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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:牛久保城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の19城目は牛久保城です。
伊奈城から転戦。城址碑前(34.809040、137.3828)の芝生広場に駐車しました。

牛久保城は1529年(享禄2年)に宝飯郡の牧野城主であった牧野成時(古白)の子、成勝が築城したと伝えられています。その後も牧野氏がほとんどの時期を城主を勤めました。
「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれると徳川家康が三河平定に乗り出しますが牧野氏は今川方につき、1563年(永禄6年)には今川氏真も自ら一万余騎を率いて出陣し、この城に本陣を置きました。
氏真の三河出陣はこれが最初で最後となります。氏真が駿府に引き上げると、家康の軍勢が攻め寄せ降伏させています。
1590年(天正18年)に牧野康成は徳川家康の関東移封に従って上野国勢多郡大胡に2万石を領して移動しました。
その後は吉田城に入った池田輝政の重臣である荒尾平左衛門成久が城主となりました。
「関ケ原の戦い」後は天領となり、1700年(元禄13年)に廃城となりました。

現在城址に遺構はありませんが、本丸跡付近に城址碑が建てられています。
説明板には、城を取り囲むように武家の屋敷が配置されていたとありましたが、今ではまったく分かりません。
攻城時間は5分くらいでした。

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青春の巨匠

葛山神社からの攻城は大変 (2022/07/16 訪問)

静松寺と葛山神社からのアプローチがあり、葛山神社裏から攻城したが、途中藪漕ぎをする羽目になる。夏はこのルートはおすすめできない。神社よりも山上寄りの林道からのアプローチがおすすめ。規模の大きな城址で見所多し。

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瀬田の唐橋近く (2021/07/17 訪問)

 京阪電車「唐橋前駅」より徒歩で約10分、日本3古橋の一つで近江八景「瀬田の夕照」で有名な瀬田の唐橋を渡り右へ歩いて行くと石碑があります。

余談
 日本3古橋とは瀬田の唐橋、京都の宇治橋、同じく京都の山崎橋(現存しない)といわれています。瀬田の唐橋を日本3名橋に入れる説もありましが、日本3名橋は岩国の錦帯橋、長崎の眼鏡橋、東京の日本橋を指すことが一般的のようです。日本橋の代わりに東京の2重橋、三条大橋、瀬田の唐橋を入れる説もあるようです。びわ湖大津観光協会では瀬戸の唐橋を3名橋のひとつと紹介しています。「急がばまわれ」の語源となったことでも有名で、「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」という江戸時代の連歌師宗長の短歌からきているとのことです。

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京極高次 (2021/07/17 訪問)

 関ケ原の戦いのときに京極高次が籠り奮闘した城です。
京阪電車「びわ湖浜大津駅」の道を挟んだ向かい側に石碑があります。外堀の石垣など忘れていて見ていません。

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堅田駅より (2021/07/17 訪問)

 住宅地の中の小さな公園に石碑と案内板があります。遺構はありません。山内義重が築いたとされている城址です。

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朽木氏の城 (2021/07/17 訪問)

 足利将軍が京を逃れて来たり、織田信長の金ヶ崎の退き口など歴史にときどき登場する朽木氏の城です。最近は整備されていないらしく雑草が生え駐車場の所の石垣はほとんど見えません。配置図が描かれた案内板も移築された茅葺民家の軒下に置かれ雑草で隠れてしまっていました。
 安曇川駅よりバスに乗り約30分。朽木グランド前にて下車。歩いて1分くらいの所に朽木資料館入口があります。資料館は休館中で入館見学は事前予約がいるようです。

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比良駅より (2021/07/19 訪問)

 JR湖西線「比良駅」から徒歩約5分。福田寺周辺が城址とされています。境内には「北比良城」の石碑があります。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】浦添大公園から伊祖公園へ。 (2021/07/12 訪問)

「伊祖グスク スコール近しと 撤退す」

伊祖グスクの旗立てに登った時,北の方角から黒くて低い雲が近づいて来るのが見えました。「これはスコール来るだろ」って感じ,早めに撤退して,ゆいレールの浦添前田駅に向かいました。ゆいレール乗車中に来たようです。

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にのまる

【お城川柳】

時流れ客人もてなす石となり

まだまだ現役

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にのまる

【お城川柳】

メトロ内山城スタイル浮きまくり

気にしない気にしない……。

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こうちゃん

植物の障害が残念 (2021/07/17 訪問)

三の丸西駐車場(篠山城駐車場)を目指す。200円!駐車場→南馬出→三の丸広場→一番の見所の天守台石垣(内堀石垣南東角)→駐車場をかすめて鉄門から二の丸→本丸
とにかく堀、石垣、あらゆる所に植物が多すぎていまいちピンとこない!管理が大変のだろう!とにかくオススメは南側三の丸から眺める石垣!

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yuriyuri

なめてた。 (2021/05/04 訪問)

続やしと思ってラフな感じで行ったら結構大変やった。
スニーカー履いてかなあかんかったな。

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yuriyuri

歴史民族資料館 (2021/05/03 訪問)

入場が無料の日でした。

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yuriyuri

高知城 (2021/05/03 訪問)

ひろめ市場の近く

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yuriyuri

中城城 (2019/10/07 訪問)

#日本100名城
#26城目
#中城城跡

受付ギリギリやったのにみんな優しくてカートのオジイの助手席に座る。

オープンカーみたいやなぁ。

言うたらオジイ、喜んでしゃべるしゃべる。
あ。
もちろんカートの後ろには5名程乗ってます(笑)

続きは写真にて。

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yuriyuri

今帰仁城 (2019/10/08 訪問)

2019.10

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ぴーかる

泉頭城 (2021/07/10 訪問)

【泉頭城】
<駐車場他>本丸跡駐車場あり
<交通手段>車

<見所>曲輪・堀跡
<感想>1泊2日沼津・三島の城巡り旅3城目。泉頭城は弘治年間に北条氏康が築城し城将を置いて武田氏の進行に備えた城です。南西にある戸倉城とは柿田川を船で連携していたそうです。小田原征伐の時は後北条氏は城を放棄焼いて、城兵は山中城・韮山城に撤収したそうです。後年家康が泉頭の地を大変気に入って隠居所にしようとしましたが、駿府に変更になったようです。側室お万の方の出会いの地でもあるそうです。
 柿田川公園の北にあるショッピングモールで昼食を摂って徒歩できた。城跡としての案内板・説明板が巡った後に見付けたので、公園内の湧水箇所を一通り巡り、南曲輪跡の方へは行かなかった為もあり、あまり城跡感は感じとれなかった。それにしても湧水で出来たての川は美しい。

<満足度>◆◆◇

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:伊奈城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目も18城目は伊奈城です。
田原城から転戦。伊奈城址公園入口付近(34.793907、137.334648)に路駐しました。

伊奈城は徳川家の家紋「三葉葵の紋」発祥の城という説がある城です。
室町時代に本多定忠・定助によって築かれてから約150年間、伊奈本多氏の居城でした。
1590年(天正18年)の徳川家康の関東移封にともない、8代城主・本多康俊も下総国小篠に移封となり廃城となりました。

現在は本丸の部分が「伊奈城趾公園」として整備されており、模擬櫓が建てられいます。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:田原城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の17城目は田原城です。
高縄城から転戦。田原市博物館駐車場(34.674343、137.269131)に駐車し、桜城門(34.673129、137.269267)に向かいました。

1480年(文明12年)ころに戸田宗光(全久)によって築城され、戸田氏の三河湾支配の拠点となった城です。
16世紀になると近隣の戦国大名の拡大に伴って、はじめは松平氏に属し、さらに今川氏に転じました。
城主が戸田康光のときの1547年(天文16年)に、松平氏から今川氏に人質として送られる嫡男竹千代(のちの徳川家康)を護送する任を受けましたが、敵方の織田家に寝返ったため今川義元の怒りを買い、攻められて落城し城主康光も戦死しました。
ただし、2010年後半になって岡崎城を織田氏に攻め落とされた松平広忠が自ら竹千代を人質に出したとする説が有力となったことで、戸田康光の裏切りそのものが事実として成立しなくなってしまいました。
加えて、田原城周辺の状況から天文16年の田原城攻撃の際には落城には至らず、実際に田原城が落城したのは1550年(天文19年)頃であったと推定されているそうです。
その後今川氏に属する城代が入るが、桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康によって攻略され、松平氏譜代の本多広孝が城主に入って、東三河の旗頭として吉田城(豊橋市)を与えられた酒井忠次の指揮下に入った。
さらに1590年(天正18年)家康が関東へと移封すると代わって吉田城に入封した池田輝政の持ち城となり、田原城には重臣筆頭の伊木忠次が城主となって田原に在城しました。
江戸時代になると、田原城には三河の他の主な城と同様に譜代大名が置かれ、1万石そこそこと少ないながらも藩を形成しました。
はじめ田原戸田家の支族、戸田尊次が入り、その後1664年(寛文4年)に三宅氏が1万2千石で入封、そのまま明治維新を迎えるまで200年強支配しました。
廃藩置県後の1872年(明治5年)他の多くの城と同様に田原城の建築物も取り壊されました。

城址南の復興桜門や水堀となる袖池と桝池、及び石垣、巴江神社となっている本丸南の空堀、本丸に残る土塁、二の丸には復元櫓等、小規模な城址ながら良い城址だと思います。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:高縄城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の16城目は高縄城です。
宇津山城から転戦。太平寺入口前空スペース(34.688212、137.336493)に駐車しました。
豊橋市立家政高等専修学校の正門前(34.690063、137.336350)まで徒歩3分位です。

高縄城は戸田氏の最初の居城として知られています。
戸田氏中興の祖とされる戸田弾正左衛門宗光は今川義忠に従い渥美半島に進出すると、1475年(文明7年)この城を築きました。
その後、1479年(文明11年)に田原城を築いて居城を移しましたが、以降も田原城の支城として維持されたようです。
「桶狭間の合戦」後の1564年(永禄7年)には三河統一を進める徳川家康によって攻略され、家康は戸田忠次を城主に任じています。
しかし、1590年(天正18年)の家康の関東移封にともない、忠次も伊豆下田に移ったため廃城となりました。

現在城址は豊橋市立家政高等専修学校の敷地となっており、校内に入らずとも正門脇に城址標柱は確認できます。また学校の北側に堀跡を確認できます。
攻城時間は10分くらいでした。

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