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昌官忠

鉢形城/足利氏館日帰り② (2018/04/14 訪問)

「鉢形城/足利氏館日帰り」の2城目(ラストです)は足利氏館です。鉢形城からの転戦です。
100名城スタンプは「鑁阿寺本堂内寺務所」で押しました。

鉢形城から徒歩で寄居駅に到着。そこから、秩父鉄道と東武伊勢崎線を利用して足利氏駅に到着。
そこから徒歩で渡良瀬川に架かる「中橋」を渡って足利氏館(鑁阿寺)に着きました。
鉢形城から2時間30分かかりました。

足利氏館は鑁阿寺(ばんなじ)といい、12世紀末、源姓足利氏2代目義兼が築城し居城したと言われています。
その後、邸内に氏寺として鑁阿寺が造営されました。
現在でも寺の境内の周囲には土塁と堀がめぐっており、一般的に「方形居館」と呼ばれる鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されています。
また、館の南方には「坂東の大学」と呼ばれた日本最古の学校である足利学校があります。

城跡というよりはお寺です。でも建物は国宝や国の重要文化財です。攻城時間は35分くらいでした。

足利氏駅から2時間30分かけて自宅最寄り駅まで帰りました。(移動だけで8時間以上かかっているので2城攻城が限界でした)

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昌官忠

鉢形城/足利氏館日帰り① (2018/04/14 訪問)

「鉢形城/足利氏館日帰り」の1城目は鉢形城です。100名城スタンプは「鉢形城歴史館」で押しました。

自宅最寄り駅から、3時間近くかけて東武東上線の玉淀駅に到着。
そこから徒歩で荒川に架かる「玉喜橋」を渡って笹曲輪の搦め手に着きました。

鉢形城を初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられています。
その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となったほか、甲斐、信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担っていました。
北条氏が支配していた頃には武田信玄でも上杉謙信でも落とせなかったほどの堅城ですが、豊臣秀吉による小田原征伐で落城しました。
その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっています。
搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面します。
現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されています。

城址内を一通り見学した後、歴史館によった為、パンフレット等の資料入手があとになってしまいました。
効率よく城址内を楽しむには、先に歴史館に行くことをお薦めします。
攻城時間は2時間くらいでした。

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todo94

2020年城納め (2020/12/29 訪問)

2020年の城納めは鹿児島城となりました。復元なった御楼門を無事、拝むことができました。木曽三川の治水で薩摩藩のお世話になった岐阜県からの木材提供というのは良い話ですよね。黎明館でリーフレットも頂くことができました。

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橋吉

岩崎城 (2015/02/25 訪問)

岩崎城は、尾張国愛知郡(現在の愛知県日進市岩崎)にあり、築いたのは織田信秀(信長の父)といわれています。

尾張国東端にあるこの城は、1529(享禄2)年、松平清康(家康の祖父)に奪われてしまいました。
その後、本郷城から移った丹羽氏清が城主となり、四代にわたって丹羽氏が治めましたが、1600(慶長5)年、関ヶ原の武功が認められ丹羽氏次は三河国伊保(現在の愛知県豊田市)1万石の大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となりました。

現在は、岩崎城址公園として整備されています。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその8 前ヶ崎城 (2021/01/11 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその8

松戸市の根木内城とセットで攻城。

緊急事態宣言が出されましたが、移動は自家用車、現地は人がほとんどいないので、登城する事にしました。

こちらも市民のお散歩コースになっているようですが、駐車場が無いため、近くのセ◯ンイレ◯ンで買い物をして、少しだけ停めさせてもらいました。城としては物足りない所もあり、御城印が無ければ多分来なかった城址ですが、お手軽に城の雰囲気を味わえると言う意味では良しとしよう。



御城印は、緊急事態宣言発出前に流鉄平和台駅で購入済みの物に日付を記入しました。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその7 根木内城 (2021/01/11 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその7

流山市の前ヶ崎城とセットで攻城。
緊急事態宣言が出されましたが、移動は自家用車、現地は人がほとんどいないので、登城する事にしました。

松戸市が公園として整備しており、市民のお散歩コースになっているようです。城としては物足りない所もあり、御城印が無ければ多分来なかった城址ですが、お手軽に城の雰囲気を味わえると言う意味では良しとしよう。

御城印は、緊急事態宣言発出前に流鉄小金城趾駅で購入済みの物に日付を記入しました。

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キンヤ

街中の神社とお寺に土塁が残る城 (2021/01/10 訪問)

城びとの皆様の投稿を参考にさせて頂いて行きました。

白山神社の西側・北西側に土塁がありました。
円観寺の墓地の西側の高まりも土塁と思われます。
街中なのに、土塁が奇跡的に残されていて嬉しかったです。

白山神社・円観寺共に北側は城跡らしい雰囲気の腰曲輪のような箇所がありました。

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ぴろちゃん

やっと行けた (2021/01/11 訪問)

討ち入りまでに訪れる予定が、やっと今日行って来ました。堀の水が見事に凍っていて、とてもビックリしました。部屋の間取りがとても面白く城主の気分で歩きました。

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赤い城

宝幢院の周りに素敵な堀が (2021/01/09 訪問)

宝幢院というお寺が跡地。
山門前に説明板が立っています。
山門右手の土塁上に石碑がある他、畑の先の道路沿いにも土塁が残っていました。
山門左手から空堀に入ることができます。
進んでいくとそれは見事な空堀が。
深さもあり、見応えがあります。
那珂氏築いた城とされています。

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織田晃司

南側からの登城と北側からの登城 (2021/01/10 訪問)

どちらが楽なんでしょうか?

石垣あり、曲輪あり、堀切あり。と見ごたえのある山城です。

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織田晃司

麓の龍野城、山頂の龍野古城 (2021/01/10 訪問)

元々、鷄籠山にあったのが龍野古城。
本丸に僅かに石垣が残るほか曲輪が残る。

山頂の城が廃城となり、江戸時代に麓に建てたのが龍野城。
本丸御殿・埋門・多聞櫓が復元。模擬隅櫓が建つ。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 11城目 (2020/11/21 訪問)

登城口にある案内説明を読んでいると、軽トラに乗ってきた人物が声をかけてきた。
「お城に来ていただいたのですか? 有難うございます」 と いきなりお礼を言われ面食らったが、
伺えば一宮城保存会の会長をされている方で、整備のために来られたそうです。
草刈りはもちろん登山者に安全に快適に登って頂きたいために登城路をコンクリートブロックで
階段状に設置しておられるそうだ。
ただし本丸より先は昔の遍路道でもあるので、あえて過度な整備を行っていないそうである。
また登城者の意見や感想を書いて頂きたく案内板の横にノートを置いているのだが、近ごろは
日付と登城者の名前しか書いて頂けなくて残念だ、と仰っていらした。
登城者の意見や感想が、保存会の皆様のモチベーションアップに繋がっているのだろう。

さて登城を始めてみると、あるある。  
10Kg ほどもあるのではないかと思われるコンクリートブロックが、延々と続いている。
一つ一つ運び上げるだけでも、その労力たるや。  ただただ感謝あるのみ。

途中には湧水もあり、おそらくこのような場所があちこちにあるのだろう。
才蔵丸と明神丸を隔てた堀切は竪堀となって南側に落ち込んでいる。
才蔵丸へ登る虎口にもコンクリートブロックの階段が。   こんな山の上まで。  再び感謝。
門跡を抜け180度転回し階段を上がった明神丸からの眺望は、徳島市街はおろか淡路島まで
見渡すことができた。 (かすかに見えた山々が、多分そうだと思う)

本丸はとても荒々しく風雪に耐えた感の、趣きある石垣だった。 (雪は降らない土地だったな)
この虎口にはどんな門が似合うか、想像するのは楽しい。
石垣を一周してみると、北側など特に歩ける幅も狭くギリギリに石垣が立ち上がっている。

小倉丸へ向かう途中には城内最大の堀切もあり、こちら側の防御を重視しているようだ。
途中には石を重ね敷いた箇所がある。  土橋ならぬ、石橋というべきものなのか?
土だと流れ崩れるので、それを防ぐためのものか? 後世の物かもしれない。 わからない。

小倉丸へ行ってみて驚いた。  かなり高い土塁が残っている。  馬踏も広い。
さらに外側の横堀も深く、土塁までの高さは、かなりの物だ。
一宮城は天正年間に阿波に入った蜂須賀家正が阿波支配の拠点として大改修したそうだが、
長宗我部を意識した西側からの防御を念頭に置いた大改修だったのだろう。

小倉丸、椎丸、水の手丸、蔭滝の鎖場を通って、一宮神社裏手に戻ってきた。
保存会会長さんは、あえて整備をしていない、と仰っていたがヤブと化しているわけでもなく
さほど歩きにくいわけでもなかった。     ただし足元の装備だけはしっかりした物が望ましい。

案内板横のノートには、感謝の言葉と感想を書いて帰りました。

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織田晃司

2つの山城と1つの平山城 (2021/01/10 訪問)

天神山城を一言で表すとこうなる。

天神山城と太鼓丸城の間はアップダウンが激しく下って登るので比高は約100m。
天瀬ルートにある侍屋敷跡から天神山城へもかなり登るようになる。

全部を堪能しようと思えばかなりの時間を要する。

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小城小次郎

城郭というより山岳寺院跡なのだが (2020/11/21 訪問)

国史跡・福山城は広島県だけでなく岡山県にもある。足利直義率いる数万の囲みを100騎で突破した大井田氏経とその配下はどんな超人集団だったのやら。遺構は城郭より山岳寺院の色が濃いがそれこそが南北朝の城郭である証なのかも。

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橋吉

有事の際のために残された未完の城 (2013/12/22 訪問)

織田信長の弟である織田長益(有楽斎)が造った城。
もっとも、完成する前に長益の所領が摂津に移ったため、未完の城のまま廃城となりました。
500年以上前に廃城されたため、とっくに荒れ果ててしまうところですが、江戸時代、尾張藩家臣でこの地を領した山澄淡路守は城跡の保存に努めました。
平和な時代となり、新たな築城は御法度となりましたが、万一の有事の際には、再び城として利用しようと考えていたようです。

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城好きのメガネ

「安城古城」 (2020/03/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
安城古城は、鎌倉時代に地頭であった安藤氏が居館を築いたとされる。室町時代には、足利幕府の奉公衆であった畠山宗元が代官を命じられ下向する。その後、和田氏を名乗り、和田氏五代の本拠となった。永享の乱の後、新たに安祥城を築城したため廃城となった。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
名古屋鉄道西尾線 南安城駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「二連木城」 (2020/03/28 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
二連木城は、今橋城を拠点としていた牧野氏を牽制すべく戸田氏中興の祖である戸田宗光が築城したとされる。戸田宗光の子・重貞は今川氏から離反し、徳川家康につく。1590年、徳川家康の関東移封に伴い、二連木城には池田輝政が入る。池田輝政は吉田城を拠点としたため、二連木城は廃城となったとされる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
豊橋鉄道市内線 東田電停 徒歩15分

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チェブ

北国防備の北国はどこ? (2020/12/26 訪問)

山梨県の「浄古寺城」、本丸と二の丸の間をうろうろしてきました。
葡萄と桃の畑が続く、丘の中腹に八幡神社がありました。
山梨県は葡萄のイメージでしたが、桃も収穫量は日本一なんだそうです。ですので、私が『葡萄畑だ~。』
と思っていた場所は桃の畑もあったようです。
八幡神社に車を駐車しました。
と言っても、地元の方が車を駐車していたので入らせていただきましたが、なかったら躊躇する入口でした。
八幡神社に「浄古寺城」の今と昔 周辺図板がありました。
説明では1548年、武田 信玄さんの時代に北国防備のため、大村氏に築城を命じたとありました。
北国?山梨県から北国って?と思い『お城の探す』で北方面を見ると、埼玉県秩父市。信玄さんが恐れる敵がいたのでしょうか?

皆さんの写真に「浄古寺城」の石碑があったので、目指しましたが果樹園の細い道は私道のようで、入りづらい。
少し登って、すぐ退陣しました。
途中、遺構らしい場所があったのですが、遺構か畑のための地形かは、私には分かりません。

帰って来て1548年の武田 信玄さんを調べると、北信濃の村上 義清さんと戦ってます。
村上 義清さん、この何年か後、越後に落ち延びます。
上杉氏VS武田氏=川中島の戦い。
義清さんは原因の1つを作った方です。

北国は北信濃なのかな?

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橋吉

武田勝頼ゆかりの城 (2013/10/06 訪問)

武節城があった愛知県豊田市武節町は、長野県・岐阜県との県境です。
したがって、ここは信濃・美濃の侵攻を防ぐ三河の国境の城だったわけです。

国道153号にある「道の駅 どんぐりの里」北にトンネルがあります。
このトンネルの上に武節城はあります。

山城ではなく、小高い丘に建てられた平山城ですので、5分ほど坂を登れば到着します。それでも、息は切れ切れですが・・・

武節城は3つの曲輪が階段状に作られています。
一番低いところにある三の丸
一段高いところに二の丸があります。
さらに、その上にある本丸


1571(元亀2)年、信長包囲網に呼応した武田信玄は2万5千の大軍を率いて三河侵攻を開始しました。
この際、武節城はなんと戦わずして武田の軍門に下ってしまいました。
しかし、この後信玄は体調を崩したため、退くこととなりあげくのはてに病死してしまいます。

1575(天正3)年、信玄の息子勝頼は三河に侵攻し、徳川・織田連合軍と激突することとなります。長篠の戦いですね。
敗れた勝頼は田峯城主菅沼定忠に伴われ撤退しますが、すでに田峯城では謀反が起こっており入城できず、命からがら武節城にたどり着き、梅酢を飲んで一息ついたとの言い伝えがあります。

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ぴーかる

佐伯城 (2020/11/28 訪問)

【続百名城46城目】
<駐車場他>佐伯市歴史資料館駐車場
<交通手段>レンタカー

<見所>天守台・石垣・虎口・三の丸櫓門・櫓台
<感想>2泊3日豊後国百・続百名城攻城の旅6城目。朝一行った大分府内城が時短になったので急遽入れ込んで訪城しました。三の丸は歴史資料館駐車場から櫓門が見えているのですぐわかります。三の丸跡は廃文化会館と公園になっているが、階段状に石垣遺構が残る。山頂の本丸を中心に北に北の丸、南西側に二の丸・西の丸を配し、連郭を総石垣で囲んでいる。天守曲輪はほぼ正方形の高石垣で特に見応えがある。二の丸西面の出隅石垣は算木積み未完成の石垣だが3m程あり味がある。各曲輪にある虎口や石敷の櫓台遺構も見応えある。本丸外曲輪北側石垣は三段の高石垣で段の平面部分も石垣で埋めて緩やかな曲線のある全面石垣となっている。圧巻で一番印象に残りました。眺望の佐伯港もまた良し。夕暮れで雄池・雌池の水の手遺構は行けずだったが、再訪したい続百名城マイベストに入る城跡でした。

<満足度>★★★

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