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神明宮 (2021/01/15 訪問)

日没後に到着…。栃木県道174号線沿いの神明宮に案内板あり。

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小城小次郎

見事な石垣は、素戔嗚神社に守られた (2021/11/22 訪問)

佐敷城、あるいは津和野城をも彷彿とさせる見事な石垣は、関ヶ原直後に廃城となったとは到底思えない素晴らしさ。城域がまるごと素戔嗚神社の管理下にあったことが、結果的に城を守ることになったのだそうだ。

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城好きのメガネ

「桜井城」 (2020/03/28 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
桜井城は、安城松平長親の子・信定が入り、桜井松平初代となった。松平信定は、松平清康に属して牧野氏の吉田城や織田氏の岩崎城、品野城攻めで活躍した。1530年、宇利城攻めで清康の不興を買う。1535年、守山城攻めで清康の指図に従わず疎遠となる。清康の死後、織田氏に内通し、松平広忠を岡崎城から追放するなどし、念願の惣領の座についた。岡崎城を追われた広忠は今川義元に支援を求め、今川を後盾にした広忠が岡崎城に戻ると、以前まで従っていた家臣たちは次々と離反し、信定は岡崎城から追われた。その後、広忠に謝罪し、和解する。以降約70年間、6代にわたり桜井松平氏の居城となった。1590年、桜井松平氏は家康の関東移封に従ってこの地を離れ、廃城になったとされる。その後、桜井松平氏は、江戸時代に大名として各地を転じ、摂津国尼崎藩で幕末を迎えた。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
名鉄西尾線 桜井駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「安祥城」 (2020/03/28 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
安祥城は、当地を支配していた和田氏が居館を築いたことから始まる。安祥城の築城以前は、安城古城を本拠地とし、安祥城は支城であったとされる。その後、岩津を拠点としていた松平信光が、安祥城を奪取した。1508年に今川氏の侵攻により岩津松平氏が滅亡し、代わって安城松平氏が惣領としての地位を固めた。1523年、松平清康が家督を相続すると居城を岡崎城へ移し、安祥城を支城とした。1535年に清康が家臣に殺される「森山崩れ」が起こる。三河の国人が相次いで離反し、一族からも謀反が起こるなど松平氏は弱体化した。1540年、松平氏が弱体化したため、織田信秀(織田信長の父)が安祥城を落城させ、城代に織田信広を置いた。1545年、松平広忠は安祥城を奪還するために出陣するが、大敗し、本多忠豊をはじめとする有能な家臣を失う。広忠は、やむなく今川氏に救援を求め、人質として、竹千代(徳川家康)を引き渡すこととなるが、竹千代を駿府に送るが途中で戸田康光に拉致され尾張へと送られる。事実上、松平氏は今川氏の傘下に組み込まれることとなる。太原雪斎率いる今川軍の猛攻により安祥城は落城し、城代の織田信広が捕縛され、織田家に奪われた竹千代と人質交換をする。今川氏は安祥城に天野景泰、井伊直盛らを城番として置き、岡崎城にも城代を派遣し、三河を乗っ取ることに成功した。この後、今川義元が桶狭間の戦いで横死し、松平氏は独立し、織田氏との間に清洲同盟が締結されたことで安祥城は役割を終え、1562年頃、廃城になったとされる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
名鉄西尾線 南安城駅 徒歩15分

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整備中の福山城を楽しむフォトスポット!「信長の野望」コラボデザインシートを設置しました!

福山城天守前広場東側(福山城博物館管理事務所前)の工事用囲いに「信長の野望」コラボデザインシートを設置しました。
福山城築城400年応援サポーターであり,初代藩主水野勝成にゆかりの深い9人のキャラクターが勢揃いする大迫力のデザインシートです。
フォトスポットとして令和の大普請で変わりゆく福山城とともにお楽しみください。

<デザインシート概要>
 サイズ:縦 約2m×横 約27m
 内 容:初代藩主水野勝成を中心に,9人のキャラクター(※)と勝成とのゆかりを紹介。
     ※徳川家康,織田信長,豊臣秀吉,伊達政宗,佐々成政,小西行長,加藤清正,黒田長政,宮本武蔵

<設置期間>
2021年(令和3年)1月15日(金)午後2時頃~2022年(令和4年)3月下旬
 ※1月15日(金)午前中に設置予定。当日の天候によっては設置日を変更する場合があります。
 ※撤去日は福山城博物館耐震改修工事の進捗により前後する場合があります。

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昌官忠

クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」③ (2017/12/17 訪問)

「柴咲コウ」さんが演じられていた大河ドラマ(おんな城主 直虎)ゆかりの城巡りに次男と二人で参加しました。
クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」の3城目は浜松城です。曳間城からの転戦です。
続100名城スタンプは、このころは集めていなかったので押していません。

浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、築城時の城主は不明だそうです。
浜松城は徳川家康の居城として知られ、家康は29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。
武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」は信玄がこの城を無視したことがきっかけになっています。
江戸時代には歴代城主の多くが幕府の重役に出世したことから「出世城」と呼ばれています。
現在は浜松城公園として整備されており、野面積みの石垣を見ることができます。

前日「井伊直虎ゆかりの地」を巡った後、「三方ヶ原古戦場跡」にも寄りましたので、その写真も併せて投稿します。攻城時間は60分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」② (2017/12/17 訪問)

「柴咲コウ」さんが演じられていた大河ドラマ(おんな城主 直虎)ゆかりの城巡りに次男と二人で参加しました。
クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」の2城目は城びと未登録の曳馬城です。井伊谷城からの転戦です。
前日「井伊直虎ゆかりの地」を巡った後、「三方ヶ原古戦場跡」に寄り、浜松のホテルに宿泊しました。
予定では浜松城の見学が先でしたが、朝早く開城前の浜松城の近くにある曳馬城を見学することになりました。

浜松城のある一帯にはもともと引間城(曳馬城)と呼ばれる城がありましたが、築城年代は諸説あり定かではないようです。
1560年(永禄3年)桶狭間の合戦で今川義元が敗死すると城主飯尾連龍は氏真と絶縁し家康に通じたため氏真は1563年(永禄6年)と1564年(永禄7年)に二度に渡って攻撃しました。
しかし、城は落ちず結局講和するが1565年(永禄8年)連龍は氏真に駿府城で暗殺されました。
1568年(永禄11年)に今川方の拠点であった引間城を攻め落とした徳川家康は「馬を引く」という名前は負け戦を意味するため縁起が悪いということで、地名を「浜松」にあらためました。
1569年(永禄12年)掛川城に籠る氏真を降伏させ伊豆に追いやった家康は引馬城を取り込んだ浜松城を築城し本拠としました。曳馬城の跡には米蔵十数棟が建てられたといわれています。

現在は東照寺の境内に石碑が建つのみで遺構はありません。攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」① (2017/12/16 訪問)

「柴咲コウ」さんが演じられていた大河ドラマ(おんな城主 直虎)ゆかりの城巡りに次男と二人で参加しました。
大河ドラマが好きで見てました。確かこのツアーの2日目が、放送の最終日だったと記憶しています。
クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」の1城目は井伊谷城です。

井伊谷城は1010年頃、遠江国の国司を務めていた藤原共資の息子である藤原共保(土着し、後に井伊共保を名乗ったとされる)によって築かれたと言われており、以来約580年に渡って井伊家が治めていました。
井伊谷城が歴史の表舞台に登場するのは南北朝時代のことで、1337年に井伊道政が後醍醐天皇の皇子である宗良親王をお迎えしたという記録が残っているそうです。
しかし、南北朝の争いが激しくなった1339年から40年にかけて北朝方の高師泰や仁木義長たちに攻められ、落城しました。
南北朝時代以降、井伊家は今川氏に従うことになります。
1560年に桶狭間の戦いが起こると、22代目当主である井伊直盛(ドラマでは杉本哲太さん)が戦死してしまいます。
1562年には直盛の跡を継いだ井伊直親(ドラマでは三浦春馬さん)が謀反の疑いにより今川氏真(ドラマでは尾上松也さん)に謀殺されると、井伊家は存続の危機に陥りました。
井伊直親と直親の正妻・しの(ドラマでは貫地谷しほりさん)との嫡男が徳川四天王のひとり井伊直政(ドラマでは菅田将暉さん)です。
井伊直親死後、直盛の娘であり、直親の婚約者でもあった井伊直虎が、「女領主」として井伊谷城を居城に井伊家を支えます。
井伊谷城は1568年に一時、小野政次(ドラマでは高橋一生さん)に奪われてしまいますが、直虎は徳川家康の力を借りてすぐに奪還しました。
1572年には武田信玄の侵略をうけますが、翌年には信玄が死去したため、井伊谷城は再び直虎の支配下に入ります。

現在は井伊谷城跡城山公園として整備されており、城跡周辺には井伊氏菩堤寺の龍潭寺(りょうたんじ)や井殿の塚が位置し、あたり一帯は現在でも「井伊谷(いいのや)」という地名が残っています。

攻城ルートを写真で辿ると、
龍潭寺➡井伊谷城址➡「女城主直虎大河ドラマ館」➡井伊直親公の墓➡蜂前神社(徳政令で直虎が署名した文書がある?)と巡りました。
攻城時間は移動時間を合わせて3時間30分くらいでした。

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カズサン

東曲輪尾根筋5連続堀切確認、見応え有り怖い (2021/01/14 訪問)

 寒気が少し収まり日中14~15度の予想でしたので、勝間田城に出掛けました今年の登城始めを浜松城か勝間田城と考えていたのですが近くの浜松城と成り今日に成った次第。
 近々にぴーかるさん投稿で東曲輪の5連続堀切の写真が掲載され草刈りと草が枯れ堀切が良く見えるように成ってましたので平成27年9月は草が茂り良く見る事が出来ず5年振りの探訪、東曲輪から東尾根に5連続堀切、曲輪、土塁の南裾を斜めに人の足幅程の道を昇り降り南は崖で狭く急峻、ストックと空きの手を地面に付き這いながら慎重に降り登る、手前の2つの堀切は少し怖いですが後は浅く
東尾根の物見曲輪確認、東奥はやや藪化。
 戻って南曲輪、堀切、腰曲輪、南曲輪を降りて堀切に架かる橋を渡り西へ、一騎駆けを確認。
 東曲輪より静岡空港越しの富士山を眺める、今日は急に気温が上がった性か霞がかってぼやけてハッキリしません。
 
 又重層土塁が良く見えるように景観保全整備伐採を3の曲輪北側から工事中で3月末には完成とか?桜の頃がベスト探訪時期に成りそうです。

 駐車場は麓(静岡県牧之原市勝田2152)にトイレと完備、パンフレットはトイレの壁に資料ボックスあり、虎口まで急坂、茶畑を少し歩きます。
 
 続き、本曲輪、北曲輪Ⅰ,Ⅱ、2の曲輪、3の曲輪、馬洗場、北横堀、虎口、出曲輪を投稿写真掲載。

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キンヤ

石垣の化石を探すのが楽しい城 (2018/06/09 訪問)

石垣の化石についての投稿は、殆どないようですので、化石メインで写真を投稿させて頂きます。

外観は当時とほぼそのままに復元された天守がとても美しいです。

天守台石垣の石は白色が多く、天守の白漆喰とマッチして綺麗です。

その石垣は白やグレーの石灰岩がかなり使われていて、化石が所々に見られ探すのが楽しかったです。
天守台以外でも化石があります。

いつもは城には興味がない恐竜好きな息子が喜んで化石を探してました。

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耕助

久しぶりのお城めぐり (2021/01/14 訪問)

県外には行けないので、地元のお城めぐりで来ました。
平日なのでゆっくり見ることができました。
御城印も購入しました。

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投稿1-長浜城🏯 (2021/01/13 訪問)

戦国ワンダーランドにて

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昌官忠

妻と二人で甲府・松本の旅③ (2018/03/05 訪問)

「妻と二人で甲府・松本の旅」の3城目は松本城(ラスト)です。武田氏館(躑躅ヶ崎館)からの転戦です。
当初は松本城に行く予定はなかったのですが、どこか観光して帰ろうとの妻の提案で、迷わず松本城を選択。
宿泊先の甲府富士屋ホテル(現在の甲府記念日ホテル)から甲府駅に向かい、JR中央線(あずさ5号だったと思います)で松本駅到着。
松本駅からバスで松本城に向かいましたが、下りたバス停は覚えていません。覚えているのは下りたバス停と帰りに乗ったバス停は違っていたことだけです。

松本城は2回攻城しています。
1回目は2015/06/17に次男と二人で攻城(100名城スタンプ押印)
2回目が今回で妻と二人での攻城
1回目は人が多くて天守内に入れませんでしたので、今回の2回目は天守内見学中心(雨も降っていたので)で攻城しました。
現存天守はどこもそうですが、城内の階段がかなり急です。攻城時間は90分くらいでした。

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昌官忠

妻と二人で甲府・松本の旅② (2018/03/04 訪問)

「妻と二人で甲府・松本の旅」の2城目は武田氏館(躑躅ヶ崎館)です。甲府城からの転戦です。
100名城スタンプは「武田神社宝物殿」で押しました。
甲府城から甲府駅に戻り、甲府駅北口から山梨交通のバスで武田神社バス停で下車。武田神社は目の前です。

妻と二人、毎年恒例でフルーツパーク富士屋ホテルに宿泊しますが、この時は、初めて甲府富士屋ホテル(現在の甲府記念日ホテル)に宿泊したので覚えています。
武田氏館は2回攻城しています。
1回目が今回で妻と二人で攻城
2回目が2020/10/14で妻と二人で昇仙峡に観光に行く途中に寄りました(投稿済)

遺構として土塁や堀、石垣などが確認できるはずですが、参拝者が多く、自分は神社&宝物殿の見学中心で退散し宿泊先の甲府富士屋ホテルに向かいました。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

妻と二人で甲府・松本の旅① (2018/03/04 訪問)

「妻と二人で甲府・松本の旅」の1城目は甲府城です。100名城スタンプは「甲府城稲荷櫓」で押しました。
自宅最寄り駅からJR甲府駅に到着。そこから徒歩で向かいました。

甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。
1582年(天正10年)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。
しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。
また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。

現在は本丸・天守曲輪などの石垣や天守台、堀の一部が残り、「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として開放されています。
また、稲荷櫓や山手渡櫓門が復元されています。
JR甲府駅近くに立派な天守台や稲荷櫓、鉄門。天守台とJR甲府駅を挟んだ山手渡櫓門も見事です。攻城時間は80分くらいでした。

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橋吉

二俣城から徒歩で移動 (2015/04/26 訪問)

1575(天正3)年、徳川家康は、武田軍に奪われた二俣城を取り返すために、鳥羽山に本陣を敷きいくつかの砦を築いて二俣城を包囲しました。
これが鳥羽山の始まりだといわれています。

二俣城からはハイキングコースになっており、徒歩で移動することにしました。

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赤い城

御前山城 茨城県常陸大宮市 (2021/01/09 訪問)

道の駅かつらから道路を渡って御前山の東登城口からハイキングコースを登って行きます。
城域まではそんなに時間はかかりません。
歴史は定かでは無いようですが遺構はなかなかのものでした。
食い違いの虎口や堀切にかかる土橋なども見られます。
次回ゆっくり見てみたい感じでした。

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いんげん丸虫

大見城 静岡県伊豆市 (2020/12/27 訪問)

「伊豆大見の郷 季多楽」に駐車可能です。
丘陵上に主郭と二郭というシンプルな構造です。
下草もかられ良く整備されてます。大堀切が通路と一緒になってたり、竪堀内に刈り込んだ草木が放置されてるのが惜しいです。
主郭からの景色は気持ち良いですね。

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やなぎぶそん

見やすい城 (2020/12/29 訪問)

櫓、石垣、堀などあります。
城の敷地自体が小さいのですぐに回れます。

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やなぎぶそん

体力が必要 (2020/12/29 訪問)

お城仲間ではきついと言われていた有子山城。
いざ登ってみると、どこまでも続くのではないかと思うくらいの急な階段がありますが、のんびりと登ると、あっさりと登ることができました。
問題は下り。
登りの疲労が足にきていて、急な階段も結構あって、雪解けで路面は濡れており、滑るわ滑るわで数回尻餅をつきました。
行かれる皆さんは、下りる際はロープを持って慎重に下りた方がいいですよ。

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