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まーやん

境水道大橋のたもと (2020/02/01 訪問)

城びとを見て鳥取藩台場跡があると知り立ち寄りました。
美保湾から松江城下に直結する境水道の抑えに造られ、鳥取藩最大の敷地に近くの反射炉で鋳られた12門の大砲が据えられていた台場とのこと。
敷地内には境港灯台が復元されているが築造は明治期で復元は山形のものをモデルにしたそうな。
松江からベタ踏み坂を通り水木しげるロードとともにお楽しみください。

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まーやん

国宝天守閣は何度見ても美しい✨ (2020/02/01 訪問)

こちらも若い頃から何度も訪れております。スタンプもとっくに終わっています。
今回は城北側の塩見縄手沿いで小泉八雲に触れたかったのです。大人になったら余裕のある文化的な旅を、と思い行きましたがそば食っただけで次の目的地に(T^T)
情けなさのあまり立ち止まって松江城をパシャリ📷

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ぴーかる

土岐氏繁栄の地 (2020/01/11 訪問)

【川手城】
<駐車場他>駐車場なし。
<交通手段>徒歩 加納城跡駐車場から徒歩で行った。

<感想>加納城跡を見学後、近いのでそのまま歩いて来た。城跡碑は済美高校の一角にありますが、一般道の脇にあるので許可なく自由に見学できます。現在は城跡碑・説明板・祠・遊具があるのみです。

 川手城(革手城)は第3代守護職土岐頼康が1353年に長森城から移り築城し斉藤道三が稲葉山に城を移すまでの11代土岐頼芸までの間、土岐氏の本城としていた所。荒田川と木曽川の間に挟まれた地形を利用して、城というよりは神社・仏閣を建て、本殿も御殿風の建物だったらしい。応仁の乱後、京より逃げてきた公家たちが守護土岐氏を頼り繁栄したそうです。
繁栄した川手城だが江戸時代には加納城築城の為家康に土塁の土まで持っていかれたそうです。

 この日はこの後岐阜城の売店にて御城印を購入して全工程を終了できた。岐阜城2016年に行った時は全然居なかったのに中国人の多さにびっくり!この旅走行距離記録忘れにて不明。

<満足度>◆◇◇
 

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まーやん

下から見ただけです。 (2020/02/01 訪問)

月山富田城について、テレビで航測したとか見てしまった。。。
足立美術館への道すがら、かなり遠方から城が見えてますやんー。
てことで、下から見上げられる位置まで行きました。ただそれだけです。スタンプはとっくに終わっています。何回か来ています。(家族の監視により登れませんでした)
ちょこっと立ち寄った安来私立歴史資料館では、ギリギリのパロディーポスターが。笑いの分かる職員さんがいきさつを熱心に説明してくれました(笑)
何度来ても素晴らしい山城です。

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だめなこ

名古屋城🏯✨\('ω')/ (2020/02/01 訪問)

やっと名古屋城に行ってきた!
ほとんどの人がマスクしてたのに
中国か台湾かワカンナイけど
その団体(家族?親戚とか?)がマスクしてなかった(*`Д´)ノ!!!
しかも 食べ物屋さんで座った席では前も後ろもで日本語じゃなくて・・・
それなのにマスクもしないでむっちゃ喋ってて
ホントにめちゃくちゃ怖かった><
こんなに新型肺炎が流行ってるのに
なんで無関心なんだろうこわい

お城は 工事だか何だかで
中に入れなくて残念だったな( •᷄⌓•᷅ )
てか お城の中に入れないのに
入場料?500円かかったどゆこと( ゚д゚)ポカーン

・・・と そいえばο
名古屋城の御城印 なんかビミョーに大きくて
ちょっと切らないと御城印帳に入らなかった 汗

何にしても 天守閣行けなかったから
また行かなきゃ(˙꒳˙ )

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イオ

落合砦(岐阜県恵那市) (2020/01/19 訪問)

落合砦のほか、千畳敷砦、土岐明智城、多羅砦とも呼ばれます。
鎌倉中期、遠山景重が明知城を築いた際に出城として築いたと伝わり、天正年間には串原遠山氏の遠山経景が守備にあたるも、武田氏に落とされたようです。

最高所が主郭で北側の頂部に出丸、その間に三の曲輪を配した縄張りで、主郭の東側は一段低くなっており、枡形のような構造が見られます。東端には虎口があり、こちらが大手道のようです。周囲には腰曲輪を配し、切岸もなかなかの高さがあります。出丸は展望台やアンテナ設置による改変で遺構は見られませんが、眼前の明知城と仲深山砦とともに眼下の街道に睨みを利かせる立地であることがよくわかります。三の曲輪には、明智光秀公産湯の井戸と伝わる井戸があり、この井戸から得られた宝珠が主郭の恵比寿神社に祀られているとか、底の横穴が抜け穴になっているなどの伝説もあるようです。

ところで、ぴーかるさんの投稿にあるように、恵那市観光協会の案内図やパンフレットには「室町時代には明知城は明智遠山氏、土岐明智城と仲深山砦は土岐明智氏の勢力圏」とありますが、土岐明智氏の勢力圏だった時期はあったとしても、武田勝頼の侵攻を受けた時点では遠山氏が守備しているようですし、立地条件や歴史的背景から考えても、私もぴーかるさん同様に落合砦は仲深山砦と併せて明知城の出城として機能していた(時期がある)ように思います。

また、土岐明智城や多羅砦という名称にしても、従前からの説明板には落合砦や千畳敷砦の表記はあっても土岐明智城や多羅砦はなく、近年になってにわかに使われだした(ように思える)ことから、ひねくれた見方をするなら、大河ドラマにあわせて産湯の井戸がある落合砦を土岐明智氏とされる明智光秀の生誕地として売り出す上で、落合砦が明知遠山氏の砦であっては都合が悪いので、ことさら「土岐明智」の名を使っているのかなぁ、とも。多羅砦についても、光秀を「濃州多羅城誕生」とする史料があるからでしょうし。

…まぁ、実際のところはわからないわけで、ゆかりの地がいろいろあるほうがめぐり甲斐があっていいんですけど、いくら光秀が前半生不詳だからといって、生誕地だけで岐阜県内に5箇所(滋賀県にも1箇所。もっとあるかも)というのはさすがに…(笑)
 

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カズサン

吾妻川河岸段丘を活用した城 (2016/10/05 訪問)

 名胡桃城を終えて関越道経由し渋川伊香保ICを降りて国道17号線を北上し吾妻川を渡り白井宿を通り少し迷いましたが情報はガイドは何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんにてナビに本丸辺りを入れてそのまま三の丸二の丸の畑の真ん中の道を奥に進んで本丸に駐車、本丸も一部畑に成っています、雨上がり草は深く人踏道、土塁上を歩き探訪。
 二の丸三の丸は畑ですが北郭間夫々の曲輪間には堀跡の痕跡が有ります、本丸は周囲が土塁、塁上に散策道が付いてる、城域西は吾妻川の断崖で本丸の先に小曲輪の笹郭が在る。
 小田和征伐後家康関東移封後本多康重が2万石で入って居り転封の約10年で近世城郭に修復改造したのではないかと考えたりするのですが?
 結構見応えの有る城郭です、渋川市の城の有効活用を期待したいものです城域は私有地の様子。見学させて頂き感謝です。

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カズサン

小田原征伐要因を作った真田の城 (2016/10/05 訪問)

 大河ドラマ真田丸も放映中探訪しようと群馬県北部の真田の城名胡桃城を初登城、青森、宮城城廻りの翌日拠点にしてる宇都宮から日帰りで名胡桃城を始め周辺の白井城、前橋城を探訪しました。
 宇都宮から北関東道、東北道、関越道経由して月夜野ICを降りて国道17号線を新潟県方向へ利根川を渡り坂を登ると名胡桃城案内板及び案内所有、般若郭の駐車場に停める。
 発掘調査され復元整備され大変歩きやすき案内解説板が各曲輪に設備され見やすく理解しやすく成って居ります若干整備し過ぎ感も有りますが大河ドラマ真田丸で大勢の人出で遺跡が壊れる事を考えると致し方無し。
 三郭前の三日月堀も地表展示、三郭の丸馬出三日月堀展示、土橋、左右の堀、二郭内部の建物地表展示、二郭枡形復元土塁、櫓台、本郭土橋、左右の堀、復元木橋、笹郭土橋に仮設通路、笹郭先端から沼田方面が眺望できます。

 武田氏滅亡後真田氏北条氏の領地争いを秀吉の裁定で沼田城は北条氏、利根川を隔てて名胡桃城は真田氏と成りましたが北条氏が名胡桃城を攻略して裁定違反の北条氏征伐の契機となり、秀吉のよる小田原征伐、奥羽仕置き秀吉による天下統一と成ったきっかけの城。

 名胡桃城案内所で資料展示見学し資料を頂く。

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todo94

県史跡 (2020/01/18 訪問)

徳川家康が上洛する時に利用するためにもうけられた休憩施設で2代将軍秀忠も利用しています。西半分は中学校となってしまっていますが、東半分に土塁、堀がしっかりと残っていて県史跡に指定されています。狭い道を進まなくてはなりませんが駐車場も完備しています。

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大五郎

徳島城🏯 (2020/02/01 訪問)

阿波特産の緑色片岩を多用した青く細長い石材による重厚な石垣が見事でしたが、余り整備がされてなく少し残念な感じでした。

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まーやん

十数年ぶりの再訪は城山トレイルランニングに… (2020/02/01 訪問)

旅行の裏目的、スタンプの為米子城址再訪を目論む私は家族を安来の足立美術館に送り米子へトンボ返りした。
スタンプは米子市立山陰歴史館でゲット。職員の方にご丁寧な説明を受け、感激のあまり展示をくまなく見てしまった。

国道9号沿いの桝形門付近は工事のため上がれないとのことで、湊山球場(三の丸)、テニスコート(二の丸)を見た後、内膳丸、本丸と目指した。

足立美術館をゆっくり見ているはずの家族から何度も連絡があり走って見て回ったので、トレイルランニングとなった(; ̄ー ̄A汗だくとなったが、本丸から見渡せる景色は絶景だった。日本海や中海のほか天気が良ければ大山も見えるとか。

毛利方の吉川広家による築城で、岩国転封後は中村一忠により完成。五重天守閣、四層櫓は失われているが、今も石垣が残り往時を偲ばせる山陰随一の名城である。

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じゅんじん

眺めよし (2020/01/04 訪問)

2020年最初の山城でした。大阪平野を一望できます。主郭に城碑碑がありました。

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姫街道

馬場信春公が築城した名城 (2020/02/01 訪問)

武田信玄が馬場信春に命じて1571年に作って、1573年に信玄が亡くなると、亀山城の奥平氏に落とされてしまったとあるが、、、「こんな凄い山城がそんな短期間で出来たのかな?」と素朴な疑問や驚きを感じる。馬場信春公が静岡県に築城・縄張りをした城だけでも1570年に江尻城、小山城が1571年で諏訪原城の築城が1573年だ。しかも1573年の三方原合戦にも参戦していると言う。その中でこの築城は凄い。これだけの城をこの保存状態で現代まで引き継いできた事は奇跡に近いと思う。
帰りに馬場信春(信房)公のお墓参りに寄った。

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カズサン

登米要害古き良き城下町が残ってる (2016/10/04 訪問)

 姫松館を終えて以前涌谷城、佐沼城を探訪してましたが寺池館はパスして居ましたので今回の城廻りで初登城しました。
 車は麓の観光物産センター駐車場へ停め昼食してから登城、本丸、二の丸跡の現裁判所まで登り、懐古館で登米要害、寺池城の資料館に成って居り見学と勉強、降って大手冠木門、大手口石垣を見学して登米市寺池地区を見学、懐古館では「みやぎの明治村・登米町」とキャッチコピーされてましたので城下町を散策、武家屋敷、武家屋敷門、教育資料館(旧登米尋常小学校)、水沢県庁記念館など古き良き時代の姿を残しています。

 奥州藤原氏攻め戦功で葛西氏が領有し下向栄えるが小田原征伐奥州仕置きで改易断絶、奥州仕置で功の有った木村吉清が30万石で寺池館に入るが葛西大崎一揆で木村氏は責任を取らされ改易、以後木村領は政宗領と成り家臣白石宗直が登米要害として継承、伊達姓を賜り明治まで続く、伊達宗家筋と館主は血筋が絶えた時に養子を重ねて明治まで続く。

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姫街道

武田から徳川に寝返った奥平氏築城の城 (2020/02/01 訪問)

今の群馬県高崎市、上野国から出てきた奥平貞俊が築城した城。
まず奥平氏は今の作手中学東側に1424年頃川尻城を築城した。今は公園となってしまっている川尻城だが、本曲輪の南には、冠木門があり雰囲気を残している。築城してすぐに川尻城が手狭になり川尻城から二キロ南に行ったところに亀山城を築城し、川尻城は支城にして移ってきた。1570年〜1573年は武田信玄に仕えていた。その間、信玄は馬場信春に命じて1571年に亀山城の1キロ北側に奥平氏を見張るためと言われているが、古宮城を築いている。1573年に信玄が亡くなると徳川に寝返って、古宮城を落とした後は、亀山城から長篠城主になり、1575年の長篠の戦いで武田の猛攻を凌いで活躍し、出世していったヤリ手一族だ。
城の構造は、低丘稜に土塁で囲まれた楕円形の本曲輪を中心に、曲輪が段々と整然と配置されている。圧倒的迫力の古宮城と比べると、落ち着いた雰囲気すら感じた。

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小城小次郎

古川城

姉小路(古川)氏の本拠に金森長近が手を加えたことにより、小さいながらもハイブリッドなお城が出来上がった、ということか。

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姫街道

仏坂の戦における主戦場 (2020/02/01 訪問)

井伊家の家臣で井伊谷三人衆の一人と言われた鈴木家が家康の名により1568年に築城した、比較的新しい城だ。
井伊家が活躍していたのは南北朝時代で、井伊家が実権を失ったのも1568年だから、井伊家亡き後、井伊谷三人衆を今川や徳川が担いでこの地を治めようとしていた。
三方原合戦のニケ月前、長篠城から出陣した武田方山景氏に1572年10月攻められた。世に言う仏坂の戦だ。井伊谷三人衆や伊平氏は徳川家康の援軍もさみしく惨敗。三方原合戦後の武田軍侵攻時には井伊谷城を無血開城したようだ。三方原合戦ばかりクローズアップされるが、旧鳳来寺街道沿いでは激しい前哨戦が繰り広げられていた。
国道257号線沿いの道の駅から登城出来て、足元もよく整備されている。縄張りはシンプルだが、ここは本丸や曲輪に柵が設けてあり、嬉しい。本丸までさほどの時間も要せずに登城できる。ちょっと寄るには丁度良い感じだ。

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姫街道

井伊家の本城である三岳城における東の支城 (2020/02/01 訪問)

今から600年ほど前、三岳城の西側には千頭峯城、東側には大平城が三岳城の支城として鶴翼型山城で配置されていたようだ。カッコいい!大平城は県道に駐車し、階段を残っていくとすぐに山道に入り、その足元はかなり険しい。所々遺構は確認できるが、今はかなり木々が生い茂っている。縄張りは非常に大規模な鶴翼型なので、これからの整備や散策を楽しみにしたい。

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しろちゃん

西都市北部の台地上に築かれた城跡 (2019/01/19 訪問)

西都市の北方に一ツ瀬川の流れの北側の台地があるのですが、西端の崖上に築かれた城跡です。

都於郡城の伊東氏四十八城の一城に挙げられている城で、伊東氏が敗北した時には、長倉洞雲斎が城主であった様です。

城跡は、九州南部に多く見られる構造で、曲輪は、周辺より一段高く切り立っています。
穂北城の碑のある曲輪へは、曲輪と曲輪の間にある堀底を通り、道なりに進むと着きます。眺めは眼下に西都市の中心部を眺められ良いです。
この時は、夏の大雨で道がかなりデコボコしてました。
城跡の殆どが、竹林で覆われ遺構をクッキリ見る事が出来ませんでした。

この城跡へは、西都市の方から行くと、小さい看板があるのでわかりやすいと思います。県道313号線で茶臼原台地へ上がり切る手前で小さな看板があるので、それを頼りに左へ曲がり、看板に沿って行くと穂北城の駐車場があり、3台分くらい停められます。

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姫街道

井伊家の本城である三岳城における西の支城 (2020/02/01 訪問)

本曲輪を中心に、まずニの曲輪が北側に左右対のように配置され、
東は第一から第三曲輪と段々に尾根沿いに曲輪が伸び、西は本曲輪と西側曲輪の間に堀切があり、西側曲輪からは南側に帯状曲輪が段々に配置されている。
南は、綺麗な縦堀が残っており、南曲輪には土塁が丸馬出しのように配置されている。
それぞれ各方向で曲輪の作りも違っていて凄く楽しい!保存状態や整備状況も適当に良く、個人的に好きなお城だ。

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