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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:新城城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の1城目は新城城です。
朝食前に宿泊先のホテルから徒歩10分くらいで、新城小学校内の疑似楼門付近(34.897904、137.4968)に着き、その後、しろあと歴史館(34.897297、137.499147)に向かいました。

新城城は、1575年(天正3年)の長篠の戦いで勝利した奥平貞昌が新たに城を築城し、長篠城から移り住んだことがその始まりとされています。
徳川家康の関東移封にともない、池田輝政の所領となりました。その後は天領を経て、水野氏と菅沼氏が城主をつとめました。
しかし、1648年(慶安元年)に陣屋が新城城跡地に置かれると、野田城の城主であった菅沼氏の子孫によって治められ、明治維新までその支配が続けられることとなりました。

現在城址は新城小学校になっており、校庭の南側にわずかにに土塁と空堀が残っています。
説明板の写真を撮りましたが、大雨でピントがずれた為、投稿できません。
攻城時間は30分くらいでした。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】5年の間に変わってたこと。 (2021/07/12 訪問)

「ゆいレール 本土のIC 使えてた」

5年前は,沖縄独自のICのみでしたが,本土の交通系ICも使えるようになってました。
また,5年前に工事中だった那覇バスターミナルが立派に完成していました。

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城好きのメガネ

「宇田家屋敷」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
宇田家屋敷は16世紀後期に宇田氏が築いたとされる。現在、花田苑に移築長屋門が遺されている。

<アクセス>
東武鉄道伊勢崎線 越谷駅バス 花田苑下車すぐ

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赤い城

反町薬師の照明寺 (2021/07/04 訪問)

照明寺境内に駐車場があります。
新田義貞の居館で照明寺が跡地となります。
周囲は土塁と水堀で囲まれていましたが土塁は南側にしか残っていません。
パンフレットも置いてありました。
西側の堀には蓮の花が咲き始め。
北西部には折れも見られます。
新田荘城館の一つで国の史跡に指定されています。

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城好きのメガネ

「西袋陣屋」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
西袋陣屋は、関東郡代・伊奈忠次の家臣であった興津良次が陣屋を築いたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東武鉄道伊勢崎線 谷塚駅 徒歩35分

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城好きのメガネ

「越ヶ谷御殿」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
越ヶ谷御殿は1604年頃に徳川家康が築城したとされる。徳川家康や秀忠などが鷹狩りに訪れ、当地に滞在したとされる。1657年の江戸大火によって江戸城が消失し、将軍の仮殿として江戸城二の丸に移された。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東武鉄道伊勢崎線 越谷駅 徒歩15分

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】目指すはロワジールホテル。 (2021/07/12 訪問)

「ロワジール ホテルが頼り 三重グスク」

ロワジールホテルは上級国民用のホテルなのか,近づくほどに居心地の悪さを感じました。裏に廻る時も,出てきた時も,誰かに見られています。しかし,散策時にはこのホテルが頼りって気がします。

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肉球

案内書増やして  (2021/06/23 訪問)

今回3度目か4度目の登城でしたが毎度思うことが
城内の案内の少ないこと。
天空の城といわれて知名度が上がり観光客が増えたのではと勝手に思い込んでいます。
しかしお城に関する説明書きなど増えておらず。もう少し増やして欲しいですね。
城下町には結ステーション横に藩主隠居所,
百間堀前に武家屋敷など散策するところが多く
湧き水があちらこちらで湧いています。
結ステーションには地元の産物がたくさん販売されてます。

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ヒロケン

【お城川柳】 (2021/07/10 訪問)

「コロナ禍で 飛沫防止で 城巡り」

朝2時30分に豊橋を出発し、23号線・新名神・東名阪・名阪国道を乗り継ぎ、7時30分頃和歌山城到着。旧大村家住宅の駐車場に駐車し、お城を一周し、追廻門から城内へ。和歌山城天守閣の開場まで、城主ごとに違いがある石垣を確認(#^.^#) まず、浅野期の新裏坂下の石垣→豊臣・桑山期の南の丸石垣→徳川期の不明門跡の高石垣→重要文化財の岡口門→徳川期の松の丸櫓台の高石垣→一中門跡→二の丸→西の丸庭園→豊臣・桑山期の鶴の渓の石垣を堪能し、天守閣へ。
この天守閣は鉄筋コンクリートで復元されたものであるが、連立式天守でなんとも姿が良い(#^.^#)また、天守台の石垣は豊臣期に積まれた和歌山城の中でも最も古い石垣とされています。

9時天守閣開場で、マスク着用・手指消毒し、いざ!天守閣内へ。二度目の訪問で展示物等、あまり変わり映えしていないように思える。
ふと前を見ると、20代位のカップルが100名城の展示画像を見ながら楽しそうに話しているのが聞こえる。
彼女「ここ行ったことあるぅ~」 彼「俺もあるよ」 俺のつぶやき「俺もあるよ」 安土城の画像を見て。彼女「ここにはお城ないね」 彼「そうだね、何もないね」 俺のつぶやき「何!いっぱいあるじゃん!」 彼女「お城を巡って旅行行くのも楽しいかもね」 彼「そうだね」 俺のつぶやき「めっちゃ楽しいよ~」(#^.^#)といった感じで天守閣も堪能(#^.^#)

自宅を出発して、和歌山城を出発するまで発した言葉は、天守入口のおじちゃんに「おはようございます」のみでした('_')

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肉球

お城の痕跡なし (2021/06/24 訪問)

お城の中心本丸跡に市役所や文化会館が建ち
他の部分も市街地となり遺構はありません。
しかし九頭竜川の河岸段丘を利用した七里壁というのが残り
上の段に武家屋敷下の段に町屋築きお城の防衛機能の一部になっていたようです。

市内には藩校の演武場、講堂、表門、土蔵が移築残されています。

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T-Shionoya

高島城訪問 (2004/07/18 訪問)

久々に過去のお城巡りの振り返り。第9段はちょうど17年前に訪れた長野県諏訪市の高島城。

秀吉の小田原征伐後この地に移ってきた日根野織部正高吉が築城した近世城郭で、関ヶ原以降は旧領復帰した諏訪氏の居城。
それまで諏訪盆地の支配者は古高島城や上原城といった北側の高台を城としてきましたが、諏訪湖と川と沼地を天然の要害とした高島城は、松江城、膳所城と共に日本三大湖城の1つ。
中山道に甲州道中が合流するエリアで上諏訪宿を城下町とする城は、盆地の中央部に人々の目を引き付けたことでしょうか。

現在は本丸が高島公園。
元々は北側に二之丸、三之丸、衣之渡郭[えのどくるわ]が続いており、衣之渡川と中門川に挟まれた三之丸エリアには所々に説明板が設置されている模様。

水堀沿いの石垣の上に、古写真をもとに復興された茶色い天守は趣あり。
しかし埋め立てで諏訪湖からは少し離れた城。
訪問時の記憶がほぼありませんが、当時のチケットを見ると天守入場料が現在の半額の150円でした。

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ぴーかる

戸倉城 (2021/07/10 訪問)

【戸倉城】
<駐車場他>北駐車場14台分程度あり
<交通手段>車

<見所>曲輪・眺望
<感想>1泊2日沼津・三島の城巡り旅4城目。戸倉城の築城年代は定かではなく、今川氏とも北条氏綱ともいわれる。三方を狩野川に囲まれ北側が柿田川との合流地点になっていて泉頭城と舟で連携していた。1581年武田勝頼の進攻の際、北条方の城将笠原氏の寝返りにより一時武田方の城となったが、武田氏滅亡により再び北条方の城となった。豊臣氏の小田原征伐時には泉頭城と同じく城を放棄して、山中城・韮山城に撤収した。
 北駐車場の登城口には巨岩が御出迎え。すぐ横に遺構かどうかわからないが、当時のものかと思わせる石垣がある。石垣奥に巨岩の薬研堀のような遺構がある。馬洗い池のようにも見えました。北の登山道途中の遺構は鬱蒼として、あまり明確な遺構は見受けられなかった。西の尾根伝い方向へは行かなかったので分からない。主郭部分は、かの話題の「きのこ」か「切株」か展望台がある。一瞬ぱっと見きのこ、でもよく見ると私は切株に見えました。主郭の下段奥にも巨岩があります。主郭にある説明板には堀切・竪掘り等の遺構が数多く残されているようだが、埋まっているか藪化しているのか目に付く遺構はあまり見受けられない。展望台からの眺望は抜群で泉頭城、沼津市街(沼津城)、この日は富士山頂もうっすら見えました。

<満足度>◆◆◇

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瑠珂(るか)

【お城川柳】 (2018/08/20 訪問)

八幡の城に痛まし人柱

…郡上八幡城は築城の際、巨石を山の上まで運んだ力持ちの武士が力尽きて絶命したという話があります。また、城を支える一番の柱がどうしても倒れてしまうので、郡上市大和町神路(かんじ)に住んでいた、およしさんという若い女性を人柱にしたら、ようやく柱がちゃんと立つようになったという哀話があります。今でも郡上八幡城では毎年、およしさんの慰霊祭が行われます。郡上市の昔話にも必ず出てくる哀話です。

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にのまる

【お城川柳】

模擬櫓?近づき見ればお手洗い

海鼠壁…

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にのまる

【お城川柳】

同志かと思って聞けばハイカーさん

いろいろ情報いただけます。

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瑠珂(るか)

【お城川柳】 (2018/08/20 訪問)

八幡城桜紅葉に霧清(さや)か

…郡上八幡城は山の上にあり、麓からの遠景が非常に良いのです。春は桜、秋は紅葉に囲まれているように見えますし、朝方は霧に包まれて、まさに天空の城です。霧の中から出現する郡上八幡城は圧巻!

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瑠珂(るか)

【お城川柳】 (2008/11/25 訪問)

領主様五度も替わった唐津城

唐津城はお家断絶などで、領主が5度も交替し、6つの武家が治めていたので。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:城びと未登録(愛知県新城市)嶋田陣屋 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の23城目は嶋田陣屋(4日目ラスト)です。
大野田城から転戦。標柱(34.883588、137.479365)確認後、長全寺(34.893258、137.464012)で山門および前田鉄筋興業駐車場(34.893149、137.473347)に駐車し、移築城門を確認しました。

嶋田陣屋は1600年(慶長5年)江戸幕府によって幕府の代官所として築かれたのが始まりでした。
曽根源蔵が代官を務め、その後に安藤弥兵衛、彦坂九兵衛、中川勘介らが代官となりました。
1625年(寛永2年)旗本の島田成重が二千石を賜り、三河の代官所の一部を陣屋として継承し、その後、島田氏が代々続いて明治に至ります。

山門と移築城門の写真を真っ暗の中、写真を撮りました。
攻城時間は5分くらいでした。

4日目の攻城徒歩数=33076歩、攻城徒歩距離=25.79Kmでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:城びと未登録(愛知県新城市)大野田城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の22城目は大野田城です。
野田城からの転戦。城址入口(34.883439、137.476118)に到着。説明板はここ(34.883744、137.477676)にあります。
攻城した時は雨が降っており、GPS座標の城址入口まで進むと脱出に苦労したので、細い道に入る手前で路駐することをお薦めします。

大野田城は1532年(天文元年)菅沼定継によって築かれたが、その後、奥平信昌によって攻められ落城し廃城となったと云われています。
しかし、菅沼定盈が野田城を今川氏から取り戻した際に、その修復中の仮の居城として使われました。
もともとは城所浄古斎によって築かれた砦で、定盈はこの砦跡を本丸とし、さらに二の丸と三の丸を増築しました。
しかし、1571年(元亀2年)に武田信玄が作手から新城へと進攻すると、定盈は城を自焼させて西郷城へと退却し、そのまま廃城となりました。

現在城址には土塁や空堀などの遺構が残っているようですが、草ぼうぼうで入る勇気がなく、説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:野田城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の21城目は野田城です。
牧野城から転戦。案内板前(34.882146、137.467998)に路駐しました。信玄公狙撃場所(34.881657、137.467753)はすぐ近くです。

1508年 菅沼定則によって築城され、居城とします。定則の子・菅沼定村、孫・菅沼定盈らも居城としました。
1561年 桶狭間の戦いの後、今川氏を離反した定盈は、今川勢に攻囲され開城退去。
1562年 定盈が夜襲で奪回するも、損壊の激しい野田城は修築に刻を費やされます。定盈は、仮本拠を大野田城に定めています。
1571年 武田氏の遠江・三河侵攻において武田家臣山県昌景・小笠原信嶺らの襲来により、大野田城は大破炎上。同年12月、定盈は修築中の野田城を再び本拠としたといいます。(なお近年では元亀2年の遠江・三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正3年の長篠の戦いの前提である可能性が指摘されています。)
1573年 野田城の戦い。武田軍に水の手を断たれて、城主・定盈は開城降伏します。このとき武田信玄が城から聞こえる笛の音に聴き惚れていたら鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの伝説があります。近くには「信玄狙撃の地」と呼ばれる小高い場所があり、小さな祠がひっそりと祀られています。
1590年 徳川家康が関東へ移封されると、定盈も付随。その後、吉田城に入った池田輝政の代官が新城を利用し、野田城を破却。廃城となりました。

土橋、堀切が素晴らしいコンパクトな城です。着いたのは18:20くらいだったのですが、表はさほどではないですが、城内は暗くて撮った写真が見にくいのが残念。
攻城時間は15分くらいでした。

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