「東西75間半、南北34間」と言われている。
城跡地は、東海道を挟んで西側の鳴海城跡公園から東側の石碑がある天神社のあたり。
また、別名を根古屋城と言われているように、城の周りにはいくつもの寺や神社が今でも残る。この城も勿論古いし、海岸線・川・東海道の全てを抑える重要な城だ。織田対今川の勢力争い時には、今川方は後に第二次高天神城の戦いで勝頼方として最期を遂げた猛将岡部元信を城主として配置。「こんな前線の不利な所で、よくも戦ったものだ」と感じた。結果的に、義元は岡部元信への絶対的信頼からか信長は善照寺砦にいると判断したのかもしれない。
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