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にのまる

【お城川柳】

ひとつとして意味なき石などなかりけり

裏込石も間石も。
人間も。

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赤い城

関東七名城の一つ、石垣だけではない。 (2021/07/04 訪問)

東武太田駅から徒歩で60分。
駐車場もあります。
駐車場から階段を登るとすぐに西城の喰違虎口。
西に行くと見附出丸があり虎口の外側に堀切もあります。
西城から実城に行く間にも2つの大きな堀切、
さらに進むと物見台下の岩盤を削った堀切。
この辺りから石垣が見られます。
馬場曲輪と三の丸の間の堀切、そこから月の池。
さらに本丸虎口へと続きます。
日の池から登ると実城本丸の新田神社ヘ。
裏側に石垣も残ります。
本丸と二の丸の間から北城に向かうと大きな堀切。
北城はこの時季笹薮となっていました。
引き返し本丸南の南木戸石垣などさすがに見どころは多いです。
麓のガイダンス施設にパンフレットがあり、ここも見どころですね。
新田氏の城でしたが戦国期には北条氏のものとなり、秀吉の小田原平定により廃城となりました。

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まゆ

設楽の山城 (2021/07/15 訪問)

愛知県設楽町の山城が熱すぎます(●´ω`●)
道の駅したら、にて、各山城のリーフレットが無料でもらえますが、これも秀逸。
ご城印もありますが、何より
城郭図入りリーフレットが秀逸

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ぴーかる

閉鎖中で (2021/07/10 訪問)

【百名城58城目】
<駐車場他>城跡駐車場無料あり
<交通手段>車

<見所>堀・曲輪・土塁
<感想>1泊2日沼津・三島の城巡り旅2城目。到着し城跡の大駐車場が閉まっていたので、おかしいなと思いつつ、茶屋に駐車すると、なんと先日の大雨で土塁が崩落し7/16まで閉鎖となっていました。岱崎出丸の方は開いていたのでこちらのみの見学となってしまい、さらにすごい霧で見通しは最悪でした。逆に箱根旧街道は幻想的な雰囲気を醸し出し良かった。松田康長・一柳直末の墓地も手前にロープが張られ奥まで行けず遠目でお参り、スタンプ押印・御城印購入は茶屋でできたものの、肝心の本丸を含む半分以上の城跡部分が攻められず無念が残る中、これではプロフィールにある信念に反するので再訪を誓いあとにした。茶屋のおばちゃん曰く、昨年工事で盛土したところが崩れたそうです。入口から見える三の丸の堀の土塁の崩落部分が見れたので添付しておきます。満足度は暫定評価と致します。

<満足度>★★★☆☆(暫定)

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】上ノ国には,天の川が流れとる! (2021/07/09 訪問)

「花沢で 七夕伝説 回想す」

上ノ国町,花沢館のすぐワキには「天の川」が流れてました。七夕が過ぎたばかりということもあり,引っ掛けてみました。
洲崎館から徒歩約20分で登城口到着です。

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カズサン

【お城川柳】伐採景観整備で一句

 ・ 木を切りて 高土塁出現 勝間田城

 ・ 茶畑を 登りて圧巻 二段土塁

 勝間田城は戦国前期、近くの諏訪原城、高天神城ほど有名では有りませんが牧之原台地の谷筋丘陵にひっそりと存在し、今年3月末までに牧之原市で城址の景観整備で3曲輪北側の樹木を伐採し3曲輪の二段高土塁、横堀、虎口がはっきりと確認目視出来る様になりました、麓の茶畑から登って眼前に飛び込んでくる高土塁上部から自然地形谷筋下まで樹木が綺麗に排除された姿は圧巻ですので詠んでみました。

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てぬき親父

お城川柳

お堀端 いつも笑顔の デート道

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てぬき親父

お城川柳

城巡り 自分をちょっと 好きになり

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黄金虫

【お城川柳】

城山は 元気象台 現役場

二の丸。昭和50年のつくば移転までは気象測器製作所。

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黄金虫

【お城川柳】

小金城 達磨口跡 犬散歩

石柱は達磨口、説明板は達摩口。どっちなの?市教委。

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黄金虫

【お城川柳】

「上様」が ご案内する 姫路城

松平健が音声ガイドのナレーションを担当。でも有料。

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黄金虫

【お城川柳】

暴れん坊 将軍ロケは 姫路城

「暴れん坊将軍」ロケの江戸城は、実は姫路城だった。

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黄金虫

【お城川柳】

美白度の 代表格は 白鷺城

白さではダントツの1位。修復でなおさら白くなった。

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黄金虫

【お城川柳】 熊本城・松本城

漆黒美 競う熊本・ 松本城

真っ黒度ナンバー1は熊本城か、烏城禁止の松本城か。

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黄金虫

【お城川柳】

どっち好き 白黒つかぬ 城の色

黒=豊臣系、白=徳川系とか、どっちも好きでいいよ。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:鳥羽山城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の6城目は鳥羽山城です。
二俣城から転戦。公園駐車場(34.857371、137.805959)に駐車しました。

鳥羽山城は徳川家康が二俣城攻略のため、1575年(天正3年)に築かれた付城です(それ以前に1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い後に今川方が築いていた説もある)。
1572年(元亀3年)から1575年(天正3年)の間、徳川家康と武田信玄・勝頼親子との攻防戦が繰り広げられた城として著名です。
徳川氏の関東転封で豊臣方の堀尾氏が、1590年(天正18年)から1600年(慶長5年)の間、城主だったそうです。
天守台や石垣は、堀尾氏によって築かれたものと推定されています。
発掘調査の結果、鳥羽山城は二俣城と同規模、またはそれ以上の城郭があったことが判明し、各曲輪・枡形門跡・庭園・石垣・井戸・排水溝などの遺構が発掘されました。
また、染付・天目茶碗・鉄釉仏飯器なども発見されているそうです。

現在は鳥羽山公園になっているので登城路はしっかりしているが、雨で石段が滑る。縄張りがわかるように整備されています。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:二俣城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の5城目は二俣城です。
笹岡古城から転戦。城駐車場(34.862929、137.810352)に駐車しました。

二俣への築城は、戦国時代初頭、遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際に、今川氏が拠点とするために城館を築いたのがその初めといわれます。
ただし、それは後のように山城ではなく、北東の平坦地にあったと考えられています(現在の浜松市天竜支所周辺。笹岡古城の名が残る)。
1572年(元亀3年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃しました。
二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が浜松城から出撃し、12月23日に三方ヶ原の戦いで両軍は激突、武田軍は大勝しました。
しかし、上洛そのものはまもなく信玄が発病したために中止となり、信玄は帰国中に死亡しました。
その後二俣城には、信濃先方衆の依田信蕃が城主として入りました。
1575年(天正3年)5月21日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗しました。
家康は直ちに反攻を開始、同年12月24日、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退しました。
家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせました(武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しませんでした)。
そのまま大久保忠世が城主を務めたが、本能寺の変後の家康の勢力伸張に伴い忠世自身が信州惣奉行として小諸城に在番することが多く、二俣城にはあまり在城していなかったそうです。
1590年(天正18年)、家康の関東転出に伴い堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城はその支城となりましたが、1600年(慶長5年)に堀尾氏が出雲に転封すると廃城となったようです。

二俣城といえば、1579年(天正7年)家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られています。
現在、城址には天守台・石垣・土塁などが残っています。また、井戸櫓が清瀧寺に復元されています(自分は時間の都合で行けませんでした)。
本丸跡の天守台は圧巻です。また、所々に石垣が残っており、堀切はよく形を残していました。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:城びと未登録(静岡県浜松市)笹岡古城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の4城目は笹岡古城です。
高根城から転戦。浜松市天竜区役所駐車場(34.872753、137.815890)に駐車しました。

笹岡古城についての詳細は不明ですが、文亀年間(1501~1504年)に二俣昌長が築いたと伝えられています。
松井宗信がのちに二俣城を築いて移動した為、笹岡古城は廃城となりました。築城されるまでは、二俣城と呼ばれていたようです。背後の山(本城山)に詰め城がありました。

旧天竜市役所庁舎建設により、城址の遺構は消滅しましたが、浜松市天竜区役所の駐車場入口に城址碑と説明板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:高根城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の3城目は高根城です。
和田城から転戦。県道389号線の林道立山線入口(35.152191、137.876308)から林道に入り、そのまま車を進めた終点が駐車場です。

1414年(応永21年)後醍醐天皇の孫・尹良親王を守るため、地元豪族・奥山金吾正定則によって築かれ、水窪川対岸には親王のための仮宮が建てられたそうです。
戦国時代には駿河今川氏に属したが、今川氏が衰退すると、武田信玄の遠江侵攻が始まり、1569年(永禄12年)城主・奥山民部少輔貞益の時、姻戚関係にあった信州遠山氏に攻められ落城しました。
落城後、武田方により改修が行われ、1572年の遠江侵攻においては武田軍の拠点となったようですが、長篠の戦い後、武田氏の遠江からの撤退により廃城となりました。
2001年(平成13年)に主殿・城門・井楼櫓・柵条が復元されました。

自分が駐車した場所から城址までは比高を意識せず、ほぼ横移動で行ける為、初心者にも城好きにもオススメです。
手入れが行き届き堀切や曲輪跡など遺構が程よく残っており、戦国時代の中世山城の雰囲気を感じることができます。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:城びと未登録(長野県飯田市)和田城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の2城目は和田城です。
城びとに登録されている和田城は「長野野県小県郡長和町和田」ですが、こちらは「長野県飯田市」にある和田城です。
飯田市の和田城の方が名前が知れていると思いますが、こちらは城びと未登録です。
遠山郷土館 和田城駐車場(35.320862、137.935161)に駐車しました。

和田城は遠山景広によって築かれた城です。景広は武田信玄に従って各地の合戦で活躍しましたが、その子・景直は徳川家康に従属し「大坂の役」にも参加しました。
その後、景広死去後にお家騒動が起き、信州遠山家は改易されることになりました。
現在、城址には城郭風建築物である遠山郷土館和田城が建てられており、霜月祭り(遠山祭り)のお面などが展示されています。
隣には遠山一族の墓を祀る菩提寺である龍淵寺があります。また遠山郷は「日本の秘境100選」のひとつに数えられています。

遠山郷土館和田城は朝早い為、入れませんでしたが、徳川家康と和田城主の対面像は確認しました。
日本の秘境100選だけあってとても遠いです。飯田から来る場合は秘境らしさは感じませんが、ここから静岡県浜松市に向かう道はまさに秘境そのものです。
攻城時間は10分くらいでした。

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