池和田城から転戦。車で10分くらいで着きました。
主郭の明性院入口らしき付近(35.400115、140.125078)から中に入るが、確信が持てず、内曲輪跡の光福禅寺の駐車場(35.402594、140.125719)に向かいました。
佐是城は、鎌倉時代に、佐是禅師円阿(佐是四郎祥師説もある)が堀の内地籍に「館」を構えたのが始まりといわれています。
主郭や明性院のまわりの地は、館が襲われた時に、一族の身を守る為に造られた砦の役目をした所のようです。
時代が下がり、1550年(天文19年)武田三郎国信が城主に命じられ、国信はこの地に入るとすぐに、 佐是氏の築いた砦を戦国時代に相応しい大規模な城に造り変えたようです。
『武田系譜』によれば、1552年(天文21年)に起きた「椎津合戦」で佐是城主・佐是国信は援軍として里見軍と戦うも討ち死にし、城も落城したそうです。
現在城趾には土塁や空堀などの遺構が残っており、また主郭跡に明性院、内曲輪跡には光福禅寺が建てられています。
主郭の明性院らしき付近に着くが、確信が持てず、内曲輪跡の光福禅寺に向かうが、遺構は見つけられず説明板と内曲輪跡の小さな石碑の写真を撮って撤収。
攻城時間は25分くらいでした。
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