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昌官忠

リハビリ15城巡り⑪:荏原氏館 (2021/03/24 訪問)

足腰リハビリ15城巡り11城目は荏原氏館です。
法蓮寺は荏原町駅前です。法蓮寺境内を見学した後、徒歩2~3分くらいで旗岡八幡神社鳥居前(35.604618、139.708585)に着きました。

荏原氏館は、鎌倉時代に荏原氏によって、荏原町駅の直ぐ北側にある法華寺と旗岡八幡神社の境内となっている辺りに築かれました。

現在、居館の遺構などは何も残っていませんが、八幡神社一帯は小高い台地となっています。
攻城時間は10分くらいでした。

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にのまる

五つ紋 (2021/03/16 訪問)

 戸吹城からの帰り、八王子駅(JR/京王)から路線バスですぐ近く(由木中央小学校前)まで行けました。
 永林寺の立派な総門(赤門)が迎えてくれます。総門、三門、中雀門をとおって本堂へ行く間に、三つ葉葵、菊紋、三つ鱗、五三の桐が目に入り、このお寺は一体…?と思って由緒書きを読むと、<写真⑤>とのことでした。肝心の大石家の丸に三つ星はどこだ?と探したのですが、大石定久公の墓石にしか見つけられなかったです。でもきっとどこかにあるはずです。誰か探して。。。
 由木城址は墓地の上。定久公の像の奥のそれっぽい場所はお手入れされたばかりのようでしたので歩いてみました。パーツとしての遺構を見ることはできなくても、城跡を踏みしめているというだけで充分満足です。
 永林寺は午後五時に閉門されます。たとえばのんびりと沼のカエルなどを見ていると境内に閉じ込められて遠隔操作で開けてもらわないと外に出られなくなってしまいますのでお気をつけください^^;

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にっぽん城まつり feat.出張!お城EXPO in 愛知に城びとブース出展! (2021/03/20 訪問)

3月20日・21日に愛知県で開催された「にっぽん城まつり feat.出張!お城EXPO in 愛知」に城びとブースで出展しました。

当日は、城びとの取材で集めた御城印や御城印帳や名古屋おもてなし武将隊の前田慶次様の人気連載「前田慶次の自腹でお城めぐり」の内容を城びとスタッフがまとめた手作り「自腹でお城めぐり帳」(ポップアップ慶次様つき!)を展示したほか、お城ガイドマップの小田原城と竹田城の先行販売も! 

twitterフォローで前田慶次様新ステッカープレゼント企画や前田慶次様と一緒にミニステージでミニクイズ大会も開催しました!

ブースにいらしてくださった皆さま、ありがとうございました!

写真は、城びとブースにいらしていただいたスペシャリストの皆さま(クリス・グレンさんも遊びに来ていただいたのに、写真を撮影するのを忘れてしまいました・・・!!)

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ぴーかる

築山館 (2021/03/13 訪問)

【築山館】
<駐車場他>大内氏館跡龍福寺駐車場から徒歩がベスト
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>1泊2日中国地方西部の旅4城目。大内氏館から徒歩で来城した。居館跡と築山神社は改修工事中で中には入れなかった。説明板の通りここも大内氏の居館だったようです。北西隅部に土塁が残っています。内部の八坂神社と築山神社は重要文化財になっており、築山神社は改修中で幕が張られ入れませんでした。八坂神社の方は室町時代に京都の八坂神社から勧請したようで、本殿は檜皮葺屋根で13箇所ある蟇股に時代の特徴が出ています。

<満足度>◆◇◇

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肉球

千葉県ですが石垣あります (2021/03/25 訪問)

戦国時代に真理谷武田氏によって築城されたようですが
江戸時代は徳川譜代の居城として幕末まで使用されていたようです。
この辺りには珍しく石垣があります。
あまり大きくはないですが三の丸櫓の石垣のようです。
その先に進むと中世のお城感が色濃くなります。
二の丸、本丸ともに雑木林となっていてあまり整備されているとは言えません。
しかし二の丸虎口や本丸へ続く土橋など見所はあります。
本丸の先に東京湾が見渡せる展望台があります。
駐車場完備されてます。 

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橋吉

1時間の登山 (2021/03/19 訪問)

引田城は、室町時代末期 寒川氏に属する四宮右近の居城としたのがはじまりのようです。
その後、阿波三好家家臣矢野駿河守、仙石秀久,生駒親正と主を換えてきましたが、一国一城令が発令されると廃城されたようです。

続日本100名城は讃州井筒屋敷で押すことができます。

登山口は2か所ありますが、より城跡に近い山口水産裏を選びました。
5台くらいとめられ、さらに向かいにも整備された駐車場があります。

まずは山頂めざして登ります。
はじめは林の中を上がっていきます。
途中、目の前が開け港が一望できます。
そこからは、岩山をひたすら登ります。

本丸石垣がみえたら、南の郭→天守台跡→西の郭→化粧池→引田鼻燈台→東の丸→北二ノ丸→本丸と山頂を囲む形で一周しました。

1時間8分かかりました。

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中世から戦国にかけての土居城 (2021/03/22 訪問)

櫻山茲俊築城の国指定史跡です。
吉備津神社に車を停め、北郭からの登城です。
低い丘陵地を切岸で切り立たせ、2重の堀切を随所に配しています。
規模的には、そこまで大きくないですが、谷一つの場所にある亀寿山城、切通で繋がる鳶尾城、さらに北の木曾丸城などと一体的に運用されていた山城です。
主郭を中心に、北郭、南郭、西郭からなり、それぞれに堀切で仕切られたうえ、曲輪が儲けられ防備が固い造りになっています。
現在の北郭櫓台は、薬師堂が建立されており、石垣が組まれ当時の土居城の面影はなくなっています。
雑木の中、観て回ると墓所となっている曲輪が多く、手入れしてあるせいか比較的切岸は良く残っており、いく段かに構える曲輪群を整備を行えば素晴らしい城郭として蘇るのではないかと思います。

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城好きのメガネ

「茶臼山陣城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
茶臼山陣城は、大塚城とも呼ばれ1546年に細川晴元の家臣・山中又三郎が茶臼山古墳の後円部に城を築いたとされる。細川氏綱・畠山政国らに攻められ落城し、廃城となった。1614年、大坂冬の陣では徳川家康が本陣を構えた。1615年、大坂夏の陣では、豊臣方の真田信繁が本陣を構えた。大坂の陣後に、廃城となる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR天王寺駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「天王寺城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
天王寺城は、石山本願寺攻めの際に織田信長の家臣であった原田直政が築城した。原田直政は信長からの信任も厚く柴田勝家と共に殿軍を務めていた。石山本願寺攻めでは細川藤孝・荒木村重・明智光秀・筒井順慶ら3万の兵を率いたが、三津寺で戦死する。その後、天王寺城には宿老・佐久間信盛が入る。石山本願寺との和議の際に廃城となった。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 谷町線 四天王寺前夕陽ヶ丘駅 徒歩10分

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pascal

羽柴秀吉との激戦地 (2015/03/14 訪問)

 秀吉の天下取りの過程で、激戦地となった伊勢の峯城です。


【アクセス(車)】
 R306の星田橋東詰交差点(点滅信号)から橋を渡って入ります。
城址の東麓にある柴崎集落の最初の建物が柴崎公民館で、城址見学者はここに車を停めて良いそうです。
公民館脇の道を西の城山に向けまっすぐ歩いて行くと、自然と搦手道から登城する形になります。
案内看板は充実しているので、迷う事もありません。


【城の歴史】
 峯城は関氏の分家:峯氏の居城として貞治6年(1367)に築城されました。
峯氏は近郷24ヶ村を支配し、兵力は600名とされています。
 永禄の織田信長の伊勢侵攻で神戸信孝の配下に組み込まれた峯氏は、長島一向一揆との戦いに駆り出され、当主の盛祐が討死にした事で断絶してしまいます。
跡には信孝の家臣:岡本宗憲が城主として入りました。

 本能寺~清須会議を経て、亀山城の関盛信が秀吉に寝返り、岡本宗憲もこれに倣うと、峯城は滝川一益の軍に攻められ、奪われてしまいます。
一益は甥の滝川益重を城主とし、3千の兵を与えて守らせますが、冬になると近江から羽柴秀吉が大軍を率いて攻め込んで来ます。
(滝川益重は前田利益(慶次郎)の実父です)
 周辺の諸城が早々に開城する中、羽柴秀長、秀次、筒井順慶が攻める峯城は4月まで抵抗を続けたので、秀吉方諸将は開城を見届けるとすぐさま、賤ケ岳に向かったと言います。

 峯城は秀吉に同盟した織田信雄の臣:佐久間正勝が城主になりましたが、翌天正12年(1584)に入ると信雄は徳川家康と組んで、秀吉と敵対する状況になります。
3月、秀吉は北勢に再び侵攻し、亀山城の関盛信を調略すると峯城を囲みます。
攻城側は蒲生氏郷、滝川一益、関盛信などで、勝手知ったる峯城をわずか数日の攻撃で落城させ、佐久間正勝らは尾張に逃げ去りました。

 大軍相手に三度の攻防戦と落城を経た峯城はその後再度岡本宗憲に与えられますが、天正18年(1590)に宗憲には亀山城(新城)の築城が命ぜられ、そのまま居城も移転したため峯城は廃城となりました。


【見どころ】

 県の史跡ですが、整備は進んでおらず、まだ大半が山に埋もれた城址です。
日本城郭体系の縄張り図にも主郭部分しか記されていませんが、近年に調査が進んで、思いの外規模の大きな城であった事が判って来ました。
 主郭の遺構は明瞭で、“伝天守台”とされる土壇には鉢巻石垣の名残りも有りますから、本当に天守が有ったかも。
3千の兵で4ヶ月籠城した城ですから、それなりの規模感と防備は有った筈ですが、藪の中でそれを見極めるにはかなりの知見が必要なので、現在のところ“上級者向けの城”かも知れませんね。
 

【感想】
 見学のための整備は、主に地元の有志の方がやられている様ですが、『地元の声』としては、訪城する人の数がやり甲斐に直結している様です。
秀吉方の付城の跡も特定されているので、併せて訪れると戦場の臨場感を感じられる城址です。

 

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城好きのメガネ

「有岡城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
有岡城は南北朝時代に伊丹氏が築いたとされる。伊丹親興は細川晴元に属したが1568年、織田信長に応じて三好氏を攻め勝利を収めた。以後、信長の傘下に入り、山名氏や浦上氏とも戦う。1570年には大坂・天王寺で三好三人衆と戦う。1573年頃から織田信長と対立し、荒木村重に攻められ、落城、自害する。その後、伊丹城に荒木村重が入り改修を行う。城の名も伊丹城から有岡城にかわった。1579年、荒木村の謀反により織田軍に攻められ落城。その後、廃城となる。現在、石垣等が遺されている。

<アクセス>
JR伊丹駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「勝龍寺城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★★★☆
勝龍寺城は、戦国時代末期には淀古城と共に松永久秀、三好三人衆の支配下になっていた。1568年、足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると細川藤孝が勝龍寺城に入る。藤孝は信長の許可を得て大改修を行う。城の防御を高めるため、城の北側に、堀の底から土塁の頂部高さ6メートルを超える大規模な土塁・空堀を築いた。1580年、藤孝は丹後へ移封となり、1581年に猪子高就が城代となる。1582年、本能寺の変後、山崎の戦いでは明智光秀が勝龍寺城を拠点とし、羽柴秀吉を迎撃する。しかし、山崎の戦いに敗れた光秀は勝龍寺城に退却し、最期の夜を過ごした。光秀が脱出したと伝わる勝龍寺城の北門には、当時の石垣や門の礎石が現存している。その後廃城となる。現在、曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸が遺されている。

※「山崎の戦い」明智光秀本陣跡の国史跡 恵解山古墳へ併せて散策することをオススメする。

<アクセス>
JR長岡京駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「開田城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
開田城は、中小路氏の居城であったとされる。中小路氏は菅原道真が大宰府に左遷される際に同行し、道真の死後に東小路祐房と共に道真自作の像と念持仏を持ち帰り、祠を建てた。開田天満宮(現在の長岡天満宮)の神官を務め、徐々に勢力を拡大したとされる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
阪急電鉄 長岡天神駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「高槻城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
高槻城は、入江氏の居城であったが織田信長に滅ぼされ、和田惟政、高山右近が城主となった。和田惟政は足利義輝に仕え、足利義輝横死後は義昭を庇護する。足利義昭からは池田勝正、伊丹親興と共に摂津守護の1人として任命され「摂津三守護」と称された。幕臣として幕府の外交・政治に大きく関与しながら、義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。そのため、織田信長にも重用され高槻城を改修するなど活躍している。高山右近と共にキリスト教に帰依し近畿地方の有力なキリスト教保護者であった。本能寺の変後は、新庄直頼が入る。関ヶ原の戦いで西軍に属して改易される。その後、永井直清が藩主となる。京都と大阪を結ぶ交通要衝であった。鳥羽伏見の戦いでは新政府軍と交戦せず高槻城に撤退し、恭順している。現在、石垣等が遺されている。

<アクセス>
JR高槻駅 徒歩15分

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橋吉

入門用として最適な山城 (2021/03/19 訪問)

岡豊城は、四国の覇者となった長宗我部氏の居城です。

城址の一角には高知県立歴史民俗資料館が置かれています。
残念ながら、耐震工事のため閉館中でした。

資料館前の駐車場にとめました。
資料館の上は城跡です。

登城前に、山村民家に寄りました。
資料館工事期間中は、ここに続日本100名城のスタンプが設置されています。

訪れたときには「土佐の七雄スタンプラリー」なるイベントが行われていました。
岡豊城址の各ポイントに、戦国時代土佐各地で力をつけた国人のスタンプが置かれているので、これを集めるとプレゼントがもらえるというものです。
せっかくなので、参加することにしました。

一回りするのにちょうど一時間かかりました。
「土佐の七雄スタンプラリー」の賞品として缶バッチをいただきました。

岡豊城は入門用として最適な山城です。
まず、交通アクセスが良いこと。
次に、歩き回るのが比較的容易であり、案内もわかりやすいこと。
たとえば、中高生の遠足や社会見学にも向いている、そんな山城でした。

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昌官忠

リハビリ15城巡り⑩:新井宿城 (2021/03/24 訪問)

足腰リハビリ15城巡り10城目は新井宿城です。
馬込城より徒歩17~18分くらいで熊野神社(35.584441、139.721279)に着き、それから石段を下りて善慶寺門前(35.583797、139.722199)に向かいました。

新井宿城は北条氏の家臣、梶原氏によって築かれたと伝わる城です。
現在、善慶寺の裏手にある熊野神社付近に築かれていたと推定されています。
1590年(天正18年)家康の関東移封後、幕末まで新井宿領は、旗本木原氏の知行地であったようです。

城の遺構らしきものは何も残っていません。お寺の奥が神社なのが少し不思議です。
石段は結構急です。歩き疲れた足には下りは結構堪え、手すりを使って下りないとそのまま下まで落ちそうでした。
善慶寺門前でお年寄り(少なくとも自分より)に道を聞かれました。お寺&神社巡りをされてるようですが、自分は地元ではないのでわかりませんでした。
その方は東京23区の分厚い地図の本を持って廻られているようですが、地図の本だけで現地に着くとは尊敬です。(方向音痴な自分はGoogleマップで事前にGPS座標を調べ、かつ羅針盤を持って城巡りに臨んでいるので。。)
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

リハビリ15城巡り⑨:馬込城 (2021/03/24 訪問)

足腰リハビリ15城巡り9城目は馬込城です。
池上氏館より徒歩15分ちょっとで湯殿公園入口(35.587951、139.708844)に着きました。

馬込城は北条氏の家臣である梶原助五郎の居城として知られていますが、定かではありません。
現在城址周辺は宅地化され遺構はなく、また正確な城址の位置もできておらず、湯殿神社や萬福寺などが推定値とされています。

湯殿公園から湯殿神社へは鍵がかかっていて行けませんでした。
湯殿神社入口は湯殿公園入口から東へ20m先にありますが、こうま児童公園入口(35.588582、139.709228)からも行けます。
現在の城跡地は遺構もほぼなく解説板や石碑などもありませんが、湯殿神社の境内だけは木立に囲まれていました。
攻城時間は10分くらいでした。

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ぴちょまる

小見川城山公園 (2021/03/27 訪問)

城山という名称ではあるものの、前方後円墳の方がメインのような場所。
染井吉野も1000本あり、北総では有名な花見の場所らしい。
相当な数のボンボリを吊るしてある。

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ながす

松本城 (2021/03/27 訪問)

松本城!!
国宝現存天守!!カッコ良過ぎる、、、
御城印8つ目!!

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城太郎

復興に感謝、感動 (2021/03/25 訪問)

震災から5年 再び甦る天下の名城。
初訪問の熊本城でしたがスケールの大きさに感動。
宇土櫓の勇姿にも感動。

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