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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:城びと未登録(静岡県静岡市)渋川館 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の15城目は渋川館です。
北脇城から転戦。説明板前(35.021942、138.468870)に路駐しました。

鎌倉御家人で入江一族の渋川権守遠兼より始まる渋川氏の館と伝えられます。
「曽我物語」・「吾妻鏡」に散見される渋川中務丞兼貞・渋川孫次郎朝貞がおり、朝貞は梶原討伐で活躍しました。
南北朝時代には入江左衛門尉春倫が渋川氏の後に居住したとも伝えられます。

説明板の写真を撮って撤収です。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:城びと未登録(静岡県静岡市)北脇城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の14城目は北脇城です。
吉川氏館から転戦。西照寺入口(35.019896、138.462013)と白髭神社入口(35.020281、138.464738)に駐車し、写真を撮って撤収しました。
今川氏の部将北脇喜十郎光定の居城であったが、1568年(永禄11年)武田信玄の駿河国侵攻により高橋城とともに落城したとされます。

白髭神社から西脇寺一帯に北脇城があったとされますが遺構は残っていないようです。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:城びと未登録(静岡県静岡市)吉川氏館 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の13城目は吉川氏館です。
久能山城から転戦。説明板前(35.021110、138.460178)に路駐しました。

戦国時代、安芸毛利氏の有力国人衆として活躍した吉川氏の出自は駿河豪族の入江氏とされ、1183年(寿永2年)頃、初代吉川経義がこの地に所領を与えられ館を構えたとされます。
鎌倉幕府を開幕した源頼朝の死後、幕府御家人達の政争が勃発。当主吉川小次郎友兼は京に向かう梶原景茂を討ち取るが、自らも交戦時の傷により没しています。
友兼の子朝経は亡父の戦功により播磨国福井庄に領地を与えられ、1221年(承久三年)の承久の乱では宇治橋合戦の活躍により安芸国大朝本荘の地を与えられるなど、吉川氏はその名声を高めていった。
のちも吉川氏はこの地より播磨・安芸の領地を支配するが、1313年(正和2年)五代吉川経高のときこの地より大朝庄に移住したようです。
この家系が後に毛利元就の次男吉川元春を養子に迎え、江戸時代周防国岩国3万石の領主となりました。

説明板の写真を撮って撤収です。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:久能山城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の12城目は久能山城です。
八幡山城から転戦。久能山参道付近の富久屋土産店駐車場(34.960097、138.468218)に駐車しました。

久能山城は、1568年(永禄11年)武田信玄は久能山にあった久能寺を移転させて跡地に久能山城を築き、板垣信安が城主でした。
1572年(元亀3年)板垣信安が田中城へ移動すると、今福浄閑斎・昌和父子が守将となります。
1582年(天正10年)徳川家康が駿河へと侵攻して江尻城主穴山信君が徳川氏に降ると、今福昌和も開城して甲斐へと去り、1583年(天正11年)には家康の家臣松平松平康俊が在番しました。
1586年(天正14年)松平康俊が病没。養子・松平勝政が家督を相続します。
1586年(天正14年)家康が秀吉の要請に応じ、徳川家が豊臣家に臣従します。
1590年(天正18年)小田原征伐の論功行賞で徳川家が関東に移封、中村一氏の所領となり松下吉綱が城主になります。
1600年(慶長5年)中村一氏が関ヶ原の戦いの直前に病死。死の前に家康への味方を約しており、嫡男・中村一忠は東軍へ参陣します。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの論功行賞において、中村一忠が伯耆米子城へ移封。久能城は大久保忠政が城主になります。
1607年(慶長12年)徳川家康の要請を受け榊原清政が久能城の城主になります。
1607年(慶長12年)榊原清政が病没。三男・榊原照久が家督を相続します。
1616年(元和2年)徳川家康が死去。家康の遺言により愛宕曲輪に埋葬され、久能城は廃城となり久能山東照宮が造営されました。

ロープウェイ休止中。付近のお店は全て閉まっていました。(お土産を買う予定でしたのでガッカリ、強雨&ロープウェイ休止なら来るお客さんもいないので閉まっていて当然ですね)
強雨の中、石段を登る根性なし。参道入口付近で引き返しました。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:城びと未登録(静岡県静岡市)八幡山城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の11城目は八幡山城です。
賤機山城から転戦。八幡神社入口(34.968850、138.400513)から中に入り、三峰神社に駐車しました。

八幡山城は駿河守護・今川範政が駿府館の支城として1411年(応永18年)頃築いた城です。
南朝方の工藤一族をようやく従えた今川範政は、1400年(応永7年)頃駿府に入ったと考えられます。駿府での戦乱はおおよそ半世紀以上に渡ったため、今川範政は周囲に城砦を沢山築きました。
1476年(文明8年)今川義忠の没後に起きた小鹿派と竜王丸派による跡目争いが勃発すると、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣しました。
この内紛劇は今川氏の被官で伊勢新九郎と名乗っていた頃の北条早雲によって解決し、早雲はそのまま城を修築し麓に居館をかまえました。
その後、早雲は内紛の首謀者であった小鹿範満を倒した功により興国寺城を与えられて移りました。以降は再び今川氏の持ち城となります。
今川氏滅亡後は武田氏が進駐するなど、駿河攻防の要所として使用されましたが、1582年(天正10年)徳川家康の関東入封にともない廃城となりました。

境内(駐車場)は17:00に閉鎖するそうです。徒歩であれば時間関係ありませんが、車の方は御注意下さい。
現在城址は「八幡山公園」となっており、曲輪跡や空堀などの遺構を確認することができます。
登城道は迷路ですが、ひたすら上に向かって登れば主曲輪跡にはたどり着けます。
攻城時間は20分くらいでした。

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Tiger

主郭石垣とカモシカの親子 (2018/11/11 訪問)

霧の中に見える石垣は幻想的でした。カモシカは好奇心旺盛な生き物です。

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町奉行所 (2021/07/22 訪問)

 JR川尻駅から徒歩10分くらいの所にある古城神社、川尻公園付近が城址です。案内板はありませんが、川尻公園に「町奉行所とお茶屋敷跡」の標識があり、その横に鎌倉時代から室町時代にかけて地頭職河尻氏の河尻城があったと記載されていました。

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竹崎季長 (2021/07/22 訪問)

 元寇のときに活躍した竹崎季長の居城と伝えられている城址です。
主郭付近まで車でいくことができます。主郭には竹崎季長城跡の石碑がありますが倒れていました。周囲には帯曲輪と思われる削平地があります。

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名和氏の城 (2021/07/22 訪問)

 主郭には城址碑があり、虎口付近には案内板もありました。周囲には堀の跡を見ることができます。建武の新政で登場する名和長年の子がこの付近を支配したときに築城されたといわれています。
国道3号線近くですが、見つけにくい場所にあります。

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お辻さん (2021/07/22 訪問)

 案内板はありますが、見つけるのに苦労しました。案内板によると空堀があるとのことでしたが、確認していません。この城の城主が辻姫という女性であったとの伝承があります。それでこのあたりの人は「お辻さん」とよんでいるそうです。姫は鈎野民部少輔の妻か娘で城主の死後、その代理として城主となっていたのではなかろうかと案内板には書かれていました。

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小西行長 (2021/07/22 訪問)

主郭が公園として整備され小西行長の像が立っています。石垣、堀が残っています。

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千畳敷と三城 (2021/07/22 訪問)

「千畳敷」と「三城」にわかれています。
「千畳敷」の方は堀があり公園として整備されています。堀は固められていて少し違和感を覚えますが、保護のためということです。堀底がボコボコしている未完の堀の跡と説明が書かれてありました。竪堀があるらしいのですが、夏草のためかよくわかりませんでした。「三城」の方は曲輪跡らしい削平地がありますが、藪となっている所もありました。石垣がありましたが、これは当時のものか否かわかりません。写真は添付しておきました。

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にのまる

【お城川柳】

抜けるのか?触ってみた人手を挙げて

はいっ(^o^)/

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にのまる

【お城川柳】

石工らは名より作品残しおり

匠の技!

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にのまる

【お城川柳】

また会いに来るねと風に囁きぬ

('ω')ノ 

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はるやま

2回目です。 (2021/06/30 訪問)

12月に頂上まで登りました。6月にふもとの館に行きました。改めて感銘を受けました。

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肉球

目立つ天守台 (2021/06/25 訪問)

前田利常の隠居城として改修された時の天守台が
県立小松高校の敷地内に残っています。
学校の敷地内ですが天守台近くから階段が備わっていて断りなく入れます。
前回訪れた時登れなかった天守台に手すりや柵が設けら再び登れるようになっていました。
駐車場はなく住宅街の生活道路に路駐です。
市内には二の丸鰻橋門が来生寺に常盤門が芦城小学校に移築されています。
また丸岡城の移築門も市内の興善寺に移築されてます。

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赤い城

北条早雲旗揚げの城 (2021/07/18 訪問)

原駅から徒歩30分だがこの日は車で登城。
駐車場は三の丸、坂道を登って行くと本丸に穂見神社が建ち、脇に続100名城スタンプとパンフレットが置いてあります。
神社の脇から登ると天守台、石垣が残っています。
西櫓台から本丸を見下ろすと発掘調査中であることがわかります。
本丸を囲む土塁には高さがあります。
天守台と北曲輪の間が最大の見どころ、大空堀。
深さもあり、折れも伴っています。
西側は岩盤を削ってあり鋭さも感じられました。
北条早雲今川氏親より与えられ、伊豆韮山へ攻め込む足がかりとした城。
その後は今川氏、武田氏、徳川氏など支配者が目まぐるしく変わった城です。
東駿河の重要な城郭として長い間機能したことにもなります。
これから整備も進んでいきそうですがやり過ぎないようにお願いしたいです。

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イシテル

神通力を持つ蛤石のある古城 (2021/07/17 訪問)

道の駅アルプ飛騨古川に車を停め、GoogleMapを頼りに宮川を渡り、県道から脇に入る林道を進んでいると山への侵入を阻む表示板が何枚かあり、そこから行くのを断念。宮川沿いの県道に戻り、歩いて行くと、「吉城コンポ」の看板があるGoogleMapの示す別のルートから山に入りました。多くの土、石が置かれた資材置き場に挟まれた道を行けどもGoogleMapが示す登城口が分らず、断念しようとした時、草が茂っている奥に山道があるのを見つけ、草むらをかき分けて入って行きました。入口が整備されておらず、夏場は登城口が判り難い状態です。でも山道に入ると意外と歩いやすい道が続き、15分程度で城跡へ到着します。神通力を持っていたと言われる「蛤石」が鍵の掛けられた小屋の中に置かれており、不思議な石であることが感じられます。
主郭まで進むと櫓台があり、櫓台から主郭を見ると、古川城の全体が望め、主郭の下には幾つかの帯曲輪があることが判ります。
場所が判り難い点はありますが、神通力のあると言われる不思議な蛤石を城跡で見ることが出来ます。

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ぴーかる

沼津城 (2021/07/10 訪問)

【沼津城】
<駐車場他>駐車場はなし。本丸跡にコインPあり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日沼津・三島の城巡り旅5城目。沼津城は戦国時代と近世に2度築城されている。戦国時代は1577年武田勝頼が上杉景勝と同盟して後北条氏と手切れになり、戸倉城攻略の拠点として豆州境に築いたもの。武田氏滅亡後は徳川方の城となり、小田原征伐には豊臣秀吉も入城している。江戸時代初期は沼津藩大久保忠佐が入城したが嫡子無しで廃城となったり、城地が火災に遭ったりして、やがて開墾地となっていったようです。1740年に水野氏が沼津藩を与えられ改めてここに築城し直した。現代では識別の為に戦国時代の時の城は三枚橋城と名付けていますが同位置にあったようです。
 現在では遺構はかなり破却されているようで、本丸跡の中央公園に説明板、石碑の石台が当時の石垣石だったようです。行きませんでしたが各所にも復元の石垣があります。

<満足度>◆◇◇

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