鳥取県西部伯耆の国に城びと登録未踏の城が5城有りましたので今回の郷里鹿野慶讃法要の後に廻る事に、前日法勝寺城は草の茂りが深く登城口まで、小波城は古城盛衰記さんのガイド案内でグーグルマップを良く確認して、カーナビに鳥取県米子市淀江町小波161-2に合わせ走行、9号線中間交差点信号を南下1km程中間集落に入り東進、山陰道ガード下手前の池の前辺りが目的地。
車は目的地入口から手前に約200m程の三角コーナーに路駐(35°26'17"N 133°24'45"E)
案内板、道路指示板は有りません、古城盛衰記さんの写真でここかな?と分かるくらい、東に向かった丘陵先端に築かれて居る、現在虎口は軽四轍が有り進んで行くと開けた平作地、中へは鎖が掛かり進入禁止、そこで内部の写真を撮り撤収、周りは竹ササで覆われ茂っている、東は池を挟んで山陰道が走ってる、西は丘陵続きで畑と成って居る、城域に境に樹木が茂り堀切らしさを感じるが良く分からない。
歴史は古城盛衰記さんに依ると。
元弘3年(1333年)名和長年は後醍醐天皇の隠岐島脱出を助け、船上山に立てこもった、隠岐国守護の佐々木清高は追撃の為小波城(小浪城)に入り、出雲国、伯耆国、因幡国の軍勢をまとめ、天皇方のこもる船上山を攻めた。
しかし、船上山を落すことはできず、清高は再び小波城に入った。天皇方は小波城を攻め、夜半になり名和長年らは、小波城の四方八方から松明を投げ入れ、佐々木清高らを追い落とした。
清高父子は、航路、隠岐国に逃れ、出雲国から若狭国、越前国へ落ち伸びたという。
+ 続きを読む