南北朝期に河内守護となった畠山基国が守護所として、また南朝方への備えとして築城し、遊佐氏が代々城主を務めました。その後、畠山政長、義就ら畠山氏の内紛の舞台となり、三好義継が城主の時には京を追われた足利義昭を迎え入れたりしましたが、佐久間信盛に攻められて落城。石山合戦での織田信長の拠点となった後、本願寺との和睦により八尾城に機能を移して廃城となったようです。
若江公民分館あたりが主郭、若江小学校も城域に含まれ、発掘調査により堀や土塁、石垣、井戸、礎石建物が確認されていますが、地表面に見られる遺構はなく、若江公民分館に説明板と石碑(見落としました…)、南側道向かいに石碑が見られるくらいです。
…と、これだけでは見どころに欠けるので、周辺の大坂の陣史跡めぐり(第9回)を。
このあたりは夏の陣の若江の戦いの古戦場で、河内方面から迫る幕府本軍を迎撃すべく木村重成や長宗我部盛親らが出陣、木村隊は若江に布陣し、藤堂高虎隊の先鋒を打ち破るも、続く井伊直孝隊の猛攻を受けて木村重成は討死、木村隊も壊滅しました。
若江公民分館から南に徒歩2分の蓮城寺には木村重成の位牌を安置する霊牌所があり、蓮城寺から南東に徒歩6分の第二寝屋川南側の公園には木村重成の墓があります。また、木村重成の墓の川向かいには木村重成に討ち取られた山口重信の墓があり、近鉄・若江岩田駅南側の商店街の先には、山口重信に討ち取られた飯島三郎右衛門の墓があります(ただし、現地では見つけられず、帰宅してからストリートビューで確認)。かつては近隣に木村重成像もあったようですが、今はなくなっているようです。
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