変形武者走りを楽しんだ後は五郭に沿って本丸に入ります。本丸の手前には土橋がかかっており、周囲には土塁が残っています。
小幡城は江戸氏の支配下に置かれますが、江戸重通は豊臣秀吉の小田原攻めの際に周囲を警戒して秀吉の元に参陣することが出来ず、常陸21万石の所領を安堵された佐竹義重によって常陸国を追われ、結城晴朝の下へ落ち延びて行きました。
一説には大掾氏とともに佐竹氏に、秀吉へのとりなしを依頼したが無視されたとのことです。
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2025/06/22 00:33
本丸 (2024/12/31 訪問)
変形武者走りを楽しんだ後は五郭に沿って本丸に入ります。本丸の手前には土橋がかかっており、周囲には土塁が残っています。
小幡城は江戸氏の支配下に置かれますが、江戸重通は豊臣秀吉の小田原攻めの際に周囲を警戒して秀吉の元に参陣することが出来ず、常陸21万石の所領を安堵された佐竹義重によって常陸国を追われ、結城晴朝の下へ落ち延びて行きました。
一説には大掾氏とともに佐竹氏に、秀吉へのとりなしを依頼したが無視されたとのことです。
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2025/06/21 21:54
荻窪城 群馬県前橋市荻窪町 (2025/06/19 訪問)
見えにくい説明板には、荻窪城は大胡城の出城であったと言われています。荻窪地区に伝わる古文書には、文和2年(1353)足利尊氏の末派、赤荻主馬之介智宜・同弾正智則が居城。これにより同村の向山に城之守り本尊として、大日如来っを祀り・・・、築城は文書より古いく、赤荻一族と推定される。その他立地・縄張が載っている。
城址の西下の入口を利用。城址の西は谷戸を利用した公園になる。時季なのか篠・草が多いく歩きづらい。すぐに藪中に横堀が現れる。郭の北側に劣化した説明板、ベンチもあるが、藪っぽさは否めない。東に城址碑があり、主郭と分かる。さらに東の郭内には、土塁・堀が遺っている。南に下れば民家の敷地は郭に思え、先に南入口の標示がある。
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2025/06/21 21:06
小坂子城(西新井城) 群馬県前橋市小坂子町 (2025/06/19 訪問)
入口の説明板に、戦国時代に田中城(嶺城)の支城として造られました。その他、立地・縄張が簡単に説明されている。
八幡神社西沿いの道路脇に、斜面に上がる農作業道がある。これが堀切らしいが、横に説明板が立つ。当初、堀の右の森が主郭と思い、畑奥まで行くが全く藪中への道がない。縄張図を再度見ると、左側が主郭にも思える。この場所は民家・畑、重機ブルで整地もしていた。神社に居た散歩の方の話では、神社から北に直接城跡へは行けず、神社周辺には何も残っていないと。
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2025/06/21 17:46
田中城(嶺城) 群馬県前橋市嶺町 (2025/06/19 訪問)
入口の先に散策者の注意事項が立っている。
その中に、前橋城代の北条高広が1563年頃築城し、家臣の田中大弐が城代として居城したとある。
4,5年以上前の情報(主に駐車場など)を頼りに寄ってみました。道路脇に似た形の空き地があるが、画像では見学者用Pと標柱が無かった。一旦駐めさせてもらい、途中の民家前に標柱らしき物と3・40㎝四方の白い板があった。標柱は市指定・・とあるが読めない、板を眺める前に、民家の人に会った。城跡の入口を聞くと、先の場所を教えてくれ、また駐車場もこの家の所有との事。この方の敷地を通り行けると言っていたが、全体が私有地なので・・とも、また草が生い茂っているとも。
全体像の把握なく教えて貰った入口へ。標柱はなく草が少々うるさい。すぐに隠れるように案内兼注意書きがある。縄張が分からず、場所が確認出来ないが、入口からも堀底を歩く。右の郭跡は鉄パイプを組んだものが見える。左は登らせてもらうと、奥行きがなく先はまた堀状になっている。左に向きを変えた先で、正面に城塁、堀がわかれる。笹・草が多く、縄張も分からず、本丸は断念。機会があれば再挑戦してみたい。。
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2025/06/21 17:45
2025/06/21 15:12
2025/06/21 14:48
田舎館城 (2025/04/28 訪問)
【田舎館城】
<駐車場他>田舎館村役場に駐車しました。
<交通手段>車
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目5城目。現地説明板によると田舎館城は文明年間(1469~1486年)に初代貞武(政実)が築城し、田舎館千徳を名乗った。1585年、5代政武の時に津軽統一を目指していた津軽為信軍1700騎に攻められて討死して滅亡したとあります。当時は城館の南北に隠し水門があり、水門を閉じると周囲が沼地の要害になったといわれています。
田んぼアートが有名なところで、村役場の入り口が城門、建物がお城風になっています。残存する土塁の一部に行きました。
<満足度>◆◇◇
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2025/06/21 10:59
今譜頼安酢 (2025/04/07 訪問)
ようやく季節外れの風邪(コロナ?)が直って来たら、オカン(80)が体調崩して城攻め中断。急に暑くなってきましたからね~。
皆さんも体調にはお気をつけ下され。ここから涼しくなるまでが長いですな~。
三重堀切の先に主要部がそそり立っていますが、けっこうな高低差があります。踏み代に釣られて西側から登ろうとするけど、なかなか急です。鹿じゃねえぞ~とか思いながら、登っちゃったけど、東(左手)の方がお勧めです。
主要部には一応土塁が残っているけど、それほど凝った仕掛けは無いです。周囲が切り立った切岸になっていて、なだらかな段差を以て尾根上に郭が続いています。
主郭らしき箇所に三角点がありますが、せめて城址碑を~・・。
合戦・・ヤバいです。いくら総攻撃が二回あるからって、戦力差2700は大杉でしょう。う~ん、やれることをやり切るしかない。今回は攻城側なので、城主のワイフをぶんどって来たら まさしく「乱取り」ですな。イオさんみたいだ・・いやいや、寺子屋建立を目指すものとして、そんな心がけでは・・でも、このコンプライアンス全盛の時代に「乱取り」とは甘美な誘惑ですな。
コンプらといえば「山口城」「松本城」「中居城」「国分城」と全部、城びとの城にあるのが微妙に笑える。あとはナカイだけか・・
コンプら城制覇までもうちょっと(ボカッ!!)
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2025/06/21 09:18
北東の堀切群 (2025/04/07 訪問)
下土井城は文永4年(1267)に岡豊前守によって築かれたとされ、関ヶ原の合戦の頃まで岡氏の城として使用されていたようです。
マイナーな城ですが、北東の三重堀切などの見どころがある城です。一応登城道が付いていますが、いささか解りづらく直登に近い登り方をしています。入り口付近に赤いテープが巻いてあったので、それを目印にすればなんとか登れるかも知れません。
道を見失ったら、南西の尾根を目指して登って行けばたどり着けるはずです。尾根上に城址を目指して進んで行くと、途中に三重堀切が待ち構えています。この堀切がなかなか良く残っていて見ごたえがあります。城址に登って行く際に北側(右手)の岩がゴツゴツした場所を登って行くと、けっこう危ないです。南側に安全に登れる箇所が有ったと記憶しているので「危ない」と感じた場合は、一度戻って安全なルートを探したほうが良いと思います。
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2025/06/21 08:53
2025/06/21 08:41
2025/06/21 05:28
(東海&関西)遠征10日目:河合城 (2025/05/24 訪問)
小堀城から徒歩10分くらいで、石碑前(34.882527、134.923812)に着きました。
別名「掘殿城」とも呼ばれ、室町時代の播磨守護職であった赤松氏の東播磨の拠点として築城されています。
1441年(嘉吉元年)「嘉吉の乱」の時には、赤松満祐が将軍足利義教の首をもって入城したことでも知られています。
農道の交差点付近の水路脇に城跡碑・案内板があります。かつては周辺の堀井城や小堀城とこの水路でつながっていたそうです。
土塁も残っているようですがは私にはわかりませんでした。なお駐車場はありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小野陣屋を目指す為、河合西駅から電車で小野駅に向かいました。
河合西駅で電車の待ち時間があったので、雨でぬれた上下の服をトイレで着かえました。
待合室には女性の方がいらっしゃいましたので、トイレで着かえましたが、ここのトイレ結構立派でした。
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2025/06/21 05:20
(東海&関西)遠征10日目:小堀城 (2025/05/24 訪問)
堀井城(城びと未登録 兵庫県小野市)から徒歩10分くらいで、説明板前(34.886187、134.927944)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、嘉吉年間(1441年~1444年)以前に光枝(三枝)正頼によって築かれたと云われています。
天正年間(1573年〜1592年)には三枝治吉が城主で三木城主別所氏に従い三木城合戦に参戦したそうです。
大規模土塁がありました。説明板は道から少し入った門が付いた白壁の前にあります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=河合城へ徒歩で向かいました。
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2025/06/21 05:16
(東海&関西)遠征10日目:堀井城(城びと未登録 兵庫県小野市) (2025/05/24 訪問)
大寺廃寺から徒歩15分くらいで、堀井城跡入口(34.885672、134.921321)に着きました。
1220年(承久2年)赤松円心から三代前の家範の兄弟である赤松景能が築いたと云われています。
1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱で赤松一族は滅亡し一時は使用されなかったようですが、1530年(享禄3年)堀井兵部長満によって再興されたようです。
江戸時代には旗本斯波氏が居住したとも伝えられています。
現在は堀井城跡 ふれあい公園として整備されており、公園には駐車場とトイレも完備されています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=小堀城へ徒歩で向かいました。
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2025/06/21 05:12
(東海&関西)遠征10日目:大寺廃寺 (2025/05/24 訪問)
金鑵城から堀井城(城びと未登録 兵庫県小野市)に行く途中、徒歩10分くらいで、石碑前(34.880587、134.913470)に着きました。
城跡ではありませんが、金鑵城に行く途中に見つけた古代寺院跡です。
遺構は、個人宅前庭にある東塔心礎を中心に新部町大寺集落全域にわたっているようですが、個人宅がどこかわかりません。
昭和43年から昭和46年に実施された発掘調査により、東塔、西塔、鐘楼、回廊、中門等の遺構が検出され、薬師寺式の伽藍配置であったことが判明しているようです。
出土した軒瓦等の遺物から、奈良時代中頃の建立と考えられているようですが、偲ぶものは案内碑のみという状況でした。
また雨が強くなりました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=堀井城(城びと未登録 兵庫県小野市)へ徒歩で向かいました。
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2025/06/21 05:09
(東海&関西)遠征10日目:金鑵城 (2025/05/24 訪問)
粟生駅から徒歩50分くらいで、夢の森公園入口(34.879073、134.906770)に着きました。
金鑵城に行くには本来、河合西駅から歩いた方が近いのですが、粟生駅での待ち時間が1時間10分以上あったので、歩くことにしました。
築城年代は定かではないようですが、播磨守護・赤松氏の家臣の中村氏の居城で、もともと弥生時代の集落があった場所(金鑵城遺跡)に築かれました。
1539年(天文8年)に守護・赤松晴政が中村予次郎の所領を別所源三郎に与えたため、以後両氏の争いとなり、中村氏は天文年間(1532年~1555年)に三木城の別所氏に攻められ滅亡しました。
夢の森公園駐車場付近から主郭までの間に堀切と木橋があります。
東側の虎口から模擬櫓のある郭跡まで歩いて2~3分です。
雨も小降りになったので、眺望も見れました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=河合西廃寺へ徒歩で向かいました。
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2025/06/21 04:53
(東海&関西)遠征10日目:善防山城 (2025/05/24 訪問)
播磨下里駅から徒歩10分ちょうとで、善防公民館駐車場入口(34.883194、134.835114)に着きました。
道路反対側が登山口です。
築城年代は定かではないようですが、赤松刑部(左馬介)則繁によって築かれたと云われています。 赤松則繁は赤松義則の八男で赤松満祐の弟にあたります。
1441年(嘉吉元年)に起きた「嘉吉の乱」で、山名軍に攻められ落城しました。
主郭に説明板、縄張り図がありました。東尾根の中間と東端に石垣の郭があります。
主郭に着いたらいきなり大雨がふりはじめました。すぐカッパを着ましたが、岩場がある下りをゆっくり降りることを考えると時間のかかる笠松山へ向かうことを断念しました。
攻城時間は75分くらいでした。次の攻城先=金鑵城へ向かう為、播磨下里駅から電車で粟生駅に向かいました。
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2025/06/21 04:43
(東海&関西)遠征10日目:中津構居(城びと未登録 兵庫県加古川市) (2025/05/24 訪問)
ホテル最寄りの加古川駅から電車で日岡駅に着きました。
日岡駅から徒歩15分弱で、標柱/説明板前(34.778926、134.848931)に着きました。
城主は梶原景政の後裔とされる梶原冬庵(十右衛門)で、天正年間(1573年~1592年)の秀吉の神吉城(東神吉神吉)攻めの時に神吉城に籠城して討死したそうです。
神社の参道入口に案内板が設置されていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=善防山城を目指す為、日岡駅から電車で播磨下里駅に向かいました。
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2025/06/20 23:57
赤穂城番外・大石神社 (2025/04/20 訪問)
赤穂城三の丸・大手門跡の近くに赤穂大石神社はあります。通称・大石神社として赤穂四十七士を祀っている神社としての方が有名ですが、旧赤穂神社は赤穂藩主浅野氏三代を祀っている神社で、主筋にも配慮した形式を取っているようです。
江戸城松の廊下での殿中刃傷事件の後、赤穂浅野家は改易となりますが、後に500石の旗本として復興します。赤穂浅野家は明治維新後も続きますが、昭和61年に跡継ぎがないまま断絶してしまいました。
一応被害者なのに悪役とされた吉良義央の死後、三河吉良氏は改易となりますが、後に分家が復興を果たします。
「赤穂事件」後の処遇に関しては、三河において松平氏の祖より格式の高かった(編諱を与えたりしている)吉良氏への悪意のようなものも感じますが、それ以上に吉良氏の後ろにいる上杉氏への圧力を感じます。
吉良義央の子・綱憲は米沢上杉氏の養子に入って上杉氏を継いでいますが、足利氏の名門・三河吉良氏は扇谷上杉家の前身である二橋上杉家の血を引いているとされています。
残念ながら名君と名高い9代・上杉治憲(鷹山)は秋月家からの養子で綱憲の血を引いていません。8代重定の次男・治広が10代藩主となり山内上杉家の26代目も継いでいます。
戊辰戦争の時の12代藩主・上杉斉憲は奥羽越列藩同盟の実質的な盟主であったものの、早々に新政府に降伏し会津と庄内を攻撃したため評判は芳しくありません。子の上杉茂憲は新政府に降伏した際に13代を継ぎますが実権は父の斉憲が握っていたとされています。
明治維新の後、茂憲は沖縄県令として沖縄に赴き、島民の為に尽力したとされています。明治の世になって吉良・扇谷上杉家の名門の子孫がようやく面目を果たしたと思います。
ちょっと話が逸れました。最近はイランとイスラエルまで紛争の様相を呈してきましたが、4月の時点で既にウクライナやガザなど争いは継続して発生していました。「世の中がもっと平和になりますように」と願をかけてきたのですが、頼んだ相手が悪かったのでしょうか? もう300年以上たっているわけだし、いいかげん冥土で和解してるだろうとは思うんだけど。
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