くの山城が点在する中村川沿いの丘陵地に位置する城で、鎌倉期に三浦氏が築いたと伝わり、戦国期には大多和氏を称して北畠氏に仕え、織田信長の伊勢攻めにも籠城して耐え抜きましたが、和睦後に北畠具教が謀殺されると大多和氏は帰農し、八田城も廃城となったと思われます。

カズサンさんに倣って登城口前に駐めさせてもらい登城開始。防獣柵の扉を開閉して城内に入ると、右側に城跡碑と説明板が、左側奥に丸太を組んだ「砦門」があります。砦門の並びの東屋にはテーブルと椅子が設置され、東屋の隣の小屋は物置とトイレになっているようです。

登城道を進むと道は切通状となって東曲輪の麓を北側から半周し、その間、逃げ場のないまま東曲輪から横矢を受け続けることになります。東曲輪の南側に回り込んだところに裏登城道への分岐があり、そちらに下りて行くと井戸跡と北東方向に下る竪堀がありました。この竪堀が裏登城道にあたるようです。

分岐に戻って主郭に向かう前に、まず東曲輪から。東曲輪は周囲を高さはないものの厚みのある土塁で囲み、灌木越しながら切岸の下には先ほど登ってきた登城道が見渡せます。そして主郭へ。東虎口は枡形状に設けた土塁によって動線を屈曲させています。主郭は北東辺を除いて分厚く高い土塁で囲まれ、南東隅の南虎口脇のひときわ高い部分は櫓台と思われます。北西隅の土塁上には丸太組みの櫓が建てられていますが、老朽化しておりトラロープが張られていて登れませんでした。櫓の脇から土塁を北に下りたところが北曲輪で、西辺に土塁が続いています。土塁の西下には帯曲輪が設けられていました。

主郭に戻って南虎口を出たところには堀切があり、丸太組みの橋が架けられています。こちらもトラロープが張られているので渡るのは控えて、堀底まで下りて堀切を越えるとなだらかな自然地形の尾根が東にのびていて、尾根の南西側を堀切で遮断していました。尾根の東側にも浅い堀切が見られ、出曲輪的な位置付けだったのかもしれません。

30分あまりでひとめぐりできる小さな城ながら遺構はなかなか見応えがあり、砦門も櫓も橋も老朽化してはいるものの、城内はよく整備されていて地元から大切にされていることが感じられる良い城でした。
 

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todo94

金谷城特別公開前日の城めぐり③ (2024/04/13 訪問)

座間城からの転戦で献血前の攻城です。とある煩悩の登城目録さんに倣って海老名氏記念碑、有鹿神社、海老名氏霊堂とまわってみました。その後、予定通りに海老名献血ルームにて献血を済ませ、昼食には昔ながらのオムライスをいただき、ロマンスカーミュージアムにも立ち寄ってから、海老名を後にしました。

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赤い城

大きな病院が建っている (2024/05/02 訪問)

別府から高千穂を経由し宮崎入り(この日は城なし)。
目的はチキン南蛮と地鶏の炭火焼です。
おぐらさんのチキン南蛮で満腹になった後の鶏でしたがやっぱり美味しい!が、もう動けない。

で、恒例の翌朝相方睡眠中の朝駆け城めぐりです。
近場を探し、曽井城に行ってみました。
todo94さんのレポートにあるように城趾には大きな病院が建っています。
早朝だったので駐車場まで登ってみました。

敷地内には縄張図のついた説明板が設置されていました。
南北朝時代からの城で伊東氏の居城です。
隣を流れる古城川に沿った丘陵上に築かれています。

大きな城だったようですが遺構はほとんど見ることは出来ません。
かろうじて曽井公民館の裏手にある登城路の一部が確認できたくらい。
発掘調査では堀跡も見つかったそうです。


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鎌倉たっちさん

大坂城乾櫓公開 (2024/05/02 訪問)

大坂城の乾櫓内部が9年ぶりに公開された。L字型の重箱櫓で珍しい形をしているが、壁や石落としなどの造りは千貫櫓と共通する部分が多い。梁や柱の木材は修復されて新しいものが多いように思ったが、床板の手斧痕は千貫櫓よりもくっきりしている。

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しんちゃん

甘草屋敷 お江戸の将軍様の薬草担当 (2017/12/17 訪問)

旧高野家住宅は、徳川吉宗公の時代に薬用植物の甘草(カンゾウ)を栽培して幕府に収めており、「甘草屋敷」とも呼ばれています。今でも当時の建物が残り、9棟の建物が重要文化財に指定されています。幕府のお墨付きだけあって切妻造りの屋根の中央には二段の突き上げ屋根が設けられており、見た目も実に立派です。310円の入館料でひとしきり見学することが出来、コスパもかなり良いと思います。
甘草の根や根茎に含まれるグリチルリチンは普通の砂糖(スクロース)の150倍の甘みを持つと言われています。甘味料として欧米では多くの食材に使用されていますが、副作用の懸念が有るので国内では一日の摂取量を200~300mgまでとしています。
生薬としての効果は緩和作用、止渇作用があるとされ、喉の痛みや咳を和らげる効果があるようです。

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じゅんじん

2回目 (2024/03/29 訪問)

天白城や横尾城、砥石城など見えます。

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しんちゃん

武田氏終焉の地 甲州市田野 (2017/12/16 訪問)

甲州市田野は武田氏終戦の地でなんだか物悲しい場所が各地にあります。先に投稿させていただいた景徳院には武田勝頼一家の墓所があり、南に流れる小川沿いに勝頼、信勝父子の首を洗ったとされる首洗い池の跡地があります。その近くには北条夫人の侍女16人が川に身を投げたという姫ヶ淵があり慰霊碑が建っています。今の日川の流量は発電用水として取水されているためかなり減少しており、かつてはもっと水量が多かったようです。
そこから西へさほど離れていない場所に最後の戦いの場所となった鳥居畑古戦場の石碑が建っています。攻め手の織田方 滝川一益・
河尻鎮吉らの軍勢4000に対して勝頼方は100名にも満たず(50名とも)駒場口から押し寄せる敵を秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳友信、土屋昌恒らはよく防ぎますが衆寡敵せず、勝頼父子をはじめとして生き残った者はいないようです。
景徳院の境内には元服を済ませていなかった十六歳の信勝のために武田家に伝承される「小桜韋威鎧(楯無の鎧)」を着せて元服の儀を執り行ったとされる伝承が残っており、そのさいに「御旗」を立てたとされる場所が残っています。

「御旗」「楯無」は代々武田氏に伝わる家宝で、武田家の当主が「御旗・楯無も照覧あれ」と誓約を交わすと、その言葉は絶対のものとなり、長篠の合戦の際にも、諸将が撤退を申し出るも、勝頼が誓約を立てたため誰も異論を挟めなくなってしまったそうです。
まさに「御旗」「楯無」は武田氏の栄枯盛衰を最期まで見届けたと言えると思います。

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じゅんじん

2回目 (2024/03/29 訪問)

歴史館にもいけました。

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じゅんじん

小牧山 (2024/03/28 訪問)

堀や土塁の復元が進んでいます。

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T-Shionoya

吉良の東条城 (2024/01/27 訪問)

前回投稿した本證寺訪問の後、近くでの用事を済ませて訪れた愛知県西尾市の東条城。

当時の矢作川を挟み、吉良荘西側の西条(西尾)城に対する東側の拠点。
幡豆山地麓の比高約20mの小山に築かれた城で、南側は湿地に守られていた模様。

築城時期は定かでないが、鎌倉初期に三河守護に就いた足利義氏が三男吉良吉継を置いたことが始まりとされ、以後16世紀中頃まで東条吉良氏が継承してきた居城。
家康時代になると三河一向一揆の後に松平家忠と松井忠次が入り、1580年代始めに廃城となりました。

現在は帯曲輪から本丸に掛けて古城公園として整備され、二の丸は八幡社に。
以前は本丸に城門と物見櫓が復元されていたが、老朽化により撤去されたとのこと。

実際に訪れると、予想よりも城跡らしい城跡。
2つの冠木門が設置されており、本丸虎口の土塁も復元でしょうか。
二の丸北東部には土塁跡、本丸北東隅の藪の中にも小さな土塁だか櫓台だかの跡が存在。

滞在時間は1時間弱。
吉良の小さな城が、私の城郭巡りの173城目となりました。

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しんちゃん

陶氏館 山口県周南市 (2024/01/02 訪問)

ぴーかるさん 佐味城登城おめでとうございます。‥こないだも言ったような? 

陶氏館の投稿です。陶氏は大内氏の庶流・右田氏から分かれた家で大内氏の重臣です。当館は南北朝時代に北朝方の鷲頭氏と戦うために陶弘政によって築かれたとされています。現状は公園になっており、主要部を平城(ひらじょう)と呼び、南に一段低い箇所を新殿(にいどん)と呼んだそうです。周囲には上野の城山、七尾城、本城若山城(城びとの城)など陶氏の山城が配されているようです。

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ヒロケン

忠臣蔵の舞台 (2024/05/02 訪問)

赤穂城は、1645年常陸国笠間から53,500石で入封した浅野長直が藩の家老で軍学師範であった近藤正純に築城設計を命じ、1648年から1661年までの13年間を費やし完成させた城です。本丸と二の丸は輪郭式に、二の丸と三の丸は梯郭式に配置し櫓10か所、門12か所、枡形5か所を設けて防備の要としています。城は、千種川が形成した三角州の先端に立地している為、典型的な平城であり、また往時は二の丸の南半分と三の丸の西側が瀬戸内海に面していたので、海城であったことも大きな特徴です。(パンフレットより抜粋)
そして、江戸城松の廊下における藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけた刃傷事件に端を発し、四十七士の吉良邸討ち入りえと続く「忠臣蔵」の舞台となった城です。

赤穂城へは11年振り3度目の訪問で、岡山の実家から豊橋に帰る際、二の丸庭園等見学していなかったところを見に立ち寄りました。
甲州流軍学の粋を尽くして築城されたという城は見応えがあり、感心させられます。また、城内にある赤穂大石神社に立ち寄り誓願成就をお祈りされるのも良いのではないかと思います。私は、「宝くじ」に当たる様にお祈りしてきました(*^▽^*)

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ぴーかる

やっとたどり着いた (2024/03/09 訪問)

【佐味城】
<駐車場他>駐車場はなし。高鴨神社参拝者駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>横堀・土塁・曲輪
<感想>朝6:30に上記高鴨神社に到着し、持参の朝食をいただく。高鴨神社に参拝し佐味城に向かう。神社から登城口までは徒歩12分程なので安心して駐車できて置けます。城郭の歴史や構造は先達の方々が記述しておられるので割愛し、状況の補足説明しておきます。
 墓碑のある所からが遺構(麓の曲輪)で柵を開けて登り始めた左手に堀跡があります。登り始めてすぐに、しんちゃんさんの記述にあった礫石が沢山落ちています。この礫石、ここに櫓台があったのか、上から徐々に落ちてきて溜まったものなのかは分からないが、石積みの石と思われます。(理由は後述)左手に登山道と並行して竪堀が落ちてきています。登山道はかつての大手道だったと思います。木に白いナイロン紐が巻かれているので沿って進めば途中倒木がありますが大手虎口にすぐにたどり着けます。
 城の外郭をはしる横堀ですが、大手虎口のある東辺は切岸が高く、掘った・削った土を外側に盛って土塁としています。南辺は掘り込みが深い。西辺は山側にあたりますが、堆積かもですが相当浅くなっています。
 主郭にも横堀があり、東面と南面の横堀が深い。東に1か所、南に2か所虎口があり土橋で渡してあります。主郭内部に南北に長い、横幅のあまりない、暗渠のような堀のような凹みがあります。その手前が特に平地になっているので建物跡かもしれません。
 前述の礫石について。前述の場所と、大手道土橋状の土塁と、城跡の南東部の曲輪群の曲輪と曲輪の間の堀状通路の低地に多く溜まっています。特に堀状通路の低地に溜まっている礫石(写真添付)は表面観察でこれほど溜まっているのが見られるので近年に石垣から崩落して溜まったものと思います。土の中に相当石が埋もれていると思います。どこかに少しでも石垣が残っていれば裏付けがとれると探しましたが、これまた全然残っていないのが謎とロマン、想像力を搔き立てられます。
 城の成り立ちについて、とある煩悩の登城目録さんの記述にあった寺院・城郭寺院に関連がある事、実際見て私もそう思いました。理由は①大手虎口から主郭まで一直線の大手道がある。②大手虎口・主郭虎口に枡形等の防御設備が見られない平虎口であること。③主郭に虎口が3か所以上もあること。④一概に全てだとは言えないが、直線の道の両脇にひな壇状に曲輪群が並んでいる構造、滋賀県の弥高寺跡の構造にも似ている。

 見ごたえのある、満足度の高い城跡を見逃していました。私のマイベスト奈良の順位は椿尾上城の同率2位に位置付け修正しておき、全部で11城になります。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

景徳院 武田勝頼一家の墓所 (2017/12/16 訪問)

景徳院は甲斐国国主・武田勝頼が一族と共に滅んだ甲州市大和町田野の地に建てられています。勝頼一家と家臣の慰霊のために徳川家康によって創建され、境内には勝頼一家の墓や生害石(自害したさいに坐した石)、辞世の句碑などが残っています。
「武田家終焉の地」という扱いになりますが、私が訪問した時にほぼ人がおらず、非常にさびしげな印象を受けました。勝頼公の宝篋印塔に刻まれた銘文によると、二百回忌である安永4年(1775)に建てられた供養塔で。両脇に信勝公と北条夫人の供養塔が立てられています。

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しんちゃん

天然の要害に築かれた北条方の出城。 (2023/11/26 訪問)

奥牧野城に行ってきました。地図で見ると簡単に主郭に行けるじゃんと思って行ってみたら通行止めじゃない。しまった、もっと城人の皆さんの投稿を読んでおくんだった。いいんだ、迂回して歩けばいいじゃん。というわけであらためて奥牧野城に到着です。
来る途中に沢があり、小川が流れていました。水の手は問題なし、結構急だけどあのへんから降りるのかな?とか考えながら歩いていました。古城盛衰記さんの記事によると武田氏に備える北条方の出城だそうな。たしかにそんな雰囲気がありますね。構造は単純で湾曲した秋山川を天然の堀として高所を主郭として東側にも出丸が有るようです。あとは道沿いの北麓に扁平地が連なっている感じ。
あとは来た道をえっちらおっちら帰るだけです。

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しんちゃん

あの島津豊久の居城 (2023/01/08 訪問)

佐土原城は14世紀に伊東氏の一族・田島休助によって築かれたとされています。その後、島津氏の侵攻を受け島津家久が入りますが豊臣秀吉の九州平定後に家久は謎の死を遂げます。その跡を継いだのが有名な島津豊久です。オタク的な話で申し訳ないが私は漫画やアニメの「ドリフターズ」の豊久の印象が強いです。
この日は二度目の来訪だったのでスタンプを押して退散しています。本丸の写真は2014年に最初に訪問した時のものになりますが、さすがに古い感じは否めません。10年たって少しは城の訪問の仕方も覚えたかなと感じる今日このごろです。

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火ノ島豊後守正宗

笠間城 (2024/03/16 訪問)

続74城目。
笠間駅よりバスに乗って5分程度で笠間稲荷神社に到着。神社に参内してから徒歩で5分程度でスタンプがある井筒屋を訪れました。ここで御城印と登城への情報を入手して笠間城址攻略に赴きました。そこから徒歩で40分程度で登城することができました。道はかなり整備されていましたでの山城の登城としてはかなり楽な方でした。

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火ノ島豊後守正宗

水戸城 (2024/03/14 訪問)

正72城目。
JR水戸駅より右側に進んでいくと城内を散策することができます。
城内には幼・小・中・高・大の学校が入り乱れていて学生さんたちによく出会います。
学校周辺を抜けたのちに高名な「弘道館」に到着しました。梅が大変綺麗でした。
その後に偕楽園にも足を運びました。

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火ノ島豊後守正宗

土浦城 (2024/03/14 訪問)

続73城目。
土浦駅より徒歩で15分程度で到着できます。
城址公園入口近くの東櫓にてスタンプと御城印をいただくことができます。
公園内はこじんまりとしていて心が癒されます。

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名城一人旅

日本100名城 87番 (2023/10/27 訪問)

空撮許可を頂きましたので今回で3度目の
攻城です。
私の投稿は主に景色を主体にしていますが、
天守台から見る玄界灘は遠い昔に戦国大名
達が結集して出陣した時の風景を想像し
感慨深いものが有りました。
入城窓口の観光案内所の方々はとても
親切で丁寧な対応をして頂き有り難かった
です。
下城後は今回も名物の呼子の烏賊の活け造り
を食べました。美味しかったです。

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