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ぴーかる

小堤城山城 (2020/12/26 訪問)

【小堤城山城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.073051, 136.052969>の地点または<35.071613, 136.063816>の道路脇に駐車し城跡まで徒歩で。
<交通手段>車

<見所>曲輪・石垣・堀切・巨石
<感想>城跡は大きく分けて2つの連郭式の曲輪群があり、山の谷間を利用した主郭を含めたラインと山頂を含めたラインがある。主郭のラインは大手道を直線に引いて、両サイドに曲輪を配する。主郭は山頂にはなく少し下がった位置に置き、周りを高い位置にある曲輪で取巻き防御している。山頂のラインは山の尾根に沿って曲輪を配してオーソドックスな連郭式、山頂のラインの東端の曲輪から尾根伝いに東方向に10数分歩くと岩倉城跡にたどり着くことができる。
 見所はもう全部なのですが、特にいいのは直線の大手道と右手上方に見える巨石群と城のマッチング、主郭東側の大堀切、随所に残る石垣です。城跡入口に縄張り図の看板があり、石垣遺構の位置と曲輪の番号付けがしてあり、曲輪にも番号札があるので非常に見やすく整備されています。
 続百名城に負けてない、百・続百名城以外の城跡でマイベスト達に入った見応えのある城跡でした。お勧めです。

<満足度>◆◆◆

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赤い城

長野氏家臣の居館か? (2021/01/30 訪問)

方形の居館跡で土塁が残っっています。
南側の虎口には出枡が設けられています。
公園となっていて内側は芝生。
この時季なので枯芝ですが夏はきっと緑がきれいなのでしょう。
駐車場もあり、東側の東屋に説明板もありました。

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あるびの

忍城 御三階櫓 (2021/02/07 訪問)

今年最初のお城訪問です。内部の郷土博物館は年代順に見やすく展示されてます。

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本前坊

商業施設に…

子供の頃にはまだ土塁が多く残され、伝説が残る桜淵と言うのが有ったが、地主が某洋品チェーンに売却してしまった為に殆どが残っていない(TT)
所沢市というのは、歴史的価値が有るものをどんどん潰していってしまっている。

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本前坊

今はどうなっているのか?

子供の頃は狭山湖周辺は全周路入れたが、今はほとんどが立ち入り禁止になっており、見に行けないのが残念(TT)

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チェブ

生実→小弓→生実? (2020/12/30 訪問)

小弓やら生実やら、ややこしい「生実城」。
千葉氏の重臣 原 胤清さんの居城です。この時は「生実城」のようです。

千葉氏と対立していた真里谷武田氏が、古河公方の弟 足利 義明さんとタッグを組みます。
原 胤清さんから「生実城」を奪いました。
小弓公方の誕生です。「小弓城」「小弓御所」と呼ばれました。
真里谷武田氏は小弓公方 義明さんを利用するつもりだったようです。
しかーし、小弓公方 義明さんは南関東を制覇していきます。もう、裏で操れない強者だったようです。
その一方で北条家が強くなっています。
千葉氏は北条家を頼り小弓公方 義明さんと戦い「小弓城」を奪回しました。そうして、もとの「生実城」に戻したのではないでしょうか?

車を走らしていると生実池が見えました。そこから、緩やかに登る坂を上がると、周辺が「生実城」のようです。
たぶん、「生実城」時代「小弓城」時代とお城もパワーアップしているでしょう。城跡と呼ばれる場所は数ヶ所ありました。城びとの『お城をさがす』の「生実城」の場所は本城公園でした。
こちらは普通の児童公園です。説明板があります。
ん、「北小弓城」?
もう少し、調べてみよう。

一代で終わった小弓公方。北条家と戦った時、タッグを組んだ里見家が、もう少しやる気があったならなぁ。
そしたら『お城をさがす』の「生実城」は「小弓城」の表記になっていたかもしれません。

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カズサン

磐田台地北端の山城 (2021/02/06 訪問)

 磐田市寺谷地区の長者屋敷、遺跡群の銚子塚古墳を観察し磐田台地北端に在る社山城を目指す、ここも5、6年振りのチョイ寄り探訪です。
 車は社山地区東から入り、角々に城跡標柱が立ってる、茶畑の中にアスファルト舗装が終わった突き当りに社山城跡入口が標柱と供に在る、ここに車一台ギリギリの路駐スペース、ギリギリに寄せて農家の方の車が離合出来る様に路駐。
 前回は西側の慈眼寺駐車場を利用させて頂き徒歩で登城口へ。

 登城口より、相変わらず鬱蒼と状態、登城路は整備されてるが本曲輪まで、シダ、竹笹も一部茂ってる、案内縄張図は加藤理文氏編著「静岡県の歩ける城70選」の社山城に掲載されてる社山城概念図「松井一明氏作図」によって登城していきます。
 登城入口、堀底道を登り、北の曲輪北下に在る横堀を観察するがシダが茂りシダの上より切岸、横堀をかすかに認識、北曲輪尾根道を進み中間に在る堀切8を観察、土橋と左右の堀切、本曲輪北下に在る、切岸、横堀、土塁、東に落ちる竪堀、架かる橋、本曲輪虎口手前より二の曲輪間の大堀切、二の曲輪高土塁を観察、本曲輪、神社鎮座、ここまでは歩きやすい、神社奥にL型土塁、蘇鉄、前回来た時は本曲輪に縄張図付の案内板が有ったのですが今回は無い、一昨年の台風被害で飛ばされたのか、大木が根こそぎ倒れた痕跡散見、伐採され通路確保、二の曲輪の大堀切を通り二の曲輪へ高土塁観察、二の曲輪東中間に堀切、その奥は笹も茂り撤退、堀切1、2は確認せず、本曲輪西の横堀も確認せず。
 完全踏破は出来てませんが見応えの在る山城です。

 歴史的には斯波氏今川氏徳川氏の抗争、武田氏の対徳川織田氏の抗争で磐田一言坂合戦、天竜川北上、社山城及び近くの信玄本陣合代嶋にかけて武田氏の駐屯、二俣城攻防、天竜川渡川、三方ヶ原の合戦、信玄の死、徳川の城と変遷し各改修が有った様子。

 もう少し景観整備と歩きやすく観察しやすくして頂けると有り難いのですが、無理な注文かもしれません。
 我が家から5km程北東、天竜川を越えて磐田台地が涅槃佛に見え頭の部分が社山城に成ってます良く眺めてる景観です。

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備中高松城攻防時の毛利輝元陣 (2021/01/06 訪問)

城跡の説明板がまだアップされてなかったので添付します。
備中の有力国衆の庄氏の本拠地であった後に、備中高松城をめぐる攻防(秀吉の水攻め)で、毛利輝元がここまで出ばって来た。東を眺めると総社市の平野が見えるが、備中高松までは見えなさそう。どの郭もとても広くて、大兵力が駐屯できそうだ。
本丸の先は大きな堀切。ロープが設置されており、滑りながら、堀底まで降りてみた。堀切にも流紋岩が露頭しており、石は現地調達できる。
登城道、郭とも良く維持管理されている。

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T-Shionoya

名古屋城訪問 (2003/06/29 訪問)

過去のお城巡りの振り返り、第2段は名古屋城。

濃尾平野の南東部に接する微高地・熱田台地の北西端に築かれた城。

東海道(京鎌倉往還)沿線で熱田港まで10kmほどの立地。
元々の那古屋城は若かりし信長が居城としていたこともありました。
しかし信長が尾張の中心街清州、小牧山、岐阜と居城を移すと那古屋城は一旦廃城に。
戦には向かない場所だったのでしょうか?

その後、名古屋城が再建されたのは家康の時代。
尾張徳川家の居城として巨大な天守、堀、石垣が築かれた上に、清州の街ごと引っ越しが行われ、西国諸大名からの防衛ラインとなったのですね。

現在、三之丸は県庁や市役所などに建て替わっているものの、北側半分をメインに江戸期の城郭を残している名古屋城。
訪問時は(西之丸の)正門から入城し、二之丸をまわり東側から御殿のない本丸へ。ほぼパンフレットの矢印通りに回ったのかな?
まだまだ城の観方が甘かったため、西北隅櫓など見逃している部分も多く、滞在時間2時間ぐらいで午後はノリタケの森に行きました。

印象に残っているのが、本丸搦手馬出のクランク。今はどうなったのでしょう?
また2018年5月から耐震性の問題で閉館となっている天守は、今後が不透明なようですね。

次に行く時は外堀や三之丸まで回りたいですが、1日では足りるかな~?

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑤:鹿野岡城➡城びと未登録(千葉県鴨川市) (2019/08/21 訪問)

真里谷城から転戦。車で60分くらいで着きました。
打墨神社駐車場(35.131236、140.079730)に駐車しましたが、膝痛で登山は断念しました。

未来の訪問者の為に登山口の駐車場を調べてきました。
ナビでは鹿野岡城の入口は打墨神社横からを示しました。この場合は打墨神社前に駐車可能です。
打墨口からの登山は石渡製菓「菜の花庵」さんの駐車場(35.124954、140.080441)が近いです。
花房口からの登山の場合はいくつかある案内指導標前後で路駐(35.127174、140.091190)。
またはちょっと遠いですが、大日交差点付近のローソン(35.121703、140.084614)に停められます。

鹿野岡城の詳細は不明ですが、「鴨川富士」とも呼ばれる鹿野岡山に築かれた城です。
戦国時代に正木氏か里見氏、どちらかの勢力の重要な城だったと推定されています。
2016年(平成28年)の調査で土塁や堀切などの遺構が確認され、城址であることが判明しました。
登山口は打墨口と花房口に2か所あり、地元の方々の手により登山道が整備されているそうです。
(ナビで示した打墨神社横からの登山は正式ルートではないようですので、打墨口と花房口からの攻城をお薦めします。中途半端な情報ですみません)

攻城時間は30分くらいでした。(登山していませんが、駐車場所を探した時間です)

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ④:真里谷城 (2019/08/21 訪問)

椎津城から転戦。車で35分くらいで着きました。
真里谷城跡入口(35.347768、140.108880)から入り、真里谷城の駐車場(35.344330、140.111526)に駐車して攻城しました。

1456年(康正2年)当時上総国は上杉政憲の支配地であったとされ、これを敵視する古河公方足利成氏の命を受けた武田信長が上総国に進出します。
信長は上総国進出の足がかりとして真里谷城と庁南城と併せて築城し、その後は真里谷武田氏(その後の真里谷氏)の居城となりました。
その後、武田信長の孫の中でも真里谷城に本拠地を構える武田信興から姓を「真里谷」に改めます。
真里谷氏は真里谷信興から信勝、信清の3代の間に最盛期を迎え、真里谷信清(入道恕鑑)の代には対立する原氏が拠る小弓城を攻略し、足利義明を迎えて(小弓公方)、信清自身は「房総管領」を称するようになります。
真里谷信興から数えて4代目真里谷信隆の代に異母弟真里谷信応との間で内争が発生します。
信隆の父である信清から家督を継いだのは庶子の信隆であったのだが、それからまもなく信清の正室が信応を生んだことにより家臣を巻き込んだ後継者問題です。
「嫡子である信応が家督を継ぐのが正当である」と考えた信応派の家臣は足利義明、一族の有力者である真里谷全方の支持を得て、信隆から家督を奪う事に成功し、真里谷城に入城します。
家督を奪われた信隆は北条氏綱庇護の下、椎津城に逃れた後、武蔵国金沢に逃れます。
1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の結果、小弓公方方は敗北したことにより信応は失脚し信隆がふたたび真里谷氏当主に返り咲くが、一族の争乱を収める事が出来ず北条氏に臣従するような状況となり、真里谷氏は上総地方の支配力を失います。
この一連の事件を契機に真里谷氏の拠点が真里谷城から椎津城に移ったとされています。以降、この地は北条氏と里見氏の係争地となりました。。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に落城し、そのまま廃城となりました。
現在城址はキャンプ場になっており、本丸跡まで登山道が整備されています。

駐車場前に概念図があり、城山神社➡主郭(千畳敷)➡駐車場➡二の郭➡三の郭➡四の郭➡一杯水➡駐車場と回ってきました。素晴らしい城跡です。
攻城時間は45分くらいでした。

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todo94

初城詣の後、リベンジ成功 (2021/02/06 訪問)

日帰りドライブで漸く2021年の初城詣ができました。しりとりでの記憶が残っている教来石民部館。長坂氏屋敷も経て向かった源太ヶ城。2018年3月に湿った重い雪による倒木で道がふさがれ攻略を諦めた思い出の地です。キャンプ場ウッドペッカーのキャンプ地に入っていくような道を進みます。車で走行できないこともないのでしょうが枯れ松葉などかなり積もっていてスリップの危険はありそうでした。ダム方面に向かう道の幅広い部分に路駐し徒歩で進むことにしました。車止めチェーンの脇、城址碑かと思った石碑は自衛隊顕彰碑でした。ここからの急坂登はなかなかのもの。枯れ葉が厚く積もっていて滑りまくります。残雪がある時や雨上がりの時は厳しいでしょう。大して時間はかからなかった(自衛隊顕彰碑から山頂まで15分足らず)のですが、山頂にたどり着いて朽ちた標柱を見つけたときには、達成感に浸ることができました。2021年の初山城になりました。

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AJ

表の顔と裏の顔 (2019/12/03 訪問)

岡山城月見櫓。
2度目の訪問だったので、外観復元の天守はそこそこに、前回あまり時間を割けなかった現存の重箱櫓へ。

城外側は二重で、城内側は地階に屋根がつくため、三重に見える変則的な造。その名の通り、眺望を考慮して城内側に開放的で、櫓には珍しく最上階に廻縁。入母屋破風は城外側のみ。望楼型に分類されるようですが、平面が正方形に近いので、実質的には層塔型ベースとのことです。

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カズサン

奈良時代官衙跡?5、6年振りに寄って見ました (2021/02/06 訪問)

 天竜川の東岸に聳える河岸段丘磐田台地の西端に悠久の歴史が重層される磐田市寺谷地区に長者屋敷が在ります、天気も良く気温も上がりそうな予想で城廻り足慣らし冬枯れ草刈り整備明けの探訪も良いのではと出掛けました、武漢コロナウイルス禍中で県内近場の城廻りです。
 自宅から直線で約5km程、天竜川のかささぎ大橋を西より渡り突き当りの段丘を登り、登り切った交差点を北に約1km程の所に長者屋敷が道沿い在ります。
 車は入口の空きスペースに駐車(2、3台は可能)
 周りは寺谷浄水場、県企業局、後は茶畑です。

 案内板によると:史料記述が無い様で奈良時代の役所官衙跡か?有力者の屋敷跡か?と成ってます、広さは東西100m南北80m、周囲に土塁が回り土塁の底部は10m、上部は3m、高さ3m、南面入口部に東西に二ヶ所土塁が構えてる、土塁内部に溝(堀)が周囲に回ってる。
 北東角は開口されて、西側の土塁、溝が他よりやや高く深い、東側の高い樹木の伐採が進んでる、景観の整備なのか? 内部は40,50cm程の草が冬枯れ状態引っ付き虫に後から苦労、一個一個手で払う。草刈り整備はまだの様です。

 近くには銚子塚古墳前方後円墳108m県内3番目の大きさ、その傍に小銚子塚古墳前方後方墳46m県内では珍しい、三角縁獣文三獣鏡が出土、長者屋敷より徒歩で見学観察、前方後円墳には周囲に堀が回ってる。円墳も10基、で1600年前の古墳時代、1500年前の米塚古墳も近く、更に寺谷遺跡旧石器時代1万5千年前、道東遺跡旧石器時代2万8千年前と遺跡古墳が群集、天竜川を見下ろす磐田台地西端に旧石器時代、古墳時代、奈良時代と人々の歩みが残って居ります、縄文、弥生時代遺跡はまだ発見されてないのか?楽しみが待ってるのか?期待される所です。

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ながす

長篠城跡 (2021/02/06 訪問)

御城印7つ目は長篠城跡!!
不死身の馬場美濃!鳥居強右衛門!!

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平家城 (2021/02/06 訪問)

所在不明だった城跡。山城?というよりも安見ヶ城の見張り。
名前のごとく、平家一族が暮らしたと言われる。

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pascal

まぼろしの七ッ池発見! (2020/03/11 訪問)

 福井城の前身の北ノ庄城ではなく、近江の北乃庄城です。
豊臣秀次の八幡山城の北の峰続きの岩崎山にあるこの城は、築城時期も古く歴史の舞台にも登場しない“謎の城”で、日本城郭体系にも詳細は収録されていません。
 しかし、山城愛好家には割と名の知れた“マニアックな城”で、そんな謎に満ちた部分がかえって興味をそそるのかも知れませんね。

…と、いう事で、八幡山城の北の丸を起点に訪城します。
尾根筋にはトレッキングの遊歩道があって、利用者が多いのか良く踏み固められているので、迷う事も無く歩けます。
多少のアップダウンはありますが、30分も歩くと城址看板がありました。
縄張り図で見る限り、意外に本格的な城ですよ…。

 さらに進むと、土橋の有る堀切と土塁が明瞭に現れました。此処から城内ですね。
城内も尾根(土塁上)を歩くのですが、城址としての整備はされてなく、カメラに撮った縄張り図を呼び出して確認しながらの難行です(^^;
下には曲輪の平場がある筈ですが、草木が繁って、わずかなフラット感しか判りません。
 さらに進んで行くと、拓けた高台に出て、琵琶湖の景色が一望できます。
『あぁ~、なるほどね!』

 謎の城と聞くと謎解きしたくなるのが人情で、歩きながらもずっとその事を考えていましたが、眼下に見える長命寺の湊と水茎岡山城を見て、繋がりました。
永正17年(1520)、六角定頼は水茎岡山城に籠る守護代の伊庭貞隆を攻め、滅ぼしていますが、“島城”だったので長命寺湊から安宅船を出して攻めています。
この城はたぶんその際の指揮所ですね。

 三日ぶりにシャンプーしたみたいにスッキリした頭で、最後にこの城の名物の七ッ池を探します。
水の手に掘られた小さな溜池なのですが、近年はなかなか見つけにくい様です。
該当地あたりに着きましたが、果たして、一面が笹竹に覆われて手強い藪になっています(-_-;)
それでも、笹の上面を透かして見ていると、かすかな凹みが有るのが判ります。
『あれだ!』と、藪コギで強引に分け入って見ると、ありました♪



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砥上山城 (2021/02/05 訪問)

秋月二十四城のひとつ。秋月氏の持ち城とされる。城主は不明。
大山祇神社がある坂根登山口からスタート。堀切のあととピーク付近の南北に広い曲輪が印象的。主郭からは古処山系、耳納連山、遠くに由布岳も見えた。

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赤い城

堀が廻る土の名城 (2021/01/30 訪問)

高崎市の箕郷地区にあり搦手口に大きな駐車場があります。
登っていくといきなり大堀切、整備されています。
一旦、大手尾根口まで降り、再度登城しました。
郭馬出の手前にも空堀、復元された西虎口門が青空に映えます。
さらに土橋を経て二の丸、本丸へと進みます。
本丸は結構広く、ここに石碑が立っています 
本丸西虎口には木橋が復元されています。
本丸を囲む空堀も深い!御前曲輪には石垣も。
三の丸、鍛冶曲輪にも石垣がありますが大半は土でできています。
長野氏の居城で堅固な城でしたが武田信玄の猛攻により落城。その後も北条や徳川も利用した城。
高崎城が整備されたことで廃城となりました。

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カルビン

勝手に第二次籠城企画 [三増古戦場] (2014/09/06 訪問)

三国同盟破棄後に武田晴信が無謀ともされていた小田原城攻略を試みましたが、落とせるハズもなく武田軍は撤退。

勿論北条軍は追撃したわけですが、実はこれが武田晴信の仕掛けた罠で、三増峠で北条氏康・氏政軍を徹底的に叩いて動けなくし、駿河侵略する事が本命だったとされています。

北条氏康に気付かれて北条軍の本体は無事だったものの、北条軍2万のうち1万を撃退した武田軍の快勝だった戦が三増峠の戦いです。


神奈川県愛甲郡愛川町の、その名も「三増合戦みち」という道沿いに三増古戦場碑と解説があり、近辺の道路沿いには合戦に関わる首塚や胴塚がありました。
近場には田代城や細野城もあり、この合戦に何らか関わっていたと思われます。

ただ古戦場としてはそれだけで訪問するのは勿体ない気がしますが、この古戦場碑があるところから北にある東名厚木カントリー倶楽部のコース内に、合戦時に武田晴信が陣を敷いていたとされる場所があり、「信玄旗立松」の史跡が存在しております。

既にその時の松の木は火災(落雷の為?)により焼失してしまった様ですが、解説と石碑(これも上部が欠けていた)がありました。
ゴルフコース内にある山林なのでちょっとした登りの地にあったので、戦いの指揮を取るには丁度良い場所だったと推測されます。


この戦いで武田軍の損失といえば譜代家老衆だった浅利信種が鉄砲の流れ弾で討たれた事。。。この方の菩提かどうかは定かではありませんが、この方に関係の深いお寺の墓地に自分の祖父母が眠っており、毎年新年にお墓詣りしていたのですが・・・コロナの為に昨年・今年と行けて無いんです。。。早くコロナが片付くといいな(ー人ー)

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