南北朝期に八尾顕幸が築城し、南北朝争乱の舞台となりました。戦国末期には織田信長のもとで池田教正が若江城に替わる河内の拠点としましたが、羽柴秀吉が河内を直轄地としたことで、池田教正は美濃に移され、八尾城も廃城となりました。
比定地は2箇所あるようですが、城びとの位置情報のほう(西郷説)を訪れています。遺構はありませんが、八尾神社には城址碑があり、同じく城域とされる常光寺(八尾神社から西に徒歩1分)には八尾顕幸の墓と説明板があります。
…と、これだけでは物足りないので、周辺の大坂の陣史跡めぐり(第10回)を。
このあたりは夏の陣の八尾の戦いの古戦場であり、長宗我部盛親と藤堂高虎が激戦を繰り広げ、双方多数の死者を出しましたが、若江の戦いで木村重成隊が壊滅したことを受けて、長宗我部隊は大坂城に撤退しました。
常光寺には藤堂高虎が首実検をした縁側の板を天井に上げた血天井が残され、本堂裏には八尾の戦いで討死した藤堂家家臣の墓が並んでいる…そうです(未確認)。また、常光寺は河内音頭発祥の地としても知られ、境内には「河内最古之音頭発祥地」の石碑が建っていますが、この石碑の台座となっている巨石は大坂城築城の際の残石なんだとか。そうと知らずに河内音頭の石碑として写真を撮ったので、肝心の残石の下部が切れてしまっています…。
なお、常光寺から西に徒歩12分行くと、久宝寺に布陣した長宗我部盛親が藤堂隊の動静を探るために登ったと伝わる物見の松跡があります。
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