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にのまる

【家×お城】登城したお城しりとり[114]

八代の【しろ】をいただき、

白金館(しろかね)…東京都

金山城(かなやま)…100名城

山名城(やまな)…群馬県

長篠城(ながしの)…100名城

志苔館(しのり)…続100名城

今後のしりとり攻城のため、200名城以外の登城したお城を五十音順にExcelで管理することにしました。(出たら赤に変える。)そしたら自力で長篠から函館空港に行けることがわかったので行きます!

次の方、「り」の蔵出しをお願いいたします(*・ω・)ノ

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城好きのメガネ

「片倉城」 (2020/03/23 訪問)

<オススメ>★★★★★
片倉城は、標高は約139m、比高約30mで、北には湯殿川、南は兵衛川が流れる交通の要衝に築かれている。鎌倉時代には武蔵七党・横山氏の所領であったが、和田合戦で横山氏が衰亡する。その後、当地を大江広元の次男・長井時広が入り、片倉城を拡張したとされる。戦国時代には、扇谷上杉氏の支配下に入った。上杉顕定が敗死した頃に長井氏も没落し、片倉城は一時廃城となる。その後、大石氏、後北条氏の支配下に置かれる。当初は滝山城の支城として改修され、北条氏照が八王子城に移ると出城としての役割を担った。小田原征伐で落城し、廃城となった。現在、土塁や堀が遺されている。

<アクセス>
JR片倉駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「初沢城」 (2020/03/23 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
初沢城は、武蔵七党の横山党の一族・椚田氏の居城とされる。横山党が和田合戦で衰亡すると当地は大江広元に与えられた。大江広元の次男・長井氏の祖である長井時広が拡張したとされる。時広は源実朝の信任も厚く、関東評定衆、六波羅評定衆などを歴任した。戦国時代には、扇谷上杉氏の支配下に入る。その後、後北条氏の傘下に入り、八王子城の支城として機能した。小田原征伐で、落城し、廃城となった。現在、土塁や堀などが遺されている。

<アクセス>
JR高尾駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「岩殿山城」 (2020/03/23 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
岩殿山は9世紀末に天台宗の岩殿山円通寺として開創されたとされる。16世紀には武田・小山田氏の支配下になり武蔵及び相模に備える戦略上の重要な拠点として利用された。1582年、武田及び小山田氏が滅亡すると徳川氏に利用されたが、17世紀初期に廃城となった。現在、曲輪や堀などが遺されている。

<アクセス>
JR大月駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「勝沼氏館」 (2020/03/23 訪問)

<オススメ>★★★★★
勝沼氏館は比高差約20~30mの河岸段丘上、標高418m付近に築かれている。甲斐国の東部に位置し、重要な拠点とされた。戦国期には、武田信虎の弟・信友が館主となった。信友は北条・今川連合軍との戦いで勝沼衆を率いて参陣し、討ち死にする。その後、武田氏の親族衆や重臣が館主となった。館は二重の土塁と堀に囲まれ、礎石を用いた建物や鍛冶工房などが置かれたことから防衛のみならず経済拠点としての役割も担っていた。現在、土塁や堀などが遺されている。

<アクセス>
JR勝沼ぶどう郷駅 徒歩30分

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ぼぶっち

須屋城 (2020/05/24 訪問)

看板のみが公演に小さく掲示されていました

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城好きのメガネ

「於曾屋敷」 (2020/03/23 訪問)

<オススメ>★★★★☆
於曾屋敷は、東西90m、南北110mの規模を有し、二重の土塁で囲まれた中世方形館である。平安時代末に当地を支配していた三枝氏が没落し甲斐源氏が台頭してきた。加賀美遠光の四男・光経が於曾四郎を、五男・光俊が於曾五郎を名乗り於曾の名跡を継いだ。於曾郷は武田氏の重臣である板垣氏の支配下にあった。板垣信方の嫡子・信憲の代に断絶となるが於曾氏の信安が継いだとされる。板垣信安は武田親族衆の一人として武田勝頼の代には駿河・田中城主を務めた。現在、於曾屋敷の西側は個人の民有地であり、東側甲州市が管理する公園として整備されている。土塁や空堀が遺されている。

<アクセス>
JR塩山駅 徒歩10分

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じゅんじん

カモシカ (2020/03/20 訪問)

よく整備されていました。隣の資料館もよかった。

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城好きのメガネ

「連方屋敷」 (2020/03/23 訪問)

<オススメ>★★★★☆
連方屋敷は武田氏の蔵前衆である古屋氏の居城とされる。蔵前衆とは武田氏の直轄領からの年貢や銭貨などが貯蔵された御蔵を管理・運営する役人で勘定奉行の管理下に置かれていた。また金山衆とともに鉱山開発及び管理を行っていたとされる。そのため交通の要所に置かれ武田氏の経済を支える重要な拠点であったとされる。しかしながら、連方屋敷に関する史料は乏しく築城者や呼称の由来は定説化したものはない。現在、土塁や堀が遺されている。

<アクセス>
JR東山梨駅 徒歩10分

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todo94

【家×お城】登城したお城しりとり[113] (2018/09/09 訪問)

「や」も「みや」も厳しかったでしょうか。とりあえず、続100名城を1つクリアしておきます。【八代城】。次は、「ろ」「しろ」「代」でお願いします。

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じゅんじん

静岡市街を一望 (2013/12/22 訪問)

今川氏の水軍基地でした。今川・武田・徳川氏の間で攻防戦があったとか。

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大草城 (2020/04/22 訪問)

満足度 ★★☆☆☆
【大草城】
 西尾式部道永が文安年間(1444〜49)に築いた。道永は、三河西尾の出身といわれ、岩倉織田氏に仕えた。その後、織田氏の家督争いからこの地を離れ、天文17年(1548)頃大草城は廃城となった。
 本丸及び背後の大堀切は現存しないが今でも曲輪や堀、土塁を見ることができる。(小牧市教育委員会による案内板)

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城好きのメガネ

「八田家屋敷」 (2020/03/23 訪問)

<オススメ>★★★★☆
八田家は武田氏の家臣で、家中の財政を担う御蔵前衆(蔵奉行)を務める一方で商業活動も行う在郷商人であった。武田氏滅亡後に織田方に焼き討ちされる。その後、甲斐を領有した徳川氏の庇護に入り、諸役免許状(朱印状)を受けて安堵され、有力郷士となる。表門は石和陣屋から移築したものである。現在、曲輪、土塁、書院、門(石和陣屋表門)などが遺されている。

<アクセス>
JR石和温泉駅 徒歩15分

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九之坪城 (2020/04/25 訪問)

【データ】
別名   此壷城、久ノ坪城
城郭構造 平城
築城主  簗田政綱
築城年  不明
主な城主 簗田氏
駐車場  北名古屋市健康ドーム(近くに専用駐車場がなかったので、停めさせていただきました。)
所用時間 約5分
満足度  ★☆☆☆☆
【歴史】
 室町時代から戦国時代に移りつつあった頃、尾張国の守護・斯波氏の家臣であった簗田政綱は、主家衰退後、織田信長に仕え、戦功により九之坪城を与えられ、この地を領することになりました。
 桶狭間の戦いでは敵の今川義元の動静を探り、この戦いの勝利に大きな貢献をしました。
 その後、柴田勝家、豊臣秀吉等とともに各地に転戦して数々の功績を残しました。その拠点となった九之坪城は、これ以前、当時の地侍の有力者が「此壷城」と称し、この地に構えたとされる館を、増改築したものと伝えられています。廃城の時期、経緯については明らかではありません。(九之坪城案内板を参考に一部加筆)
【感想】
遺構は消滅していますが、北名古屋市健康ドーム付近のシルバーセンター前に石碑と案内板が建てられています。

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ぴらにあ

富山城郭カード33 (2020/02/29 訪問)

島倉公民館横から林道で元鳥山山頂付近まで行きます
その後は尾根伝いに城跡まで縦走しました

堀切、竪堀、広い曲輪跡など確認できます

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城好きのメガネ

「横山党根拠地」 (2020/03/22 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
横山党は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて70余りの氏族を含む最大規模の武蔵七党の筆頭である。横山時兼は石橋山の合戦以来、源頼朝に仕えた。2代将軍・源頼家誕生の際には御守刀奉人七人のうちに名を連ねている。和田義盛の乱では時兼は和田氏に属したため一族の多くは討ち死にした。この合戦後に、累代の所領である横山荘を没収され、横山一族は表舞台から姿を消した。横山荘は大江広元に与えられ、横山党の始祖横山義孝を祀った横山神社を八幡八雲神社の境内に創建したとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR八王子駅 徒歩15分

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響ちゃん

カラスが… (2020/05/23 訪問)

上空からカラスに睨まれて怖かったぽい

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dougen

2017.7.17登城 (2017/07/17 訪問)

<居館部>
前日、山形県の米沢市に宿泊し、夜明け前に出発して国道113号で平林城址へ。
城址は国の史跡として整備されており、入口に駐車場もあります。
城址は居館部である平林城と要害部の加護山城で構成されています。
居館部と言っても規模が大きく、平城の縄張りです。
また、遺構の状態も良く土塁や空堀などが随所に確認でき、解説板なども設置されており、安心して城址散策をすることができます。
ちょっとしたハイキングとなりますが、要害部の加護山城とセットで散策することをオススメします。
<要害部>
平林城の中曲輪の東側から加護山城への登城口があります。
加護山の比高は意外とあり、平林城から加護山城へは30分ぐらいかかります。
登城道はハイキングコースとして整備されていますので、特に問題なくたどり着けます。
要害部の遺構としては郭跡、堀切、空堀などが確認できる他、登城途中には、城戸跡や馬洗場などの遺構もあります。
登城はちょっとしたハイキングとなりますが、平林城とセットで行くことをオススメします。

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田沼意次 (2020/05/23 訪問)

  牧之原市資料館が本丸跡で石碑があります。仙台河岸と二の丸のわずかに残った土塁に面影を見ることができます。縄張り図を見るとすばらし城であったと思いますが残念ですね。

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旧妙音庵薬師堂の裏から (2020/05/23 訪問)

 登城口としては民家横の整備された階段からお墓を通るルート、あるいは上の茶畑から行くルートがありますが、自分は「武蔵の五遁、あっちへこっちへ」さんの意見を参考に旧妙音庵薬師堂の上にある金毘羅神社の裏から直登しました。ただ先人が通った足跡があり辿って容易に1分くらいで行くことができます。思ったより藪となっていましたが、いくつかの堀切を見ることができます。特に主郭から大手(茶畑方面)へ行くと堀切の状態が比較的よく残っていて楽しむことができます。帰りは茶畑から出て来て舗装された道を降りてきました。

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