願船寺周辺が城址らしいのですが、案内板などはありません。船木城出丸の石碑はわかりませんでした。
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2021/03/26 22:09
願船寺 (2021/03/26 訪問)
願船寺周辺が城址らしいのですが、案内板などはありません。船木城出丸の石碑はわかりませんでした。
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2021/03/26 19:26
2021/03/26 19:20
2021/03/26 19:07
2021/03/26 18:30
百万石の憂鬱② (2019/09/06 訪問)
本多政重という人物がいます。家康の側近、本多正信・正純親子を父と兄に持ちながら、豊臣縁故の大名家を渡り歩き、関ヶ原では西軍に加担。最後は加賀の藩老を担いました。こう聞くと、徳川が一方的に送り込んだように思えますが、そう単純ではなさそうです。背景には幕藩体制草創期の微妙な駆け引きが見え隠れします。
金沢城を石川門から出て、兼六園を抜けるように歩くこと約10分。加賀本多博物館には加賀藩士の中で最高禄の5万石を拝領した加賀本多家ゆかりの品々が展示されています。なかでも「村雨の壺」は政重が加増を辞退した際、前田家3代・利常から代わりに下賜されたとされる名器。通称「五万石の壺」(写真は同館資料から。実物は撮影不可)。
さて、そんな政重の特異な歩みは徳川2代将軍・秀忠の寵童を斬って出奔するころから始まったそうです。その後の渡り奉公先でことごとく秀忠の嫌がらせに遭い、辿り着いた米沢で直江兼続の娘婿におさまったとのこと。当時、関ヶ原の戦後処理で大幅削封の憂き目に遭い、反徳川の筆頭と目された上杉家に収まること自体が結構な離れ業のように思えます。ひとつの見方は、同家存続のために動いた本多正信の意向を兼続が迎えたというもの。そこには多少の親心も働いたかもしれません。
その後、政重は加賀に帰参。幼かった利常によく仕えたそうですが、これも基本的には同じ構図ではないでしょうか。器量に不安のあった秀忠の治世で、外様雄藩を潰すのではなく、取り込みに行ったという点に味わいを感じます。大坂の陣を控え、関ヶ原の構図を越えたやりとりが水面下で行われていたのはほぼ確実で、況してや、正信と兼続という稀代の謀臣二人がその中心にいたかもしれないと思うと、個人的には心躍ります。
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2021/03/26 07:39
2021/03/26 06:33
リハビリ15城巡り④:梶原氏館 (2021/03/24 訪問)
足腰リハビリ15城巡り4城目は梶原氏館です。
立会川駅より徒歩10分くらいで梶原稲荷神社鳥居前(35.602735、139.737910)に着き、それから来福寺入口付近(35.601060、139.738653)へ向かいました。
梶原氏館は、後北条氏の家臣で馬込村(現在の大田区~品川区)を領有した梶原氏の居館です。
現在の来福寺から梶原稲荷神社にかけての範囲が居館跡とされているようです。
鎌倉時代、源頼朝に仕えた梶原景時の旧跡とも伝わりますが、後世のこじつけの可能性が高いとされています。
梶原景時を祀る梶原稲荷神社。住宅街の狭い路地にあります。
梶原稲荷神社の入口に赤いのぼりがあります。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/03/26 06:25
リハビリ15城巡り③:御殿山城 (2021/03/24 訪問)
足腰リハビリ15城巡り3城目は御殿山城です。
北品川駅より徒歩5分ちょっとで御殿山公園入口(35.620460、139.737327)に着きました。
御殿山城は太田道灌が江戸城を築くまでの居城でした。
その後、道灌が江戸城に移ったのちは宇多川和泉守長清を配置しました。
1590年(天正18年)に徳川家康が関東入封すると、この地に鷹場の仮御殿を築いたことから「御殿山」と呼ばれるようになったそうです。
現在の御殿山ガーデン付近が城址ですが、幕末の台場築造のための土取りに加え、明治以降は鉄道開通により地形も大きく崩されたため、遺構はありません。
攻城したのが通学時間帯で付近に「品川女子学院中・高」がある為、北品川駅からカメラを持ったおじさんが後ろをついてくるのが不審者に見られないかドキドキでした。(おじさんはただの「城好きです」と心の中で叫んでいました)
東京マリオットホテルの植え込みに案内板があるとの情報でホテル周辺を探しましたが見つけられませんでした。後で調べたらホテル左側の埋め込みだそうです。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/03/26 06:18
リハビリ15城巡り②:石浜城 (2021/03/24 訪問)
足腰リハビリ15城巡り2城目は石浜城です。
京成曳舟駅より徒歩20分ちょっとで石浜神社入口(35.729142、139.808444)に着きました。
築城年次は不明ですが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、1352年(文和元年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けているそうです。
室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて扇谷上杉家の庇護下に入り、石浜城を拠点としたそうです。
この際、弟の自胤も赤塚城に逃れているようですが、下総回復は達成できず、扇谷上杉家の没落後は後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎えたようです。
1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原攻めによって没落、石浜城も廃城となりました。
石浜神社は元々は現在地より50m程西側にありましたが、戦災に遭った為に一度川沿いに移転しさらに現在地に移転したそうです。
境内は比高2m程の高台になっていますが、移転して来た時に造成されたようです。また参道入り口には石浜城址の説明板が立っています。
石浜神社が移転した跡の旧地は、今は東京ガス千住整圧所となり、大きなガスタンクがいくつもあります。
白鬚橋ふもとに「明治天皇行幸對鴎荘遺蹟」がありました。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/03/26 02:45
にっぽん城まつり 出張城Expo イン愛知 (2021/03/21 訪問)
毎年年末に横浜で開催しております「城Expo」の出張版が「愛知県国際展示場」で行われました。
展示会場ではお酒の展示販売も行われておりました。
今回は、講演会が主たる目的なので三密を避けながら講演に耳を傾けました。
私が行った日曜日は、中井先生の講演とシンポジウムでは大和田先生と千田先生の講演と高橋英樹さん達をを加えたトークショーでした。
内容は、現在も発掘中の小牧山城の三段階石垣と小牧長久手の戦いは対峙戦ではなくて陣城合戦だったというお話が中井先生の講演で聴かれました。
又、千田先生の講演では、現存天守のある城として有名な「犬山城」は見どころが天守だけではないと云うことでした。
堅固な城という側面も兼ね備えておりました。
5連続桝形門や横堀や切岸などが東西にあり、北側は自然の要塞(木曽川)で有りました。
最後に、トークショーでは大和田先生が「合戦地とその関連のお城を合わせて訪問したら」との提案が有りましたので、早速実行したいと思っております。
名古屋城の外堀に石垣があるとの情報を得て、また見てこようと思います。
マニアックな方々の究極のお話は、妄想力を持つこどだそうです。
時々、にのまるさんが妄想をするのだと書かれておられるのを思い出しました。
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2021/03/25 17:21
美濃守護土岐氏最後の居館 (2021/03/25 訪問)
美濃守護土岐氏の最後の城です。
竪堀や石垣、井戸が残っていて、それなりに楽しむことができます。主郭にはうわさのユニークなミニチュア天守がありました。古城山の標識の先に庭園があったとは思えませんが、大桑城庭園と書かれた札が立っているところがあります。
古城山登山口から登って行く予定でしたが雨が降り始めていたため、はじかみ林道登山口から登城しました。城域までは20分くらいでしょうか。主郭までは30分くらいで行くことができると思います。道は概ね整備されていますが、歩きにくい所もあります。
雨が降っていて焦っていたため、四国堀を見逃しました。
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2021/03/25 17:00
輪郭式 縄張りの城 (2021/03/21 訪問)
道路沿いにある案内板の前に1台駐車スペースがあります、そこから10分〜15分程で行けますが結構きつい坂でした。 山城の割には思ったほど遺構はありませんでした。
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2021/03/25 17:00
美里会館 (2021/03/25 訪問)
山県市の美里会館付近にあったとされていますが、遺構はありません。陣屋の跡の石碑が立っています。
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2021/03/25 15:08
【大和 五條代官所】奈良県五條市 天誅組焼討で有名、長屋門も立派 (2014/05/02 訪問)
五條代官所は「奈良県五條市新町3丁目3-1」に在り現在長屋門が五條市立民俗資料館、東側が史跡公園に成ってます。
7年前5月連休に成りますが甲賀の祭りで叔父を訪ねる前に奈良県未踏の城廻りと浜松を高速ETC深夜割が効く時間早朝に出発し、東名湾岸東名阪経由で国道25号線名阪国道、国道24号線を走り五條市目的の五條代官所へ朝早く到着。
車は史跡公園長屋門前には駐車出来ず周辺を探して北側の福祉センター東隅の空き駐車エリアに駐車させた頂く。
五條代官所は吉野郡宇陀郡など7万石の天領を治めていた、文久3年(1863年)の天誅組騒動で代官所が焼討に成った、焼討に遭った代官所は現在の五條市市役所辺り、翌年元治元年10月に現在の場所に新たに立て直した。(資料館パンフレット抜粋)
現在の五條代官所は東に向かって「長屋門が左右に出格子窓付、南北に約40mの構えで現存」長屋部分には資料館展示室、天誅組資料が展示、南側は石垣で高く築かれており長屋門から石垣上西に向かって土塀が屋敷一杯に連なってる、中間に裏門が横矢石垣スロープを従え構えてる。
現在長屋門以外は地方裁判所(家裁)五條支部関連の施設と成っている。
元五條代官所跡は五條市役所で市庁舎前に石碑が立ってる。
五條代官所の城下町は五條新町通りに白壁土蔵造りの町屋、寺院が残り重要伝統的建造物群保存地区と成って居り昔の風情趣が有りゆったりと巡る楽しみ有難い。 車は市役所の駐車場利用し元五條代官所石碑、周辺探訪し、町屋の有る五條新町の白壁土蔵造り建屋を堪能、素晴らしい通りです徒歩が最適です。
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2021/03/25 13:11
明石城です (2021/03/25 訪問)
お城の近くの明石焼きも美味しかったです!
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2021/03/25 13:04
縄文〜飛鳥時代では有名な二上山が中世の城だったとは (2021/03/20 訪問)
南河内の未訪問の城を探していると、二上山城を見つけました。城びと未投稿でもありました。
二上山は、縄文時代からのサヌカイト産地として有名だし、天武天皇の息子で、謀反の濡れ衣を着せられて亡きものにされた、大津皇子の墓があることでも有名です。また、雄岳と雌岳の双丘の優美な山体や比高約400mの適当な高さから、ハイキング道や展望台が整備されています。そこに城があったとは。
立地は、河内と大和の両方を見下ろす、境目にあります。真東は、飛鳥であるので、二上山からは、奈良盆地を南西隅から俯瞰できます。南山麓には、最古の官製道路(飛鳥時代)である、竹内街道(横大路)が通っています。
比較的高い山ながら、雄岳山頂は、けっこう広い平削地が確保されています。東に一段下がった平削地に大津皇子の墓があります。松永久秀が大和に進出してくる前の時代に、奈良盆地の有力武士たちがここを拠点にして勢力を張ったとのこと。
山体は、花崗岩を基盤にして、火山噴出物や湖の底であったときの堆積層が分布しています。火山噴出物の一つがサヌカイト。硬く鋭利に割れるので石器になります。また、火山噴出物の凝灰岩は加工しやすいので、古墳の石棺などに使われています。南麓に古墳時代の石切場跡があります。
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2021/03/25 08:18
雨が降り出した中で (2021/03/21 訪問)
城址の入り口をやっとの思いで見つけたが駐車できそうなところがない道幅も狭いのでここで断念しました。
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2021/03/25 07:03
オーラス (2021/03/09 訪問)
宮城氏館から徒歩移動しました。清光寺さんには由緒書きのほか、豊島清光の供養塔がありました。
ここで23区内の城びと登録城址45ヶ所(数え間違いでなければ…)コンプリートです。
伝承地も多く、都市化された中では雰囲気を感じることすら困難でしたが、寺社や公園の由緒書や石碑の消えかかった文字の中にもその土地の人たちに大切に受け継がれてる歴史、また、それを語り伝えたいという先人の思いを感じました。
そして、遺構はなくても、地名として残っているところは意外とあったので、せめて地名や駅名はこれから先も残してほしいなぁと思いました。
ということで、これで自分的に満足するかと思ったのですが、23区外の都内の未訪城址も全部行きたいという小さな野望がふつふつと沸いてきてしまいました。
残り7城。ほぼ多摩の山城で見て見ぬふりをしていたところです。
山城シーズンはまもなく終了。幸い、今月は仕事の休みが中旬に集中している。行くなら今しかない‼︎
…to be continued
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2021/03/25 06:42
リハビリ15城巡り①:葛西清重館 (2021/03/24 訪問)
足腰リハビリ15城巡り1城目は葛西清重館です。
四ツ木駅より徒歩5分ちょっとくらいで西光寺門前(35.734369、139.834399)に着きました。
葛西三郎清重は豊島清光の三男として生まれ下総葛西荘を領有しました。
源頼朝が挙兵したときに清重は平氏に呼応していた同族の江戸氏らを説得して頼朝を無事に武蔵へ入国させるという大きな役割を果たしています。
頼朝が奥州藤原氏を討伐すると清重はその功により奥州総奉行職に任じられ東北の御家人を統括する立場となったそうです。
その後の葛西氏は奥州を地盤に勢力を伸ばし戦国時代末期まで続きます。
朝早すぎた(6:00前)せいか西光寺の門は開いてませんでしたが、門脇(高い位置)には葛西清重館跡の小さな説明板があります。
四ツ木駅にはキャプテン翼の壁画がありました。個人的には若かりし時代、サッカーをやっておりGKでしたので「若林源三」が好きです。
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/03/24 22:38
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