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チェブ

明るい時間に謎解き。 (2024/04/13 訪問)

1545年、「下館城」城主 水谷 正村さんにより「久下田城」は築かれました。「下館城」の支城として、宇都宮氏に備えます。

「久下田城」、薄暗いとの投稿で避けていたのですが、桜のシーズンだし、意外と花びらでビンクかも。と、楽観的にお邪魔しました。

写真①②を見つけ、案内板の矢印の方向に向かうと道はどんつき。左折し、振り出しに戻るを2回ほどしました。どんつきを右折して、細い道を左折しました。
案内板からの道は、車が すれ違い出来ない位の道幅です。
写真⑨の橋を渡り「久下田城」に到着しました。
郭になると思いますが、こちらに車を駐車しました。
確かに薄暗いですが、やっと見つけた「久下田城」ですので、郭をグルッと回りました。
桜の木も、やや控えめに花びらを散らしていました。
土塁や堀が残ってます。写真⑨に戻ると、土橋だったのか両脇は堀になっています。

『久下田城絵図』がありました。
文字が薄くなっていて、現在地が分かりません。
でも、絵図の色別はたくさん区切ってあります。
よーく見ると、『空家』の文字。

『空家』って、、、?
今でも使われている館があるのか、気になる「久下田城」攻めでした。

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ぴーかる

長藪城 (2024/03/09 訪問)

【長藪城】
<駐車場他>駐車場はなし。長藪城登城口に2台程停めれる。
<交通手段>車

<見所>堀切・横矢・竪堀
<感想>長藪城は楠木正成に従い功を立てた牲川頼俊の子、義春が文明年間(1469~1487年)に紀伊国伊都郡に入り築城したとされます。牲川氏は紀伊守護の畠山氏に仕えます。戦国時代後期、畠山氏が没落後は織田信長に仕えますが、1587年豊臣秀吉に逆らって討死し城は落城したとされます。
 城郭は東の城・西の城・出城の3つのゾーンに分かれ一城別郭をなしていますが、3つの曲輪群に分かれている程度で大規模城郭と言えるほどではないです。しかし散策は十分に楽しめます。尾根に沿って東の城は南北に長く、西の城は東西に長いです。Googleマップの長藪城登城口、水道施設の横から登山道が整備されています。北に向かってほぼ真っすぐ細尾根を20分程登ると東の城の副郭に出ます。途中に浅堀切が2か所程あります。
 東の城の副郭は2段構造で西側に腰曲輪が付いています。主郭は方形平地で北側に大堀切がありそうで‥‥無い!小さい堀切が1条あります。主郭と副郭の間に虎口があって、西の城へ下って行く坂があります。東の城の西虎口に出ます。この虎口と坂が曲輪の上方サイドを歩くことになり折れ曲がり虎口になっています。東の城と西の城との間は谷上の土橋を100mほど進んで登ります。
 西の城は東から行くと土橋、堀切があり主郭に入ります。主郭は2段構造で南下段に武者走り、その下の斜面に2条竪堀りがあります。主郭北側に東西に長い土塁があります。主郭の西側は半分堀切、半分副郭になっています。西の城副郭の西端にやや深めの大堀切があり曲輪側の切岸は高い。そこから西へ長い尾根曲輪になっていて、最西に円形の出城(出丸)があります。
 東の城の虎口・通路に対する横矢の造り、西の城は主要部凸凹の造りが見応えありました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

案内板はちょっとわかりにくい。 (2024/03/09 訪問)

丹下砦は永禄2年、織田信長が今川義元の来襲に備えるため鳴海付近に築いた砦の一つで、岡部元信の籠っていた鳴海城と対峙していました。光明寺の裏山が城址とされ、光明寺を通り抜けさせていただき。すこし進んだ民家の脇に案内板が有りました。もちろん本堂には参拝させていただいております。光明寺の門にはいかつい風神・雷神の像が凄みを効かせ、境内にはやる気の無いユルい狸の置物があります。このギャップも良いですね。

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しんちゃん

笠寺小学校が城址 (2024/03/09 訪問)

星崎城は笠寺小学校の敷地内が城址で、南東部に城址碑と案内板が設置されており、柵越しに見ることが可能です。蓬左文庫蔵の縄張り図を見ると南北に郭が連なり、南の星宮社も出丸の雰囲気を持っています。
歴代城主の一人、岡田直教は槍の名手で織田信秀に仕えました。天正12年(1584)には山口重勝、ついで重政が在城しますが天正16年に重政が織田信雄から伊勢国茂福1万3千石を与えられ移封となったので星崎城は廃城になったそうです。

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ランフランコ

#32 善防師城 (2024/05/11 訪問)

前にも来たことがあったが、ここが城跡だとはつゆ知らずでした。

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駿府城

『「駿府城」まるわかり』が新しくなりました!

『「駿府城」まるわかり』は駿府城に関する絵図や文献などの調査や30回におよぶ発掘調査の成果を基に、駿府城の歴史や特徴を分かりやすく解説した駿府城のガイドブックです。

現在、以前販売されていたものよりも内容をパワーアップした最新版を販売しています。
表紙も新しくなり、天守台跡発掘調査の最新の成果も反映させています!

『「駿府城」まるわかり』は発掘調査現場に併設されている「発掘情報館きゃっしる」の隣の事務所で販売しており、駿府城跡天守台発掘調査現場でしか買えません!

販売書籍名:「駿府城」まるわかり
販売場所:駿府城跡天守台発掘調査現場
販売時間 :9時00分~16時30分(入場は16時00分まで)
販売価格 :500円(税込)

ぜひ新しくなった『「駿府城」まるわかり』をお手にとってみてください。

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香山城 西播磨 (2024/04/28 訪問)

佐味城を訪れて、西播磨の香山城が気になりました。木内内則さんの「中世播磨の山城」に城らしくない縄張り、川港の荷揚げ場兼か、などと紹介されてます。鎌倉時代に香山氏が、地頭になり、築城したことや羽柴軍の黒田官兵衛もしくは黒田職隆が攻め落としたと、由緒ははっきりしています。
大歳神社を挟んで、北郭と南郭に別れます。いずれも外部を石塁が取り巻き、多数の郭の間を縦横に石塁と堀が走ります。北郭北端は、小川が作る切り立った谷。東の正面は高い切り岸。背後の西は、切り立った斜面。北郭大手から、本郭まで少し湾曲してますが、一本の大手道が通ります。
入口から順路の立札があり、特に北郭は、よく整備されています。めくるめく石垣ワールドです。主郭の石垣は、三段〜四段のセットバックで高さをかせいでいます。えーなあ。領主、家臣の団地が城になっているのでしょうか。

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イオ

北郭(椎ノ木城) (2024/03/09 訪問)

標高312mの桝形山頂部に位置する山城で、南北2つの郭からなり北郭は椎ノ木城、南郭は白米城とも呼ばれています。南北朝期に北畠親房または北畠満雅が築いたとされ、水の手を絶って包囲する幕府軍を、馬の背に白米を流して水が豊富にあるように装って撤退させたとする白米城伝説で知られます。織田信長の伊勢攻めでは、北畠氏重臣の大宮入道含忍斎が守将となって滝川一益を退け木下藤吉郎を負傷させるも落城し、廃城となりました。

登城ルートはいくつかありますが、浄眼寺前の駐車場から浄眼寺ルートで登城しました。よく整備されたハイキングコースを登ること約30分で北郭に到着。右手には竪堀、左手には土塁とその奥に堀切が見られます。北郭に足を踏み入れると、目の前にドドンとそびえる主郭部北曲輪の切岸! 高さがある上に草木がしっかり刈られているため切岸の鋭さが際立ってかなりの迫力です。切岸北麓の曲輪は北辺に低い土塁が続き、北裾には連続竪堀がある…ようですが、灌木が茂っていてよくわかりません。切岸の麓を西に回り込むと長大な竪堀が北西方向に続いています。竪堀南側に広がる腰曲輪を横目に南に進むと主郭部への虎口がありました。虎口の脇には竪堀が西方向に落ちています。虎口から入ってまず北側の曲輪に向かうと、西辺に低い土塁が続き、先ほど見上げた北端の切岸の上に立つと足がすくむほどです。続いて南側の主郭へ。主郭は南北に細長く、周囲を低い土塁が取り巻いています。主郭の東側は藪化していますが、西辺の切岸は綺麗に刈られていてこちらもなかなかの見応えです。虎口を出て主郭西麓の帯曲輪を南に進むと主郭南端の堀切に至ります。ここまでが北郭のようです。

さて、堀切を越えると尾根道を下って南郭(白米城)に向かいます(続く)。
 

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todo94

金谷城特別公開前日の城めぐり④ (2024/03/13 訪問)

海老名からの転戦です。インパクトのある城名で印象に残っていました。町田市が神奈川県内に食い込んでる地域に所在していたのですね。結構距離がありましたが、小田急線鶴川駅から徒歩にてアプローチしました。朝田辰兵衛さんの投稿にもある通り、数多くの立て札はありましたが、自分は該当しないので気にせず攻城させていただきました。私有地にもかかわらず散策させていただけるだけでも感謝の限りです。

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しんちゃん

土屋惣蔵片手切り・四郎作古戦場 /有馬晴信蟄居の跡 (2017/12/17 訪問)

土屋惣蔵片手切跡‥ 山梨県甲州市大和町田野
土屋惣蔵昌恒は武田二十四将・土屋昌続の実弟で長篠の合戦で養父と兄が討死したため土屋家の家督を継いでいました。昌恒は落ちゆく武田勝頼に最後まで従い、勝頼らが自害する時間を稼ぐため、崖道で藤蔓を掴んで片手で追手を斬り続け「片手千人切り」の伝説を残しました。
四郎作古戦場‥ 山梨県甲州市大和町初鹿野
かつて勝頼の勘気を受け蟄居(幽閉)の身となっていた小宮山内膳友晴は土屋惣蔵の仲介で勝頼一行に加わり、四郎作の地に陣を構え、討死を果たしたとされています。四郎作古戦場の石碑は鳥居畑古戦場の石碑より西側に100mちょっと進んだ場所にあり、最期の戦いでも最前線にいたことが伺えます。

有馬晴信蟄居の跡‥ 山梨県甲州市大和町初鹿野1924
四郎作古戦場の石碑よりさらに西に数百m進んだ国道20号線沿いに有馬晴信蟄居の跡の案内板が立てられています。晴信は日野江藩の初代藩主であり日本初のキリシタン大名の大村純忠の甥にあたります。晴信も敬虔なキリシタンだったとされています。
晴信はマカオでのトラブルから発展したノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件で長崎奉行の長谷川藤広と確執を持つことになります。なおかつ本多正純の家臣・岡本大八に旧領回復のためと大金をだまし取られた上に、獄中の大八から晴信は長崎奉行である藤広に害意が有るとチクられてしまったために、当地に流され、後に切腹が申し付けられます。
晴信はキリシタンだったため、自害を拒み、家臣に自らを斬首させたとされています。また当地は晴信の最期の地でもあるようです。

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キンヤ

石垣で見所が多く、模擬天守が立派な城 (2024/05/06 訪問)

佐々成政の城ということで、さらさら越えも有名で、行きたかった富山城に初めて行きました。

天文12年(1543)に神保長職が築城し、天正10年(1582)に佐々成政、慶長10年(1605)に前田利長が城主となり、明治に至るまで富山前田家の居城となりました。 

成政は羽柴秀吉軍の討伐を受け中世富山城は破却され、現在見られる近世富山城は前田利長が改修・整備したとされます。
残念ながら成政時代の遺構は見られませんが、発掘調査で中世の富山城の堀跡などが見付かり、模擬天守内の富山市郷土博物館に出土した戦国期の茶臼やかわらけなどが展示されてました。

本丸・西之丸があった所は富山城址公園として整備されており、模擬天守(富山市郷土博物館)が建てられています。鉄門枡形・多聞櫓の石垣の上に附櫓と小天守が附属し建ってますが、結構しっくり来て綺麗で、国の登録有形文化財にもなっています。

1番の見所は、本丸の鉄門枡形・多聞櫓の石垣で見応えがあります。富山城の石垣の多くは野面積みですが、鉄門枡形内では布積みが見られ、鏡石が6つと多くあり珍しいです。刻印を探すといくつか見付かり楽しいです。西側の石垣は概ね当時の姿のようですが、東側の石垣は模擬天守工事の際に積み直しがされているようです。

本丸の搦手門周辺にも石垣がありますが、多くは明治時代以降に積み直しがされているようです。石垣の上には天守風の佐藤記念美術館が建てられています。

搦手門の南側には唯一の現存建物の千歳御門が移設されています。

思っていた以上に石垣で見所が多く、模擬天守はなかなか立派で楽しめました。

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しんちゃん

ちょこ城にも五分の魂 (2024/03/09 訪問)

小田井城です。ちょこ城ですね。尾張の石碑ばっかりの城をまわっていると、お墓参りをしているような気になってきます。あたたた‥
最近、ますますヒザが弱って来ているんで、ちょっと山城はきついですねー。とか言いながら元気になったら、また行きたいです。
個人的には比高が低くて、遺構がいっぱいある山城が好きです!(正直すぎ)

小田井城です。(また言った)現状・公園で石碑ぐらいしか見る物はありません。遊んでいる子供なんか写ったらアウトです。織田大和守家の織田敏定の築城で清須城の支城とされています。敏定の弟・織田常寛が城主となると織田藤左衛門家の代々の居城になったようです。ちょこ城ですが歴史は深いです。城郭大系にも記載がありました。
ちょこ城にも五分の魂。

現状おつかれモードで、ぴーかるさんのリクエストにはなかなか答えられそうもないです(しばしのご猶予を‥)。体調が戻ったら、また山城にトライしたいですね。実は結構行っているんですよ。八王子城の詰めの城はマジお勧めです。城びとの投稿を見ると、にのまるさんが訪問されてますね。

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ぴーかる

佐味城お礼と追記

 しんしんちゃんさん、佐味城登城祝辞ありがとうございます。貴殿をはじめ皆様のおかげで登城することができました。また難関がありましたら頼りますんでよろしくお願い致します。
 追記で、駐車で利用させて頂いた高鴨神社の本殿は室町時代の再建で重要文化財に指定されていて、ものすごく趣のある神社ですので、併せて見学されても良いかと思います。また室町時代の再建ということで、少し低地にある神社と高地にある佐味城(城郭寺院か寺院跡地かの説のある城跡)の相関関係も考察する楽しさがあります。

 直近の投稿記録で、しんしんちゃんさんがちょこ城について述べられていました。私も4/13を最後に今シーズンの山終いをしまして(最終日は虫がすごくたかってきて大変な目に。)先週からちょこ城巡りをしています。移築城門や歴史資料館を見たりしながら夏場のルーティンをしております。確かにちょこ城は登城数を稼げますよネ。(≧▽≦)

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しんちゃん

近世城郭としての遺構が残る。 (2019/08/12 訪問)

相馬中村城は中村藩6万石の政庁ですが、起源は平安時代初期に坂上田村麻呂が築いたものとされています。南北朝時代には中村氏がこの地に築いた中村館を中心に勢力を振るい、戦国時代には相馬氏が変わってこの地を支配しました。慶長16年(1611)に相馬利胤は本城を小高城から中村城に移転し近世城郭としての改修がなされたようです。
戦国期から抗争があった伊達氏に備えるため、北側の守りが特に堅くなっており、かつて北側の堀の役目をしていた蓮池は今も健在で、かつてはその北側に北三の丸と岩崎塁が配され、出丸の役割を果たしていたようです。本丸南側の切岸は険しく、石垣も一部残っています。本丸には相馬神社が祭られ土塁も一部残っています。東二の丸と本丸の間には深い堀が有り、赤い橋が架けられています。
西二の丸の南側の高地には相馬中村神社が祭られ、信仰の場所としての荘厳な雰囲気を漂わせています。相馬中村神社の祭神は天之御中主大御神で造化三神の一柱とされ妙見様と呼ばれることもあります。本丸に鎮座する相馬神社は相馬氏の始祖・師常公を祭っています。

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トベシュン

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡り (2024/05/09 訪問)

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡りしました。

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トベシュン

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡り (2024/05/08 訪問)

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡りしました。

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トベシュン

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡り (2024/05/08 訪問)

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡りしました。

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姫街道

社山を歩きながら考える事 (2024/05/11 訪問)

二俣城を巡る武田対徳川の戦いで、元亀3年には武田信玄が、天正3年には徳川家康が陣城としてそれぞれが築造した縄張りを想像しながら巡るのがおススメ。
個人的には、長篠の戦いに勝利した徳川軍が二俣城攻め時に築造した部分が多いのかなぁと思ってます。
以前に比べたら、伐採や整備が進んで見やすくなってきてます!

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まさお

山口 萩城 (2013/05/02 訪問)

11年前に中国地方を旅行で訪れた時の萩城
付近の写真です。

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まさお

震災前の熊本城 (2011/09/29 訪問)

熊本震災前に九州旅行で訪問した時の熊本城の写真
見つけたのでアップします。
2027年には復活する予定との事。
また行きます。

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