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中川藤兵衛尉

北田原城 (2020/03/02 訪問)

登城口が分かり辛く、苦労しました。城内は、鉄塔建築部分以外は未整備でした。細かい木々が生えてるので、移動も大変でした……

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中川藤兵衛尉

羽柴大坂城 (2020/02/23 訪問)

羽柴期の石垣の展示をするんですね。楽しみです

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ヨッシー

高虎公の石垣 (2020/03/01 訪問)

スタンプラリーの為に、2回目の訪問です。

伊賀上野といえば、日本最高峰の高石垣。
一見の価値はあります。

関ヶ原後に藤堂高虎公が入場し、
大阪の戦の際の万一の詰城にしようとしたという
伝説があるそうです。

城内に伊賀忍者の施設があり、
お子さんにもオススメです。

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カズサン

やっと登城出来た平城 (2016/02/27 訪問)

 中学の時代に親に買ってもらった文庫版「日本の名城と城跡」日本城郭協会発行本で認識して以来城廻りのコースに入る事なく、社会人に成って仕事で全国回りましたが磐城平へは縁が無く今回宇都宮の孫のひな祭り祝いで訪ねた折り午後日帰りで磐城平城だけを目的にして初登城しました。(認知してから55年以上)
 宇都宮上三川ICから北関東道、常磐道、いわき中央ICを降り磐城平城の龍が城美術館前に駐車出来るかと先ず訪ねたのですが出来ず路駐も出来ず、新しく再開発された様子のいわき駅に向かい駅西の駐車場に停める。
 いわき駅二階を渡り北口広場から案内表示板に従って北側坂道を登り看板に本丸は私有地と出て居り普段は入れない何かイベントがある時開放してる様子、今回はNG、本丸東側の元堀跡、本丸城塁、櫛形門跡の塗師櫓台石垣、休館の龍が城美術館、入れない本丸内部、中門櫓台石垣、水濠に成ってる丹後沢公園、二の丸界隈からいわき駅北口広場に戻るコースを探訪。
 やっと登城出来た感激と喜びです。
 磐城平城は関ヶ原後鳥居忠政が10万石で入封築城、関ヶ原の前哨戦伏見城の攻防戦で父鳥居元忠討死による功績を称えて封じた。忠政24万石で山形移封後は内藤氏、井上氏、安藤氏で明治まで続く。

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ぴーかる

竹原小早川家本城 (2020/02/09 訪問)

【木村城】
<駐車場他>駐車場はないが、登城口に空き地みたいなところ(空き地ではないと思うが)に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>社跡・畝状竪掘り(見ていないので断定できません)
<感想>日帰り小早川家攻城の旅3城目。登城口の説明板によるとこの城は、「正嘉2年(1258)都宇竹原荘の地頭職として、竹原小早川家の初代である政景(沼田小早川家茂平の子)がこの城を構えた。天文19年(1550)毛利氏から養子として迎えられていた14代隆景が沼田小早川家を相続して本郷の高山城に移るまでの約300年間、竹原小早川家の本拠であった山城である。」隆景が竹原小早川家を相続したのが12歳の時、高山城に移るまでの約7年間この城に居城したのだろうか。

 登城口に説明板と縄張り図があり撮影しましたが、反射がきつくて自分の顔姿がくっきり写ってしまい掲載を憚られる為ご了承ください。縄張り図は役立ちます。
 城跡は典型的な中世山城で規模は小さい。登山道を登って行くとまず馬返しの段という広い曲輪に入る。その上の若宮社跡・兵糧の段が高い位置にあり切岸が高くそびえて見える。若宮社跡は石垣台の遺構が見応えある。兵糧の段の曲輪にもわずかに石積みが崩れた跡が見られる。そこから上は主郭を中心に2・3段の帯曲輪と数個の腰曲輪が円形に囲んでいる。主郭は山頂をわずかに削った感じで極々小さい。
 主郭の東側に広がる畝状竪掘り群は帯曲輪との間に切岸を挟んでいるようで、上からの確認ができなかった。樹木の斜面を少し降りると見られることができると思います。私は新高山城・高山城攻めのあとだったので、体力残っておらず断念した。

 この城にてこの旅終了。今回の攻城の旅は小早川隆景の居城を逆に追っていった形となったが、若かりし彼が各城で何を考え、どういう理由で居城を移していったか色々考えられて興味深い旅でした。630㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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ヨッシー

王道の城 (2016/10/11 訪問)

いつ見ても惚れ惚れする城です。
形状が一番好きな城です。

夜の顔を知ってから、
夜間での写真撮影にもハマりました。

いつまでも見ていたい、
そんな城です。

お蕎麦が好きな方は、
「こばやし」オススメです。

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チェブ

謎のお屋敷。 (2020/01/03 訪問)

第一印象は社会科見学に良い、です。
お隣は浄水場で小学校高学年には、どちらとも勉強になるのでは、と勝手に思いました。
駐車場はありませんが入口に何台か停められます。
入るとすぐに説明板があります。
「長者屋敷」は誰かの屋敷跡か、奈良時代の官衙跡(かんが)ではないかと言われているようです。
官衙は今で言う、お役所です。
長方形に囲んだ土塁が残っていて、内側に掘りがあるようです。
そう言われれば土塁の内側に溝があるようにも見えます。
何ヵ所かに説明板があるので読んでみると、どうも奈良時代の官衙跡の方が有力なんだそうです。
ちょっと調べてみたら、内側の掘りは雨水を流す排水溝の役割があるようです。
な~んだ役所跡か~。
「長者屋敷」の名前を「奈良時代 官衙跡」に変更しないと長者は、今川?北条?徳川?井伊?と悩みます。

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イオ

関ケ原古戦場(両軍・垂井町編) (2020/02/01 訪問)

関ケ原古戦場めぐり第3回は、両軍に関する史跡と垂井町にある陣跡です。

関ケ原古戦場開戦地

松平忠吉・井伊直政隊が、東軍先鋒の福島正則隊を出し抜いて宇喜多秀家隊に発砲、遅れじと福島隊も宇喜多隊に攻撃を掛けたたことにより関ケ原の戦いの開戦となりました。
天満山東麓の運動広場前に開戦地の石碑があり、無料駐車場も設けられています。

関ケ原古戦場決戦地

笹尾山の石田三成陣と徳川家康最後陣の間では最も激しい戦いが繰り広げられ、小早川秀秋の寝返りにより西軍が総崩れとなる中、最後まで持ちこたえていた石田隊の壊滅により決着となりました。
笹尾山の無料駐車場から西に徒歩3分の辺りに決戦地の石碑が建てられています。

東首塚

戦後、徳川家康の命により関ケ原一帯を領していた竹中重門が戦死者を埋葬するために造営した首塚で、塚の姿は残っていないものの、スダジイの古木と、江戸後期に建てられた首級墳碑、昭和前期に移築された尾張藩・徳川宗春ゆかりの唐門と供養堂が見られます。松平忠吉・井伊直政陣跡の石碑も東首塚の敷地内にあるので、併せてどうぞ。

西首塚

竹中重門が造営したもうひとつの首塚で、現在も塚は残っており、江戸後期に建立された観音堂とともに、今なお地域住民により戦死者の慰霊が行われています。西首塚の前、国道沿いに2台ほど駐められる駐車スペースがあります。

浅野幸長陣跡(垂井一里塚)

浅野幸長は岐阜城攻略の後、南宮山の諸隊に備えて中山道・垂井宿の西に布陣しました。
垂井一里塚の石碑の前に、陣跡の説明板と幟旗があります。駐車場はないので、一里塚の近くにちょっと路駐させてもらいました。

池田輝政陣跡

池田輝政は岐阜城攻略の後、南宮山の諸隊に備えて南宮山北麓に布陣しました。
墓地の手前に陣跡の石碑と説明板があります。また、隣には結城合戦に敗れて捕らえられ、京都に護送中に殺された足利持氏の遺児、春王丸と安王丸の墓があります。国道沿いの案内標識に従って、焼肉店脇の細い道を入った先にある墓地の駐車場に駐めて訪問しました。

長束正家陣跡

長束正家は南宮山の東麓に布陣し、池田輝政隊と交戦しましたが、東軍に通じていた吉川広家の妨害により攻勢に出ることができませんでした。
県道沿いの案内標識に従って進んだ先の八幡神社手前の空き地に駐車。説明板と幟旗が建てられています。

長宗我部盛親陣跡

長宗我部盛親は南宮山の背後にあたる栗原山に布陣しましたが、東軍に通じていた吉川広家の妨害により参戦することができませんでした。南宮山に陣取る毛利秀元への出陣要請をめぐってのやり取りは「宰相殿の空弁当」として知られます。
県道沿いの案内標識から未舗装の細い道を入った先にある清水寺公園に説明板と幟旗があり、公園の手前に駐車可能なスペースがあります。…というか、公園までは対向も方向転換もできず、このまま進んで大丈夫か不安にさせられました。

…ということで、本当は南宮山にも登りたかったんですが、この日はこの辺で時間切れ。道路工事中で行けなかった脇坂安治陣跡とあわせて、岐阜関ケ原古戦場記念館のオープン後にでもまた訪れたいと思います。

それにしても、これまでも一応知識としては知っていましたが、実際に関ケ原古戦場をめぐって、それぞれの陣の配置や距離感を体感したことで、関ケ原の戦いをより実感として理解できたように思います。なかなか興味深い経験でした。
 

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刑部

小さいが見応えのある城址 (2020/03/01 訪問)

農村の住宅地の中に城址はありました、軽自動車なら主郭部まで車で行けて駐車も可能です。近くの住人の方が大切にしている感じでよく整備されています。案内板、虎口・空堀・土塁・横矢・土橋と小さいながら見応えがありました。

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JPN-AZE

The martial arts show and reproduction of war (2019/05/26 訪問)

私が住んでいるところから近いにもかかわらず、ここを訪れたのは、去年5月でした。最初は見るだけでしたが、同じ月に、「第8回戦国滝の城まつり」があり、また訪れました。結構な人出でしたが、剣術披露や、城の伝説、更には豊臣方と北条方の攻防戦の再現等があり、なかなか見応えがありました。

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くじら

岩山 (2020/02/27 訪問)

橋の上から見れて、そこからの苗木城と山、川の見え方がとても綺麗です。
城跡からも四方八方見渡せて、とても素敵でした!

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コバトン

佐伯湾を見渡せる絶景 (2019/12/08 訪問)

佐伯駅から徒歩20分くらい。お城の麓は城下町の面影を残すきれいな街並み。鳥居をくぐって少し登ると道が三方向に分かれている。天守を目指すので迷わず「登城の道」を進んだら、かなり険しい山道が続き、雨上がりのぬかるみもあって一苦労。頂上付近に石垣が見えてくる。2万石の豊後佐伯藩にしては立派な石垣で曲輪の配置も実践的。また本丸から佐伯湾の見晴らしは最高!一通り天守や廊下橋、曲輪を堪能した後、帰りは比較的緩やかな独歩碑の道を通って帰りました。

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ぴちょまる

小田原城 (2020/02/29 訪問)

二度目の小田原城。
残念ながら、またも曇り空……
蒲鉾を買って帰るに留まる。

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ヨッシー

相変わらず素晴らしい (2020/02/25 訪問)

太鼓櫓が初公開ということで、3回目の訪問です。
相変わらず、その規模に圧倒されますね。
※参考までに写真アップしておきます。

今回は2日間滞在して、シルバーガイド(2000円)の方に案内して頂きました。
詳しく・面白く・丁寧に解説して頂き、とても勉強になり良かったです。
はやりその価値はあると実感出来ました。
未公開のエリアはまだ存在するようなので、
今後がまだ楽しみとなりました。
また、「勘兵衛の石垣(Ⅰ期)」は、看板のところ意外にも、
沢山ある事が分かりました。


晴天天守ショットを狙っていたのですが、収穫は1枚だけでした(T_T)
またリベンジしたいと思います(西の丸からが撮りたいですね)。

城郭センターにも伺って来ましたが、
興味深い資料が沢山あってとても面白かったです。
研究所出版の本が特に分かりやすくていいですよ!
これはオススメです。

それと、レンタサイクル。
これもとても使いやすくてこれもオススメです!



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ひろべえ

光秀・高虎ゆかりの城 (2020/02/23 訪問)

周山城から国道477号線をハラハラしながら移動してついに丹波亀山の地へ。明智光秀ゆかりの城であり、高虎が築いた初の層塔型天守がそびえていた城。明治期に建物はおろか、石垣まで撤去されて見る影もない城址を大本教祖の出口王仁三郎師が城址を買い取り聖地とした。昭和初期の弾圧を経て、石垣を再構築するところまでは知識として知っていたので、どんなところか興味を持ちつつ攻城。大河ドラマ放映を記念して、来年1月17日まで聖地として制限されていた天守台に上がることが可能になり、とてもラッキーでした。みろく会館で受付の際はとても丁寧な説明を受け、パンフレットを戴く。2Fでビデオを視聴し、出口師の亀山城再建への思いと信者達による石垣積み直しの歴史に触れる。石垣積み直しに取り組んでくれて感謝です。その後、南側内堀跡(万祥池)→本丸石垣→天守台へ。伝明智光秀公手植えのイチョウの木を間近に見る。万祥殿の石垣から刻印を探し、保津門跡付近から北側堀跡(南郷公園)を見て攻城終了。大河ドラマ館は駐車場満車のため、諦めました。秋にもう一度イチョウの木を見たいと思います。

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姫街道

東三河の要衝 (2020/03/01 訪問)

今川7代目の氏親の命により牧野氏築城だが、三河支配権を巡って入れ替わりが激しく、今川氏の統治時代は一旦落ち着いたに見えるが、桶狭間の戦いで義元が倒れると徳川支配下の酒井忠次が城主となり、豊臣政権時の池田輝政時代に大改修が行われたようだ。三重堀の84万m2というから広大だ。
豊川による後ろ堅固の城だが、豊川から本丸までの高低差が小さいのが、弱点ともとらわれたのか、徳川家康は自らの居城としなかったようだ。言われてみれば、犬山城や二俣城と比べても川の水面まで近いかも。。しかし堀はどれも立派で、本丸は高い石垣に囲まれて堅固であった事がわかる。

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姫街道

武田信玄公最後の城攻め、野田城 (2020/03/01 訪問)

今日は、三方原合戦後の武田軍の侵攻路、井伊谷から宇利峠を超えて野田城へ向かった。
1月〜2月は最も寒い頃、既に病を発病していた信玄公には宇利峠超えはキツかったと思う。さて、野田城は伊那街道が城の北側に通る要所にあり、城は東西両側が谷で自然の川を堰き止めて堀としている。本丸・二の丸・三の丸と大堀切によって形良く仕切られ、中央で土橋により接続されている。南北には侍屋敷が配置されており、500人程度の兵力で30,000人の武田軍に対抗出来るだけの構造であったという事であろう。武田との戦い以前は、菅沼氏が今川氏に離反・開城させられたが、夜襲してまでも取り返したという城だ。遠江地方では、馬伏塚城に感じが似ている。この堅固な「平山城」に来て、南北朝時代や戦国時代初期はそれほどの大人数の戦いではなく「山城」が守るに圧倒的に有利だが、それ以降は武器の進歩や、戦いに動員する人数も増えて一概には山城有利とは言えなくなったのではないかと感じる。「武田信玄 最後の城攻め」が有名で看板にも大きく出ているが、菅沼氏が築城し、今川・徳川と仕えてきた城であり、武田に落とされはしただろうが、武田方の城の雰囲気は無く、独自性のある良い城だと感じた。

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響ちゃん

晴れ (2020/03/01 訪問)

本日一番苦労した山城ぽい。登城中に鉄砲持った狩人に熊出るから気を付けてと言われたっぽい。苦労したけど、山頂に近づくにつれて石墨現れてテンション上がって何とか登れたぽい

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響ちゃん

晴れ (2020/03/01 訪問)

お弁当持って行きたい山城ぽい

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響ちゃん

晴れ (2020/03/01 訪問)

鳥獣侵入防止柵の扉が中々開けれなかったぽい

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