大分県の日出城を終えて高速道で宇土城を目指す、宇土高校と宇土古城辺りにナビを定めて走行するが宇土古城の手前まで行き引き返し城跡らしき森を目当てに近づき案内板に従い細い道を北から南に進むと案内板、トイレ、駐車場に辿り着くが更に南に曲がり込み広い駐車場に辿り着きそこを利用。
本丸の西は二の丸で現在広い墓地霊園に成ってる、広い駐車場は霊園利用者の駐車場かもしれない。
初登城の宇土城本丸の西側に登城階段が有り本丸に登る、本丸話結構広い公園として整備されて居り、東側に小西行長が太刀を前に立て持ってる立像が建立されてる、側に案内板、周囲は崖で落ち込んでるが往時は石垣で覆われてたのだろうか?降りて本丸の周囲を散策、西側は崖と下部は石垣近年の復元石垣の様です、二の丸跡現墓地の間に堀跡、南から東に廻り東隣は宇土高校、夏草に覆われていますが崖土塁下は石垣が積まれ近年の石垣復元の様子、二の丸、三の丸現高校を西から南、東を囲むように外堀が有ったらしいが確認せず、今回の投稿でグーグルマップ航空写真で確認すると新しく出来た外周道路との間に堀らしき痕跡と見えるものがある。
宇土城は市指定史跡、宇土古城は国指定史跡保存の扱いに大きな違いがあるがひっそりと小西行長を偲ぶには丁度良いのかも、芭蕉の句「夏草や 兵どもが 夢の跡」がピッタリです。
歴史的には秀吉の九州征伐後肥後は佐々成政に与えられるが国一揆で肥後が混乱応援を得て鎮めるも責任を取らされ佐々成政は切腹、後肥後は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に与えられ夫々20万石ほどの太守です、立派な城が完成するのでしょうが、其の後小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原は西軍で敗退、斬首された。
この間10年ちょっと秀吉の配下として多忙を極め宇土城築城に手間を掛ける時間も少なく、廃城、一国一城令で織豊系の石垣大城郭として残らなかったのでしょう? このまま大事に保存整備をお願いして、初登城で大感謝です。
この後、八代城に移動します。
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