みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

朝田 辰兵衛

この惑星では… (2019/06/29 訪問)

「この惑星では,ダジャレで使った言葉が本来の言葉に代わって市民権を得るようだ…」
お台場エリアを歩くと,「台場シティ」という言葉をよく目にします。最初に使用した人は「ダイバーシティ」に引っ掛けて売り込んだのだと思いますが,すっかり定着している感があります。そもそも,元となった「ダイバーシティ」を知らない人も多いハズ。うまく,どちらも共存してもらいたいものだ。
それが,多様性(ダイバーシティ)というものだろう…。

ここは,レインボーブリッジを徒歩で渡り,第三台場を眺望するのが宜しいかと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

正覚寺城/畠山政長墓所 (2021/05/09 訪問)

【正覚寺城】
<駐車場他>旭神社西側駐車場あり。
<交通手段>バイク

<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング、大阪府内限定第2弾4城目。正覚寺城は1493年、畠山政長が10代将軍足利義材と幕府軍と共に高屋城に籠城する畠山義豊(畠山義就の子)を攻めるのに本陣を置いた場所です。しかし、義豊に味方した細川政元が謀反を起こすと、味方であった筈の幕府軍4万余の軍勢が敵方にまわり、政長らが籠る正覚寺城に攻め寄せて落城し畠山政長は自害した。畠山政長の墓地は正覚寺城跡(旭神社)西に少し行ったところの住宅地内にひっそりとあります。
 現在旭神社には正覚寺城の城跡碑しかなく遺構は残っていない。また畠山政長墓地は墓石の横から雑木が大きく伸びてきており手入れされておらず寂しい感じだ。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

3カ所セットで。 (2021/04/10 訪問)

 一年ぶりの訪問ですが、今回は説明板のある新川・島屋敷通り団地には寄らず、春清寺と勝淵神社に行ってきました。
 島屋敷(金子氏館跡)はこの地を与えられた柴田勝重(柴田勝家の孫)が館を構えた場所で、春清寺には柴田家墓所があり、勝淵神社には勝重が勝家に与えられた兜を埋納したという伝承があります。どちらも現在見ることができるのは「石」のみですが、北ノ庄の戦いを思いながら碑文を読んだりなどしていると、遠くの山城の苔むした石積みを拝むのと同じくらいじーんとしてきました。
 写真①~③が春清寺で、④~⑨が勝淵神社です。位置関係は⑩のとおりで充分歩いてまわれる範囲です。「金子氏館は説明板だけらしいからわざわざポチしに団地に行くのもなんだかなぁ」と一年前まで思っていましたが、長い間大切にされてきた史跡だったのだと知り、自分の無知と下調べの足りなさを思い知らされました。しかし現地を訪れて新しいことを知り、次はあそこに行こうと計画を立てるのも楽しみのひとつではあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

年々 (2021/02/14 訪問)

1989年に現況遺構調査(表面調査)報告がなされた際に伐採されたはずだが、四の曲輪や五の曲輪など足柄城のダイナミックさを伝えるエリアの視界が年々悪くなっているのは残念。探せばまだ石積みも出てきそうだが。

+ 続きを読む

びーこ

テレビっ子なもので・・ (2021/05/05 訪問)

NHK「日本最強の城スペシャル8」とテレ東「アド街ック天国」で相次いで取り上げられたのを見て「これは絶対に行かねば!」と、早速登城を計画。テレビっ子なもので、すぐに影響されてしまう。
お隣の県なのに、埼玉に攻め入るのは今回が初めて。
そして杉山城といえば「晴天を衝け」の舞台になった深谷にも近いではないか。そちらにも寄ってみよう。楽しみが2倍になった!(どうしてもテレビから離れられない私・・)

まずは町役場に行き、NHKにも貸し出されたという職員お手製の1/500模型を鑑賞。確かに良くできてる!職員の城に対する愛情が感じられる模型だ。ぜひこれで全体の地形を確認してから登城していただきたい。ここで続100名城のスタンプをいただき、いざ杉山城へ。

昇太師匠の解説を思い出しながら進んで行く。「邪魔だ!」と言っていた植込みはこれだな・・・ふむふむ。それにしても、どこもかしこも道が狭くて1列になって進むしかないではないか。道はくねくねだし、アップダウンもあるので、どうしてもノロノロ歩きになってしまう。こんな状況で上から横から襲われたら一溜まりもない。恐ろしいお城だ。

城攻めの後は、お待ちかねのご当地グルメ。埼玉と言ったらやはりこれでしょう。肉汁つけうどん♪程良い硬さ、モチっとした触感に肉汁が良く絡んで美味しい!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

奇岩・巨石めぐり (2021/04/25 訪問)

鬼ヶ城から駐車場に戻り、まだ時間の余裕もあったので、国の天然記念物・名勝であり世界遺産でもある山麓の「鬼ヶ城」にも行ってみました。鬼ヶ城は、熊野において鬼と恐れられた海賊 多娥丸が根城としていた地で、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂によって征伐されたという伝説があります。

鬼ヶ城センターの脇を抜けて登城(?)開始。ほどなく鬼ヶ島を思わせるような奇岩が行く手に見えてきます。その奇岩を掘り込んだトンネル状の通路を抜けたところが多娥丸の棲みかと伝わる千畳敷です。千畳敷は凝灰岩が熊野灘の荒波に削られてできた海蝕洞で、上端は牙のように鋭く尖っていて、さながら巨大な鬼が海に向かって大きく口を開けているかのようです。千畳敷の奥には岩と岩の間に道を通した奥の木戸があり、その先はあまりの断崖絶壁に猿も引き返すと言われる猿戻りの岸壁が続いています。
今でこそ遊歩道が整備され千畳敷まで楽々とたどり着けますが、往時は猿戻り側はもとより、鬼ヶ城センター側からも陸路で攻め込むのは困難でしょうし、海側にしても、海面からはあちこち岩が突き出ており、ほとんど風のなかったこの日でも打ち寄せる波が白いしぶきをあげていて、よほどこの地の海に詳しい者でなければ、船で近づくことすらできないと思われます。まさに難攻不落の天然の要害です。坂上田村麻呂が熊野に遠征した事実を示す史料は無く、多娥丸という海賊も単なる伝説なのかも知れませんが、この要害ぶりを目の当たりにすると、坂上田村麻呂でなく多娥丸でなかったとしても、この鬼ヶ城を根城とした海賊がいて、朝廷により征伐された事実はあったんじゃないかと思えてきます。

さて、千畳敷は鬼ヶ城のほんの入り口に過ぎません。猿戻りで猿は引き返しても私は先に進みます。絶壁を縫うように続く遊歩道を行くと、今度は犬戻りと呼ばれる断崖絶壁が。ついにお供はキジだけになってしまいました…(笑) その先も、神楽岩や鰐岩などの奇岩、波が轟々と音を立てる岩と岩の間を飛び渡る(現在は橋が架けられています)箇所があったり、鬼の見張場や水谷、波切不動、蜂の巣などの洞窟が続き、片道約1㎞の周回道は見応えたっぷりでした。
その後、遊歩道西口から鬼ヶ城センター駐車場まで来た道を戻りましたが、山城の鬼ヶ城と併せて訪れるのであれば、先に山麓の鬼ヶ城を一巡りして、木本側登り口から熊野古道を歩き、松本峠から南に入って山城へ、というルートのほうが無駄がなかったかな、とも思います。< 下調べ不足

帰る前にさらにもう少し熊野の奇岩・巨石を見て行こう、ということで、鬼ヶ城から南西に車で約5分の獅子岩と、獅子岩から南西に車で約1分の花窟神社を訪れました。獅子岩は海に向かって咆哮する獅子の横顔の形の岩です。花窟神社は伊弉冊尊(イザナミノミコト)を御祭神とする日本最古の神社ですが、御神体の高さ約45mの巨巌の存在感はあまりにも圧倒的で、この日は鬼ヶ城だけでなく曾根城や後山城でも多くの巨石、奇岩を目にしましたが、さすがは神宿る巌だけあって、それらに勝るとも劣らない迫力でした。すぐ近くの道の駅に駐車場もありますので、鬼ヶ城登城の際にはぜひお立ち寄りを。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

tshimojima

天下分け目の天王山 (2021/05/11 訪問)

ポンポン山ハイキングの途中で天王山に立ち寄っています。まさかここが「お城」だったとは知りませんでした!歴史関係の解説資料も多くありますし勉強になりました!

+ 続きを読む

ぴーかる

久宝寺城/長宗我部物見の松 (2021/05/09 訪問)

【久宝寺城】
<駐車場他>駐車場はないが、城跡碑がある場所は月極め駐車場の横なので、脇に数分程度なら駐車できそう。
<交通手段>バイク

<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング、大阪府内限定第2弾3城目。久宝寺の地は先達の方々の記述通り寺内町で有名です。城の説明は添付写真の通りです。城跡遺構は残っておらず、城跡碑と説明碑があるのみになっている。かつては土塁が残っていたようです。寺内町の北側にあり北からの脅威を守る為だったかもしれません。
 
 久宝寺城の城跡碑を訪れるより先に長宗我部物見の松に立ち寄った。ここは大坂夏の陣で久宝寺に陣を張った長我部盛親の家臣が対藤堂高虎軍を偵察するのに登ったといわれる老松があったそうです。場所は<34.628605, 135.589806>の地点、現在ある松は子孫だそうです。また古い五輪塔もあります。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

柳ケ瀬断層 (2021/05/08 訪問)

賤ヶ岳の戦いで、秀吉の弟の秀長が布陣しました。この戦いの秀吉軍の本拠とも言える城で、北國街道が、長浜がある沖積平野から山あいに入る箇所の東に聳えています。勝家がいた、玄蕃尾城へ向かって、ほぼ北にまっすぐに狭幅の平地が続き、北國街道が走っています。先に投稿した東野山城は、山あいに入って少し北上したところにあります。東野山城も、この田上山城も急斜面で、かつ比高があるのに、頂部は比較的平らで多くの軍勢が駐屯できそうです。両城とも土塁で囲われた主要部分の外側に広い自然地形の平坦地があります。
北國街道の東側の山の麓には、柳ケ瀬断層が走っており、西側に対して東側が隆起しています。このためにまっすぐな谷間が作られ、さらに、隆起する側が乗り上げてくる逆断層であるので、東側の急な斜面・比較的広い頂部を作ったのだと思います。
麓の神社から城域までよく整備、維持されています。城域の本当に端まで草刈り、雑木伐採がなされているのに感心しました。
下山後、北國街道沿いの山路酒造に立ち寄り、純米吟醸酒を買いました。田上山城に行ってきたと言うと、御城印を勧められました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

鬼退治のお供 (2021/04/25 訪問)

戦国中期に有馬忠親が隠居城として築いた城で、有馬氏が堀内氏により滅ぼされた(乗っ取られた)後は堀内氏の城となりましたが、堀内氏が関ケ原の戦いで西軍に属して改易されたことに伴って廃城となったようです。

国の天然記念物・名勝であり世界遺産でもある「鬼ヶ城」の背後の山上に位置し、山頂の主郭部から南、西、北に続く尾根に小曲輪群を配した城です。東斜面には桜が多く植えられ、見頃にはさぞ綺麗だろうと思います。また、北西の尾根を進んだ先には脇ノ浜城(城びと未登録)があるようですが、今回は未訪です。

鬼ヶ城センターの広い駐車場(無料)に車を駐めて、駐車場北端の木製階段を上って登城開始。歩き始めてすぐに東斜面一帯に広がる石積みが見えてきます。おそらく遺構ではなく後世のものなんでしょうけど、つづら折りの道をひたすら登って行く間、目を楽しませてくれる光景ではありました。15分ほど歩いて主郭部に到着。東に志摩半島から続くリアス式海岸、西に七里御浜の眺望が開けています。南部には櫓台状の巨石群が聳え、その脇を抜けて行くと鬼の見晴らし台と呼ばれる展望台から熊野灘が一望できます。展望台下方の南尾根には曲輪群があるようなので下りて行ってみましたが、階段状に小曲輪が連なっているくらいで目立ったものは見当たりませんでした。今度は北尾根に向かうべく主郭部最高所を越えて進むと、北尾根の曲輪群に入ったあたりに主郭部から北東下に続く石列があり、また北尾根曲輪群のところどころに石積みが見られました。北尾根は熊野古道の松本峠まで続いていますが、その尾根道を三条の堀切が断ち切り、さらに竪堀となって斜面を遮断している様子が状態よく残っています。主郭部まで引き返し、最後に西尾根の曲輪群にも行ってみましたが、ハイキングコースから外れているため未整備で、土留めと思しき石積みは見られましたが、これもやはり後世のものなんでしょうね。

随分と暖かくなったせいか、この日は熊野に向かう道中から城めぐり中までサル、カモシカ、リス、キジ、ヘビなどいろんな動物に遭遇しましたが、サルやヘビはまだしも、城めぐりでリスやキジを見たのは初めてのことで、これでイヌにも会ったら桃太郎だな、などと考えながら歩いていると、曽根集落で散歩中のイヌと出会っていたことを思い出しました。鬼ヶ島ならぬ鬼ヶ城攻めの日だけに、鬼退治のお供と出会うべくして出会っていたようです(笑)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

登城途中に溝谷砦 (2021/05/08 訪問)

キンヤさんが2014年4月に登城されてから7年。草刈りもされ、しっかり維持管理されてました。一番高所の曲輪が本曲輪でなくて、西側に一つ奥まった曲輪が本曲輪とのこと。一番高所の曲輪に「東野山砦本陣」の石柱が立っているのはご愛嬌。
城びと先達のお二人が要所の写真をアップされているので、登城道になっている林道脇の溝谷砦を報告します。北陸自動車道の上を渡り、獣害避けの柵を開けて数百m行ったあたり、林道が尾根先端を半周ほど巻いた箇所があります。まだ、東野山をほんの少ししか登ってませんが、北國街道を挟み、堂木山砦が正面に見えます。賤ヶ岳の戦いでは、共に勝家軍に対する最前線になります。林道を作ったために、たぶん風化状態よりも急になった切り岸をよじ登ると、三段の小曲輪と背後の堀切を見ることができました。他にも全山に遺構が残るとのこと。
次に秀吉軍本拠であった田上山城に向かいます。途中で、サラダパンの昼食。田上山麓の木ノ本の小さなパン屋のおばさんが考案。沢庵を千切りにしてマヨネーズであえてパンに挟んだやつ。少し前にブレークして、滋賀県下では、あちこちで買えるようになりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

沢の中の水門 (2021/04/25 訪問)

鎌倉期に木本盛房が築いた城で、木本盛房がこの地を去った後は豊浦左衛門が移り住んだとされます。

小山浦集会所の駐車場に車を駐めさせてもらって登城開始。豊浦左衛門創建と伝わる長泉寺と集会所の間の道を上って行くと、環境防災林整備事業の案内板があり、後山城についての記載もあるんですが、文字がかすれてしまって判読しづらくなっています。案内板から少し行くと津波避難場所に続く舗装道からの分岐があるので、朽ちかけた木橋を渡り、その先の沢に架かる二本目の木橋を渡ったあたりからが城域になります。

木橋を渡ったところには自然石に彫られた城跡碑があります。正しくはこの城跡碑の左側に進むべきところ、右側の登山道を進んでしまい、砂防ダムを過ぎ、東屋に着いたあたりでどうも道を間違えたらしいと気付いて引き返す羽目に。城跡碑から左奥に進むと沢沿いに石積みが見られます。さらに行くと右手に巨石による石塁が続き、その先に後山城最大の見どころの石組みの水門があります。水門の遺構というのはこれまでに見たことがありませんでしたが、沢の間の立地のため、しっかりした水門が必要だったということでしょうか。

下調べで縄張図を入手できずに登城したため、道に迷った上に見落としもあったかも知れませんが、春になり藪化しつつある山中をかき分けて進み、石塁や水門にたどり着いた喜びは格別でした。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

AJ

おたくの娯楽 (2017/04/30 訪問)

土木建築おたくの秀吉が贅の限りを尽くした道楽城との呼び声が高い伏見城。金持ちが今わの際にすることは古今東西似通っていますね。

もとは隠居城で、後に政権の公儀の城、関ヶ原前哨戦で焼けた後は家康が再建しますが、一国一城制で破却、遺構は「伏見櫓」などの名称で各地に残っているようです。初期の指月岡の遺構はマンション建築現場で偶然見つかったそうですが、今では石垣の一部が残る程度。大地震(1596)後に築かれた木幡山の城跡はほぼ全域が宮内庁の桃山御陵地に含まれるため、縄張りのトレースは困難だと感じました。とはいえ、一生懸命歩くと良いことがあるもので、距離感や高低差は想像以上に堪能できました。

1600年6月、会津討伐に出た家康から留守を託された鳥居元忠ら1800人は、この広大な敷地を西軍4万人に囲まれるも開城拒否。元忠麾下はほとんどが戦死し、数百人が切腹した部屋の床は供養のため「血天井」(撮影不可)として京都市の養源院などに残っています。合掌

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【信濃伊豆木陣屋】長野県飯田市 懸造り書院が見所 (2014/04/20 訪問)

 平成26年4月飯田城を終えて国道151号線から帰る途中に在る伊豆木陣屋に約45年前に仕事で飯田に来た折り探訪以来寄りました。
 所在地:長野県飯田市伊豆木3942
 駐車場:長野県飯田市伊豆木42-1、県道491号線沿いに「小笠原資料館駐車場」が有ります。
 ルート:県道491号線から西に村中道に入り約200~300m程で大手橋に着く、大手橋⇒大手門⇒石垣構えの大手道⇒物見櫓台石垣⇒書院表門⇒陣屋内⇒資料館、資料展示コーナー⇒書院、周囲から眺める、当日は休館日なのか資料館、書院には入れず⇒下城
 歴史:松尾城に居城した松尾小笠原家の後裔、小笠原長巨が慶長5年(1600年)徳川家康より秣料千石を賜りこの地に居館を構え以後代々ここに居住し明治を迎える。(案内解説板より抜粋)
 見所:懸造り書院は必見です。大手道の石垣構え枡形、控えの物見櫓台石垣。

 昼食は県道491号線を降り国道151号線へ城郭風建物で有名な「道の駅信州路下條そばの城」で「そばセット」と土産の野沢菜漬け馬肉の燻製酒の肴をゲット。
 一路国道151号線で標高1000m超えの新野峠を通り浜松へ3時間程掛かります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

八尾城 (2021/05/09 訪問)

【八尾城】
<駐車場他>駐車場はなし。八尾神社南西側にコインPあり。
<交通手段>バイク

<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング、大阪府内限定第2弾2城目。八尾城は築城年は定かではないが、八尾の豪族八尾別当顕幸が室町時代初期に築城されたとされる。南北朝時代には南朝方に味方して北朝方に攻め落とされる。戦国時代には若江城とともに池田教正の居城となって、切支丹もいたらしい。場所は比定地で常光寺辺り一帯と八尾市南本町・高美町・安中町一帯の2つの説がある。八尾神社内に城跡碑があるため城びとポイントとしているようだ。常光寺は大坂の陣にはあったので先の説ならばやはり東隣の八尾神社辺りに方形居館のような城があったかなあと思います。
 常光寺にも寄ってみて、説明碑にここは大坂夏の陣で金地院崇伝の抱え寺としてまた藤堂高虎が首実検をした血天井が残されているお寺さんらしいです。河内音頭発祥碑もあります。見事な山門見所です。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

移築門も残って居り桜の時期は壮観です (2014/04/20 訪問)

 平成26年4月春日山城、長岡城を終えて夜の国道151号線新野峠は怖いので中央道SAで車中泊し翌朝飯田城に寄りました、飯田市は仕事、プライベートで良く訪ねてる所です。
 駐車場:飯田城二の丸飯田市美術博物館の駐車場を利用

 飯田城:中央アルプスから天竜川に伸びた舌状台地に南北の川が流れ削られた段丘崖城、東先端に山伏丸、本丸、二の丸、出丸、桜丸、三の丸、曲輪間には空堀、水堀で区画された連郭式城郭です。
 
 歴史:戦国末期武田氏、織田氏、徳川氏の抗争支配下後、豊臣氏に封じられた毛利・京極氏は城郭と城下の大改修を行い飯田の基礎を造った、関ヶ原後飯田藩は小笠原、脇坂、堀氏の居城と成り明治に廃城。(飯田城案内解説板より抜粋)
 
 移築門:①赤門・・追手小学校の北の合同庁舎の東 ②桜丸の門・・経蔵寺山門(飯田市上郷別府1768)山門前に駐車場、飯田城より東に直線1.5km程 ③二の丸八間長屋門・・私宅長屋門(飯田市松尾久井2595)門前に小駐車場在るも私有地ですのでマナーと配慮をお忘れなく、飯田城より南東に1.8km程。
 
 探訪ルート:二の丸駐車場⇒飯田市美術博物館(館内見学、美術常設展示、飯田出身の菱田春草日本画は俊逸で圧倒され成す)⇒二の丸周辺⇒本丸二の丸空堀⇒本丸長姫神社⇒山伏丸温泉館⇒赤門、石組み井戸⇒二の丸門跡⇒水の手門跡⇒経蔵寺山門⇒私邸八間長屋門。
 
 別途桜:①二の丸の安富桜、樹齢450年の大木エドヒガン桜です圧倒される存在感、桜は散ってましたので翌年仲間と桜見学しました。②桜丸の夫婦桜枝垂れのエドヒガン桜です二本の大木です。③飯田には一本枝垂れエドヒガン桜があちこちに有り桜のシーズンは見所満載圧倒的景観です。④飯田駅近くの大宮通りには染井吉野桜並木が有りそれは素晴らしい、桜の時期が訪問お薦め、りんご、梨、桃も花盛り桃源郷の如く。

 桜の時期を過ぎて居り桜の写真が無く投稿出来ないのが残念です、飯田城は市街化が進んでますが残ってる遺構、移築門とあり、美術博物館菱田春草日本画は機会が有ったら是非鑑賞頂きたい作品です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

こうちゃん

これはこれで素晴らしい (2021/05/10 訪問)

鬼ノ城ビジターセンター駐車場を目指す。麓の整備された公園から先は細い山道が約3キロ。道中は待機スペースがちょこちょこ有り平日なら特に問題ないかと!ビジターセンターから10分弱で展望台が有り、そこから5分ほどで復元地帯(西門)に到着。観望して帰還で十分!物足りないならそこから2.3キロぐるりと回れる(各所遺跡)。
日本100名城に選ばれる『古代山城』の納得!そして総社市の観光意識の高さも伝わってきますよ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

こうちゃん

石垣に圧感❗️ (2021/05/10 訪問)

鶴山公園専用駐車場が便利!建物は備中櫓の復元のみだが、天守が復元されたのならトップクラスにランクアップ間違いなし!それほど石垣が素晴らしいのだ。城南側で東西に流れる吉井川沿いの国道429から城全体を眺めれるのだがとにかく全貌が素晴らしい!

+ 続きを読む

イオ

曽根弾正屋敷 (2021/04/25 訪問)

曾根城は山上の詰の城と山麓の平時の居館で構成されますが、居館は曽根弾正屋敷と呼ばれ、曽根集落内に往時のものとされる石垣が見られます。

屋敷跡から南に少し行くと、佐々木氏(曽根氏)が悪疫退散のため建立したと伝わる曽根石幢があったので、一日も早いコロナウイルス退散を祈願しました。その他、集落の墓地には曽根弾正の五輪塔もあるようですが、見落としてしまいました。飛鳥神社の道向かいにある「歴史探訪のふるさと曽根」の案内板を見れば、曾根城と周辺の見どころがよくわかります。

飛鳥神社は曾根城や曽根氏とは直接的な関係はなさそうですが、丸石積みの石垣がなかなか見事でしたので、お時間のある方はどうぞ。旧曽根小学校校舎の曽根郷土資料館は、屋根にブルーシートが掛けられた状態で長期休館中で、一部資料は隣接する南輪内センター内の曽根郷土資料室に展示されているそうですが、休館日だったので未確認です。飛鳥神社にも参拝者用駐車場はあるようですが、この日は南輪内センターの駐車場に駐めさせてもらって曽根集落を散策しました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

甲州金を纏った信玄さん

猿さん、朝田さん、レスポンスありがとうございます😊
ぴかぴかにお色直しされた信玄さん、恵林寺そばの「信玄館」にいらっしゃいます。
 山梨県立博物館に「生誕500年 武田信玄の生涯」を見に行った帰りに寄りました。
5枚目の信玄さんは塩山駅北口です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1035