高山城は富雄川の北の丘陵に築かれていて、東側に河川と街道が沿って北上しています。一条院方衆徒の鷹(高)山氏の城で、応仁の乱から戦国時代初期にかけては越智・古市方に属し、天文13年(1544)には筒井氏に味方して柳生城を攻めますが、筒井・松永両氏が争った際には松永方についています。
案内板には畠山氏や細川氏とも通じ、周囲の武士と敵対と連携を繰り返したと記載されています。畠山氏の重臣・遊佐長教に仕えた鷹山弘頼は山城上三郡の守護代に任じられるほど勢力を増しますが、天文22年(1553)に羽曳野市の高屋城で弘頼が安見宗房により自害に追い込まれると、鷹山氏の勢力は衰退していったようです。
豊臣秀吉による筒井氏の伊賀転封に伴い、鷹山氏も高山を離れますが、後に大和に戻って来たようです。
東の街道沿いに北上して行くと城址北側から西に向かって道が続いていて、標識もついています。登城口の前の空スペースは個人所有の土地かも知れないので、車はどこか余裕のあるスペースに停めておいた方が良いでしょう。登城道に沿って南に進むと西側に扁平地と入口のよな場所があるので、そこから城址に入ります。尾根上には浅い堀のような箇所があり、南に進んでいくとすぐに主郭らしき場所に至ります。主郭は東側と、南側に郭を持ち、その間に腰郭がついています。
南の郭を先に進むと石碑や鳥居のある郭が有り、そこから南側は通行止めのロープが張ってあるので、引き返すことにしました。
南側には土塁を備えた郭が有るようで、南の尾根伝いに訪問できるかもしれません。
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