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小城小次郎

ワンダーランドなだけではない (2021/01/26 訪問)

日本最小級の模擬天守や石垣撮影スポットのきめ細かな掲示など、知識がなくても普通に楽しめるワンダーランドだが、実は美濃守護土岐氏の拠点として、観音寺城や一乗谷城にも比肩すべきポテンシャルを持つ、すごいお城なのだ。

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牛若丸

桜満開、小田原城 (2021/04/01 訪問)

ちょうど、桜が満開の時に訪れました。
石垣山城とともに訪れるのがおすすめです。

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牛若丸

3度目の登城です。 (2021/04/01 訪問)

初めて登城したのが20年以上前で、その時は全然整備されていませんでした。
今は整備され、関東では珍しい石垣も見事です。
一番最初の画像は、本丸から見た小田原城です。秀吉もこうした光景をみていたのでしょうか。もっとも当時は天守は無かったでしょうが。

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ぴーかる

垂井城 (2021/04/10 訪問)

【垂井城】
<駐車場他>専精寺駐車場
<交通手段>青春18切符

<感想>日帰り18切符の攻城旅1城目。久方ぶりの18切符の旅です。今回は名古屋市緑区の大高城・鳴海城他多数砦の城びと城密集地域を中心に攻略するのと清州城が目的です。まずは途中下車して垂井城です。絶好の天気で城攻め日よりでした。
 垂井城は土岐氏の支流の支流長屋氏が推定室町時代に築城されたとされる。長屋氏が相羽城に居を移したあとは不明で1600年に平塚為広が1万2千石で入城するが関ヶ原で西軍討死したあとは廃城となったようです。
 城跡位置も定かでなく、専精寺境内が比定地とされています。専精寺駐車場のところに城跡碑・説明板があります。また隣に垂井の泉というのがあります。

<満足度>◆◇◇
<観光案内所>垂井駅のロータリーに竹中半兵衛銅像と観光案内所があります。関ヶ原の戦い・陣城に関する資料やグッズもあり充実しています。御城印販売しています。

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カズサン

伊賀未踏の城廻りⅠ 潅木伐採され空堀を確認 (2021/04/11 訪問)

 前日伊勢未踏の城廻り10城を終えて早朝名阪国道から伊賀の国入り、今回は織田信長対以伊賀土豪衆との伊賀の乱で舞台と成った丸山城探訪を以前から考えて居りましたがNHKBSプレミアムで英雄達の選択で伊賀の乱、城郭が取り上げられ柏原城を認識し丸山城と周辺の城合わせて7城を一挙に探訪巡りました。
 先ず情報とガイドは城郭放浪記さん古城盛衰記さんでカーナビの目的地、概要を押さえました。

 駐車場:柏原城近くの勝手神社(三重県名張市赤目町柏原464)の裏手に神社専用駐車場が在り利用10台位は可能か?
 案内:名阪国道、国道165号線、県道567号線経由ナビ目的地勝手神社裏へ、集落の道は狭い。
 
 城郭ルート:神社から要所要所に案内指示板が在り何となく山陰で城と分かります舗装道路から畦道に入ると眼前に案内板と杉林、水堀水路を渡り登城路に祠、マムシ注意の看板ドキッとしますが、所々マムシ注意の看板多し、マムシの出ない時期がお薦め、南西虎口、方形の本曲輪、内部は杉が切られ見通し好、周囲に土塁高し、北東側の土塁は櫓台か?幅広、裾に石垣が散見される、北東側土塁に登り、本曲輪と外の堀を覗く、北西隅に井戸がある。
 虎口から南西外の土塁と水堀?水溜まり?の確認、第一外周の堀も確認南西側、戻って虎口か北西の堀を外土塁を歩き一周する潅木が伐採され歩ける但し切株が鋭く登山靴安全靴お薦め、堀と本曲輪の高土塁も確認、北側、東側2条の土塁堀を確認、南西に進み先に見た水堀辺りから南西に3条の堀を確認、段々浅く成ってる。
 見応えは在りますが樹木、小竹藪で鬱蒼としてます、終わって登城前に散歩されてる老婦人に訪ね聞き及んだこの近く道路開発時に発見された墓石が柏原城水路前に在るのでそこも見学されるとと言われ、登城畦道一本南東に五輪の墓石、墓石が整然と並び祀られてる往時の物なのかは分からない、案内板も無し。

 歴史:天正9年(1581年)織田信長の第二次伊賀征伐織田軍3万数千人対伊賀土豪1600余人の伊賀征伐最後の戦い、最後までよく立て籠もり織田の大軍と奮戦した由緒ある城郭。(案内板、赤目まちづくり委員会の抜粋)
 ただ実感として柏原城に1600余人も入れるのだろうかと思ってしまいますが?

 伊勢から伊賀に入ると標高が高いのかまだ山桜、枝垂れ桜も見られ若葉が芽吹きだし萌黄色の美しさ天気も良く花や若葉が陽に輝き美しい伊賀の山野を五感で体験できました、良い時期の城廻りでした。

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コロスケコロコロ

岡崎城! (2021/03/29 訪問)

桜が見事で、天守閣と映えていて良かったです。

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昌官忠

都区内5城巡り③:練馬城 (2021/04/16 訪問)

都区内5城巡り3城目は練馬城です。
豊島園駅より徒歩2~3分位でどんぶり坂(伝練馬城堀遺構)付近(35.742306、139.646872)に着き、その後、豊島園跡(35.743154、139.647347)に向かいました。

築城年代は不明ですが、14世紀末頃に豊島氏が石神井城の支城として築いたものと考えられています。
また、この城にはかつて「矢野将監」という者がいて(時期不明)、「矢野屋敷」「矢野山城」とも呼ばれていたそうです。
そのほか、「海老名左近」という者がのちにこの地または北側の谷に居を構えた、との伝説も残されている。
なお、『豊島名字之書立』(『米良文書』年月日不詳)には豊島一族の者として「ねりまひやうこ(=練馬兵庫)」「ねりま弥次郎」の名が記されているが、この人物と練馬城との関係は詳らかではないようです。
2020年8月31日に閉園した遊園地「としまえん」は、当初遊具を備えた城址公園として開園されており、その名は豊島氏にちなんで付けられたものだそうです。

豊島氏は1476年(文明8年)に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内・扇谷両上杉氏と戦います。
この乱において、両上杉方の江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である石神井城とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たしたようです。
翌文明9年(1477年)4月13日、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。
これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄・泰経(ただし「泰経」「泰明」の名に関しては、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)に連絡を取り全軍で出撃、道灌もこれを引き返してこれを迎え撃ったため、両者は江古田原で合戦となりました(江古田・沼袋原の戦い)。
戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、生き残った泰経と他の兵は石神井城へと敗走することになりました。
この戦いについては、「道灌があらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませた上で、少数で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出した」とする説が有力だそうです。
練馬城がその後どのようになったかは明らかとなっていないが、城主の討ち死にや、従兵の石神井城への敗走により無人となり、そのまま廃城に至ったものとも考えられています。
なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は「練馬城」とするのが新たな通説となっているそうです。
発掘調査で地中に空堀跡が確認されていますが、地表には遺構は残っていないそうです。

どんぶり坂に何か遺構があるかなと期待して行きましたが、向山庭園以外、何もありません。
としまえんには閉園までに一度きたかったのですが、叶わずです。
攻城時間は10分くらいでした。

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城好きのメガネ

「厩橋城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★★★☆
前橋城は、長野方業が築城したとされる。徳川家康の関東移封に伴い、譜代の家臣である平岩親吉が厩橋城に入る。関ヶ原の戦いの後、甲府藩に移された平岩親吉に代わり、酒井重忠が厩橋城に入り、大改修し、近世城郭へと変貌させ、3層3階の天守も造営された。酒井氏が転封になると、松平朝矩が入封する。戊辰戦争では新政府軍に忠誠を誓い、会津戦争に参戦した。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR前橋駅 徒歩 20分

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城好きのメガネ

「石倉城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
石倉城は、長尾憲景が築城したとされる。長尾憲景は、白井長尾氏・景誠が殺害されたため跡を継ぐ。1560年、長尾景虎(上杉謙信)が関東に侵攻した際に白井城で迎え、小田原攻めでは子の憲春を出陣させる。上杉氏の傘下に入り、後北条氏と戦う。上杉謙信の死後、武田氏が上野に侵攻すると一時的に傘下に入るが、武田氏の撤退に伴い、後北条氏に従う。1582年、織田家重臣・滝川一益が厩橋城に入ると、従属する。本能寺の変により滝川一益が厩橋城を離れると、後北条氏に従ったとされる。その後、廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR前橋駅 徒歩 30分

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城好きのメガネ

「伊勢崎陣屋」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
伊勢崎陣屋は、稲垣長茂が立藩した。稲垣長茂は、徳川家譜代の家臣である牧野康成の与力として各地を転戦し、駿河・興国寺城、上野・大胡城などを守備した。徳川家康の関東移封後、1万石を加増され伊勢崎に陣屋を構えた。その後、譜代の酒井忠能が入封し、幕末まで続く。戊辰戦争では酒井忠強が新政府に忠誠を誓ったとされる。現在、移築陣屋門が同聚院に遺されている。

<アクセス>
JR伊勢崎駅 徒歩 10分

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昌官忠

都区内5城巡り②:石神井城 (2021/04/16 訪問)

都区内5城巡り2城目は石神井城です。
愛宕山砦より7~8分位で三宝寺入口(35.735330、139.597782)に着き、山門を確認した後、石神井氷川神社(35.736701、139.595903)➡城址碑/説明板付近(35.737341、139.596553)と巡りました。

築城時期は定かではないが、平安後期から鎌倉時代にかけて、武蔵南部に力を及ぼしていた豊嶋氏の関連城館であったようです。
1476年(文明8年)長尾景春が武蔵鉢形城で関東管領上杉氏に対して挙兵(長尾景春の乱)すると、それに呼応して豊嶋氏は1477年(文明9年)練馬城・石神井城などで挙兵、当時扇谷上杉氏の家宰として名を馳せていた太田道灌の居城・江戸城と扇谷上杉氏の居城・川越城を分断しました。
道灌は江戸城の守備を固めると4月13日、豊嶋泰明の平塚城を攻めます。
豊嶋泰経は石神井城・練馬城から援兵を出したが、翌14日、江古田原・沼袋原で太田軍と闘って泰明は戦死、豊島軍は大敗しました(江古田・沼袋合戦)。
泰経は石神井城に敗走し立て籠もるが、道灌の攻撃に泰経は4月18日、石神井城の破却を条件に和議交渉を行います。
しかし泰経は開城をせず、逆に石神井城の守りを固めようとしたため、4月28日、道灌の力攻めに遭い落城、泰経と残党は平塚城に敗走しました。
豊嶋氏の敗走後は廃城となりました。
現在、城址は石神井公園として整備されており、内郭の空堀と土塁がわずかに残っていますが、開放日以外は見学できません。。

空掘や土塁などは見ることができませんが、フェンスに囲まれた入口は確認しました。(石神井氷川神社から石神井公園に入る途中にあります)
三代徳川家光が狩をした時の休憩所とした三宝寺の山門は立派でした。
石神井氷川神社は豊嶋氏ゆかりの神社です。
攻城時間は25分くらいでした。

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すぎちやん

晴天なり (2021/04/18 訪問)

今日はいい天気でしたね。
レンタサイクルで港の駅という名の観光施設に足を運びました。
お城と同様にこちらも沢山の人出でしたが、どちらも感染対策を施した上での営業をしております。
お刺身食べ放題は是非一度ご堪能くだされ。

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小城小次郎

入念に整備して頂いたのだから (2021/01/25 訪問)

大河ドラマ「麒麟がくる」の明智城と明智庄は間違いなくこの城周辺の景観がモデルだろう。大河放映前に入念に整備され、精悍な明智光秀像も立てられている。いつかは晴れて多くの方に訪れて頂きたいと思う。

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カズサン

伊勢未踏の城廻りⅩ 日が沈み夕闇に登城 (2021/04/10 訪問)

 大河内城を終えて日も沈み前、明日の伊賀未踏城廻りも有り東に約14km程斎宮城を目指す。
 駐車場を斎宮のいつきのみや地域交流センターの駐車場とトイレを利用。
 しかし暗い夜道懐中電灯も何時も準備してるのですが今回忘れ車に城跡の在る竹神社をナビに合わせ走行、神社、鳥居辺りに路駐と試みたのですが道も狭く路駐も不可、神社沿いの県道428号線西に約200m程の所に地区の集会場が有り無断でしたが停めさせて頂いた。
 其処から竹神社へ、斎宮城跡の標柱を撮影、鳥居を入り竹神社参拝、暗くて良く分からない。
 お粗末な投稿、写真で申し訳ありません。
 昼間にゆっくりと斎宮跡、歴史広場、復元建物などと合わせて見学したいものです、伊勢神宮参りと合わせたいと思います。

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橋吉

多くの櫓が建っていた堅牢な城 (2021/03/26 訪問)

臼杵市観光交流プラザで、続日本100名城スタンプを押しました。

3月末でしたが、桜なら満開でした。
多くの城跡には桜の木が植えられています。
ですから、「満開の時期にきたらどんなに綺麗なんだろう」とよく思うことがありました。期せずして今回は満開に出くわし美しい光景を見ることができたのですが、たいへんな人出でもありました。
訪れたのは金曜日でしたが、翌日だったらどうなっていたのだろうかと人酔いしやすい私は思っちゃいました。
桜の季節も良し悪しです。

かなり多くの櫓が建っていた堅牢な城だったようです。

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火ノ島豊後守正宗

福江城 (2021/04/18 訪問)

続45城目。
長崎港からジェットフェリーに乗船して1時間程度で福江港に到着。
港から城跡までは徒歩で5分とかかりません。
ただ、スタンプのある庭園までは城壁をぐるっと回っていかなければ行けません。
だいたい10分程度で到着しました。
離島にあるということ以外で特に難易度は高くないでしょう。

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カズサン

伊勢未踏の城廻りⅨ 北畠氏の城郭夕刻で本丸まで (2021/04/10 訪問)

 夕刻木造城を終えて南へ約15km程、途中松坂城をかすめ松坂牛で有名な和田金前を通り国道166号線を走行し大河内城を目指す。
 駐車場は大河内市民センター駐車場を利用、国道166号線沿いに在り良く分かる砂利舗装で余裕の能力、大河内城の解説板在り。
 約5年前に霧山城北畠氏館庭園登城の前に国道166号線沿いの大河内城の存在を認識していましたが当日の目的地に入れて無く素通りしてしまいやっとの初登城。
 大河内市民センターで案内資料、御城印のセットをゲット、センターの通り横に登城ルート図あり、川を渡り西蓮寺前を通り案内板が有り搦手口より登城、搦手跡の石碑、登って丸石の石垣曲輪二の丸で忠魂碑が立ってる、鳥居を潜り馬場跡枝垂れ桜が名残の咲きごろ、西に本丸の城塁切岸が見える、裾に石垣の残りか散在する、本丸は神社が鎮座、結構広い、大きな大河内城址石碑、案内解説板も有る、一部ストロボ撮影する有様で西の丸以降はパスし下城する、坂内川の西丘陵を利用した大きな城郭です、夕刻で残念至極。

 歴史:応永22年(1415年)南朝の伊勢国司北畠満雅が築城し弟顕雅を入れ大河内氏と称する、時は移り永禄12年(1569年)信長の伊勢北畠氏攻略、信長軍包囲網5万と言われ、北畠軍8千北畠軍は50日余に及ぶ籠城戦に耐え、信長も長期化を恐れ次男信雄を養子に入れる事で和議を結ぶ、大河内城は開城し北畠具教は隠居、しかし天正4年(1576年)未瀬谷の地で具教は暗殺され北畠氏の歴史は閉じた。(大河内市民センターで頂いた資料より抜粋)

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くっしー

「うだつの上がる町並み」を作った金森長近の城 (2021/04/18 訪問)

うだつの上がる町並みから北側に行くと、小倉公園があります。ここに金森長近の作ったお城があったそうです。

うだつの上がる町並みは、城とセットで作られたものなのですね!!

駐車場から模擬櫓と石垣が見えます。

石垣は長近の時代のものですかね?なかなか見ごたえがあります。石段を上った左手に長近の鐘(梵鐘)跡地があります。

そこから15分ほどで小倉山の山頂にたどり着きます。そこに模擬天守があります。

城の遺構は、あまり楽しめませんでしたが、この山頂からの長良川の眺めはいいですね。

国指定重要文化財の赤い美濃橋もここから見ることができますよ!

公園内には図書館があり、説明看板がありました。

あと、ミニ動物園もあってクジャクとかお猿さんがいます!!

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ぴーかる

星ヶ崎城 (2021/03/21 訪問)

【星ヶ崎城】
<駐車場他>道の駅竜王かがみの里
<交通手段>車

<見所>石垣
<感想>>近江佐々木氏・佐々木六角氏の攻城4城目。星ヶ崎城は佐々木氏の子孫鏡氏によって築城された。城びと情報だと室町時代の築城、城跡説明板には鏡久綱によって築城されたとありますが、久綱は鎌倉時代の武士なので現在残る遺構は室町時代のものであろう。
 登城口は道の駅と直結しており、先に投稿した西光寺跡ゲートを開けて入ります。西光寺跡にある石燈籠横を通り登り始めます。ちょっと行くと竪掘りが現れますが、城の遺構か西光寺の遺構かは位置的に麓すぎて分かりません。登城道の中間程に「金毘羅大権現」の石柱が倒れています。文化六年(江戸時代末)とありました。終盤にそろそろかと思う頃に山の斜面と道に砂利と石が多くある所に来ます。鞍部上に出ると右方向(北西)と左方向(南東)の二股に分かれますが、主郭は左方向ですが、右方向の山頂にも行って見たのですが少し削平地になっており、曲輪があったように感じました。手前の砂利石は崩落石垣にも感じます。二股から200~300mで主郭に着きます。残る遺構は主郭部分のみのように感じましたが、主郭部分には礎石、溜池の窪地とたたき石、西面に巨石石垣が残っており見応えがあります。写真1枚目にもあるように石垣が抜け落ちている箇所も多々あったので、修復の必要性を感じました。
 これにて日帰り旅終了。1日山城4城攻めでこの4城目はさすがに足がこたえました。天気が晴れのち雨の春の嵐の予報で朝駆けから頑張ってまだ14:00時過ぎでしたがかなり風がきつくなってきたのでちょうど予定通り終了した。
 山城攻めシーズンもそろそろ終わりです。こんなご時世で思う存分攻められなかったですが、楽しみは来シーズンにとって置くこととします。

<満足度>◆◆◇

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赤い城

東別府神社が建っています (2021/04/10 訪問)

籠原駅から徒歩で30分くらい。
東別府神社が跡地で成田氏一族の別府氏の館跡です。
城址入口には石碑も立っています。
単郭方形の館跡で神社周囲を土塁と堀が囲んでいます。
西側の虎口は土橋と直線ではなく少しずれた位置にあります。
土塁上からの攻撃のためなのでしょうか。
北側の土塁は高く、東側にも虎口がありました。
堀や土塁には紫色の花(名前は分からない)が咲いていて春の趣を感じました。

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