みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

赤い城

吉尾城 千葉県勝浦市 (2022/01/09 訪問)

勝浦湾の南西に位置します。
近くにはかつうら海中公園があります。
地元の方に聞いてようやく登城口を発見。
すぐに岩盤の堀切がありますがここから南側は私有地。
北側に進んでいくと堀切や細尾根の道が連なっていました。
勝浦正木氏の城ですが、正木憲時のまま乱で落城しました。
もう少し予習をしてまた訪れたい城でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

岐阜の山城から見た関ヶ原合戦の講演会を聴いて見て

元々のタイトルは、関ヶ原合戦と岐阜の山城なんですが、中井先生がタイトル変更したので。これで進めます。
中井先生の山城から見た関ヶ原合戦は、新しい見方を示して頂いたと思っております。
松井山城は、曲輪、切岸、土塁、堀切、土の枡形虎口等を有する堅固な山城で単なる小早川秀秋の陣城ではなかったことで有ります。
伊藤盛正が築城したのを小早川秀秋が不法占拠したのだという話も頷けますね。
南宮山の毛利秀元の本陣は完成された陣城であったこと、関ヶ原方面は望むことは出来ないこと、大垣側に設けられた土塁と堅堀から大垣を望むために築かれた陣城で有ること、
このようなことから、西軍の作戦は大垣決戦で、東軍が大垣城を攻め包囲すればその背後を突き、後詰めに持ち込む手筈だった。
また、菩提山城は竹中氏の居城で、巨大な堀切や堅堀、馬出し曲輪、外枡形の虎口等を有し、戦国時代後半の特徴を示している点も興味深い。
この発達した縄張りがいつ構えられたかという点は、浅井長政と織田信長の江濃国境の軍事的緊張により、1570年に竹中重治によって改修されたという見方と1600年8月10日以降に大垣の軍事的緊張により、竹中重門によって改修されたという見方が有ります。
私は、1570年に竹中重治によって改修されたと今のところは見ています。
玉城についてであるが、これは絶対に新発見なんかではありません。
また、巨大な堀切や堅堀に対して土塁や折が認められない点から、関ヶ原合戦よりも古い縄張り構造を示しております。
だから、豊臣秀頼や毛利輝元の為の本陣である筈がないので有ります。
縄張りから見てみると、西側を防御正面としていることから1570年以降に江濃国境を監視し守るために、織田信長によって築かれた山城と見るのが正解に近いと思っております。
そこで、松井山城は国史跡の範囲として追加指定されるべきだと感じました。
中井先生のいう関ヶ原合戦が平和を呼んだのではなく、軍事的緊張を呼んだのだという点も興味深いですね。

さて、にのまるさん
天王寺城に行かれたようですが、あの近くには天王寺七坂という坂があります。
あの付近は寺町で80ぐらいの寺が存在しています。
逢坂を除いて、他の坂は狭く石畳の階段になっています。
上町台地との高低差があり、上町断層も有ります。

ここからが一乗谷クイズです。

1問目は、上城戸と下城戸に囲まれた土地に住んでいる人達はどんな人達だったでしょうか?

2問目は、一乗谷の山城にある千畳敷に建物の礎石が列を成して残っているのですが、何平方メートルの建物があったのでしょうか?
そしてそれはどんな建物だったのでしょうか?

3問目は、何故朝倉氏は福井平野ではなく一乗谷という谷の部分に城下町を造ったのか?


4問目は、何故一乗谷は経済的に繁栄をすることが出来たのか?


5問目は、何故一乗谷の山麓の城塞都市に17つも戦国庭園が造られたのか?

以上が質問です。

宜しくお願い致します。

+ 続きを読む

カズサン

利家と松子の像がお出迎え❣ (2011/06/04 訪問)

 七尾城を充分堪能し市街地に在る小丸山城へ、車は国道北東奥の駐車場を利用、駐車場より本丸へ登る道を進み本丸内部には、史蹟前田利家小丸山城址と刻まれた城名石碑、先の大河ドラマ「利家とまつ」平成14年放映の前年時に建立された「利家と松子」像が馬を従え立って出迎えてる様、建立の経緯を刻んだ石碑、小丸山城と前田利家の案内解説板も揃い充分なる解説も有りがたい。
 
 本丸と天性丸の間には大堀切で切断、現在は鉄橋が架かって居り行き来は安全、国道249号線に本丸も一部削られ、大念寺山曲輪との掘割は国道と成ってる、本丸西には宮丸を構え小丘陵を連郭式に構えた城郭の様子が案内解説板に描かれた居ました。また本丸南西には三層の櫓が描かれて居り櫓が在ったのか?想像が膨らみます。
 信長に能登一国を与えられ七尾城から交易に便利な七尾麓に構えた小丸山城は利家には小さ過ぎないかとも思ったりもしますがどうでしょう?
 でも越中の佐々成政を倒した後に加賀二郡を秀吉から与えられ加賀百万石の金沢城へ移り、現在の素晴らしい金沢城を見る事が出来るのです。当初は金沢城にも金箔瓦五層の天守閣が聳えていたとか?

 当日は富山城、安田城、七尾城、小丸山城を終えて陽も有り、前々から訪ねたかった能登観光の軍艦島で有名な見附島、日本海に面した千枚田、輪島に泊まり郷土料理と偶然にも20分に2万発の日本一の花火を鑑賞する事に、度肝を抜かされました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

冬季は休館です (2021/12/04 訪問)

土日の開館時間をしっかりと確認して赴いたのですが、なんと12月1日から3月末日までの冬期間は休館期間中だったのです。それでも館を巡る空堀と土塁は確認できたので攻城したことにさせてください。

+ 続きを読む

肉球

芳賀氏の居城 (2021/12/12 訪問)

鎌倉時代に築城され200年以上芳賀氏の居城。
豊臣秀吉に宇都宮氏が改易され芳賀氏も所領を失い
江戸時代に入り浅野氏堀氏稲葉氏が城主となり
その後天領となり城跡の一部に陣屋が築かれましたが
1868年佐賀藩土佐藩の官軍に攻められ
最後の代官は討ち取られ高札場付近で
晒し首になったようです。

本丸二の丸三の丸が小学校となり見極めができません。
四の丸は公園になっていて駐車場もあります。
平山城のため小学校の周りを歩くとお城を感じ取れます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

最福寺の裏手を走る。 (2022/01/03 訪問)

千葉県の「多部田城」、勇気の出なかった城攻めです。
千葉 常胤さんの四男、多部田 四郎さんが築きました。
お二人を調べると常胤さんは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出演予定です。「多部田城」の四郎さんはキャストに名前が、まだ(?)ありません。源頼朝さんを父子でサポートしてますので、楽しみです。

最福寺に向かい門前で、迷いました。駐車場がありません。
車で入って良いか迷った挙げ句、路駐して門をパチッ。誰もいらっしゃる様子がないので勝手にお邪魔はできません。
後から分かりましたが、駐車場は門の中にあるそうです。ただ、皆さんの情報同様に、目的が「多部田城」だとお断りした方が良いのではないかと思います。

最福寺の裏手に遺構があるとの情報に、グルッと裏手の畑道からパチッ。
遺構が隠れてそうな藪を横目に走りましたが、ギブアップです。

『鎌倉殿の13人』のドラマの最後に縁の地として「多部田城」がでたら後悔しそうです(;´д`)

+ 続きを読む

肉球

東郷陣屋・栃木県真岡市 (2021/12/12 訪問)

1799年幕府によって築かれた陣屋跡。
のちに真岡陣屋と統合されほとんどの建物も移されたようです。
陣屋の遺構は何もありませんが跡地の横を流れる穴川用水は
二宮尊徳が改修整備したようで今も働いています。

+ 続きを読む

T-Shionoya

大多喜城訪問 (2004/12/26 訪問)

過去のお城巡りの振り返り第17段は、先週投稿した久留里城に続き訪問した千葉県大多喜町の大多喜城。

房総半島において、久留里城と東西対照にしたようなエリアが大多喜。
太平洋に注ぐ夷隅川を海岸線から直線で約15km上り、平地が山に囲まれた環境。
上総武田氏の支配下から、里見氏時代は家臣正木氏の本拠となった地で、小田原征伐後は本多忠勝により大多喜城が築かれます。

大多喜城は夷隅川を城下町の天然の堀とし、現在の大多喜駅西口にある八幡神社入口に大手門、そこから西に三ノ丸、大多喜高校のある二ノ丸、模擬天守型の博物館が建つ本丸、と段々に尾根を上がる城郭。
本多氏3代以降は阿部氏らが入り、江戸中期からは大河内松平氏9代が城主を務めました。

初訪問の時は年末で博物館が休館だったか、もう閉館だったか。
そのため3年後に再訪問。
城下町は風情があり、高校に薬医門と大井戸が残るものの、その他の遺構は目立たなかった印象の城。
再々訪問するなら、西の尾根づたいの栗山城に行ってみるとおもしろいかもしれませんね。

※薬医門と大井戸以外は'08年撮影

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

刑部

学校に変われた城址 (2022/01/03 訪問)

学校の周りに土塁が遺っているが写真撮影するほどでないので代わりに近くにある武田氏館跡の写真投稿します。甲斐武田氏発祥の地でもあるので勝倉城址に来た時はこちらの訪問をおすすめします。

+ 続きを読む

カズサン

九尺石虎口も見所な曲輪群 (2011/06/04 訪問)

 調度丸から見上げる桜馬場下重層石垣を充分堪能して遊佐屋敷経由本丸へ登石垣、2段石垣、懸け御殿は空想して本丸の眺望も満足の後、搦手側の虎口、枡形後を通って桜馬場、遊佐屋敷の折れの有る石垣を確認して温井屋敷西下に在る巨石九尺石の虎口を確認、巨石を使った虎口は鏡石的に大手筋を表すのですがここは大手に成るのか?不思議な思いでした。
 九尺石虎口から温井屋敷、二の丸虎口階段、手前石垣から二の丸内部へ、ここにも七尾城の案内解説板が有る、三の丸へ二の丸から堀切下を望むと深く此処を降って登って戻るのかと思うと尻込み三の丸は断念、桜馬場に戻り、調度丸を眺めて降る軟弱な初登城でした。
 
 この後には麓の七尾城史資料館に寄り資料閲覧、資料入手、隣の懐古館も見学、資料に由ると資料館から本丸を目指す七尾城制覇コース150分、比高200~300mと有りました。
 最近「にのまるさん」が麓から本丸までを踏破された投稿を有りましたが健脚には驚かされます。

 調度丸から見た重層石垣、本丸周り、九尺石と曲輪群と3編と長々の投稿をお許しください、写真を撮り過ぎ3編30枚に選ぶのもしんどい作業でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イチ

ただいま工事中 (2018/04/15 訪問)

築城400年に合わせて、天守閣・博物館のリニューアル工事中。天守閣は北側に鉄板が張られる。
写真は工事前のもの。

+ 続きを読む

見学会に参加して (2021/10/24 訪問)

昨年10月末に見学会で大阪狭山市にあった狭山陣屋に行ってきました。
狭山陣屋は、狭山藩庁でした。
さて、狭山陣屋は、豊臣秀吉による小田原征伐によって、北条5代の北条氏直が高野山に蟄居させられ、叔父の北条氏規も従った。
翌年赦された北条氏直は、豊臣秀吉から1万石を拝領されたが、直ぐに死去したので、後北条本家は絶えた。
氏直から家督を相続した氏規は、河内国7千石を拝領して政務を執っていました。
氏規が亡くなると、北条氏盛は1万1千石の外様大名となり
、狭山藩が立藩されて初代藩主となりました。
陣屋は、広大な狭山池の北東に上屋敷、東畔に下屋敷が築かれた。
そして、明治維新まで続くので有ります。
御殿は、焼失しましたがまた再建されました。
遺構としては、特に残ってはおりませんが、あちこちに痕跡がありけっこう楽しめましたね。
大阪府立狭山池博物館で色んな展示があり楽しめますね。
にのまるさん、今日の夜に昨日に行ってきました関ヶ原の講演会の報告と共に一乗谷城のクイズを出しますので宜しくお願い致します。



+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

戦国の荒波をものの見事に乗り切っている (2021/09/20 訪問)

天正13年に羽柴秀吉のもとで大名になって以来、明治までそのまま麻田藩主を務めた青木家の陣屋。初代の青木一重は今川氏真、徳川家康、丹羽長秀、豊臣家七手組を経て徳川に戻り大名としての地位を全うした凄い人物だ。

+ 続きを読む

北風の又三郎

本丸御殿 (2021/10/06 訪問)

久しぶりの投稿です。
名古屋城に行ってきました。まず、枡形虎口や、空堀の規模に驚きました。今回は西南隅櫓と本丸御殿を拝見しました。
まず、西南隅櫓を見ました。外見は、小さめの天守閣ぐらいの大きさがあります。中はシンプルな造りになっていて石落としなどがありました。階段が急で、お年寄りは気をつけたほうがいいかもしれません。
本丸御殿は見てからのお楽しみです👍。気になることがあれば、ガイドの方たちに聞けば何でも答えてくれます👩。天守閣は中には入れません。
おもてなし武将もいて楽しめました。
さすが御三家の城と思いました。👏
西南隅櫓と本丸御殿はすぐ閉まるので、注意してください。(確か、4時か5時ぐらいかな?)
#天守閣 #枡形虎口 #空堀 #水堀 #櫓 #石落とし #日本100名城

+ 続きを読む

todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー47城目 (2021/12/04 訪問)

当初はこのドライブでの続100名城は八幡山城を狙っていたのですが、彦根城に朝駆けしたため、鎌刃城に変更しました。午後は雨予報だったのでちょっと急ぎ足での攻城です。主郭と南北の郭群、大石垣までの攻城としました。いつかじっくりと西郭群にもチャレンジしてみたいと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

真田出丸跡に向かう途中に、 (2022/01/02 訪問)

遺構がないという情報をいいことに(;^ω^)、道路の反対側の吉祥寺でポチしてしまいました。
吉祥寺は赤穂義士の墓所なのだそうです。
谷町筋の右手、真田丸や大阪城方面(だと思う…)に起伏のある坂が無尽に(そう見えた…)あって、これがブラタモリとかで言ってた坂なのかなって思いました。

猿さん、今日は出かけていたのですが、NHKBSプレミアムの一乗谷、録画してありますので近いうちにじっくり見ます。

+ 続きを読む

ぎりょう

仙台藩伊達家の正月膳 (2022/01/15 訪問)

年末からの大雪で城跡の探訪もかなわず一月も早や15日、久々の投稿です。
久しぶりに晴れた週末、地元の大崎市岩出山を訪問した。岩出山城(藩政時代の岩出山要害)は過去に投稿しているが、館下町にある史跡名勝旧有備館および庭園でミニ企画展「伊達家の正月膳」が開催されており訪問した。
旧有備館は仙台藩岩出山伊達家(御一門14,640石)の学問所跡で書院造の建物と庭園が残り、四季折々に美しい姿を見せてくれる場所。城址の北側、堀を兼ねた内川のほとりに位置する。
企画展では仙台藩十三代藩主慶邦時代の記録により複製された正月膳が展示されている。担当者の説明によると献立は初代藩主政宗から230年間ほぼ変わらず、本膳から三ノ膳までの三汁十六菜という豪華なもの。特に目についたのは、本膳に付いた「白鳥のお汁」、三ノ膳の「鮭子籠」、御向に付く「石焼料理鯨」など。現代人は誰も食したことがない白鳥はどんな味がするのだろうか。また「鮭子籠」は塩鮭の腹に筋子を納めたもので現在は製法がわからない仙台藩の鮭加工品らしい。政宗の時代から鮭は特産品として「塩引」、「子籠」を将軍や、幕臣、大名家、公家へ数多く贈っていたという。
連日の雪で城山には登ることはできなかったが、白い綿帽子姿の有備館に久々に心和むひと時を過ごすことができた。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

宇治茶

素晴らしい本丸御殿 (2021/12/21 訪問)

予習して行かなかったので、名古屋城に到着してから天守閣には入れないと知ってガッカリしましたが、本丸御殿の内部が何もかも素晴らしかった事と金のシャチホコと並んで記念撮影出来た事と、イケメンの前田慶次殿を撮影出来た事で大満足しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

恒屋城 (2021/12/25 訪問)

【恒屋城】
<駐車場他>登城口前に城跡専用駐車場10台分程あり。
<交通手段>車

<見所>横堀・畝状竪堀・竪堀・堀切・曲輪
<感想>赤松氏関連の山城攻め、この日の2城目。恒屋城の築城年は定かではないが、15世紀中頃に恒屋氏によって築かれました。恒屋氏は赤松氏の臣下で恒屋城は置塩城の北北東数キロの場所に位置することから支城として重要な役割をしていたと思われます。秀吉によって落城したものと伝わりますが資料に乏しいようです。
 恒屋城は全景を撮った添付写真に見られるように、二つの山の山頂部分を主曲輪として前城後城とに分けています。鞍部は馬場のような平坦な広い曲輪で繋いでいます。
 登山道はまず前城に出ます。登りきる少し手前から竪堀と並行して登るので山頂近くの目安になります。前城山頂の下段の畝状竪堀群に出ます。かなり薄まっていますがそこそこ見応えあります。山頂曲輪の切岸に発掘された五輪塔が並べられています。鞍部を通り、二郭が最大の見所で長い横堀があります。高さも7mあるそうで行った関西の中世山城のなかでは最大級、武田流の城をも彷彿とさせます。二郭横堀の反対側に大竪堀があり、これも見応えあります。二郭~主郭までの段曲輪や堀切が未整備でちょっと鬱蒼としているのが勿体ないところ。ここから麓まで続く大竪堀が1条あるようですが木々で埋もれさっぱり分かりませんでした。主郭帯曲輪に瓦片が落ちていて発掘でも出てきているので早い時期から瓦が使われていたのだろうか?主郭虎口には数個の石が見受けられたので虎口は石積みであったことを思わせます。主郭から違うルートの方向版があって北側を少し攻めましたが藪化で無理でした。上り下り道は1本のようです。
 下山後駐車場で保存会の会長さんにお声がけ下さいました。駐車場、登山道が綺麗に整備されている事と曲輪内が少し鬱蒼としている事を伝えさせてもらいました。会長さんは盛り上げたい為に御城印を作りたいそうです。二郭周辺が見応えある城跡、応援します。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

1/9 飯盛城の全貌の講演会を聴いて見て

朝に続いて、昨年大阪府で5例目(大坂城などの近世城郭は除く)の国史跡指定を飯盛城跡は受けました。
即ち、飯盛城跡の他には千早城跡、上赤坂城跡、赤坂城跡、烏帽子形城跡が有ります。
石垣や礎石建物などの戦国時代後半の三好長慶によって築かれたお城として評価されたものです。
飯盛城は、ほぼ全域が石垣によって築かれているお城なのです。
それは、東側曲輪に多く用いられています。
意識的に攻城者を威圧する為でしょうか?
石垣の特徴は、石材は基本的に自然石や粗割石を用いています。
勾配は垂直で直線的である。
飯盛城の構造としては、飯盛山の南北尾根に中心部を配置している点で有ります。
巨大な堀切によって城域が南北に区画されてます。
千畳敷郭の発掘調査で、南北の尾根に対し造成を施して広大な曲輪を確保しています。
曲輪造成の盛土です。
礎石の検出で政治や文化の場としての礎石建物の存在が明らかになっています。
山城に住んていたことを表していますね。
三好長慶は、飯盛城に信頼する家臣らと一緒に滞在しており、家臣の家族や妻子と共に住んでいたのですね。
山城が戦いの場から政治や文化の場になっているのも面白いですね。
領民にも見せる城として存在意義していたようです。
飯盛城は、石垣、瓦、礎石建物という3つの要素を兼ね備えた城郭と言えそうです。
三好長慶と織田信長の築城した城郭構造が同一の要素で構成されているのも面白いですね。
飯盛城は、今後もっと整備されて誰にでも石垣が見られるようにしてもらいたいです。
にのまるさん、一乗谷城のテレビ放送見て頂いたでしょうか?
明日午前中に、クイズを出します。
宜しくお願い致します。

+ 続きを読む

ページ1072