2020年初夏の鶴ヶ城です。
素晴らしい美しく堅固なお城ですね。
地元会津では鶴ヶ城としか呼びません。
いかに、自分達の会津に誇りを持っているかが伺えます。
会津魂ですね。
私は、会津に敬意を込めて鶴ヶ城と呼びます。
鶴ヶ城は、梯郭式の平山城で、本丸を中心に北出丸、西出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていました。
現在の天守閣は、鉄筋コンクリート造で外観復元され、内部は博物館になっています。
明治7年撮影の古写真を見ると、5重5階の層塔型天守で、回り縁と高欄が見えます。
飾り破風のない単調さではあるが、東面の1階と3階に突出部を設けていた。
戊辰戦争で被弾して、特に東面は破損が酷かった。
鶴ヶ城の前身の黒川城に入った蒲生氏郷は、1592年より近世城郭に大改修して城下町も整備しました。
蒲生氏郷が黒川から若松に地名を改めたとされています。
1593年に、望楼型7重天守を竣工し、名を鶴ヶ城と改めました。
1611年に会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組み換えています。
縄張りは、台地の西側に主郭の本丸、内濠を隔てて東側に二の丸、三の丸と続き、台地の下の北側に北出丸、西側に西出丸である。
三の丸以外の各門は、枡形石垣門となっていました。
にのまるさん、
松本城の大天守の最上階の回り縁の痕跡の廊下、辰巳附櫓の花頭窓、月見櫓の朱色の回り縁を写真で確認して頂きありがとうございました。
月見櫓の朱色の回り縁なのですが、塗替えられていると思われます。
もし、家光公がお泊りでしたらこの月見櫓で月見をされたかもしれませんね。
最後の松本城の問題ですが、少しややこしく分かりにくかったのかもしれませんね。
何故、武田信玄が深志城を目指したのか?
考えて見ましょう。
その当時の歴史的背景、即ち1550年に武田信玄は深志城を奪い取っています。
1550年頃の他の戦国武将の動きを見てみましょう。
南には、今川氏がまだ健在でしたし、関東の後北条氏も勢力を保っておりました。
だから、南下政策は取りにくいですね。
そしたら、有力武将のいない地域は何処でしょうか?
それは、信濃しか有りません。
信濃には、諏訪氏や小笠原氏などがいましたが信濃一国を収めることは出来ていませんでした。
そこで、武田信玄は信濃の何処に行けばいいのかを考えました。
武田信玄が北に向かい攻める武将は二人しかいません。
上杉謙信と織田信長です。
深志城(今の松本盆地)には2つの街道がありました。
北に行く善光寺街道と西に行く野麦街道です。
善光寺街道を北に行けば、川中島そして越後になります。
野麦街道を西に行けば、野麦峠を越えて高山で出て岐阜に行けます。
そこは、正しくふたりを攻める拠点になり得たのです。
また、断層なのですが
これは、糸魚川静岡構造線という断層帯が糸魚川から松本盆地を経て甲府盆地を通って静岡まで続いております。
土木工事に詳しい武田信玄ならば、この断層があるのを知っていたと思われます。
この断層に導かれて松本にやって来たのでしょう。
また、松本は水が豊富なのですね。
それでは、会津若松城の質問を致します。
質問1
会津若松城の東側の石垣は20mも有ります。
何故東側の石垣が高いのですか?
質問2
東北最大級の天守が出来た理由は?
質問3
何故天守の瓦は赤いのか?
最後にもう一つ有ります。
会津と言えば白虎隊が有名ですが、会津では6歳から9歳までの藩士の子供は、十人ぐらいの集まりを作っていました。
この集まりのことを会津藩では什と呼び、年長者が座長となっていました。
そこには、什の掟で罰則もありました。
その什の掟を3つ答えて下さい。
宜しくお願い致します。
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