由利本荘市の二ヵ所目は亀田城に。本荘城址から日本海東北自動車道を秋田方面へ、松ヶ崎亀田IC経由で19km、23分ほど。
ここは戦国時代は由利十二頭の赤尾津氏が拠った地。最上氏が由利郡を領有するにあたりその臣楯岡氏が配され赤尾津城に入るが、その後、支配の拠点は本荘城に。最上氏改易の後、本多氏を経て、由利郡は亀田・本荘・仁賀保・矢島の四藩に分割され、亀田には信濃川中島より岩城修理大夫吉隆が20、000石で入部すると、吉隆はかつての赤尾津城の麓に亀田陣屋を築いた。元和9年(1623)の事である。その後岩城氏は13代続くが、嘉永5年(1852)8代隆喜(たかひろ)のとき、善政を認められ城主格となり亀田城と呼ばれるようになったと云う。慶応4年(1868)の戊辰戦争にあっては、当初は奥羽越列藩同盟に加盟するも久保田藩が新政府軍側に付くと亀田藩も列藩同盟を離脱する。しかし列藩同盟側の庄内藩勢が矢島藩・本荘藩を攻めると、一転して庄内藩側に組みしたため、久保田藩勢に攻められ焼失したと云う。
富原文庫蔵の陸軍省城絵図には「旧亀田県城郭之図」として明治五年時点の姿が描かれている。東西百五間南北百間とあり、本丸・二ノ丸ともに建物は焼失したためか描かれていないが、本丸と二ノ丸の土塁、水掘、大手外舛形と喰違虎口三ヵ所がしっかりと残されており、かつての堅固さを偲ぶことができる。
現在城址周辺は、史跡保存伝承の里「天鷺村」として美術館や藩政時代の士農工商の建築物、石垣と櫓門、模擬天主が並ぶテーマパークとなっている。
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