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イオ

警戒しつつ登城… (2024/03/09 訪問)

阿坂城から北東にのびる尾根の突端に位置する丘城で、詳細は不明ながら阿坂城の出城として北畠氏重臣の大宮入道含忍斎が守ったとされ、阿坂城の落城に伴い廃城となったと思われます。

阿射加神社の駐車場に駐めさせてもらい、南東側の登城口(道沿いに案内表示あり)から登城開始。水路を渡り石仏に登城中の無事を祈りつつ登って行くと、緩やかに傾斜した削平地に高城跡の説明板が立てられていました。その先の虎口を抜けると主郭に至ります。主郭内には用途不明の窪地がいくつも見られ、前夜の雨が溜まっているところもありました。主郭の西半分(北辺~西辺~南辺)には土塁がめぐり、北西隅と南西隅は特に分厚く高くなっていて櫓台だったものと思われます。西側の虎口は枡形状で、北西隅の櫓台の麓を回り込むように登城道が設けられていました。そして最後に、主郭北辺の踏み跡をたどって下りて行き、北尾根を遮断する二重堀切を確認して高城をひとめぐり。

登城の3週間ほど前にしんしんちゃんさんから注意喚起の投稿があり、猟犬に襲われるのも撃たれるのもイヤだなぁ…と思いつつも、松阪市内の城めぐりは今年の一年の計でもあるので、ヤバそうな雰囲気を感じたらすぐに撤退しよう、と警戒しつつの登城でした。小さな城ながら虎口も土塁もなかなか見応えありますし、そんな心配をすることなく登城できればいいんですが…。
 

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todo94

金谷城特別公開前日の城めぐり⑥ (2024/03/13 訪問)

枡形城からの転戦でこの日最後の攻城です。とある煩悩の登城目録さん、赤い城さんに倣って善性寺と六所神社を回らせていただきました。善性寺はちょっとした高台に本堂が建っているのでほんの僅かですが砦テイストを味わうことができました。この後は、小田急線と東京メトロで銀座にアクセスし、銀座ライオンにて晩酌を楽しみました。

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しんちゃん

白黒のパンダ天守 (2024/01/04 訪問)

福山城は最後の近世城郭と言われ元和8年(1622)水野勝成によって築かれました。五重(当初は四重とも)の天守と7基の三重櫓を擁した堂々たる近世城郭で、天守は昭和20年の福山大空襲で焼失するまでは国宝に指定されていました。
昭和41年に建設された天守も近年リニューアルされ、北側の鉄板も史実に基づいて再現され、2022年8月より公開されています。独自の景観を持った日本唯一の天守ですね。

※間違って別の福山城に掲載していました。申し訳ないけど再度掲載させていただきます。

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しんちゃん

豊国廟 豊臣秀吉公廟所 (2017/05/28 訪問)

豊国廟は関白・豊臣秀吉公の廟所で京都府東山区の阿弥陀ヶ峰の頂部に築かれています。麓から563段の石段を登っていくと頂部に至り、そこに秀吉公の五輪塔があります。かつての壮麗な豊国廟は阿弥陀ヶ峰の西麓の太閤平と呼ばれる平坦地にありましたが、大阪夏の陣の後に破却され、社殿は残されたものの朽ち果てるまで放置され続けたとのことです。
明治6年に阿弥陀峯を豊国神社の鎮座地と定め、明治13年に方広寺大仏殿跡地に豊国神社が建てられました。墳墓の移築工事の際に秀吉公の亡骸も発見され丁重に埋葬されています。西麓には新日吉神宮が鎮座し、境内には樹下社(豊国神社)が祭られています。

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小城小次郎

見どころには事欠かない (2023/11/04 訪問)

関ヶ原で西軍につき大坂の陣で大坂城に籠るという、運に見放されたような玉置城の本拠地。お城は地域No.1クラスに大きく、瓦も落ちてるし石垣の残欠もあるし大きな堀切もある。程よく草も刈られていて見どころには事欠かない。

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しんちゃん

元乃隅神社  山口県長門市油谷津黄498 (2024/01/02 訪問)

元乃隅稲成神社は1955年に白狐のお告げにより創建された神社とされています。日本海に向かって123基の鳥居が連なっていく景色は圧巻で、アメリカのマスコミにも取り上げられています。なんでも「日本の最も美しい場所31選」(2015)に選定されたとか。
高台の大鳥居の上部にある賽銭箱にお賽銭を放り込むことができると願いが叶うそうです。私は3回ぐらいトライして、成功しました。少しコツが要りますが運動会の玉入れの要領です。

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しんちゃん

閑院宮邸跡 京都御苑内 (2017/05/28 訪問)

閑院宮家は四親王家の中では最も新しく、宝永7年(1710)に創設されました。光格天皇は閑院宮家の出身で安永8年(1779)に9才で皇位に就いています。邸宅は宮家が東京に移って以降は華族会館や裁判所などに使用されました。
明治16年に宮内省京都支庁が設立され、太平洋戦争の後に京都御苑が国民公園となってからは管理事務所に使用されてきましたが、平成18年に改修工事を終え、一般にも公開されています。月曜日と年末年始は休館していますが、比較的容易に見学できる上に、何と言っても無料なのが良いですね。タダより安いものは無いといいますが、無料なのは有り難いことです。

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朝田 辰兵衛

まずは難読地名(難読駅名)をクリアしてから… (2024/03/30 訪問)

「象潟」という難読地名(難読駅名)をクリアしてから,いざ攻城されるのが宜しいかと思います。東北地方出身者でも,日本海側に縁遠い方は「ぞうがた」と言い間違えています。
正しくは「きさかた」です。とくに鉄道利用の場合は,目的となる象潟駅を通り過ぎてしまう恐れがあります。くれぐれもご注意ください。
最寄りのバス停は,熊野神社前ですが,本数的に使えません。別の用事と抱き合わせなら別ですが…。

道路に面してパネルが設置されており,これを見逃すことはまずないと思います。奥に石垣が見え,その上が本丸となります。
本丸へは,西側隣接の民家奥に小路がありますのでここを進んでください。特徴的な虎口が迎えてくれます。
搦手虎口は改変された感があります。しかし,民家ワキにミニ神社があったので,昔からあったと推察されます。
歴史については,パネル画像をお読みください。たった9年間しか存続しなかったお城です。

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イタさん

堀・土塁がよく整備されている (2024/05/10 訪問)

鑁阿寺境内が館跡になり、周囲を堀と土塁が囲み東西南北に門がある。境内には本堂・中御堂・経堂・多宝塔・鐘楼・御霊屋・蛭子堂などの建物がある。

鑁阿寺の南東に隣接するように足利学校跡がある。南半分、東、北は狭くなって半分程度の堀が遺る。土塁は全て確認しないが南を除きよく観られる。南道路脇の入徳門を入れば拝観料480円を払う。足利学校入学証と学生証のシールがもらえる。先の学校門左奥に稲荷神社が祀られている。学校門の先に更に門で仕切られた孔子廟が建っている。右手には茅葺きの方丈・庫裏・書院の建屋、前の池脇に衆寮とある学生寮、奥に行って木小屋と言う物置等々が観られる。物置の横、順路を西に行った先にハッキリと土塁がある。

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イオ

南郭(白米城) (2024/03/09 訪問)

(続き)

北郭南端の堀切から南郭へと続く尾根筋には二条の堀切が設けられています。南東側の堀切を過ぎて坂道を登って行くと、眼前に立ち塞がる南郭主郭の切岸…。高さと大きさは北郭以上で、こちらもよく刈られていて大迫力です。南西麓のスロープから主郭に上がると、楕円形の曲輪には白米城阯石碑が建ち、360度視界を遮るもののない眺望が広がっています! この地に城が築かれた理由と、ここまでの道中で多くのハイカー(登城者ではない)と出会った理由がよくわかりました。南郭はほぼ単郭ですが、切岸の下には帯曲輪がめぐり、南方向に竪堀(堀底道)が落ちています。北東にはほぼ自然地形の尾根がのび、その付け根を堀切と堀切から続く竪堀で断ち切っています。南東方向への竪堀はかなり下まで落ち込んでいました。尾根の東端から北側に派生する支尾根の付け根にも浅い堀切が見られます。

阿坂城の両郭をひとめぐりした後は来た道(浄眼寺ルート)を下山しましたが、東麓の浄眼寺は北畠氏の菩提寺であり、往時は阿坂城を詰の城とする山麓の居館としての役割もあったようです。

北郭も南郭も切岸と堀による防御を主としたオーソドックスな中世山城ながら、草木が綺麗に刈られているために切岸の高さと急峻さが際立ち、大変に印象的でした。この状態を維持し続けるのは並大抵のことではないと思いますが、おかげさまで阿坂城を存分に堪能させていただきました。
 

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todo94

金谷城特別公開前日の城めぐり⑤ (2024/03/13 訪問)

沢山城からの転戦です。向ヶ丘遊園駅から徒歩にてアプローチしました。生田緑地の一角に公園として整備されています。全国に枡形城は何か所かありますが、川崎市は全域が旧武蔵国ですので武蔵枡形城ということになりますね。公園に整備された展望台はかなり巨大で主郭をきれいに俯瞰できました。植栽の陰に隠れた城址碑も見つけることができて満足です。

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イタさん

岩場の多いハイキングコース (2024/05/10 訪問)

織姫公園から散策開始。幾つかのピークを過ぎ、尾根全体が岩の場所まで登る。展望テラスとあったような。休憩施設があり、その先に岩盤を掘ったような堀切が出てくる。堀切の先にも東屋風の建物があり、小さな郭になり、先に石段があり上に鳥居が見える。石段上は主郭の下の郭に成なり、幾つかの祠が祀られている。さらに石段を上がれば鳥居と先に御嶽神社が祀られている。山頂部(主郭)は狭く土塁などは確認できない。

主郭下の郭に縄張図があり、北・南・西の尾根に郭と堀切が書かれている。北尾根に下ってみると二本の堀切があり、縄張図でも二本と載っているが、やや先に自然地形かも知れないが、土橋・堀切に思える場所がある。西側は主郭から直ぐに堀切があり、先には細長い郭が見受けられる。さらに西に堀切が書かれているが、時間の都合で戻り確認できず。高さ的に主郭と下の郭の中間に帯郭らしき平地があり、西の堀切底から南に回り込める。そばに竪堀に思えるものもある。図では南尾根に三本の堀切があるが、見逃したのか二本は気がつかなかった。帰宅後諸説明を見ると、展望テラス下の岩場、さらに先の岩場下などに施されていたようだ。

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イタさん

成沢城 埼玉県熊谷市成沢 (2024/05/09 訪問)

案内に、龍谷山成澤寺静簡院と称し・・・、大永5年(1515)に成澤越前守隼人正義祐が成沢城を築城し・・・、義祐戦死後、深谷上杉氏により静簡院が創建された、・・・とある。

寺の裏(北側)に土塁跡がわずかに見られる。隅まで動き回ったわけではないが、堀跡は消滅していると思われる。

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にのまる

久しぶりの36見附めぐり (2024/05/14 訪問)

急に思いたって見附ウォーキングに出かけてきました。

①浅草見附
 浅草橋駅から徒歩数分のところに石碑。
②筋違見附
 旧万世橋駅です。2週間前にも来ました。
③小石川見附
 東京ドームの近くです。長年の推し投手の訃報に触れて今日は悲しいです。
④牛込見附
 飯田橋駅です。「牛込門と土塁」が整備されていました。
⑤市谷見附
 解説板の前はいつも混んでいます。
⑥四谷見附
 チェックポイントがいくつもあります。
⑦食違見附
 真田濠を見下ろしながら移動しました。
⑧赤坂見附
 刻印石堪能しました。
⑨虎ノ門見附
 石垣ラインの平面復元がツボです。道路の向こう側に溜池櫓台跡があります。
⑩幸橋門
 幸橋架道橋チェック
11)山下門
 解説板があります。
12)数寄屋橋門
 数寄屋橋公園に石碑(裏に解説あり)があります。

約5時間歩いて12ヶ所まわったところでスマホのバッテリーが切れそうだったので終わりにしました。(写真は枚数制限のため幸橋門と山下門と数寄屋橋は10枚目にまとめました。)

【感想】
何度か行っているのでポイントで迷うことはなかったのですが、秋葉原の人混みや普段縁がなさすぎる霞ヶ関あたりは方角がわからなくなって何度もフリーズしてしまいました。それでもチェックポイント目指して歩くのは楽しかったですし、東京の中に確かに残る江戸を感じられて心も頭も満たされました。
残り24見附、続きはまたいつか。

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イタさん

増田氏館(文珠寺)埼玉県熊谷市野原 (2024/05/09 訪問)

説明板に、「三人寄れば文殊の知恵」の言葉がある文殊菩薩は、知恵を司る仏として信仰されている・・・。丹後の切戸・米沢の亀岡・武州野原の文珠寺は、日本三大文殊として有名。文明13年(1481)に大部分が焼け、高見城主・増田四郎重富公が文明15年、現在地に再建した。残っているのは仁王門と館跡を物語る堀だけ・・・と載る。

堀跡は北と西に長く遺るが、大分浅くなり藪化して画像ではよく分からない。土塁は低くなるが堀の内側に痕跡は見て取れる。

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しんちゃん

北条氏の重要拠点 (2024/05/03 訪問)

玉縄城は伊勢盛時(北条早雲)によって築かれたとされています。鎌倉や小田原の守りの重要な拠点であり、かつては城の外堀が柏尾川と直結し水軍を統括する拠点でもあったようです。周囲の支城や砦を合わせるとかなりの規模で、初代城主は氏綱の弟である北条氏時が務め、その後も北条氏にとって重要な人物が城主を務めています。
周囲に駐車場は無く、近場のコインパーキング等を利用する必要がありそうです。麓の七曲坂の入り口に案内板が有り、そこから本丸まで登って行きます。本丸は女子高校になっていて一目で進入不可とわかります。いわゆる「あかんやつ」ですね。南東の太鼓櫓跡は公園として整備されていて、裏手の堀を見ることが出来ます。かなり大きくて深い堀です。陽谷山龍寶寺には玉縄北条氏の供養塔があり、資料館が併設されています。玉縄歴史館というらしく開館日は龍寶寺の開門日に準じているようです。山門をくぐってすぐ右手にあるようですが、気づかずスルーしてしまいました。

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小城小次郎

時期を選ぶ必要はあるようだ (2023/11/04 訪問)

畠山氏の下で守護代を務めたとも伝わる野辺氏のお城で、熊野の在地勢力に追われて大永2年に落城しているらしい。山頂部分はよく整備されているのだが時期を間違えると登城路が草に覆われてどうにもならない。

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モト

九州古代山城シリーズ (2024/05/11 訪問)

古代山城シリーズの神籠石を見る事ができます。
高良大社のある山にあります。
白村江の戦いに負けた日本が太宰府を守る為に作った古代山城シリーズ、その血を引いたこの高良山神籠石です。
このシリーズに最近、個人的にハマってしまってます。
いくつか九州にある山城ですがここの神籠石は鋭角に曲がった角ものある神籠石が珍しいそうです。
麓では崩れてはいますが水門跡も見る事ができました。

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チェブ

明るい時間に謎解き。 (2024/04/13 訪問)

1545年、「下館城」城主 水谷 正村さんにより「久下田城」は築かれました。「下館城」の支城として、宇都宮氏に備えます。

「久下田城」、薄暗いとの投稿で避けていたのですが、桜のシーズンだし、意外と花びらでビンクかも。と、楽観的にお邪魔しました。

写真①②を見つけ、案内板の矢印の方向に向かうと道はどんつき。左折し、振り出しに戻るを2回ほどしました。どんつきを右折して、細い道を左折しました。
案内板からの道は、車が すれ違い出来ない位の道幅です。
写真⑨の橋を渡り「久下田城」に到着しました。
郭になると思いますが、こちらに車を駐車しました。
確かに薄暗いですが、やっと見つけた「久下田城」ですので、郭をグルッと回りました。
桜の木も、やや控えめに花びらを散らしていました。
土塁や堀が残ってます。写真⑨に戻ると、土橋だったのか両脇は堀になっています。

『久下田城絵図』がありました。
文字が薄くなっていて、現在地が分かりません。
でも、絵図の色別はたくさん区切ってあります。
よーく見ると、『空家』の文字。

『空家』って、、、?
今でも使われている館があるのか、気になる「久下田城」攻めでした。

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ぴーかる

長藪城 (2024/03/09 訪問)

【長藪城】
<駐車場他>駐車場はなし。長藪城登城口に2台程停めれる。
<交通手段>車

<見所>堀切・横矢・竪堀
<感想>長藪城は楠木正成に従い功を立てた牲川頼俊の子、義春が文明年間(1469~1487年)に紀伊国伊都郡に入り築城したとされます。牲川氏は紀伊守護の畠山氏に仕えます。戦国時代後期、畠山氏が没落後は織田信長に仕えますが、1587年豊臣秀吉に逆らって討死し城は落城したとされます。
 城郭は東の城・西の城・出城の3つのゾーンに分かれ一城別郭をなしていますが、3つの曲輪群に分かれている程度で大規模城郭と言えるほどではないです。しかし散策は十分に楽しめます。尾根に沿って東の城は南北に長く、西の城は東西に長いです。Googleマップの長藪城登城口、水道施設の横から登山道が整備されています。北に向かってほぼ真っすぐ細尾根を20分程登ると東の城の副郭に出ます。途中に浅堀切が2か所程あります。
 東の城の副郭は2段構造で西側に腰曲輪が付いています。主郭は方形平地で北側に大堀切がありそうで‥‥無い!小さい堀切が1条あります。主郭と副郭の間に虎口があって、西の城へ下って行く坂があります。東の城の西虎口に出ます。この虎口と坂が曲輪の上方サイドを歩くことになり折れ曲がり虎口になっています。東の城と西の城との間は谷上の土橋を100mほど進んで登ります。
 西の城は東から行くと土橋、堀切があり主郭に入ります。主郭は2段構造で南下段に武者走り、その下の斜面に2条竪堀りがあります。主郭北側に東西に長い土塁があります。主郭の西側は半分堀切、半分副郭になっています。西の城副郭の西端にやや深めの大堀切があり曲輪側の切岸は高い。そこから西へ長い尾根曲輪になっていて、最西に円形の出城(出丸)があります。
 東の城の虎口・通路に対する横矢の造り、西の城は主要部凸凹の造りが見応えありました。

<満足度>◆◆◇

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