続日本百名城
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2021/05/05 20:53
2021/05/05 17:50
武田・今川の激戦地 (2021/04/25 訪問)
今川義元亡き後、駿河侵攻を始めた武田信玄と、今川方との激戦が行われた城として知られています。最近は整備が進んでいて、麓の花沢の里の駐車場から登れます。
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2021/05/05 17:40
発掘調査を基に建物が復元された戦国の城 (2021/05/03 訪問)
9年ぶりに行きました。
ある程度は推定かと思いますが、物見台、厨(くりや)、高櫓などの建物が復元され、戦国の城が分かり易いです。
特に高櫓は黒色でカッコよく、内部も厠(かわや)、武者隠しなどが再現されていて良かったです。
建物以外も綺麗に整備されており、切岸、曲輪、堀切などの遺構も見易かったです。
子供連れでしたが、安心して見学できました。
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2021/05/05 16:59
油山寺(掛川城大手門) (2021/05/05 訪問)
掛川城の大手二之門が明治6年に移築され山門として残っています。遠州三山のひとつで目の霊山として有名な寺で、他にも今川義元が寄進した本堂内薬師如来厨子、源頼朝より眼病平癒の礼として寄進された三重塔や薬師本堂があります。名前の由来は昔この地から油が湧き出たため「あぶらやま」と呼ばれていたことに由来するそうです。以前にも来たことはあるのですが、山門が掛川城の大手門を移築したものとの知らず写真を撮っていなかったために再訪しました。掛川城址にも復元された大手一之門があります。似ていますが別の門とのことです。
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2021/05/05 15:34
「三宅御土居」 (2020/03/29 訪問)
<オススメ>★★★☆☆
益田氏の館であった三宅御土居は、南北朝時代に11代兼見によって築造された。益田氏第20代当主・益田元祥が大改修したとされる。長さ90m・高さ5mの東土塁と、長さ50m・高さ4.5mの西土塁、周囲を堀が囲んでいた。関ヶ原の合戦後、毛利氏が防長2国へと減封となった際に、益田元祥は毛利氏に従って長門へと移り、廃城となった。現在、土塁等が遺されている。
益田元祥は、父は益田藤兼、妻は吉川元春の娘。毛利輝元や吉川元春のもとで戦功をあげる。上月城の戦いや備中高松城の戦いにも吉川元春に従軍する。毛利輝元が豊臣秀吉に臣従すると四国征伐では伊予高尾城を攻め、九州征伐では豊前・宇留津城攻めで功績を挙げた。小田原征伐では、毛利水軍を率いて伊豆下田城を落とした。朝鮮出兵では吉川広家とともに明軍を撃退している。減封に伴い、藩の財政状況が悪化に対処するため財政整理を行い、長州藩の財政基盤の確立に貢献した。
<アクセス>
JR益田駅 徒歩40分
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2021/05/05 15:15
「益田氏七尾城」 (2020/03/29 訪問)
<オススメ>★★☆☆☆
七尾城は益田氏歴代の居城である「三宅御土居」の詰城として七尾山に築かれたとされる。戦国時代には、陶晴賢と毛利元就との戦いの中で、益田藤兼は陶側に加勢し、毛利の攻撃に備えて城を大改修したとされる。その後、益田藤兼は吉川元春の石見侵攻の際に、降伏し旧領を安堵された。関ヶ原の合戦後、毛利氏が防長2国へと減封となった際に、益田元祥は毛利氏に従って長門へと移り、廃城となった。益田氏歴代の居館である「三宅御土居」とともに「益田氏城館跡」として国の史跡となった。現在、土塁等が遺されている。
<アクセス>
JR益田駅 徒歩40分
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2021/05/05 14:03
「山口藩庁」 (2020/03/29 訪問)
<オススメ>★★★★☆
山口藩庁は、大内氏の詰城であった高嶺城の山麓に、長州藩主・毛利敬親が築いた。萩城から居城を移転し、萩城の御殿も移築したとされえる。幕末志士であった伊藤博文や高杉晋作、木戸孝允などが出入りしていたとされる。廃藩置県まで藩庁門として活用され、山口県庁正門を経て、大正5年からは新県庁舎(現県政資料館)の西門として現在に至る。現在、曲輪、石垣、横堀(水堀)、門が遺されている。
<アクセス>
JR山口駅 徒歩25分
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2021/05/05 13:58
2021/05/05 13:52
「築山館」 (2020/03/29 訪問)
<オススメ>★★★☆☆
築山館は大内氏館の北側に第28代当主・大内教弘が建てた別邸。大内教弘は防・長・豊前・筑前四州の守護である。朝鮮と通交し、京都に並ぶほど豪華絢爛な街並みの基礎を確立した。築山館は、大内義弘の時代には迎賓館として活用されていた。大内氏滅亡後は荒廃し、廃城となる。現在、土塁等が遺されている。
<アクセス>
JR山口駅 徒歩20分
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2021/05/05 11:04
夏の陣秀忠陣城 (2021/05/03 訪問)
【岡山城】
<駐車場他>忍陵神社参拝者駐車場2台分あり。
<交通手段>車
<感想>岡山城は飯盛山城の支城として三好氏が忍陵古墳に築いたようです。大坂夏の陣では徳川秀忠の陣城となった場所で、冬の陣で秀忠の陣城となった生野区にある岡山砦があることから、この2つの将軍の陣城がのちに岡山と名付けられたようです。冬の陣は城攻めが主な戦いだったために、秀忠も大坂城の2㎞程南に陣を敷いたが、夏の陣は裸城となった大坂城は野戦メインで、10数㎞離れた安全な後方に陣を敷いている位置関係がよくわかります。
忍陵古墳は石室が発見されて本殿横に保管されていて、格子窓から中が覗き見ることができます。城の説明は少なく、添付写真の石柱のみしか見当たらなかった。
<満足度>◆◇◇
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2021/05/05 10:37
松永秀久が大規模に改修 (2021/05/03 訪問)
2015年11月にtodo94さんが訪問されてから5年半あまり。整備されてなく本郭に立つのに難渋したとレポートされてます。上牧町HPに大規模な横堀が紹介されているのに引かれて、藪漕ぎ覚悟で行ってみました。
その後、それなりに同好者が来ているようで、本郭とそこに至る道と帯郭は、草刈りされていました。また、4枚目写真のように、私有地の畑に侵入せずに本郭に行ける道順が示されていました。峠道沿いの説明板の右側のものが更新されてました。それ以外の箇所は未整備ですが、ありがたいことです。
本郭とその東側の郭が片岡氏時代からのもので、南側の郭と横堀は、松永秀久が加えたものと。本郭とその東側の郭の間から始まって、幅広い横堀が南北に180m以上続いており、壮観です。
郭群は峠道を挟んで配置されています。南側の郭の南側にも横堀があり、少し藪漕ぎして、行ってみました。切り岸の上には土塁もあります。
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2021/05/05 09:12
筑波山を望む (2021/05/01 訪問)
筑波山の麓でのゴルフ帰りに立ち寄りました。
駐車場もあり、案内所にパンフレットもあります。
主郭部は公園になっていて高い土塁で囲まれています。
東虎口が大手になり、東曲輪との間に木橋が掛かります。
南西には馬出跡、主郭内には建物跡や井戸跡、暗渠の跡などの位置も示されていました。
城域は広いですが住宅地になっていてなかなか歩き回る訳にもいかなそう。
小田氏の居城で周辺より何度も攻められた城。
上杉、佐竹氏に攻められて落城後は佐竹氏家臣、梶原政景が入りました。
佐竹氏移封後は廃城に、一時幕府領になったこともありました。
新緑の土塁越しに筑波山を望むことができ、景観も良い城です。
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2021/05/05 07:12
2021/05/05 06:21
にっぽん城まつり.feat出張お城EXPOに行って来た。 (2021/03/20 訪問)
3月の連休に名古屋のセントレアで開催された「にっぽん城祭り.feat出張お城EXPO」に行ってきました。
東海3県の地酒とお城のイベントでした。
どちらも郷土を象徴するもの、という共通項で一緒のイベントにしたのだろうけど、この点の作り込みが甘い感じがしました。
にっぽん城のまつりの運営チームに歴史に明るい人がいないんだろうなぁ、だからお城EXPOを連れて来たんだろなあ。という感じでした。
次回やるのならば、お城EXPOに中部3県の地酒と絡めた展示を期待したいです。
自治体ブース・鯱・お城EXPOの絵図とパネル展示・会場内のステージと内容は面白かったですし、地酒も美味しかったです。
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2021/05/05 06:03
島原城 (2021/05/03 訪問)
島原城は、施設が整っており見所満載です。城周辺でグルメを味わうことができます。雑煮と素麺がご当地グルメです。
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2021/05/05 06:03
島原城 (2021/05/03 訪問)
島原城は、施設が整っており見所満載です。城周辺でグルメを味わうことができます。雑煮と素麺がご当地グルメです。
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2021/05/05 05:10
想像していたより立派です (2021/05/04 訪問)
階段が梯子の様で 密になってしまいました。
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2021/05/05 05:05
感動! (2021/05/04 訪問)
天守台跡からの眺め最高です!
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2021/05/05 00:12
懸造りを持つ仙台藩一門筆頭石川家の城 (2021/05/04 訪問)
藩政時代の領主石川家臣団の武具を集めた「甲冑展」が角田市郷土資料館で開催中とのことで角田市を訪問した。江戸期の戦闘用甲冑や飾り甲冑、武具などが多数展示されており楽しめた。また同郷土史資料館には仙台藩主伊達家一門筆頭の家柄である石川家、三代宗敬(むねたか)に嫁いだ政宗の次女「牟宇姫」(むうひめ)、角田要害についての資料が常設展示されている。
今回特に目についたのが貞享4年(1687)に堀さらいを願い出た際の「角田要害図」である。要害とは仙台藩から上級家臣に地方知行とともに宛がわれた在郷屋敷で、そのほとんどが中世からの城館である。要害図の中央左、高い切岸で囲われた主曲輪の「居所」と書かれた文字の右に懸造りが描かれている。仙台城本丸の他に、懸造りが角田要害にもあったことの証であり、ちょっと驚かされた。
角田地方は多賀国府と霊山をむすぶ要地で南北朝時代から田手氏・伊達氏・亘理氏・相馬氏による騒乱の地であり、江戸時代に入っても仙台藩の南に対する防御は白石城・金山要害・角田要害が担っていたのだろう。
城は角田盆地の中央、西からのびる台地がくびれた独立丘陵の最高所を主曲輪とし周囲の曲輪を水掘で囲った平山城。東西400m、南北450m、標高28mの規模と云う。築城者は天正年間に相馬氏に備えて配された伊達成実とされる。慶長3年(1598)角田の地は石川昭光に与えられ、家禄2万1380石、一門筆頭として明治維新まで続いた。
城址は角田高校と角田中学校の校地となり、水堀も埋め立てられ、高校への通学路脇の切岸にかつての面影が残っている。また石川家の菩提寺「長泉寺」には大手門(臥牛門)が移築されている。
角田城(角田要害)と城主石川家を理解いただくため「角田市郷土資料館」への訪問をお勧めしたい。
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2021/05/04 23:39
残念!!写真ではこの城の凄さは伝わりません。 (2021/05/04 訪問)
写真よりは縄張図の方が伝わるかなと思って一枚目に縄張図の写真を挙げたのですが、実際に登ってもらうのが一番いいと思います。
いわゆる畝状竪堀群が有名なお城で、その数が半端ないです!!
普通、こういうのは敵が攻めてくる可能性が高い一方だけに築かれることが多いのですが、
360度張り巡らされているということは、それだけ戦国の世に生き残るのがが厳しくなっていたということですかね。
それから、竪堀以上に感動したのは「切岸」です。
非常に急こう配で高さがあります。近世のお城で言えば高石垣に相当するといっても過言ではないと思いますよ。
車は「古今伝授の里フィールドミュージアム」に駐車できます。
麓には国名勝東氏館跡庭園があります。篠脇城はこの東氏の居城です。
東氏9代目の東常縁(とうのつねより)は歌人としても有名で日本史の教科書にも出てきますね。
東氏記念館や大和文化財収蔵展示館には貴重な史料が展示してありますので、そちらにも是非足を運んでみてください。
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