昨年から仙台藩の二十一要害を訪ねているが、今回は仙台藩領南部を訪問することに。まずは相馬藩と境を接する谷地小屋要害跡(福島県新地町 城びと未登録)へ。ここの主は亘理要害を拝領している亘理伊達家(御一門24,850石)で、代官を配して対相馬の防衛と地域支配の拠点としていた。
そもそも城館の起こりは永禄年間(1558~1570)に相馬盛胤・義胤父子が亘理氏への加勢で出陣した折、盛胤が新地に泊り、東側の谷地にこの城を築いたという。この地は伊達・相馬攻防の地、平地城館で守りに難があるため、西へ2.5km程行った丘陵に新たに新地城(蓑首城)を築城した。その後この谷地小屋の城館は廃されたのか、戦国期を通して併存していたのかは不明だ。
要害のあった場所はJR新地駅から200mほど西の田んぼの中に、少しばかり樹木を残した空地となって残る。遺構は何も残っていない。東日本大震災の際、新地町も津波により大きな被害を受けた。2016年10月に新地駅が旧地から西に移って営業再開したため、駅前の道から要害跡地を望むことができる。
藩政期の要害の姿は仙台領内要害絵図(宮城県図書館所蔵)を見ると、東西に長い方形の主曲輪と南側に付属するニノ曲輪で構成され、主曲輪の東西北は二重に、ニノ曲輪も全周を水掘で囲んでいる。また主曲輪南側中央に門。土塁が巡り、西側中央と南側は門の左右に横矢掛かりが見える。ニノ曲輪は南側中央と東側の北に外舛形を構えた門、主曲輪側以外の三方を土塁が巡り、横矢掛かりが二ヶ所見える。
要害の南側には東西に長く下中屋敷(家中屋敷)が描かれ、更にその南側にこれも東西に町屋敷が続く。
新地町をはじめて訪問した私には震災前の街並みがどのようであったのか知る術もないが、津波被害からの復興で要害跡を含めかつての館下町の有様も大きく改変されているものと考える。
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