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赤い城

ジャイアンツ球場の隣 (2021/06/27 訪問)

京王の稲田堤駅かよみうりランド駅が最寄りですがこの日は寺尾城から徒歩。
南側の登城口から登りました。
主郭には浅間神社の祠があり、東側の二郭との間に堀切。
二郭の下をぐるっと回ると北側の土塁との間に堀状になった部分も見られます。
主郭から西側に伸びる尾根道には井戸、その先に物見台がありました。
物見台西側の堀切は竪堀となって南北に落ちています。
観応の乱では足利直義が籠城、戦国期には北条氏と上杉氏が戦った交通の要衝にある城です。
さらに西側に進むと石碑と説明板があり、天竺坂を下るとジャイアンツ球場への坂道に出ます。
私はアンチGですがたぶん三軍の練習試合?を少しだけ見て行きました。
若武者の一所懸命さは見てても気持ちいいですね。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:殿島城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の6城目は殿島城です。
福与城から転戦。城址公園駐車場(35.805921、137.961970)に駐車しました。

殿島城の創立は南北朝時代にまで遡るといいます。
歴史が明らかになるのは戦国時代になってからのことで、春日城主伊那部重成の次男重国が殿島氏を名乗り殿島城を居城としたということのようです。
武田信玄の伊那侵攻で殿島氏も武田氏に降るが、1554年(天文23年)に伊那衆は武田氏に対して叛旗を翻しています。
伊那衆の反乱はすぐに鎮圧され殿島重国は処刑されています。
その後は武田氏によって接収され武田氏滅亡の混乱の後に廃城となったらしいです。

現在城址は本丸跡が「殿島城址公園」として整備されており、殿島城大手口に模擬城門が建てられています。
土塁、堀が保存されていますが、 そのすぐ外側は住宅地になっています。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:福与城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の5城目は福与城です。
箕輪城から転戦。福与城跡説明板前(35.894389、138.0002)に駐車しました。

福与城の創立は鎌倉時代から南北朝時代にまで遡るらしいが具体的な出来事は伝わっていないようです。
戦国時代は藤沢頼親の居城だったが、高遠城主・高遠頼継とともに「宮川端合戦」で武田信玄と戦いましたが、これに敗れて信玄に降りました。
その後、頼親は反旗を翻し、1545年(天文14年)に信玄に攻められ落城しました。このとき福与城は焼失し廃城となりました。
1582年(天正10年)織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、頼親はこの城を奪還しましたが、高遠城を奪還した保科正直に攻められ落城し、藤沢氏は滅亡しました。

城址は整備されており、土塁や空堀などの遺構を確認することができます。
10台くらいは停められそうな駐車スペース有ります。
空堀(土橋)下のトンネルにビックリしました。
攻城時間は20分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

遊歩道と侮るなかれここは城

↓ほぼ崖

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:箕輪城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の4城目は箕輪城です。
上ノ平城から転戦。養泰寺駐車場(35.900965、137.983192)に駐車し、養泰寺西側の城跡標識(35.900952、137.982176)に向かいました。
当初は上ノ平城➡大出城➡松島城➡箕輪城の順で攻城する予定でしたが、千沢城での脱輪影響で大出城と松島城は城びと未登録でパスしました。

箕輪城は木曽氏の一族である箕輪氏代々の居城です。
戦国時代には福与城の支城として木下総蔵が城主を務めましたが、木下氏が下伊那に移ると福与城主・藤沢頼親の養子である藤沢左衛門尉重時が城主となりました。
その後、1545年(天文14年)の武田信玄による伊那進攻により落城すると、頼親らは伊奈の地を追われています。

現在城址は養泰寺の墓地になっていますが、周囲に土塁と空堀を確認することができます。
堀と土塁が良く残っています。 お墓なので踏み荒らさないよう気を付けましょう。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:上ノ平城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の3城目は上ノ平城です。
藤沢城から転戦。城標識説明板前(35.930997、138.001507)に路駐しました。

上ノ平城は平安時代後期に信濃国伊那谷に土着した源為公(伊那馬大夫為公)によって築かれたと伝えられていますが、定かではありません。
以後、為公の嫡流が代々居住したが、鎌倉時代に諏訪氏の一族にあたる知久氏(為公の後裔とする説もある)の居城となったようです。
従来、鎌倉初期に城主であった知久信貞が承久の乱の後に下伊那の知久郷へ退去して以降は、改築されることなく廃城となったと考えられてきましたが、発掘調査の結果、戦国時代にも城として機能していたことがわかりました。
おそらくは天文年間に武田信玄が伊那へ侵攻した時期に使われたものと思われるそうです。

現在城址の大半は農地となっており、遺構はほとんど残っていませんが、堀や土塁などで構成された曲輪跡を確認することができます。
台地上の丘に広大な郭が広がる。郭は東西、南北の空堀で区切られている。三の堀(標柱)前のポストには現地マップも用意されていました。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:藤沢城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の2城目は藤沢城です。
干沢城から転戦。国道152号線の藤沢城案内板付近空スペース(35.927390、138.098468)に駐車しました。
居館跡地?(35.927692、138.097516)まで20mくらいでした。

藤沢城の築城時期についてははっきりしていませんが、元暦・文治年間(1184年~1190年)に諏訪の社領に属していた藤沢盛景が城主だったと伝わります。
その後、1549年(天文18年)には武田信玄の家臣である保科正直が城主をつとめています。
保科氏は武田氏の滅亡とともに1582年(天正10年)に高遠に移ったといわれています。
その後の藤沢城の経緯は定かではないが、藤沢城は諏訪から杖突峠を越えて高遠との中間地点で、杖突街道を監視する目的で築かれ、利用されたと考えられています。
現在城址には土塁や堀切などの遺構を確認することができ、標柱と案内板が建てられているそうです。

案内板を西へ折れると、藤沢川に架かるコンクリート橋先が登城口です。有刺鉄線等で塞いでますが、端部が外れ通る事ができます。
千沢城での脱輪影響の為、時間短縮上、登城口付近で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:干沢城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の1城目は干沢城です。
林道入口(35.985728、138.140217)から進入して、終点の貯水タンク前に駐車する予定でした。

干沢(樋沢)城は諏訪大社上社大祝の諏訪氏が築城した上社前宮の東隣に位置する山城です。
諏訪氏は大祝(おおほうり)として信仰を集めたが、神郡である諏訪郡から外に出ることは禁忌とされていました。
このことから幼少時に大祝なり、長じるとその職を辞して惣領を相続する慣わしであったが、南北朝期から室町期の戦乱に際して郡域外への出陣が増えたため、諏訪満有の子、信満の系統が惣領家を、頼満の系統が大祝を嗣ぐこととなった。
当初両家は諏訪大社上社前宮の神殿(ごうどの)に居住していたが、1456年(康正2年)惣領諏訪安芸守信満と大祝諏訪伊予守頼満が対立して兵火を交え、惣領諏訪家は上原に居を移した。
上原城の原型はこの頃築かれたと思われる。一方の大祝諏訪家は干沢城を築いたとされます。
1483年(文明15年)正月8日、大祝諏訪継満は惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応して酔いつぶれたところを謀殺しました。
しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、継満を干沢城に追い詰めます。
干沢城は落城し、継満の父・伊予守頼満は戦死、継満は高遠へ追放された。
継満は翌1584年(文明16年)5月3日、小笠原貞宗ら下伊那の豪族の支援を得て諏訪に侵攻し武居城に陣取って干沢城と対峙したが、大祝の地位は奪還できず、惣領政満の次男・宮法師丸(碧雲斎頼満)が惣領と大祝を相続したそうです。
その後、1542年(天文11年)に 武田信玄が諏訪に侵攻した時、 干沢城は武田勢と呼応する高遠勢に占領され、安国寺付近は焼き尽くされるなど、戦乱に巻き込まれた城のようです。

貯水タンクに向かう林道で脱輪してしまいました。警察/レンタカー会社/レッカー会社に連絡し3時間かけて脱出。
雨が降り濡れた落葉&急坂の悪条件。警察の方も「晴れた日なら大丈夫なんでしょうが、こんな日は四駆でないと無理かも」と言われてました。
以上より、今回のルートは晴れた日&普通車(軽はお薦めしません)で攻城することをお薦めしますが、本当は山麓の諏訪大社方向から登るのが正規ルートだと思います。
攻城時間は3時間くらいでした。(攻城は途中で断念しましたので、脱輪脱出の時間です)

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フーマー

お城川柳

げんこつを舐めて眺める犬山城


銘菓「げんこつ飴」

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車窓からでも (2021/07/10 訪問)

 近鉄名古屋線線路沿いに「茂福城跡」と書かれた看板を見ることができます。近鉄富田駅より徒歩10分くらいの所にあります。土塁の一部と思われる土壇があり案内板があります。

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暁学園 (2021/07/10 訪問)

 暁学園の敷地となっています。「髪のびの井戸」などの遺構があるようですが、門の近くには関係者の姿もなく敷地内へ入ることはしませんでした。

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岸岡山緑地 (2021/07/10 訪問)

 近鉄「千代崎駅」から徒歩にて登城しました。岸岡山緑地公園となっています。空堀などの遺構があるとの情報もありましたが、探索する時間も少なくよくわかりませんでした。

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浅井三姉妹 (2021/07/10 訪問)

 浅井三姉妹がいたことで有名な織田信包の城です。近鉄「豊津上野駅」より徒歩10分くらいで行くことができます。櫓台などを見ることができます。

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にのまる

【お城川柳】

みなさまのフォルダーもきっとこんなでしょう?

こんな↓

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ys11

川柳投稿

川柳作品
お城好き 話し方まで 武士言葉

「拙者は、本日、説明させていただく斎藤という者であります」、「本日は、ご来城いただき、まことに有難く存じます」、こんな話し方が、好印象です。

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ys11

川柳投稿

川柳作品
出すゴミも 慎ましやかな 城下町

城下町は、どこに行っても、出されているゴミが少なくて、質実剛健の気風が残っている。それが好印象。町の掃除も行き届いています。

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にのまる

【お城川柳】

祝日を避けて行ったら休城日

だいたい火曜日

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:桑原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の19城目は桑原城(2日目のラスト)です。
金子城から転戦。登り口空スペース(36.02808、138.13810)に一旦駐車しましたが、車で登れそうなので、そのまま中腹まで車で登りました。。

桑原城は築城時期等については不明ですが、桑原氏によって築かれたと伝わり、諏訪総領家の本拠・上原城の支城としての役割を果たしていたようです。
1542年(天文11年)武田信玄が諏訪へ侵攻し、上原城の諏訪頼重を攻めると、頼重は上原城を焼き払って桑原城へ退却し籠城しました。
しかしその後、頼重は降伏し甲斐へ連行され、切腹することとなり諏訪氏は滅亡し、桑原城はまもなく廃城となったそうです。
現在、城跡は標高981m(比高差約190m)の山頂や尾根に、本丸跡、二の丸跡、東郭、西郭、土塁、空堀などの遺構が残り、本丸跡、二の丸跡からは諏訪湖が一望できます。

右足膝痛なので、県道沿いの登り口から続く細い道を中腹まで車で行きましたが悪路です。空濠、堀切などが残されています。
途中、本丸下に首塚があります。
攻城時間は25分くらいでした。(今日はホテルでマッサージかな?)

2日目の攻城徒歩数=20603歩、攻城徒歩距離=16.07Kmでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県諏訪市)金子城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の18城目は金子城です。
大熊城から転戦。標識説明板前(36.011139、138.113898)に路駐しました。

金子城は諏訪神社上社に近く、諏訪の名族大熊城の千野氏の居館があったと云わっています。
「天正壬午の乱」の際に諏訪氏の旧臣である千野昌房が蜂起すると、諏訪頼忠を擁立して諏訪氏再興のため徳川氏に臣従しました。
頼忠は家康から所領を安堵され、1584年(天正12年)この城を改修して、茶臼山城から移り居城としましたが、徳川家康の関東移封に伴って諏訪を去ると廃城となりました。
代わって、諏訪に入った秀吉の武将・日根野織部正高吉は、茶臼山城に入り、1592年(天正20年)高島城の築城に掛かった際に、金子城を破却しその石材を舟で運び、石垣の一部にしたそうです。

宮川の屈曲部を天然の堀として活用した平城の縄張りです。宅地の真ん中に説明板がぽつんと立っているだけで、遺構らしきものは皆無でした。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県諏訪市)大熊城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の17城目は大熊城です。
有賀城から転戦。攻城は西側から。ナビで東側から案内されても西側から入るべし。東側は車が通れる道ではありませんので、(36.004955、138.103774)を経由して、城址入口(36.004399、138.104921)に駐車し、攻城しました。

大熊城の築城年代は不明だが、諏訪上社大祝氏の一族である千野氏の居城として知られています。
諏訪神社上社側に属する山城で、1483年(文明15)上社大祝家の一門・千野氏と下社大祝(惣領家)金刺興春との攻防の場となり、結果として大祝諏訪頼満(継満の父)は討ち取られました。
1542年(天文11年)に武田信玄と高遠頼継の連合軍が諏訪へ侵攻した際、千野伊豆入道と千野南明庵の兄弟が立て籠もっていましたが、武田氏に攻められ落城しました。
その後、頼継が反乱を起こすと、千野氏は武田氏に従って諏訪衆として働き、さらに武田氏滅亡後は千野房清が諏訪頼忠の家臣として徳川氏に従属する使者をつとめています。

城址の南側は中央自動車道建設により消滅しています。ほんのわずかですが北側に土塁や空堀などの遺構を確認できます。
攻城時間は10分くらいでした。

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