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ダイエティシャン

重ね捺しスタンプラリー(2/28迄)松江城の巻と、節分限定恵方巻き【堀尾巻】 (2020/02/02 訪問)

ドキドキ、ワクワクの、重ね捺しスタンプラリー、松江城の巻です。今日やっとコンプリートです。
スタンプ場所を教えて下さった方、ありがとうございました。
3城コンプリートで抽選で島根県の特産が当るそうです。

今日は節分限定恵方巻き【堀尾巻】の販売日。開店時間に、スーパーで【堀尾巻】を入手し、攻城しました。松江特産【しじみ】が入っており、とても美味しかったです!節分の恵方巻きは、堀尾吉晴が巻き寿司を食べ、戦勝した事が由来とか、松江市の言い伝えだそうです。

鳩や水鳥も散策を楽しんでおり、寒さの中も長閑な攻城でした。

天守閣は、2/13迄の平日のみ、休館です。本丸の庭には入れます。

周辺博物館では、島根県の中世のお城関連の展示を開催中。今日 火曜日は、休館なので、また次回。

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チェブ

お米が先。 (2020/12/30 訪問)

昨年のラスト城攻めは「夏見城」。そこから車で5分位の場所に「米ヶ崎城」があります。

「夏見城」の夏見氏が築城したそうですが、こちらも文献が残っていないので、はっきりしません。
、、、抜け穴伝説はないみたいです(´ε`;)

意富比神社(おおひ じんじゃ)が「米ヶ崎城」周辺です。
周りは畑です。
「米ヶ崎城」の石碑等はありません。
写真②に、米ヶ崎 字 城之内と記載してあるので城跡を感じます。
『米ヶ崎』の由来は、こちらの地域の新米を最初にお供えするので、米が先。→米ヶ崎なんだそうです。
そこから、西側に土塁がありました。写真④です。
、、、夕日を写したら、土塁がありました。が正解。

「米ヶ崎城」から海老川を渡ると「夏見城」です。
ちなみに海老川は源 頼朝さんに海老を献上し名付けられた、という説が残っているそうです。

「米ヶ崎城」の伝説は、ないんかーい!と、突っ込みを入れてしまいそうです。

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朝田 辰兵衛

手荷物預けるなら,秩父鉄道 行田市駅へ。 (2019/06/29 訪問)

当初の予定は,JR行田駅前の行田市観光案内所にて,レンタサイクルしようと考えてました。しかし,手荷物預かりは扱っておりませんとのこと。しかも,JR行田駅にはコインロッカーなし。タクシー乗り場にタクシーの待機はありませんでしたが,運良く入ってきたタクシーに飛び乗りました。
手荷物預けるなら,秩父鉄道 行田市駅へ。レンタサイクルもあるようです。

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pascal

真田氏発祥の地と初期の詰め城 (2013/11/12 訪問)

『真田の聖地』と呼ばれる松尾古城です。
此処はほとんど登山になるので、それなりの装備が必要です。
それに万一の事故に備えて、単独登城は避けた方が良いと思います。

 城址は写真①の山の尾根の最初のピークにあります。
駐車場は無かったので、写真に見える送電線の鉄塔の下に停めさせてもらいました。(県道からメンテ用の道路がある)
そこからはひたすら山登り、明瞭な道は無いので、岩の多い痩せ尾根の馬の背だけを意識してどんどん登って行きます。
やがて、平らな自然石を積んだ小規模な石垣が現れ始め、最後は石垣で囲まれた小郭になり到着です。

 郭内には祠が祀られていて、城址の体裁にはなっていますが…小さいです。
尾根城だから、大規模には出来ませんが、これは詰め城というか、避難所ですね。
真田郷の支城ネットワークのひとつみたいな説明文も目にしましたが、これでは“敵の虚を突いて討って出る”様な動きは出来ません。
強い敵に襲われた時に、難を避け逃げ込む避難所です。

 そういえば麓にある『日向畑遺跡』は真田家初期の屋敷跡だと言われています。
その屋敷とセットになった詰め城がこの松尾古城ではないでしょうか?
郭の規模から数十名で満杯ですから、おそらく真田郷を掌握していた幸隆よりも前の世代の城ですね。

 幸隆以前の真田氏の系譜は明らかではありませんが、弱小土豪の時代があった筈です。
主郭に立って麓を見下ろしていると…
ある日強い豪族に襲撃されて、命からがら此処に逃げ込み、火を掛けられて蹂躙される麓の屋敷を唇を噛んで見つめる姿が浮かんで来ました。
『強くならなければ生き残れない…』真田家の原点の城なのかも知れませんね。

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pascal

なぜ此処にこんな巨城が!? (2014/05/03 訪問)

 百名城でお馴染みの高取城。
城下の壺阪山からは約4㎞、比高差390mの急な登城路の山道を2時間掛けて登った先で目に飛び込んでくる壮大な石の遺構。
そんなインディー・ジョーンズにも似た感激を味わえるのは、この城ならではですね。

 南北朝期の越智氏の築城に始まり、筒井順慶も詰め城に使った高取城を、総石垣の巨城に仕上げたのは豊臣秀長です。
高取山は石材の採取に適した山ではないので、使っている石の多くは麓で調達・加工して、歩いて来た坂道を引っ張り揚げた訳ですね。
過去の癖で、それをすぐにコストに換算してしまうのですが、この築城には膨大な金額が費やされていますね。
地理的効果でも随分とコスパの悪い仕事です。
(大和郡山城が百万石の太守の居城にしてはショボい理由はこれか?)

 『秀長は見栄張ってえらい無駄遣いしたもんやなぁ、豊臣やから…なぁ』
で片付ければ、話はそれで終わるのですが、あのケチで有名な徳川家康が高取城を継承し、幕府は管理人大名を置いて明治まで維持して行った事実で謎は一気に深まります。
そう思うと、大和郡山に代々譜代の大身を配した事も、紀州を御三家で抑えた事も、一連の繋がりの政策に見えて来ます。

 紀州の海~山深い紀伊山地とその入り口にある高取城~そして奈良盆地から京都
何か大きな国体戦略の要の位置に有ったのが高取城なのでは?
もしも千田先生と話す機会があったら、ぜひ訊いて見たい日本史の謎です。

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イオ

薗部城(和歌山市園部) (2021/01/17 訪問)

薗部城は薗部重茂の築城とされ、平家物語にも記載のある紀伊国住人薗部氏の居城でしたが、薗部国康が息子の広覚上人のために薗部城に一楽寺を建立し、宅地化によりお城の面影は消え失せても、お寺は現在まで続いています。

…と古い歴史のある城ではありますが、遺構はもとより石碑も説明板もなく、一楽寺の由緒書も見付けられませんでした。
 

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑥:本納城 (2020/01/23 訪問)

大関城から転戦。車で25分くらいでした。
蓮福寺墓前の空スペース(35.483457,140.3004)に駐車して攻城しました。

本納城は室町時代後期、1529年(享禄2年)に構築されたと伝えられており、黒熊大膳亮景吉の居城として知られています。。
永禄の頃、房州里見の支城である本納城は長南武田の進攻に備え、佐矢止砦、壇上砦を強化していたようです。
1564年(永禄7年)の国府台合戦ののち、房州里見氏の傘下を離反した土気城主・酒井胤治の軍勢に急襲され1569年(永禄12年)3月28日落城、城主景吉は切腹したと記録されています。
その後、土気酒井氏方から城代として、板倉右衛門他2名がきて統治したが、1590年(天正18年)小田原落城後徳川幕下の旗本知行地となり廃城となりました。
黒熊大膳亮の菩提を弔うために建てられたといわれる蓮福寺は居館跡だといわれており、そのすぐ裏手の山が城址です。

墓の真ん中の道を進んで主郭、2郭、3郭、4郭の尾根は確認したが、本納小学校裏手にある尾根への道を見つけられずに撤退。
蓮福寺から主郭まではよく整備されており、主郭虎口手前にある袋狭間と呼ばれる堀底道は見事です。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑤:大関城➡城びと未登録(千葉県東金市) (2020/01/23 訪問)

東金城から転戦。車で15分くらいでした。
大関神社前(35.524424,140.3846)に駐車して攻城後、砂古瀬神社への道路側からの侵入口(35.517727,140.382210)に車を進めて駐車しました。

1204年(元久元年)畠山重忠の支族が安房国から上総国に移り、重康によって築かれた城だそうです。
1526年(大永6年)12月に東金城主・酒井隆敏に攻められ落城、重康は上谷常福寺で自決して畠山氏は滅亡しました。
現在城址は大関神社の境内となっており、また東金九十九里自動車道の開通工事により遺構は残っていません。
なお「依古島(よこじま)」の地名のとおり、かつてこの周囲は低湿地帯に囲まれていたそうです。

大関神社前に駐車して案内板の写真を撮り、砂古瀬神社への道路側からの侵入口に車を進めて砂古瀬神社裏側の土塁や堀を確認。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ④:東金城 (2020/01/23 訪問)

田間城から転戦。車で10分くらいでした。
登城口前の空スペース(35.561010,140.356625)に駐車して攻城しました。

東金城は東金酒井氏の居城として知られていますが、築城説には2説あります。
①酒井定隆によって1521年(大永元年)に築かれた説
②室町時代に千葉氏が築いた鴇ケ峯城を起源とする説
酒井氏による築城が有力だそうです。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、酒井氏は北条氏についたため、浅野長政によって接収されました。
その後、徳川家康の関東入封後の1613年(慶長18年)、東金は家康の御鷹場となり宿泊施設として東金御殿が建てられました。
1630年(寛永7年)の徳川秀忠を最後に鷹狩りはおこなわれなくなり、1671年(寛文11年)には東金御殿も取り壊されています。
現在、東金御殿跡には千葉県立東金高等学校があり、同校と本漸寺との間に登城口があります。

登城口前の空スペースに駐車して攻城しましたが、台風による倒木の為、門が閉鎖され中に入れず。登城口前の案内板の写真を撮り撤退。
攻城時間は10分くらいでした。

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赤い城

安房里見氏のルーツ (2021/01/30 訪問)

城山稲荷神社の大鳥居前に空き地があり車を停めました。
少し登ったところに墓地があり、
その先の畑の畦道を進むと本丸があります。
本丸には説明板が立っています。
本丸手前には土橋や堀の跡も残っていました。
二郭、三郭は畑となっているようです。
当然里見氏の岩盤堀切はここでは見ることが出来ません。
武田信玄の箕輪城攻めの際に落城したそうです。

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ぴーかる

宇佐山城 (2020/12/26 訪問)

【宇佐山城】
<駐車場他>豊平稲荷社前に数台分の駐車スペースあり。
<交通手段>車

<見所>竪掘・石垣
<感想>行ってみたかった城跡のひとつ。週末天気がよさそうなので行こうかと思ってた矢先に、ちょうどTV番組で千田・磯田先生と高島礼子さんが登城しておられたので、更に登城意欲が増しましたが混み合うのを避けて朝駆けに。
 先に宇佐八幡宮にお参りして、駐車スペース北側に登山口があるのでそこから登城します。登山道はかつての大手道ではないらしく、大手道は城跡の西方向から伸びていたそうです。登山道は地元小学生の登山者励ましの札がありいい感じです。中腹ほどからTVでも説明があった南北に伸びる大竪掘りが現れます。暫く進み、三の丸南側から東方向に長く落ち込む竪掘りも登山道から逸れて少し山林を分け入ると見ることができるのでお勧めです。登りきると本丸の東側、三の丸方向との分岐に出ます。まず三の丸へ行き、郭を確認。石垣で取巻いていたそうだが今は木々が鬱蒼として確認できない。石垣が見れるのはまず南東隅部の方で、手すりも何もない3m程の斜面を降りなければならず、ここはストック等の道具があった方がいいです。南東面は全面石垣になっていたようですが、今はほとんどが崩れているようです。本丸にはTV塔の施設があり、そこに登る階段のある北東面にも石垣が少し残存している。本丸の西側に仕切門跡があったであろう場所に小石の混ざった土塁があるのでそこは櫓跡だそうです。後で先達の投稿を確認してどうも三の丸の裾の石垣と二の丸に大きく残る石垣は見落としてしまったようだ。ミスった。

<満足度>◆◆◆

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チェブ

あっ、はに丸 と ひんべえ! (2020/12/30 訪問)

習志野市にある「鷺沼城」は鷺沼城公園がお城跡です。
築城時期は不明ですが「鷺沼城」は千葉氏の家臣、鷺沼 光義さんの居城だったようです。

調べてみると、源 頼朝さんが石橋山の戦いで負け、安房国へ落ち延び『鷺沼館』でバラバラになった仲間と合流し再挙兵の準備をしたそうです。
その『鷺沼館』が「鷺沼城」ではないか?という事です。
源 頼朝さんは、船を使って逃げたんだろから『鷺沼館』は良い場所です。
現在「鷺沼城」から海は少し距離がありますが、当時は前が海、台地があって、内陸側に沼があったようです。
あれっ鷺沼氏は、、、?
鷺沼城公園の中に鷺沼氏の大きな石碑があります。
子供達が石碑の下で遊んでたので写真は写してません。
公園の入口がお城跡を意識しているのか、枡形デザインです。
高い場所にある公園で木製の階段があり、切岸っぽい感じがしました。
土塁も確認できます。でも、古墳も二基あるので、土塁=古墳の一部 かもしれません。
人埴輪と馬埴輪が、公園に馴染んでます。
昔、NHKで観ていた『お~いはに丸君』思い出します。

石棺も展示している「鷺沼城」、太古の昔から有力な方々が暮らしてきた土地のようです。

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pascal

赤堀氏は上野にも残っていた (2017/07/08 訪問)

 赤堀城は、伊勢浜田城(現:四日市駅前の鵜森公園)の城主だった赤堀氏の故郷を訪ねる形で登城しました。

 まず歴史民俗資料館を訪ね下調べをしますが、赤堀氏の展示物はおろか資料もありません。
学芸員さんに尋ねても良く判らない様で、しばらく難渋しましたが、過去の『赤堀村史』や『赤堀町史』を出して来て貰い、やっと赤堀氏の動きと伊勢へ移住した一族の存在が見えて来ました。

 赤堀城は資料館から徒歩5分の場所にあり、外郭の大半は失われてはいますが、住宅と畑地の中に明瞭な土塁と堀跡が遺っています。
赤堀氏は鎌倉幕府の御家人として、赤堀の地に根付いていましたが、元弘の乱では新田義貞に敵対し、没落していた様です。
室町初期、観応の擾乱に功の有った赤堀直秀が旧領を回復した事が記されているので、赤堀城はこの時に築城されたのではないでしょうか?
同時に、一族の赤堀三郎左衛門には伊勢鈴鹿郡の野辺御厨地頭の沙汰があり、赴任した様ですね。

 室町~戦国と過酷な上州を生きていた赤堀氏ですが、上杉謙信の元で出陣中に北条氏の小菅摂津守に赤堀城を奪取されてしまいます。
由良氏(金山城)の与力として桐生辺りに居住したと言いますが、次いで北条(きたじょう)高広の与力に配置されました。
その後、北条高広は北条氏に寝返ったので、赤堀氏も自動的に北条傘下に組み入れられて、由良氏の家臣の扱いで秀吉の小田原征伐を迎えます。
(赤堀城に復帰する事はなかった様ですね)

 浪人した赤堀氏は、徳川の成瀬正一に仕官して、江戸時代に入って成瀬氏が尾張犬山城に配されると犬山に移って行きました。
そして成瀬氏が尾張徳川家の付家老になった時点で、尾張藩士として名古屋に移りました。
禄高は300石だったそうです。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 15城目(最後) (2020/11/24 訪問)

美濃金山城からこのまま浜松へ帰ろうと思ったが、ちょっと寄り道。
以前から行きたかった伊那大島城へ。   この旅、最後の城に決めました。

大島城といえば巨大な馬出しと二重の三日月堀が有名だが、馬出しの中は民家となっており
なるべく写さないようにしようとすると、私のカメラの画角に入れ切れず上手く絵にならない。
気のせいか城内より城外の方が若干高いようにも感じる。
もしそうなら距離を保ち仰俯角を小さくするために大きな二重の三日月堀にしたのだろうか。

本来なら馬出しが大手なのだろうが、駐車場トイレ横から入る道が造られている。
しかし土塁や堀を断ち切ってこの道が伸びているので、どうなっているのかよく分からなかった。
伏兵曲輪ともいわれる馬出しもイメージができない。
駐車場トイレの前に縄張り図が置いてあったので助かった。

三の丸で地元の方々が、なにやらゲームを楽しんでいたので尋ねるとマレットゴルフというらしい。
ゲートボールほど競技性が高くないのでギスギスしなくて良いと仰っていた。
ただ本丸に行って感じたが、土塁などに影響がないようなコース作りに神経を傾けてほしいと思う。  
大きく損なっているわけではないが、城好きとしては残念でならない。

三の丸と二の丸の間の馬出しの三角形の頂点から堀底道へ下りていくと城外へ誘導されてしまった。
ということは、こちらからも攻め込まれるわけだが周囲の曲輪から狙い撃ちされるので大丈夫。
小さな曲輪や土塁が目隠しになって堀底道の何処を歩いているのかよく分からない。 
縄張り図を手に入れておいて良かった。

二の丸櫓台跡は三角形馬出しへ渡る土橋に側射がかかり、伏兵曲輪を突破されてもケアできる
両睨みできる絶妙な位置にある。
二の丸と本丸の間の大きな堀を降りた井戸曲輪は周囲からは見えないように土塁で隠されている。
大島氏の時代からなのだろうか、それとも武田氏の時代からなのだろか?

この城は武田氏によって大修築され現在に至る、とある。
情勢の変化によって戦略的意義も変わり、その都度縄張りが変化したとある。
そして織田軍の侵攻により一戦も交えず自落した経緯を持つが、止むを得ないことだったろう。
いかに堅城を誇っていても、鳥居峠を破られては南北から攻められ敵中に孤立する。
後詰めも期待できないとなれば逃げだして正解だと思う。
ただ、高遠城を置き去りにすることはなかろうに、と思うのだが・・・・。

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ながす

岐阜城 (2021/01/29 訪問)

御城印6つ目は岐阜城!!
天下布武!!

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ③:田間城➡城びと未登録(千葉県東金市) (2020/01/23 訪問)

津辺城から転戦。車で15分くらいでした。
田間神社駐車場(35.571484,140.3698)に駐車して攻城しました。

田間城の詳細は不明ですが、1509年(永正6年)に酒井定隆によって築かれたといわれています。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」での東金城の落城とともに廃城となりました。
現在城址には土塁や空堀などの遺構を確認することができます。山麓の田間神社に登城口があります。

田間神社南側の隅あたりから攻城。倒木、折れた竹、枯枝が攻城を阻むが、堀切は見ごたえあり。
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ②:津辺城➡城びと未登録(千葉県山武市) (2020/01/23 訪問)

飯櫃城から転戦。車で30分くらいでした。
日吉神社脇(35.614885,140.411041)に駐車し、登城口(35.614915,140.411652)より攻城。

津辺城の歴史は必ずしも明確ではないが、伝承では鎌倉時代に千葉氏の配下だった石井将監の居城だったといいいます。
その当時の居館の在り方からすると津辺城が本拠地ではなく津辺集落のどこかに居館を構えていたものと思われます。
ある程度はっきりしているのは、天正年間に坂田城の城番を務めた井田氏の家臣白桝和泉守が津辺城の城主をつとめていたと伝わっています。
現在城址には主郭部に空堀と、わずかに土塁を確認することができます。
登城口は日吉神社の東にあり、目と鼻の先には成東城があります。

倒木、枯枝が攻城を阻むが、堀は深く、見ごたえがあります。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ①:飯櫃(いびつ)城➡城びと未登録(千葉県芝山町) (2020/01/23 訪問)

高野神社入口(35.730407,140.4228)に駐車して攻城しました。

飯櫃城は山室氏の居城として知られており、天文元年(1532年)に山室常隆によって築かれたと云われています。
常隆のあとは山室氏勝そして山室光勝と三代続いたが、天正18年(1590年)光勝の時、豊臣秀吉の小田原征伐で徳川家康の家臣保科正俊の軍勢によって攻め落とされ、山室氏は滅びました。
現在城址は農地となっていますが、土塁や空堀などの遺構が良好な状態で保存されています。
また城址東端にある高野神社の参道脇に城址碑が建てられています。

高野神社入口に駐車して攻城しましたが、朝早かったので真っ暗。
ヘッドライトをしても、よく見えませんでしたが登城路の切通しは確認できました。
攻城時間は20分くらいでした。

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リトルボブ

臼井城とセットで訪問 (2021/01/31 訪問)

一部削られているところもありますが土塁が良好に残っています。
見晴らしが良く印旛沼が見渡せます。

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リトルボブ

激戦の地 (2021/01/31 訪問)

下総に侵攻してきた上杉軍を撤退させた臼井城の戦いで知られるお城です。
本丸跡に土塁が多く残っています。
わかりにくいですが、堀の一部が駐車場になっています。

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