飫肥杉の香りに包まれる中で、紅梅と河津桜が同時に満開に咲いている姿には、とても癒されました。
飫肥城は、飫肥藩5万石:伊東氏の居城です。
城下の街並みを抜け、ゆるやかな坂を上り(写真3)、復元された大手門(写真4)をくぐって城内に入ります。雁木のある土塀に囲まれた見事な内桝形(写真5)をぬけると、うっそうとした飫肥杉の木立に囲まれます。何とも言えない静寂な雰囲気(少し不気味)でしたが、しばらくすると杉のいい香りがとても心地よく感じられてきました。中にはパワースポットもありました(写真6)。それから本丸の飫肥城歴史資料館まで歩いて行くと、そこには満開の紅梅と河津桜が咲いていました。梅と桜が同時に咲いている姿を初めて見たので、驚くと同時に何とも言いようのない癒された気分になりました(写真1、2)。
城下に出ると、ここは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、古い町並みが実によく残っています。藩主が移り住んだ「豫章館」(写真7)、藩校「振徳堂」、「小村寿太郎の生家」(写真8)などがありました。水路には鯉も泳いでいました(写真9)。散策するにはとてもよい所です(写真10)。
日南地方は河津桜が名物のようで、他にもあちこちで咲いていました。また沿線はプロ野球各球団のキャンプで賑わっていました。
[飫肥城へのアクセス]:JR日南線飫肥駅から徒歩15分です。
【ここからは余談ですが】
薩摩の島津氏と日向の伊東氏は、1480年頃から約100年もの間、争いを続けてきました。しかし、だんだんと島津氏の勢力が勝るようになり、伊東氏は日向を追われ豊後に身を寄せます。そんな伊東氏のために日向を奪還しようと豊後の大友宗麟は、1578年約3万5千の大軍をもって出陣しました。しかし、「耳川(高城川)の合戦」で大敗し、これをきっかけに大友氏は没落し滅亡してしまいます。
一方、その後の伊東氏は、さらに逃げ延びて豊臣秀吉の家臣となり、九州征伐では道案内(先導)した恩賞で飫肥の地を取り戻し、また九州の関ケ原では最初は西軍でしたが途中から黒田官兵衛の仲介で東軍に寝返るなど、上手に世渡りして、江戸時代には徳川秀忠より本領を安堵され、飫肥の地で幕末までの280年間生き残る事ができました。
今回、落ち着いたたたずまいの飫肥城と、繁栄したであろう城下町を見て、大友ファンの私としては、あの出陣はいったい何だったのだろうか? 何とも言えない両者の皮肉な運命の違いを感じさせられた飫肥の城旅でした。
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