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はと

冬の五稜郭 (2019/12/21 訪問)

冬の五稜郭に行って参りました!
今年は雪が少なかった気がしますが、もちろん日陰など凍っているところはつるつるでしたので歩くときは気をつけた方がいいです。

そして、五稜郭タワーの上から全貌を見ると星がしっかり分かっておもしろいです。半月堡にもきれいに雪が積もっていました。

榎本武揚たちが北海道に上陸した時期もこんな函館の雪景色だったのでしょうか。

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JPN-AZE

Whole castle (2020/01/02 訪問)

2020年1月2日、私は4度目の松本城訪問をしました。前回は2018年の正月で、その時は天守閣に入ったので、今回は省略しました。いつも長蛇の列、と言うのもありますが、国宝松本城おもてなし隊と一緒に撮りたかったのと、そのおもてなし隊の登久姫様のグッズを、アニメーターになりたいと思っている、ウクライナ出身、ロシア在住の友人の女性に贈る為、購入するのと、前回見ていなかった二の丸址を見る為でした。どうしても天守閣が目立ってしまうので、その前にある本丸御殿址に目が行きがちですが、二の丸御殿址も、本丸御殿址程は広くないものの、それなりの規模だったのがよくわかりました。

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ぴーかる

半分雲海 (2019/11/23 訪問)

【越前大野城】
<感想>越前御城印取得の旅2城目。戌山城の雲海撮影スポットより撮影。前日が雨だった為「天空の城いけるかも」と思い登城した。まず戌山城を突っ切って撮影スポットにダッシュでいったのでヘトヘトに。9:30頃着いたが、撮影スポットには10数名の方が既にいらしていたが、どうやら写真のように城山の手前半分は早い時間からも雲海は無かったようで、奥側半分は雲海があったのですが私が着いた時にもみるみるうちに霧が晴れてきたので急いで撮影しました。年にあまりないチャンスがたまたま遭遇できる訳もなし。
 戌山城を見て下山して、大野城は既に2回行っているので御城印のみとして3種類とも買ったたわー。

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刑部

主郭部に直ぐ行ける山城 (2019/12/29 訪問)

駐車場がありトイレがあり、本丸に直ぐ行ける山城! 城址の碑の所から階段を登ると直ぐです。そこからニノ曲輪・三の曲輪。

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朝田 辰兵衛

スリリングだったのは,実際の登城ではなく… (2018/11/26 訪問)

近鉄河内長野駅の改札通過→アンスリー河内長野店にて,南海バス“千早赤阪ワイドモックルカード”購入→河内長野駅(3番のりば)南海バス(小深線)に乗車するという一連の流れでした。たぶん,3分台前半でクリアできたと思います…<笑>。トイレに行っていたらアウトでした。

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とってぃ

スタンプ のみで (2020/01/04 訪問)

おしゃぎり会館、旧若林家住宅、村上文化館を訪問

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とってぃ

スタンプ 押し忘れたが… (2020/01/04 訪問)

荘内神社や御城稲荷神社、旧致道館、鶴岡カトリック教会天主堂、大寶館などもまわれた。
致道博物館は休館だった。

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赤い城

桝形山城 東京都青梅市 (2020/01/04 訪問)

2020年攻め初めを辛垣城に設定。
渋滞が嫌だったので電車で行ける山城と言うことで。
色々調べたところ桝形山城経由が良さそうだったので二俣尾駅から徒歩で7分の泉蔵院を目指します。
墓地の脇に登城口がありました。
整備された険しい道を登ると途中に山神様が祀られていてそこからさらに登ると鳥居が建っています。
鳥居のところには堀切、鳥居の先に主郭がありました。
主郭には祠や石碑が立っています。
その先には堀切や尾根道が続いていて物見山経由で辛垣城へ。
由来は不詳のマイナー城跡ですが辛垣城とセットでどうぞ。
ハイキングコースとして整備されていて歩きやすくはあります。

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姫街道

歴史的戦いの場 (2020/01/03 訪問)

静岡県の中遠・北遠地方の山城をめぐる徳川と武田の取り合いにおいて、長篠の合戦が大きなターニングポイントになる事が今更ながらだが強く感じて、この城を訪れた。私は、静岡県民のため徳川贔屓であるが、あちこちの山城をめぐるうちに、武田勝頼公の山城建設における功績と言うか、、、足跡を強く感じ、我々からすれば昔甲斐の国から攻めてこられたわけで、どちらかというと県民感情では、、、だが、最近は内心、勝頼公を好きになってきていた。従って、長篠戦図を見た時、結果は勿論分かっているが、なんて無茶な事をと残念な気持ちになった。。さて、長篠城だが、三方を断崖絶壁の川に囲まれて、その点は二俣城みたいだった。ただ正面は、普通に開けていたようで、堀や壁があったようだ。勝頼公だったら、諏訪原城のように丸馬出しとか作っただろうな〜とか思うと楽しい^_^ さて土塁だが、何万と言う大軍を意識した土塁だったのだろう、立派な土塁が残っている。ただ、何故かその横にテントで大切に保護されている形の良い土塁も残っていた。特筆すべきは、その形の良い土塁が断崖絶壁まで伸びていて、その土塁端部の直下が滝になっている。なかなか立派な滝で、堀切の中に滝があるなんて珍しいのかなぁ〜って思いご紹介します。

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イオ

天正伊賀の乱最終決戦地 (2019/12/01 訪問)

戦国末期に滝野氏が築城し、第二次天正伊賀の乱では各地から立て籠もった伊賀衆と織田軍の最終決戦地となりました。山崎の戦いの後にも、織田方の隙をついて伊賀衆が柏原城を奪って籠城するなど、抵抗の象徴のような城です。

この地域特有の四方土塁で囲まれた単郭方形の城郭で、主郭の南側の虎口や北西隅の櫓台には石組みで補強した跡が見られ、東隅にはお滝女郎化粧井戸と呼ばれる石組みの井戸があります。主郭を取り巻く二重の横堀はかなりの深さがあり、北西隅や南西隅には落とし穴と思われる窪地も見られます。また、主郭の南東には堀切も一条設けられています。

桜町中将城に続いての登城でしたが、雑木が伐採されるなどよく整備されていて、遺構も遜色ありませんし、大いに見応えがあるものの、これまでの投稿にあるとおり「マムシ注意」の看板があちこちにあるため、12月の登城とはいえ、やはりどんどん藪に分け入っていく勇気(蛮勇?)は持てませんでした。

それにしても、この日にめぐった城の歴史を振り返ってみると、北畠(織田)信雄が伊勢と伊賀を支配する課程をたどっていることに気付きました(そういうつもりはなかったんですが)。北畠氏を滅亡(多気北畠氏城館と霧山城)させて伊勢を掌握し、丸山城の修築が天正伊賀の乱の引き金となり、伊賀制圧のために滝川氏城と桜町中将城を築き、最終決戦の地となった柏原城を攻略して伊賀を支配する…。
これまで信雄については、重臣から織田氏の跡目を継ぐに値しないとみなされた残念な人物というイメージでしたが、少なくとも伊勢や伊賀の歴史と城については、多大な影響を与えた人物だったんだな、と。
 

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井伊谷の祐

広大な平山城でした (2020/01/03 訪問)

高崎駅からバスで40分程ですが、駅の観光案内所でバスの時刻表とパンフレット頂きました。
城山入口バス停からすぐの椿名口から細い登り道を上がると、木俣。すぐ先に大堀切と郭馬出西虎口門が。
虎口門は平成28年に完成。木造りでとても立派で、門のある郭馬出を囲んだ大堀切が素晴らしい!
二の丸、三の丸、曲輪など広大な土地と深い堀切に囲まれて、本丸が守られている。本丸は驚く程広い。
堀切を歩くと野面積みの石垣も見ることが出来る。
城址内は修復作業中の所もあらが、歩きやすく、バイオトイレも2箇所ある。
登り口はいくつもあり、車で来る人の広い駐車場もある。
長野氏が築城した城も武田信玄には敵わなかった。
長野氏は長い間良い治世をしていた様だから民も残念だったでしょうね。
100名城スタンプは箕郷公民館隣の支所で頂ける。、
城址から公民館迄は下り坂だから、歩きの人は帰りに頂いた方が良いと思う。近くの四ツ谷バス停から高崎駅に戻れます。

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まこい

2020初登城 (2020/01/04 訪問)

後閑駅からは、やはり50分くらいかかりました

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刑部

雪残る城址 (2019/12/29 訪問)

細い道の先に駐車場があり止めることが出来ました。 登城口はすぐにあり登り始めると雪が残るところがちらほら上は大丈夫かなと不安気に歩いてると遺構が現れました、空堀・帯曲輪と私の胸はおどりはじめました誰一人いない城址をうろうろ石垣のような石が転がってますここだけ?頂上の本丸は雪だるまが溶けてました。 ここからの眺望良かった!富士山も見える城址 近所にこんな城址があれば毎日でも散歩に来たいと思いました。ただ、登り降りなら30分程度です。

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todo94

初城詣で (2020/01/02 訪問)

今年の初城詣では故郷の高崎城まで、歩いて行ってきました。濠は用水路程度の幅しかないし、民間に払い下げられていた乾櫓は現存建築ではあるけれども異なった場所への移築であるので魅力に乏しい城だと感じていましたが、郵便局の隣の高崎市立高松中学校のテニスコートのある隅の土塁は、かなりの比高があってなかなかの迫力でした。かなり歩きますが、本来乾櫓があったのはこの辺りのはず。時間があったら是非、脚を伸ばしてみてください。市役所の展望室から直下に見下ろすことのできる群馬音楽センターは長らく群馬交響楽団の本拠地として地域文化に貢献してきましたが、昨年9月、高崎芸術劇場にその役割を禅譲しました。インパクトのある建物なので、是非、今後も維持・活用をお願いしたいものです。

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少林寺から (2020/01/03 訪問)

 少林寺から登城しました。ハイキングコースとなって、とても歩きやすい。横堀と竪堀を見ることができます。

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埼玉県下屈指の城址 (2020/01/03 訪問)

 城域はあまり整備されていませんが、冬ということもあり見学するには思っていたより支障はありませんでした。すばらしい竪堀と堀切を見ることができます。竪堀、横堀は南側に集中していて北側は崖となっています。1の郭には城址碑がありますが、他は標識等ありません。
寄居駅から徒歩にて登城しました。諏訪神社の右奥から道があります。最初は道がわかり進むのですが、途中から不明瞭となり竪堀をピンクのリボンを目安に登って行きました。この時期、枯葉が堆積していて竪堀を攻め登るのには少し難渋しました。帰りも竪堀を降りて行きましたが、積もった枯葉で滑りそうだった。危うく竪堀を滑り台にする所でした。

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くっしー

遺構は限定的だが、説明看板充実。 (2020/01/03 訪問)

自治会館に城について説明した看板があり、発掘調査の詳細が載っています。
また、地区の南側に石碑があり、そこにも鯰江城の説明看板がありました。
さらに、発掘調査が行われた場所には排水処理施設が建っているのですが、そこにも説明看板があり、水路跡の石が並べてありました。
なので、ほとんど遺構は残っていないにもかかわらず、どの規模でどのような形の城があったかということを想像することができました。最近のこのような文化財を人々に還元しようという傾向がさらに大きくなることを期待しています。

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丹羽長重

何回来ても飽きない!!! (2019/12/28 訪問)

スタンプが押さって無かったので行きました。朝方に行ったので、城下町はすいていました。(楽しみにしていた店もやっていませんでした…)
そうして城下町を歩いて城の入り口に到着。近道をするために針綱神社の前の階段を上がりました。大変でした💦すると急に本当の登城口に戻ったので進みます。
すると本丸御門が見えてきます。野面積とのコントラストで戦国時代の荒々しさを感じられます。
そして本丸へ。本丸御門でスタンプを押した後、天守へ!まだ開館したばかりなのに沢山の人がもうのぼっていました。僕も負けじと天守へ‼️天守の中は激混みでサーーっと見ました。城のアンケートに丹羽長重とかき、二階に。つくづく木の温もりに「現存っていいな~」と思います。さらに三階の破風の間は中から唐破風が見れるので面白いです。さて、天守最上階へ行きます。最上階は外に出られます。落下防止の柵?装置?などが無く、さらに少し外側に傾いているのでちょっと怖いです((゚□゚;))でもそれが僕の犬山城の楽しみです‼️
最後に城の大きな杉木の跡(大杉様)を見て次の大垣城へ行きました。
二度目の登城でしたがとても面白かったです✨

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姫街道

日本三大山城 岩村城 (2020/01/03 訪問)

 見所は、六段壁と畳橋。六段壁が出来た理由は、絵図にある通りメインの高石垣が崩れないよう上部から段々に石垣を追加していき六段になったとの事。畳橋は、本丸へ向かう橋の橋台が残っており、当時の様子は案内図にある再現CGが適切だろうと思う。石垣の大半は、戦国時代が終わった後、松平家が江戸時代に作ったようで、人の往来がある山道側は石垣が組んであるが、曲輪の裏側は土塁のままであったのも面白い。また地形を生かした石垣や、何種類かの石垣の組み方が一箇所で見れるポイントもあり、戦いの生々しさより、権威を示すような威圧感や、城が持つ華やかさすら感じた。
さて、私が住む遠州地方の高天神城を中心とした武田対徳川の戦が繰り広げられた山城は、武田の滅亡と共に廃城になっていった戦闘用山城で、日常的に居住もしていた岩村城のような山城とは雰囲気が全く異なり面白い。
名古屋城の改築に合わせて伐採し、城から城下町が見えるようになったのもありがたい。いつも思うが、山城の周りは極力当時のように裸山にして欲しい。
帰りは岩村の城下街にある松浦軒本店のカステーラは有名でお土産に買って帰った。城下町も風情があり良かった。

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ぎりょう

奥州仕置時に蒲生氏郷も籠城した大崎氏の本拠地 (2020/01/03 訪問)

JR陸羽東線東大崎駅の北側に続く集落一帯がかつての名生城の跡である。仙臺領古城書上には玉造郡名生邑の項に「平山 一 名生城 東西五十六間 南北三十七間 城主氏家宮内大崎左衛門督義隆居住ス」との記載がある。大崎氏は足利氏の一族斯波家兼を祖とし、14世紀中頃から天正18年の豊臣秀吉による奥州仕置による滅亡まで陸奥国大崎五郡を領した奥州管領(後に奥州探題)の家柄である。山形の最上氏も大崎氏の支流。大崎氏は陸奥入部以後は師山、小野、中新田を経て最後の当主義隆が名生城に本拠を移した。葛西・大崎一揆時には一揆勢が立て籠もり蒲生氏郷軍によって鎮圧され、その後伊達政宗の動向に疑念を抱いた氏郷は数ヶ月ここに籠城したという。奥州再仕置きの後廃城となった。
名生城は北と東が段丘崖と渋井川、南と西は掘と土塁で防御し、北館・内館・大館(主郭)・小館等複数の曲輪が連なる規模の大きな城であったという。
現在、城址は主要部は農地と民家になっている。民家を囲む田圃はかつての堀であろうが高低差が無くなかなかイメージできない。淨泉院が建つ北館と南に続く内館の曲輪に切岸と横堀を、そこから南に行った大館跡の「名生城案内板」付近に残る土塁跡が往時の面影をわずかに残している。
城域が広く道幅は狭い。駐車は淨泉院駐車場が利用できる。



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