超入門! お城セミナー 第86回【武将】7度も主君を変えた築城名人がいるって本当?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、藤堂高虎の城造りについて。浅井長政、徳川家康など7人の主君に仕えた、藤堂高虎という武将がいたことを知っていますか? 実は、彼はあの江戸城や名古屋城の縄張を手がけた築城名人なのです。彼が造った城の特徴と後世に与えた影響はどのようなものだったかを解説していきましょう。



藤堂高虎、今治城
高虎が築いた今治城。直線的に積まれた髙石垣と方形に造られた曲輪が特徴だ

転職を重ねる中で築城の才を見いだされる

この連載の第5回「築城名人って何をした人?」で名前が挙がった3人の武将たち。第33回では加藤清正第77回では黒田官兵衛について解説しました。そして今回は、3人目の藤堂高虎。天下普請の城の解説などでよく出てくるこの人ですが、その人生は実に波乱万丈。それでは、高虎の生涯と城造りについてお話ししましょう!

藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。並外れて大きな体格で、勇猛果敢な性格だったとか。13歳の時に最初の主君・浅井長政に仕え、姉川の戦いには足軽として初めて参戦しています。浅井家が滅亡すると、阿閉貞征(あつじさだゆき)、磯野員昌(いそのかずまさ)、織田信澄(おだのぶずみ)に仕えますが、主君と反りが合わない、働きを正当に評価してもらえなかったなどの理由から、短期間で出奔(しゅっぽん)をくり返します。そして最終的に、羽柴秀長(のちの豊臣秀長)の元に落ち着きます。

今治城、藤堂高虎像
今治城の藤堂高虎像。何度も主君を変えて苦労したためか、家臣に対して情け深い人物であった。仕官先を変えたいという家臣も快く送り出し、新しい家で失敗したらいつでも藤堂家に戻ってくるよう声をかけたという

三木城攻めや賤ヶ岳の戦いで頭角を現し、さらに紀州雑賀攻め、四国攻めでも活躍して1万石の大名に出世。ついで九州攻めの後に2万石に加増されました。秀長亡き後はその養子・秀保(ひでやす)に仕えて朝鮮出兵(文禄の役)を経験。ところが秀保が早世し、高虎は出家して高野山に入ってしまいます。才を惜しんだ豊臣秀吉が還俗させ、伊予3郡7万石を与えました。その後2度目の朝鮮出兵(慶長の役)に従軍しますが、帰国後に秀吉が世を去ります。そしてその頃すでに懇意だった徳川家康に仕えることになります。

家康の元でも会津攻め、関ヶ原の戦いに参戦。特に関ヶ原では調略工作のほか、大谷吉継(おおたによしつぐ)隊との死闘で功を上げ、伊予今治20万石の大大名に出世。その後、まだ大坂で勢力を保っていた豊臣家を監視するための、いわゆる大坂包囲網の構築のため、要の地となる伊勢国の一部と伊賀国一国に24万石で国替えとなります。そして大坂の陣に参戦、夏の陣では長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)隊と激闘を繰り広げ、戦後32万石に加増されました。高虎は外様大名ながら家康に厚く信頼されて側近くに仕え、家康没後は二代将軍・秀忠に仕えました。享年75。

関ヶ原古戦場、大谷吉継墓所
関ヶ原古戦場に立つ大谷吉継墓所。吉継の奮戦に感銘を受けた高虎が、戦後に造ったものだという

費用と防御の効率化を図る高虎の城

続いて、20城前後もの築城や改修に関わったという高虎の城造りに焦点を絞ってみましょう。

高虎が築城に携わるようになったのは、秀長の家臣時代のようです。優れた土木技術を実戦に効果的に役立てる秀吉・秀長の元で多くのことを学んだでしょう。秀吉が天下人となった後、秀長から家康上洛時の屋敷造営の普請奉行に任命された高虎。この時に家康と出会い、普請の才能を見込まれたようです。

その後2度目の朝鮮出兵時に堅牢な順天倭城(スンチョンわじょう/韓国全羅南道順天市)を築いたことで、諸大名に築城の名手として認知されました。帰国後には板島串丸城と大洲城(愛媛県)どちらもを改修して天守を築きます。この頃から家康に急接近し、秀吉の死後に家康の家臣となります。そして関ヶ原後の大出世で、自領の今治に自分の思う通りの新城を築きます。この今治城(愛媛県)が高虎の城、そして後の徳川幕府の城の原型となりました。

では、高虎の城、徳川幕府の城の特徴とはどんなものなのでしょうか?

◯四角い縄張
藤堂高虎、篠山城
高虎が縄張を手がけた篠山城の絵図。曲輪を広大な水堀で囲んだシンプルな構造である(『正保城絵図』国立公文書館蔵)

同じく築城名人として名高い加藤清正の城に見られる複雑な曲輪の構成などはない、単純な縄張。大軍に対して「面」で守る!

◯直線的な高石垣と広大な水堀
藤堂高虎、伊賀上野城
高虎が築いた伊賀上野城の石垣(左)。熊本城の石垣(右)と比べてみると、ほとんど反りがないことがわかる

清正流の曲線に対して、高虎の石垣は真っ直ぐな印象。30m前後ととにかく高いことに加え、水堀の幅も非常に広いので、石垣に取り付くまでが大変。登る気を起こさせない!

◯多聞櫓の多用
藤堂高虎、今治城、多門櫓
今治城の多門櫓(再建)。曲輪の周縁に多門櫓をめぐらせることで、敵を曲輪のどこからでも迎え撃てるようになっている

高くて長い石垣の上にさらに多聞櫓を設置。門や隅部だけにとどまらず、曲輪の外周ほぼ全てに櫓があるなんて、攻める方はものすごくイヤ!

◯層塔型天守
藤堂高虎、宇和島城
現存の層塔型天守がある宇和島城。宇和島城は高虎が築いた城だが、現在の天守は高虎の後に入った伊達家が造ったものである

手間暇のかかる望楼型天守に対して、第一層から同じ形の層を規則的に小さくしながら積み上げていく単純構造。

この他、巨大な枡形虎口や、水堀と石垣の間に設けた武者走りなども高虎の城の特徴とされています。
 

江戸幕府のスタンダードになった高虎の築城技術

天下人となった家康は、いまだ健在だった豊臣家を監視するための、いわゆる大坂包囲網を構築していきます。大坂城(大阪府)を取り囲むように、天下普請による徳川の城を速やかに築く必要がありました。多くの実戦経験から試行錯誤して編み出した高虎の築城術は、いっさいの無駄を省いた「速い、安い、丈夫」の三拍子が揃ったもので、築城期間や建材のコストを大幅に削減できました。また戦時にどの城に入っても構造が共通していると守り易いという効果もありました。まさに家康の要求にピッタリで、この築城術は規格化されて天下普請の城に採用されていきます。(天下普請についてはコチラ

藤堂高虎、名古屋城
御三家尾張藩の居城・名古屋城も高虎が縄張を手がけた城の1つ。幅の広い水堀や直線的な曲輪など、高虎の築城術の粋が集められている

多くの主君の元を渡り歩いたため批判されることもあった高虎ですが、「七度主君を変えねば武士とはいえぬ」と言い放ったとか。大きくて丈夫な体、武将としての強さ、オリジナルの築城術を編み出す探究心、多くの仕事を裁く器用さなど、高虎は天下人が重用するにふさわしい傑物であったことは間違いないでしょう。

最後に、真偽がはっきりしない情報も多いですが、高虎が築城や改修に携わったと伝わる城をまとめておきます。訪ねた時には「高虎らしさ」を探してみてくださいね!

江戸城(東京都)・駿府城(静岡県)・名古屋城(愛知県)・膳所城(滋賀県)・津城(三重県)・伊賀上野城(同)・赤木城(同)・大和郡山城(奈良県)・粉河城(和歌山県)・和歌山城(同)・徳川期大坂城(大阪府)・二条城(京都府)・聚楽第(同)・伏見城(同)・丹波亀山城(同)・篠山城(兵庫県)・有子山城(同)・今治城(愛媛県)・大洲城(同)・宇和島城(同)・甘崎城(同)・順天倭城(韓国)


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、『図解でわかる 日本の名城』(ぴあ株式会社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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