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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ①:姉ヶ崎陣屋➡城びと未登録(千葉県市原市) (2019/08/21 訪問)

ファミリーマートの駐車場(35.476362、140.041174)に駐車して攻城しました。

1607年(慶長12年)11月、徳川家康の次男・結城秀康の次男・松平忠昌(当時は虎松丸)が姉ヶ崎に1万石を与えられたことにより、姉ヶ崎藩が立藩&築かれた陣屋です。
忠昌は1615年(元和元年)11月、下妻藩主であった松平頼房の水戸転封を受けて、跡の常陸国下妻藩3万石に加増移封され、これにより姉ヶ崎藩は廃藩となりました。
しかし1619年(元和5年)12月、忠昌の弟・松平直政に1万石が与えられて、再び姉ヶ崎藩が立藩しました(直政は越前国大野藩にすでに1万石を領していたため、これにより合計2万石の大名となりました)。
1624年(寛永元年)6月、直政は(姉ヶ崎周辺の領地は収公。それとは別に)越前大野藩5万石に加増されたため、再び姉ヶ崎藩は廃藩となりました。
現在は住宅地となっており遺構はありませんが、陣屋跡に稲荷神社があります。

路地裏の道沿いに稲荷神社(35.475093、140.040846)、県道287号線沿いに民家の立派な門(35.475632、140.040365)がありました。
攻城時間は10分くらいでした。

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pascal

お奨めは月所丸 (2020/10/16 訪問)

 有名な小谷城、多分すでに訪城した方が大半ではないかと思うので、ポイントを絞って投稿します。
毎日多くの訪問者で賑わう小谷城ですが、各々限られた時間での探訪でスルーされやすいのが少し離れた月所丸です。
しかし巧妙に築造され、なお且つ戦国の城としての雰囲気をそのまま残している郭は、実は月所丸が一番なのです。

 全山峻険な小谷山ですから、攻め口は4条の尾根筋しかありませんが、北東の尾根を押さえているのがこの月所丸です。
東尾根最高所の山王丸から北へ降り、六坊を過ぎると道は清水谷への下りと大嶽への登りに分かれますが、大嶽方面を選ぶとすぐに右への分岐道があり、月所丸へと続いています。

 郭は尾根上に大きく2つの曲輪を繋げて造ってあり、それぞれ東端には高土塁を積み上げています。
最後は土塁下に深い2条の堀切があって尾根を遮断しており、誰も来ない静寂も相俟って臨場感は満点ですね。
すると、時折吹く風に揺れる木々のざわめきが兵士の喧騒に聴こえたり、守備兵の気分になって土塁上に伏せて堀の向こうを窺っていると、敵影が見えて来る気にもなってしまいます(^^;

 マニアックに過ぎるかも知れませんが、時空を超えた探訪を味わいたい方には是非お奨めしたい月所丸です。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑭:小篠塚城(ラスト) (2020/01/23 訪問)

岩富城から転戦。車で10分くらいでした。
雨でドロドロになった小篠塚駐車場(35.6782149,140.2229868)に駐車して攻城しました。

小篠塚城の歴史については不詳ですが現地の解説板によると1471年(文明3年)に古河公方・足利成氏が古河を追われ千葉氏を頼った際に小篠塚城に滞在したとの事です。
翌年、成氏は古河城に帰還しますが、成氏の死後、千葉氏の家中で内紛がつづき古河公方と対立するようになります。
その為、千葉氏討伐のため2代目古河公方となった足利政氏が嫡子である高基とともに1502年(明応11年)〜1504年(永正元念)の間に小篠塚城に在城したとの事です。
現在城址は正慧寺の境内となっていますが「小篠塚城址園」として整備されており、遊歩道も設けられ、土塁や空堀などの遺構を確認することができます。

駐車場からの近道の登城路は倒木が邪魔するが、先に進むと主郭に着きます。
そこから各郭を回って正慧寺前を通って駐車場に戻れます。(正慧寺からのルートは舗装されていますので倒木はありませんでした)
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑬:岩富城 (2020/01/23 訪問)

中野城から転戦。車で20分くらいでした。
セブンイレブンの駐車場(35.656917,140.236216)に駐車して攻城しました。もちろんセブンイレブンでは買い物しました。

この地域は、古くは千葉氏一族の白井氏が支配していましたが、1455年(康正元年)の享徳の乱以後、原氏が進出しました。
岩富城は、1472年(文明4年)に原景広が築城したと言われ、景広の子・胤行らが城主でした。この系統の原氏を「弥富原氏」と呼んでいます。
1590年(天正18年)豊臣秀吉による「小田原征伐」で原氏が千葉氏とともに滅び、徳川家康が関東に入封すると、その家臣となった北条氏勝が入城しました。
その後、1614年(慶長19)年に養子の北条氏重が下野国(栃木県)の富田に転封されたため、そのまま廃城となりました。
現在城址には本丸跡に浅間神社が祀られており、周辺に土塁や空堀などの遺構を確認することができます。

セブン駐車場より徒歩4分位で浅間神社鳥居前(35.655506,140.2369)に到着し攻城。
土塁、堀を確認したが、雨が強くなってきたので早めに撤退。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑫:中野城 (2020/01/23 訪問)

犬成向山城から転戦。車で35分くらいでした。
本城寺駐車場(35.582132,140.265664)に駐車し攻城しました。

中野城は酒井定隆が築いたとされますが詳細は不明です。
定隆は、当初はこの城を本拠としていましたが、1488年(長享2年)に土気城に移り、廃城となりました。
跡地に本城寺が建てられ、現存しています。現在も寺域(曲輪跡)を囲むように土塁と空堀が残っています。

本城寺の周りを土塁が囲んでいます。堀らしきものも確認しました。
攻城時間は20分くらいでした。

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みかわのひで

形原松平氏発祥の地で松平水軍の拠点 (2021/01/10 訪問)

城跡は古城稲荷になっており、主に曲輪が2つほど。所要時間は約20分もあれば十分かと。そのほか周辺に城郭関連地名が残っています。

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新九郎

山城の最高峰 杉山城 (2021/02/04 訪問)

平地の駐車場から中学校もある意味曲輪と数えると、凄い山城です。昔の侍は、こんな城に攻め込まなければならないと思うと同情を禁じ得ません。
ここまで竪堀、横堀などあって迷路のような通路となっていて主郭までも地図を見て行っても迷ってしまいます!
近所には店や自販機などもないので、飲料水などは持参した方がいいですね。城という字が土で成ると書く意味がここに来ると分かります。超お薦めです。

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pascal

伊賀忍者の首領は百地丹波守だけだった? (2018/10/03 訪問)

伊賀の上忍(首領)三家のひとつ、百地丹波守の居城です。

 伊賀忍者は文書を残さないので、史実は不明な部分が殆どなのですが、百地丹波の城だろうと言われています。
駐車場は永保寺の参拝用をお借りします。
本堂の右手に城址看板があるので、石仏が並ぶ小径を5分ほど散歩して城址に辿り着きました。

 城は主郭を中心に幾つかの副郭が守る、伊賀の城ではレベルの高い縄張りです。
おそらく、隣接する寺院や墓地も防御の一翼をになっていたのでしょうね。
 主郭は300坪の方形で、三方を高い土塁で囲まれています。
段差のある西側は土塁が低くなって、城域が見渡せる様になっており、実用重視です。
虎口は南北に2箇所ですが、南虎口が大手の様に見えます。
郭内には若干高くなった住居跡の土盛りも遺っていて、より当時の様子が想像できます。
 
 説明看板は3枚掲げられていますが、意外に突っ込んだ記述内容に深く興味を惹かれます。
上忍三家とは、服部、藤林、そして百地家なのですが、
服部家は半蔵保長という名が出て来るものの、半蔵正成が徳川に仕官して以降振るわず、実質は分家の百地家が面倒見ていた…という話は他で聴きました。
此処には、もうひとつの『藤林長門守も、過去帳からどうやら百地丹波と同一人物らしい』と書かれてあります。

 忍者が次々に名を変え、別人に成りすますのは有り得る事と思いますが、百地丹波守は織田信長に独りで立ち向かった…となると、がぜんその人物像に興味が湧いてきます。
天正伊賀の乱では、最後の柏原城で降伏開城後に忽然と姿を消した百地丹波守。
何処で誰になって何をしたのでしょうね?
史実は不明ゆえ、なおさら浪漫を掻き立てられる城です。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑪:犬成向山城➡(千葉県市原市) (2020/01/23 訪問)

犬成城から転戦。(車は市津学園の駐車場(35.488381,140.190074)に駐車したまま徒歩で攻城しました)
登城口(35.488028、140.190931)を森に向かってひたすら進んでください。

犬成向山城の詳細は不明ですが、犬成城を補完する役割を持っていたと考えられています。
犬成向山城については城郭と認められるかどうか否定的な意見もあるようです。
現在城址には土塁や空堀と思われる遺構を確認することができます。

犬成城から徒歩で攻城。倒木が道を塞ぐが、ひたすら進むと立派な堀を発見。ただし堀の中は倒木だらけでした。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑩:犬成城 (2020/01/23 訪問)

立山城から転戦。車で20分くらいでした。
市津学園の駐車場(35.488381,140.190074)に駐車して攻城しました。

犬成城の歴史は何も伝わっていませんが、築城説には2説あるようです。
①土気酒井氏が市原方面に進出するために築いた土気城の出城説
②八幡から茂原に抜ける茂原街道をおさえるために北条氏が築いた城という説
①の説が有力のようです。
城跡に建つ安立寺は法華宗の寺院であることも酒井氏の支配地であったことを裏付けているようです。
酒井氏は古河公方に従っていたが戦国時代末期には北条氏に従属しています。
犬成城が築かれた時代は不明だが伝承などが残らないことから北条氏に従い里見氏の侵攻に備えた頃ではないかと思われるようです。
現在城址には土塁や空堀などの遺構を確認することができます。

安立寺から攻城しようとしたが道が険しくて、市津学園駐車場裏の平地を歩きまわり、2郭への入口(35.489703,140.1909)を発見。
そこから倒木等はあるが、2郭虎口➡2郭➡1郭への土橋➡1郭虎口➡1郭へと進めます。虎口、土塁、堀切は見ごたえあります。
攻城時間は40分くらいでした。

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にのまる

佃島砲台&越中島砲台 (2021/01/03 訪問)

 昨年末から年始にかけて東京駅のKITTEで開催されていた「麒麟がくる展」に行ってきました。実際に使用された衣装や甲冑、小道具などが展示されていました。
 印象的な派手な衣装、双六、蘭奢待など、「あー、これこれ!」と思うものがずらりと並んでいて、早くも懐かしい気分に浸ってしまいました。(ほとんど撮影可でした。)
 時代考証の小和田先生の特別解説「『敵は本能寺にあり』光秀の決心と葛藤」(ビデオ上映)は4本立てで、全部で1時間近くありました。テレビでは「名前にバッテン」されて終わった勝頼くんのことも、最終回で出てくる??長宗我部元親関与説もしっかりと聴いてきました。
 限定グッズ目当てに<雲丹ラーメンとパフェ>という信じられない組み合わせを食してしまったので消化せずには帰れません。江戸城一周が近くてちょうどよさげでしたが一般参賀もなく東御苑も閉園していたので、佃島砲台跡と越中島砲台跡までお散歩してきました。(どちらも城びと未登録。ニッポン城めぐりサイトの城攻め地図に載っていました。)
 東京駅から3kmくらい。佃島砲台には解説板が設置されていたのですっきりとゴールインできました。ありがたいです。越中島砲台は川の向こうの東京海洋大学の中、あのあたりだろうなあ、と眺めてきました。埋め立て地であるこのあたりの景色はおそらく目まぐるしく変わってきたのではないかと思います。50年後、100年後はきっとまた全然違った様子になるのだろうなあ。。。

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ぴーかる

リベンジなる (2020/12/26 訪問)

【望月城】
<駐車場他>登城口前の空き地<34.919317, 136.150197>に駐車できますが、入り口の道路幅が狭い為<34.919842, 136.149072>の道路脇に駐車する方がいいでしょう。
<交通手段>車

<見所>土塁・堀
<感想>前回は2019,11,17に訪城したが入口を調べず行ったので主郭の北西側をウロウロして主郭を見つけられず終了した(2019.12.26投稿)。今回は登城口をストリートビューできっちり確認してリベンジした。主郭部は甲賀郡中惣遺跡特有の高土塁に囲まれ、東側に平虎口が一つある。土塁高さは10㍍程はあろうか、近くの新宮支城に匹敵する高さだ。特徴的なのは西側奥の土塁には中段があって土塁の中段曲輪になっているのが珍しかった。虎口前に舌状の曲輪に祠があり、その舌状曲輪と主郭間と北側にかけて堀があったと思われる。北側に回ると堀は明確に残っている。北側堀のすぐ北側にも細長い曲輪があり土塁がある。主郭の西側から北西側はいったん下がってその北西側にも削平地がある。この削平地が前回間違えて来た所で2回目にして繋がった。結果的にはこの城跡の遺構は主郭部1つあるだけではなく、北側に腰曲輪、北西部にもそこそこ大きい曲輪、さらにその曲輪の北西部斜面には竪掘りがあることが分かった。
 しかし何度撮影しても高土塁の臨場感ある写真が撮れないのと、思うのは高土塁は山を削って造ったのか、土を盛って造ったのかどっちなんだろうか。そう思わせるこの迫力はやっぱり行って見るのがいいです。

<満足度>◆◆◇

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肉球

空堀を散歩できます (2021/01/26 訪問)

お城巡りを一日中するわけもいかず仕事終わりに立ち寄りました。
本丸や二の丸などお城の中心部は住宅街になり見極めるのが難しくなっています。が
岩槻城趾公園には鍛治曲輪、新曲輪の土塁空堀が残り埋め戻されていますが障子堀が確認されています。
この他に黒門、裏門が移築され保存されています。
少し離れた場所には藩校遷喬館と時の鐘が現存しています。

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pascal

対北条戦に備えた海城 (2014/12/06 訪問)

 稲村城を手に入れた義堯と次の義弘は、里見氏歴代でも特に優れた武将だった様で、安房の枠を超えて上総に討って出ると、久留里城に本拠を替えて、下総南部まで手中にし、最大版図を得ました。
義弘は次に来る北条氏とのガチンコ対決に備え、相模湾に面した麾下の海賊:岡本氏の海城を譲り受けて、水軍力の強化を図ります。
それが岡本城です。

 館山からR127を北上して豊浦に入り、豊浦小学校を越えた切通しの所に『里見公園』の看板があります。
此処が岡本城址ですが、周辺に駐車場が見当たりません。
地図で近くに『豊浦海水浴場』の表記を見つけたので、『海水浴場なら駐車場は有るだろう』と、行って見たら、有りました(^^;

 クルマを降りて、振り返った背後の山が岡本城です。
漁師町特有の狭い路地を抜けて国道に出て、隧道の手前に『岡本城入口』の看板と階段があるので、登って行きます。
城址は整備は不十分で、山全体に常緑樹が生い茂っているので、殆ど見通しが効きません。
削平した平坦地はというと、特産のビワの果樹園に活用されていて、特に城の遺構などは見当たりませんでした。
 一番上まで登ると、樹木が伐り払われて芝生の広場になっています。
ここを里見公園と称してるのかな? と思いますが、主郭というほどの広さはありません。
これでは御殿も建たないから、見張り所機能が主で、御殿は浜に近い場所に有ったのかな?
 ただ、此処から見える景色は格別で、洲崎から三浦半島、遠く大島や伊豆半島まで見渡せます。
里見の城の何処かに別荘建てていいよ と言われたら、迷わず此処にするなぁ(^^;

 水軍は海が戦場だから、海城も堀や土塁などと言った陸の城と概念が違うのかも知れませんね。
里見義弘はこの岡本城を里見水軍の拠点とし、岡本氏、正木氏などの水軍を育てて、北条氏との戦いに使います。
義弘の子:義頼はこの岡本城で育ちましたが、当主になると本拠を久留里城から岡本城に替えました。
そして次の義康が天正19年(1591)館山城を築いて移るまでの間、里見氏の中心でした。

 最後にクルマに戻るついでに、山上から目星をつけた船着き場の遺構を確認します。
基本は砂浜ですが、所々に岩礁があるので、運が良ければ遺構が見られる筈ですが… 果たして、有りました(^^;

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pascal

戦国大名:里見氏の誕生 (2014/12/06 訪問)

 安房里見氏の前期の居城です。
戦国時代の南関東にあって、最後まで北条氏に屈せず互角に渡り合ったのは里見氏だけです。
地勢上のアドバンテージは有ったにせよ、キラリと光る氏族ですよね。

 南総里見八犬伝のモデルになった滝田城に続く訪城で、安房グリーンラインを南下して行きます。
内房線を横切った右奥の丘が城址なのですが、最初の交差点に『☞稲村城こちら』の小さな看板がありました。
☞看板は要所にあって、最後は『☞稲村城入口』で集落の細道を案内していますが、駐車場はその先の広場(看板は無いがたぶん駐車場)に停めさせてもらいました。

 稲村城は古河公方の命で上野から安房に移った里見義実が築いた城で、2代目の義通、3代義豊と、3代50年に渡って里見氏の本拠地でした。
この期間に里見氏は近隣の有力国人衆を味方にし、或いは討伐して安房国内を統一、戦国大名へと名乗りを上げる事となるのです。

 縄張りは、北西から南東に延びる細長い丘陵を二ヶ所の『水往来』と呼ばれる堀底道で分断した、連郭の形式を採っています。
しかし広さは中央の主郭が圧倒的に広く、室町期の単郭の城の名残りを感じますね。
南東の斜面は緩やかで、階段状に平場が重なっています。
現在も此処に集落が有るのですが、祠や古井戸がいっぱい有るそうなので、ある程度家臣を集住させてたのかも知れません。

 現在、城址の多くは果樹園として活用されていて、カキやミカンが実を付けています。
さすがに主郭だけは国史跡指定を機に整備した様で、まだ伐採した果樹の切り株が遺っていました。
城址遺構と農業道路の見分けが必要ですが、さすがに車道などの大きな改変はされていないので、城の姿はイメージしやすい城址ですね。

 主郭に立つと館山市街とその向こうの東京湾が一望できます。
里見氏は最終的にはあの館山を本拠にして終わるのですが、その前に稲村城を舞台にして肉親同士で争う大きな内訌がありました。
2代目の義通は若くして死の病に冒され、跡継ぎの義豊はまだ幼児だった為、その養育と元服後の当主就任を弟の実堯に託して亡くなります。
託された実堯は良く家を守り、義豊も無事成人しましたが、20歳になっても叔父:実堯は当主の座を譲ろうとしません。
先代の約定違反には憤る重臣も居り、義豊は思い切って城内で実堯を取り囲んで詰問し、切腹に追い込んでしまいました。
 実堯の子の義堯は、軍を率いて上総に遠征していましたが、この処置に激怒して軍を返して来ます。
義豊も正統性を基に義堯を討たんとして兵を上げますが、国人の多くは実績ある義堯についてしまい、義豊は自害したので、4代目以降の当主は義堯の子孫が担って行く事になるのです。


 安房に入ってから、気になった事がひとつあります。
クルマで走っている時に、地元№のクルマのマナーがやたら良いのです。
皆さん車間を取ってゆっくり走るので、後ろを気遣う心配がありません。
それどころか、右折のため対向車待ちをしてる際に、わざわざ止まって譲ってくれる場面も何度もありました。
この時から、なんとゆうか 千葉県のイメージが180度変わりましたね(^^;

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イオ

北野城(和歌山市北野) (2021/01/17 訪問)

北野城は、詳細は不明ながら土井氏によって築かれた城とされます。

現在の紀伊中学校あたりが城域とされ、あたりには「城屋敷」や「古戦場」という地名が伝えられていますが、遺構も石碑も説明板もなく、中学校東隣の若宮池が堀代わりだったのかな、と想像をめぐらせることができるくらいです。

この日は好天の休日ながら仕事で出掛けなければならず、せめて城でも行かないとやってられるか、ということで薗部城と北野城に寄り道してみましたが、背広に革靴では山城に行けないのはやむを得ないとしても、遺構も何もない城跡だけではかえってモヤモヤが募るばかりでした…。
 

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑨:立山城➡城びと未登録(千葉県千葉市) (2020/01/23 訪問)

大椎城から転戦。車で10分くらいでした。
携帯のアンテナ基地前(35.520024,140.251618)に駐車して攻城しました。

立山城は土気城を居城とする酒井氏が支配した大椎城の出城であったと思われますが、詳細は不明です。
大椎城より古く、平安時代から築かれていたという説もあるようです。
また「隠居城」という別名も大椎城のことを指す可能性があるそうです。
現在城址には土塁や堀切の遺構のほか、「立山城の跡」という石碑が建てられています。

土塁、堀切があるとのことで探したのですが、堀らしきところに家電の不法投棄があり残念。
城碑の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑧:大椎城 (2020/01/23 訪問)

土気城から転戦。車で10分くらいでした。
駐車予定していた場所からは徒歩でも攻城できないことが、現場に着いて判明。しばらく駐車場所を探したが見つからず断念。

大椎城は平安時代末期に平高望の曾孫にあたる平忠常によって築城されました。その後長らく千葉氏を称した忠常の後裔が拠ったとされます。
一方、忠常の館に関する伝承は東庄町にもあり、「千葉伝考記」はその2代後の平常長が前九年の役の功で大椎の地を賜り、次の常兼の代に大友城から大椎城に移ったように記しています。
1126年(大治元年)に常兼の嫡子、常重が亥鼻城を築いて居城を移しました。
戦国時代には土気酒井氏の支配下に入り、支城として大規模な改修を受けたと思われます。現在残る遺構も土気酒井氏時代のものと考えられ、土塁や空堀などを確認することができます。
1590年(天正18年)、小田原征伐により酒井氏が滅亡し廃城となったとされます。

ワンハンドヒルズ(チバリーヒルズ)から登城口を遠望するも攻城かなわず。城跡を目の前にて痛恨のミス。
攻城時間は10分くらいでした。(投稿写真ありません➡遠望でも写真撮ればよかったですね)

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑦:土気城 (2020/01/23 訪問)

本納城から転戦。車で20分くらいでした。
馬出曲輪の貴船神社(35.528949,140.2881)➡3郭➡2郭➡1郭を車を進めて攻城しました。

土気城は神亀年間に鎮府将軍・大野東人が蝦夷に対する備えとして「金城」あるいは「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのが起源とされますが定かではありません。
室町時代、土気荘の地頭職を得た千葉氏の勢力圏となり、室町時代には千葉氏の流れを汲む土気氏が当地の地頭職を得て土気城に拠ったとされています。
室町時代後期には一時大関城主の畠山重康の勢力下となったが、1487年(長享元年)原氏と組んだ中野城主酒井定隆に追われ、翌1488年(長享2年)酒井氏が移り、以降酒井氏が滅びるまでの100年強同氏の一族が拠りました。
後に定隆は三男隆敏と共に土気から東金に移り、隆敏は東金酒井氏の祖となりました。
1564年(永禄7年)第二次国府台合戦で土気酒井氏は里見氏に組し、里見氏の敗退後北条氏に組した東金酒井氏を含む北条勢に攻められた。
この際、搦め手のクラン坂方面から北条勢が攻め寄せたとされるが、酒井胤治が良く守りこれを撃退しました。
その後、土気酒井氏も北条氏に降り、1590年(天正18年)の小田原征伐では酒井氏は北条方として小田原城に篭城しました。
この役で北条氏が滅ぶと、酒井氏も運命を共にし、土気城も豊臣方に接収され廃城となりました。
現在本丸跡は旧日航研修センターの庭園になっており、5m近い土塁に囲まれた二の丸跡には老人ホームが建てられています。

馬出曲輪の貴船神社➡3郭➡2郭➡1郭を車を進め、クラン坂を通り抜けようとしたら倒木の為、前に進めず。
クラン坂の狭い登り坂を車で50m程バックで脱出を図りますが、雨で土砂が道路上に流れており、スリップの為、脱出するのに時間がかかりました。
本当に通行止めにしておいてほしかった。(反対側の入口は通行止めになっていました)
攻城時間は45分くらいでした。(見学時間には脱出時間も含んでいます)

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赤い城

曲輪が深い堀切で分断されている (2021/01/30 訪問)

フルーツライン沿いに城址の入口があり、看板も立っています。
近くの道路脇の広くなった所に駐車しました。
登城口から左に進むと搦手、綺麗な土橋が残っていました。
箕輪城の支城で、連郭式縄張になっていてそれぞれの郭の間は深い堀切で分断されていました。
大手の虎口には石積、二郭、三郭の下には竪堀も残っています。
なかなか見応えのある城だと思います。

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