明智光秀「最期の30日」を辿る 【第3回】丹波亀山城
(2022/05/08 訪問)
(第2回「坂本城」からの続きです)
天正10年(1582年)5月29日、亀山城にいる光秀の元に信長が安土から本能寺へ入ったとの知らせが密かに届きます。そして3日後の6月1日昼頃、光秀は亀山城数寄屋にて重臣4人(明智秀満(左馬助)、斎藤利三、藤田行政(伝吾)、明智光忠(次右衛門))を密かに集め謀反を打ち明けます。すると4人から返ってきた答えは「皆思いは同じでございます」。これにより光秀の意は決しました!
そして同日午後5時、ついに13,000の軍勢が亀山城を出立しました。しかし、軍勢は毛利のいる西の方角には向かいません。そして、光秀は軍配を東の方角に指しこう叫びます 「我が敵は本能寺にあり!」
しかし、この名台詞(セリフ)は、だいぶ後の江戸幕末の詩人である頼山陽(私と同じ空想が好きなおじさん)が1826年に書いた「日本外史」という本の中の一節にあるもので、実際は極秘の行動なのでそんな事は叫んでないようです。それどころか、途中でたまたま軍勢を見た農民20~30人を(密告されないよう)すべてその場で撫で切りにしたというのですから、もう光秀は残虐者の顔になっていた事がうかがえます(😱~)。
丹波亀山城は、もともとは光秀が丹波攻めのための軍事拠点として築城したもので、兵の収容能力は安土城より大きかったようです。また三重の堀に囲まれ、さらに有事の際には保津川を堰き止めれば巨大な水堀ができる強固な作りになっていました。
現在は宗教法人の敷地になっていますが、受付で申し込めば条件付きですが中を見学させてもらう事ができます。天守は、江戸初期に藤堂高虎が伊予から伊勢へ移封になった際、今治城の天守を解体して伊勢に持って行こうとした所、家康より天下普請に差し出すよう命じられ、この丹波亀山城に差し出した話は有名です。その時の城の再現図がありました(写真④)。明治までその天守は残っていたようです。また下段の石垣(打込接)には刻印があり天下普請で築かれた事を物語っています(写真⑤)。しかし、上段の天守台の石垣は野面積のため、これは光秀時代のものが今でも残っていると思われます(写真⑥⑦)。ということはもしかして🤔?・・・江戸時代には光秀が築いた天守台の上に高虎の天守が建っていたという事になるのでしょうか?😲
うっそうとした木立と苔蒸した石垣に囲まれ、異様な静寂さの中で、かすかに聞こえる(宗教法人の人々が唱える)経の声・・・。この独特な雰囲気の中で私は天守台の脇に立ち、この眼下にこれから本能寺へ向かう13,000の軍勢が整然と隊列を成してここに並んでいる姿がたぶんあったであろうと想像してみました(写真⑧の場所は、かつては広大な曲輪)。 すると何とも言えない急に足が震えてくるような緊張感が襲ってきました(😱~)。
(第4回「本能寺」へ続きます)
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